-密side-
織女さんの護衛役から暫定的に外されて早一週間が過ぎようとしている。会社からは音沙汰もなく、日々の家事に精を出すことで気を紛らわせてはみるものの──
「意外に、忘れていないものですね…」
家事なんて慣れていれば昼前にはあらかた終わってしまう。買い物も毎日行く必要もないのでここ数日は暇を持て余している。
「学院での生活は、ここまでのんびり過ごすような時間はなかったなぁ…」
毎日が変化の日々。変わらない日々なんてあり得なかった。今は───
「…?」
久しく鳴らなかった固定電話が鳴り響く。
「はい、結城ですが?」
『よしよし、まずは第一関門突破。すみません、結城密さんはご在宅ですか?』
この声は───
「千歳さん、ですか?」
『おや、もしかしたら密お姉さまご本人ですか?』
「はい。…というか、千歳さんは私の正体を知っているでしょう」
鏡子さんから聞いています。千歳さんにはバレていて、その監視も兼ねて鏡子さんはできるかぎり千歳さんについていたこと。
『そうですか。でも、今私は学院から電話している関係で万が一を考えるとお姉さま呼びを止めるのは鏡子さんに怒られそうなので…』
「──といいますか、どうやってこちらの番号を?」
『風早グループといえど末端の、ましてや子会社などに保存されているようなデータまではさすがに事細かに把握はしていないでしょうし、管理も杜撰ということですよ。電話帳さえ手に入ればあとは数をこなすだけです』
「…幸敬さんにもう少し情報の扱いを徹底してもらった方がいいのかもしれませんね」
さすがに末端も末端の情報までは管理が行き届かないのは仕方ないでしょうか…?
『まあ、そんな管理体制を今話しても仕方ないでしょう。それで密お姉さま。本題なのですが、お姉さまが普段から連絡用に使っているだろう携帯。ちゃんと充電してますか?』
「えっ?いえ、あれは今回の護衛役の際に支給されたものですから、今は使っていませんが…」
『なるほど。それは怖い目に合いそうなお話ですね。実は刹那お姉さまが『密さんと連絡が取れない。メールも送ってはみたが返信される様子がないからなんとかしなさい』という脅──お願いを受けまして』
今『脅迫』と言いかけましたね?どうやら相当に怒っているということなんでしょうか…。
「充電するのが怖いのですが…」
『あきらめてください。では、確かにお伝えしましたからね』
「あっ、千歳さん…」
電話を切ろうとする雰囲気に押されて思わず引き留めるように声をかける。
『はい、なんですか?』
「あの、千歳さんは私の正体を知っていながら口外しようとはしませんでした。もちろん、鏡子さん達が早くから口止めをしていたから、というのもあるのでしょうけど…」
気になってはいた。どうして黙ってくれていたのか。それに、私を脅迫すれば千歳さんは風早グループにいろんな便宜を引き出そうともできたはず…。
「貴女はその情報の一切を秘匿し続けてくれている理由はなぜなんですか?」
『私が、密お姉さまの『秘密』を秘匿していた理由、ですか。そうですねぇ…。今ならばいろいろと理由がありますが──』
少し、沈黙が続いた。
『最初期から口外しないでいる理由をお教えすることはできません。少々、個人的な理由にありますので。鏡子お姉さまに口止めされてからは私にとってはとても都合のいいお話だったから、ですかね』
「都合のいいお話?」
『はい。私、実は鏡子お姉さまに密かに好意を抱いていました』
「──えっ?」
なにやら聞いてはいけないことが話されている気が──
『好意を抱いている方と一緒の学院生活を送れるのにとても便利な理由をもらってしまいました。私が密お姉さまのこと口外して自分の『理想郷』を壊してしまうぐらいなら、黙って享受する方が私には利が多いでしょう?』
「あー…、はい。そうでしょうね」
『それだけです』
「…ありがとう、千歳さん」
『気にしないでくださいね、密お姉さま。私は私のやりたいように生活することにとても彩りをつけられる情報を握ることで心地よい学院生活を送れるのです。それが偶然にも密お姉さまの『秘密』だっただけなのですから』
「はい。それでも、ありがとうございます」
『はい。では、ちゃんとスマホは確認してくださいね?』
「わかりました」
電話が切れるとスマホの電源を入れようとした。しかし、一週間も放置していて充電が切れていたようで電源が入らない。
仕方ないので充電器に差してから買い物にでかける。小一時間ほどで帰ってくると、スマホには着信やメールを知らせるランプが点滅していた。
「さて、どのような感じなのでしょうか…」
怖々開いてみると【着信 138件】【メール受信 437件】という背筋が凍りそうな通知が表示されていた。
「…先に着信履歴を見ましょうか」
メールは怖すぎて開く気になれない。とりあえず誰から電話が入っているのか確認することにした。
最初の方こそクラスメイトや鏡子さんからの電話が入っていたようだが、後半は刹那さんと千歳さんしか入っていない。千歳さんにいたっては時間別にしているのでこのスマホが機能しているのか試している節が見えた。
「…情報を求める人材としては最高レベルの逸材みたいですね、千歳さんは…」
メールの方を開いてみるとまあ、刹那さんの名前がずらりと並ぶ。
「今度、謝っておこう…」
今から返信するには刹那さんのメールの量はシャレにならない。届いているメールのうちの7割は刹那さんの名前だ。いくつか開いてみたが後半は同じ文章で『届いていますか?連絡乞う』という件名以外が入っていない。
スクロールしていくとようやくクラスメイトの名前が見えてきて逆に安心してしまった。
「けっこう来てるなぁ…」
一番古いメールからいくつか目を通していく。最初の方こそ休んでいる自分のお見舞といった感じのメールだけだった。
しかし、新しい分に近づいていくにつれてクラスメイトのメールはこちらの安否を心配するものに変わり、帰ってくるのかを確認したいというようなメールまで入っていた。
(心配、させているんだ…)
そして、刹那さんの一番古いメールにたどり着く。開いてみるとクラスメイトの状況や学院の様子、寮の雰囲気など──皆が『結城密』を心配していることを伝えていた。
その末尾。そこには刹那さんの言いたいことが書かれていた。
『たとえ貴方が誰に否定されようと、私は貴女の存在を肯定します。気持ちを決めて、帰ってきてくれることを期待しています』
──スマホの画面に一つ、二つと雫が落ちる。気がついたら涙が溢れていた。
自分にとって女性としての『結城密』は虚構だ。だが、クラスメイトにとってはその『結城密』こそが真実だ。
それでも、刹那は男性の『結城密』も女性の『結城密』も肯定すると言っている。あの学院に帰ってくるのに必要なのは───【結城密】としての意思だけなのだと。
涙を拭って、スマホでメールを返そうとしたところに新しいメールが届く。送り主は──『風早織女』
メールはとても簡素だった。明日、学院に出てくること。そこで全てを決めるのだと。
「…っ。制服、綺麗にしないとね──」
クローゼットに閉まっていた制服を取り出す。
──行こう。あの場所へ。私の居るべき場所へ。