黒い空と黒い地面に刺す冴えた月明かり、草木も眠る丑三つ時。
深い闇より尚深い地下に建造された迷宮には、時折響く唸り声以外の音が存在しない。
そんな迷宮の静謐は今、ひたひたという軽い音と小さな息遣いによって破られていた。
ひたひた、ひたひた。
凍りつきそうなぐらい冷たい壁と床、ドアの無い迷宮、誰かに見られているような不安に苛まれながら小さな足を前へと進ませる。
「ひゃっ……!」
薄暗いことが災いし、足元に広がる液体に気がつかなかったようだ。ぬめっとしたものが足の指の間に入り込む。
薄暗いことが幸いし、色の判別が難しくなっているようだ。
その液体が何より紅い色を持っていることにも、気がつかなかったようだ。
ふと、前方を見るとどうやら行き止まりのようだ。青白い壁が広がっている。
引き返そうと振り向くが、そちらも行き止まり。閉じ込められてしまった。逃げ場はない。
誰かがこちらを見ている。
足音がだんだん近くなる。
動けない。
後ろになにかが────
「きゃーーーーーー‼︎」
♦︎
突如、唸り声が止んだ。
爆心は脈動し、膨張と収縮を繰り返し、桁違いの生命力を生み出す。
横たわっていた体躯は立ち上がり、空間が罅割れるような咆哮を轟かせる。
目覚めたその牛頭人身の巨躯は12〜15フィートにも及び、天を衝くような紅い双角は毒々しい。
逆立った純白の鬣を揺らしながら、今しがた聞こえた叫びの方向へと巨大な足を運んだ。
残酷な怪物は蘇った。恐怖の叫びで目を覚ましたのだ。
♦︎
「あ〜びっくりした!
もう、涙がでちゃいそうだったわ。……なによその顔は。泣いてないわよ!」
屈託のない仕草、溢れる笑顔。僕と違って小さく可憐なきみを怖がらせるのはとても楽しい。
朝までしか一緒にいられない僕の唯一の癒しだ。
「……そろそろ戻らなきゃ。
お母さまが心配してしまうわ」
ああ、もうお終いなのか。
何度も振り向きながら手を振るきみ。
その姿が見えなくなるまで見送った。
ああ、さびしいなあ。
たった一度でいいからきみの手を、愛するきみの手を抱いて眠りたい──
♦︎
「……あのね、もうあなたとは会えないかもしれない」
それは唐突だった。
「王国で討伐隊が結成されているの。
あなたは悪い怪物だって、あなたは危険だって、私はそんなことないって、言ったけど……みんな……」
きみは悪くない。
そう言いたいのに、言葉を届けられない。
「ねえ、私はどうすればいいのかなぁ。
もうあなたと会えないなんて、やだよぉ……」
だからせめて、夜が明けるまでは。
きみの近くにいよう。
♦︎
常ならず、迷宮は光に満ちていた。
静謐な雰囲気は文明的な光に切り払われ、大勢の武装した人間達によってその空間は踏み荒らされていた。
「さっさと出てきやがれ怪物!
お前の首を落としにきたぞ!」
威嚇のつもりなのか迷宮の奥へと弓を射る男達。
弓矢は迷宮の奥へと呑まれたかのように消え、返答はない。
「ちっ、本当に怪物は存在すんのかよ」
王国は怪物を討伐した証明を要求している。つまり怪物と遭遇できなければ報酬が支払われないのだ。
怪物がなかなか現れず苛立っているのか、男の一人がついに小さな体へ手を伸ばす。
「お前はあの怪物と仲が良いんだろ? お前を痛めつければ怪物も出てくるかもしれねえな!」
荒々しく髪を掴まれる小さな体。
「んー! んー!」
首を振って逃れようとするも、大人の力には敵わない。
口を布で塞がれた状態なため声を出すこともできない。
その瞳から涙が零れ落ちた。
♦︎
突如、唸り声が止んだ。
爆心は脈動し、膨張と収縮を繰り返し、桁違いの生命力を生み出す。
横たわっていた体躯は立ち上がり、空間が罅割れるような咆哮を轟かせる。
目覚めたその牛頭人身の巨躯は12〜15フィートにも及び、天を衝くような紅い双角は毒々しい。
逆立った純白の鬣を揺らしながら、無造作に放られていた巨大な両刃の二丁斧を掴み取り、今しがた聞こえた物音の方向へと巨大な足を運んだ。
残酷な怪物は蘇った。愛する者の涙で目を覚ましたのだ。
稲妻を纏い、その体表には赤黒い傷跡が浮かび上がっていた。
♦︎
小さな体が男の拳に曝される瞬間、辺りは静寂に包まれていた。
それに気づいた男は拳を下ろし、周囲を伺った。
誰かがこちらを見ている。
「おいお前ら、どうしたんだ?」
足音がだんだん近くなる。
男は訝しんで周りの男達の顔を見渡すも、皆一様に同じ方向を見つめていた。
その表情は凍りつき、歯はガチガチと打ち鳴らされていた。
動けない。
「一体何が……」
男はふと、自らが携える剣の刃に目を向けた。
自分の顔が反射している。
そこには違和感があった。
表情は凍りつく。歯はガチガチと打ち鳴らされる。
後ろになにかが──
♦︎
それはまるで暴力の嵐。
嵐が通った跡には轢き潰されたような赤い染みが広がる壁と大きな足跡の形に焼け焦げた床が残されていた。
「うぅ、怖かったよぉ……」
きみにケガがなくてよかった。
「……そのケガ、どうしたの?」
僕の記憶がぜんぶ消えても、生まれ変わっても、またきみを見つけてみせる。
「ねえ、ねえ! 死んじゃやだ!」
この見かけだけど、近くにいさせてくれたきみが好きだ。
だから何世代にも渡るきみに愛を捧げてきた。
「私を……ひとりにしないでよ!」
きみがまた生まれ変わっても、来世のきみにまで愛を誓い続ける。
一万年の愛を。
「ひとりに……しないでよぉ……」
でも今は。
朝が見えるまで、隣にいてほしい。
♦︎
満月の夜、草木も眠る丑三つ時。
こんな時間まで起きてるのは健康にも肌にも悪いとわかってはいるんだけど、なかなかスマホが手放せない。これが現代の流行病のスマホ依存症ってやつなのかなあ。
お風呂やトイレの時は置いてるしそんなことはないはず。
あと10分したら寝る、あと5分したら……と言い訳していて気づいたらこの時間だっただけで、普段はこんな夜更かしなんてしないんだから。
某動画サイトで大好きな闘牛を見たり手元の迷路の本をめくったり。
自分でもかなり変な趣味だとは思うけどなぜかこの二つのジャンルは触れていると落ち着く。
まるでなにかに守られている気がしてくる。
と、そろそろ本当に寝なきゃ明日の授業中はずっと机に突っ伏している羽目になりそう。
スマホの側面を手探りで押して寝かせつつ、布団にもぞもぞと潜り込む。
そして目を閉じるその瞬間、窓の外で何か光ったような。
気にせずに寝ようと思っても、誘われるように体が起き上がる。
やがて窓辺にたどり着いて、外を眺めて見るけど何も見当たらない。
気のせいかと布団に戻ろうと振り返った背後で大きな気配が現れた気がした。
再び窓を見るとそこには、どこか見覚えのある巨体がベランダにしゃがんでいた。
牛の頭に人間の体。この現代日本で見たことなんてあるわけないのに、どうして既視感を覚えたんだろう。
縦も横も私の倍以上ある巨体が窓を開けて、手を伸ばしてきた。
不思議と恐怖は抱かなかった。
むしろとても安心して、身を預けたくなるような……。
気づいたらその手を取っていた。
大きな手のひらは私の手を優しく包み込んで、肩へと導いてくれた。
そのまま巨体を宵の闇へと踊らせて、私を連れ出した──