1
シューレ教大聖堂 カイ・シリアン国境付近
「“黒の盾”はやはりシーチェ・フェイエンベルクが取り込んでいます。コルテスの戦い、シリアン公都での戦いの情報を分析した結果、彼女が常にその中心にいます」
フランシスカは司教会の会合の場で突如出現した黒竜と奪われた“黒の盾”についての情報を報告する。どよめく部屋の人間をよそにフランシスカはいつも通り淡々と表情を崩さず続ける。
「部下の報告ではシーチェはこの付近を通り、少数の人間でカイ王国を目指しているそうです」
「それは好機だ」
円卓の上座に座る大司教が表情を隠したまま言った。
「部隊を集めて奴らを包囲し必ず生きたまま捕らえろ。抵抗するようなら他の連中はどうなっても構わぬ。フランシスカ、コンラッド。お前達に任せる」
「仰せの通りに」
「…御意にございます」
フランシスカとコンラッドの2人が大司教に向けて頭を下げる。それを聴いて面白くなさそうな声を上げたのはもう1人の司教、マルラン。
「大司教様、私は今回もお留守番ですかぁ?」
「お前には別の仕事を用意してある。女神様の御意思に従ってな」
「承知致しましたよーっと」
「マルラン司教、貴方のその態度は目に余ります。日頃の行いは女神様も見ておられます。改められては如何ですか」
敬意の欠片も感じられない反応にフランシスカが噛みつく。表情には出ずとも言葉がいつもより強くなる。言われた側のマルランは些かも気にしていない様子で“はいはい”と応じた。
「……その気がないのでしたら分からせてあげましょうか?」
「表出ますかぁ?“女神様は全ての営みを愛して下さる”、ですからねー」
売り言葉に買い言葉。静かに怒りを向けるフランシスカと喧嘩上等のマルランは円卓を挟んで睨みあう。それを食い止めたのは中央に座る大司教だった。
「女神様の僕たる司教が争うなどあってはならぬ。そなたらの敵は女神の敵のみである」
断言する口調に当然迷いはない。女神に仕える身においてそれはごく自然な事だとフランシスカは内心頷いたが…
マルランは違った様で相変わらずつまらなそうにしていた。
2
会合の後、フランシスカは大聖堂をいつもよりやや急ぎ足で歩いていく。
これから行うべき任務の事を考えれば時間は少しでも惜しい。相手取るのはシリアンの悪魔、その強大さは自分が一番よく知っている。その相手を倒すだけでも骨が折れるというのに状況はそれだけでも済まないほど深刻だ。
あの戦いを傍で見て、共に戦った。そして会話もして、彼女の人となりにも触れて感じた。
これまでの経験から来る絶対的な自信と確実に人外の何かの力を持っている。彼女だけを狙うあらゆる戦術は無意味だろう。大軍を率いたとしても真っ向から挑むのは大きな犠牲を覚悟しなければならない。
(戦場において単騎で戦局を動かそうなどと言う事は本来蛮勇に過ぎませんが…彼女は違う)
もし黒竜が出現すれば聖教騎士団の一軍程度は吹き飛ばす。公都奪還の際はフリーズの杖が間に合い、動きを止めた所で黒竜の暴走を止める措置を行えたが次も同じ手は通じない。
(盾を持つ者の包む全ての死は盾の糧となり、その身で負う業もまたその糧となる。大司教様が仰った言葉だと彼女の戦場での行動が全て黒竜復活に繋がっている…?)
コツ、コツ、というフランシスカが刻む足音に混じって僅かに溜息が漏れる。
何故こんな事になってしまったのだろうか。私はただ…ただ。
「私を救って下さった女神様と共に在りたいと願っていただけなのに」
女神シューレはこの世を竜から救った偉大な存在で人間を常に暖かく見守って来てくださった存在。人を平等に扱い、個々を尊重し、個の持つ全てを愛する。それゆえに世界の全ての営みを許す。慈悲深い方だ。そんな女神の元で世界は安定を築ける。
1人、神殿に入ったフランシスカは女神の像の前で跪き、頭を垂れて祈りを捧げる。
静かに揺らめく蝋燭の火に照らされるその姿はシューレ教に身を捧げる人間の姿だった。いつもより長い時間の祈りを終えたフランシスカが神殿を出ようとした時、蠟燭の火が扉の方に流れた。
「どなたですか」
「あんたは相変わらずお祈りですかー?鉄血シスターさん」
「…マルラン司教。私は至って普通のシスターですよ。至って普通の」
「二度言わなくても聴こえてるっつーの。それにあんたは逆だと思いますけどねぇ」
マルランはフランシスカが出入りする扉を片足で塞ぐようにして立っている。何故彼が司教会に名を連ねているのか理解に苦しむ。信仰心も見られなければ、日頃の振舞いもとても聖職者のものとは思えないものばかりである。
「ここは女神様の住まう神殿ですよ。そのような真似はお控えください」
「へっ…いへい。分かりましたよぉー」
何かを言おうとして止めたのがはっきり伝わる。態度にも表れていて最早隠す気もないらしいがそれを問いただす気にもならない。
そこまでの関係でもなければ、近づきたくない人物を相手に会話をしている時間が勿体ない。フランシスカはそのままマルランを無視して神殿を去ろうとした。
「フランシスカ司教、待って貰えますかねー。今回の黒竜の件、なんで俺には言わなかったんです?」
「私の管轄で起きた事です。貴方にはご迷惑をお掛けする程の事でもありませんでしたので」
「それは認識が甘いんじゃないですかー?結果として聖教騎士団を動員してシリアンの悪魔相手に一戦交えるんでしょう。あの時公都で正体を知りながら見逃した貴女の重大なミスです」
「でしたら責任を追及しますか?」
「いいえー。追及なんて…ミスはお互いカバーしあう。それが仲間でしょう」
マルランは心にもない事をもっともらしく言って、くつくつと笑う。それがいちいちフランシスカの気に触れた。
「ですが、これを知った大司教様はどうされるでしょうね?」
脅しのつもりか。弱みを握った、私の身の上は俺の手に委ねられていると。
心の中で怒りが沸きあがるのが分かった。
「へぇー、あんたそんなカオ出来るんですねぇ」
マルランが面白がってフランシスカの表情をまじまじと見つめた。
普段は力の無い目元に力が入って眉間に皺が僅かに寄り、歯がきつく食いしばられている。
「私とてこの世に生まれ落ちた1人の人間ですよ」
睨みつけながら目の前を通り過ぎるフランシスカをマルランは止める事はせず、逆に止まったのはフランシスカ。視線を前に向けたまま、静かに告げる。
「今回の反乱の件は“残念”でしたね」
知られてまずい事を知っているのは自分も同じだ。何か起こればお互い無事では済まないという警告だった。
3
〈恐れの森 シリアン領内〉
消えかけた炎を明かり代わりに地図と睨めっこ。斬られた腕を三角巾で釣りながら、動かしにくさにもどかしさを感じるのを鎮めてくれるのは冷めきったコーヒー。無事な方の手でちびちびと口に運んではカップを降ろし、私は手帳に思いついた事を書き込んでいく。
この先の世界を予想し、祖国の危機を未然に防ぐ為の思い付き。世界を変えるには私はまだ知らない事が多すぎるんだが、それでも何もしないという言い訳の理由にはならない。どれほどの時間が残されているか分からない以上、少しでも使える時間を無駄には出来なかった。
手帳にぐしゃぐしゃと文字を書き込んでいてこれまでわざと気にしない様にしていた痣が目に留まる。
血管の様な不気味で醜い痣は肘辺りまで広がり、最初に出来た手の甲に至ってはもう殆ど肌は見えなくなっている。それでも痛みがあったりする訳ではないのが幸いかもしれない。こんな風になってもまだこの腕は思い通り動かせる。
コーヒーを飲んで、文字を書いて、弓を引く。
出来る事は誰かと違っていても生を営む為に使ってきた私の身体が誰かの何かの思惑に乗せられ、自分の意思と関係なく何かに巻き込まれ、挙句世界を滅ぼすかも知れない。
これは争いを止めない人間の罪なのか。それとも国を守る為だと言って人を殺し続けた私の罪なのか。人間同士の愚かな行いを続けた末路だとしたら、果たして私がこの悪夢を終わらせる事は出来るのか?私の罪だとしたら贖う代償が世界なのか?
「何が正しいのか、なんて考え方が間違っている?」
その時の最善を選択し実行する事。例え誰かを犠牲にする事になったとしても、目的の為に決断し行動する。そう思っていたけど、それは“シリアンを守る為”という目的に全て通じていた。
守る為。全ては守る為に。
それが根底にあったからどんな事だって耐えてこられたんだ。
だけど。守る為に戦っている相手を守る為の方法なんて一体どうやって考えればいい?私がやろうとしている事は矛盾している。
「あーダメだ分かんないわ…」
静かに呟いてコーヒーを啜る。開かれた手帳の頁には文字の羅列がびっしり並んでいるが、思いついてはぐしゃぐしゃと消した線が幾つも渡っていてもう自分でも読むのが難しい。
何をどこまで書いたんだっけ。思い出す為に文字を解読していて思わず力が入った。そんなタイミングで正面から私を除き込む人物に気付く。当直をしているリシアだった。
「そんなに難しい顔をされて眉間に皺が寄ってますよ?」
「うううう…ん」
疲れ気味の瞼を軽く揉んでそのまま顔全体を手で覆い上下させる。まだ皺は作りたくない。
「直った?
「え、えぇ」
一瞬躊躇いを見せたリシアをからかう様な口調で忠告する。
「言いたい事は言っておいた方が良いよー?」
「皺は直りました。ただ…深手を負ってらっしゃるのにこんな時間まで起きているのは関心しません。ミッシェルさんに見つかったらもっと怒られちゃいますよ?」
心配そうに言ったリシア。私はもっともだと思いながらも自嘲気味に笑う。
「本来なら今日みたいな日は寝てしまうのだけど。どうしても、ね」
もう野営地には月明りさえ差し込んでこない。周囲を照らすのは僅かに残るこの焚火と周囲においた警戒用の松明だけ。辺りは静まり返っていて虫の鳴き声が響いている。
「リシアこそどうしたの?私の痣の事?」
「…そ、その…」
急にたどたどしくなる。この子は本当に“読みやすい”。その反応で分かってしまう。
私はこれまで袖を降ろす事で隠していた痣を露わにする。変色した血管の様な不気味で醜い痣。見れば見るほど禍々しく、醜い。
リシアが私の痣の事を気にしているのは薄々気付いていたが今日は明らかに見る目が違う事に私は気付いていた。
「これでしょ」
「具合はど、どうですか?」
「悪くはないわ。治したいのは山々だけど、訊きたいのはそれじゃないでしょ?」
「……はい」
どうやら何かを決心したみたいであるリシアの表情が締まる。
少し間を置いて言葉を整理してから彼女は本題に入った。
「その痣について聴かせて貰えませんか」
やはり、ね。話すのは構わないが私には懸念が幾つかある。
「シューレ教に身を置く貴女にその話をして私は殺されないかしら?」
「っ…!」
シューレ教からすれば今この時の黒竜はおよそ相容れない存在である。女神が黒竜の魔の手から人類を救う為、手を貸して討伐したという歴史を矛盾させてしまうから。
ー黒竜は生きていた。そしてまた世界を滅ばそうとしているー
それが真実であるかどうかはさておいて、この世界にとって忌み嫌われる。黒竜オルヴァヌスとはそういう存在なんだ。
世界の安寧の為か、自分達の安定の為かは知らないがシューレ教が私を放っておく筈がない。
「貴女も教会に身を置くなら立ち振る舞いは気を付けないとね」
「どういう。意味ですか?」
「敵と関係を持つのはは誰からも好まれる事じゃない。私を…」
「シーチェさんは私の敵なんですか?」
リシアが私の言葉を遮って言う。その言葉に対する答えを探した。
彼女は命の恩人だ。救ってくれた行為に打算や思惑なんかはなかっただろう。あそこで救われていなければ私は死んでいた。そのことに感謝している。
「敵…かぁ」
小さく呟いて思わず天を仰いだ。
「残念。もしそうなるんだったら、とても」
偽りない心の底から感じた真っ直ぐな気持ち。伝わった所で私達の運命が決まっているのであればきっと争いは避けられない。
「も、もし…私が敵になったらどうしますか?」
リシアは訊ねてくるが、神官服の袖をキュッと握りしめて顔を引きつらせている。恐怖と困惑が生む怯えた顔を私は見つめ返す。
答えは決まっている。決まっているのに口にするのは憚られた。
だって、それを認めたら戻れなくなる気がするから。
「それまでは仲間だって、信じててもいいかしら?」
彼女の信心深さはよく知っている。信教を捨て去るなんてマネは絶対にしない。だからきっとこの意味は伝わる。こんなのただの“逃げ”だって事は自分で理解しているが、仲間を敵に回す時の事なんて考えた事はないし考えたくない。
「私は、最後まで諦めません」
凛とした声が強い意志を示す。
思わぬ返答にえっ?と声が出ていた。
「諦めませんよ。私はシューレ教のシスター。目の前で困っている人を助ける為に女神に身を捧げたんですから」
「女神の存在とは相容れなくても?」
「シューレ様は全ての営みを愛して下さいます。即ち、全ての存在を愛して下さる。であれば私が誰彼と線引きをする事は女神様の御意思に逆らう事になってしまいます。ですから、私はシーチェさんを救う為に行動します」
神官としての想いが自分の感情に勝ったらしい。さっきまで訊きづらそうにしていた話し方もすっかり消え、芯の強さすら感じさせた。
「それでもまだ、私を敵だと言いますか」
今度は迷いのない瞳がこちらを射抜いていた。
「いいえ」
彼女の問いに対して明確に否定を返す。それを確かめるとリシアは安心したみたいで大きく息を吐く。それを見ていたら出会ったときよりもかなり頼もしくなったと思い自然と笑みが零れた。
「ふふ。値引きでオロオロしてた時とは変わったわね」
「あ、あの時は私もまだまだだったといいますか…その話はもういいじゃないですかぁ…」
「ごめんごめん。そうだね」
表情豊かなシスターをからかっていては女神とやらがお怒りになるかもしれない。謝罪をしてから私は本題に入る事にした。
「黒竜の話と言ったけど、正直分からない事ばかりだわ」
この大陸に伝わる伝承くらいは知っているとは付け足した。だがそれ以外は全く何も分からない。
何故、世界を滅ぼそうとしたのか。
何故、産まれたのか。
人間はどういう方法で黒竜を倒したのか。
「シューレ教は黒竜の事を詳しく知っているのかな?」
この痣と向き合い、黒竜復活を阻止するには真実を知らなければ。しかしそれを知っているだろうと思われるのはこの世界で絶大な権力を持つシューレ教であり、私の敵となるだろう存在だ。
「少なくとも私が死んだら黒竜諸共倒せるなんて、甘いものじゃないとは思うの。しっかり知識を得ないと…」
今までの経緯を鑑みても身体1つ差し出して解決するとはどうにも思えない。その先に黒竜が復活して世界を滅ぼすような事があっては全て意味がなくなってしまう。
「正直、大司教様や幹部の方達がどこまで知っているかは分かりません。シーチェさんは分からない相手に抗う事は怖くないのですか?」
リシアの疑問は人間にとって至極当たり前の事かもしれない。正解の分からない問題に挑む事は正解の分かる道を進む事よりもずっと困難を伴う。分からない事を目の前にすると人は恐怖を抱くものだと思う。
それでも私には大切にしたいものがあった。
「私が歩いてきたこの道を無意味にしたくないから。守る為に積み上げた数多の犠牲があるんだもの」
歩んできた道を思い返す度に思い浮かぶのは遠い日の思い出。
城で遊んだり、鍛錬したり、時には森に行って侍従に叱られたり。町に出れば民が楽しそうに話をして、それぞれの仕事をこなして…それを見ているのが好きだった。日常だと思っていた。
だけど月日が経ち、私の日常は戦場になった。
屍の山を越え、木霊する断末魔の中で命を燃やして。
正義を説き、守るべきを語り、苦難の先にある勝利を見せて、彼らの未来を犠牲に進み続けた。勇気を振り絞って恐怖に抗う為に戦い、死んでいった彼らが守りたかったモノを否定するような事は出来ない。
「私は守る為に前に進むだけ。怖がっている暇はないわ」
痣に侵された右手をぐっと握り締めて、自分に言い聞かせるように宣言した。
森の中で私達以外は眠っている。聞こえるのは静かな寝息と風が木を凪ぐ音くらいのもので久しぶりに静かな夜だ。周囲の事を感じた途端、集中力が切れたのか眠気が襲ってきた。
「今日はもう休もうかな」
「おやすみなさい。シーチェさん」
もたれかかっていた木に体を預けて瞼を閉じる。暗闇の中で意識が沈んでいく感覚を感じつつ力を抜いた。