シーチェが用意した策に従い、兵糧を焼き払う為に行動していたブレグ率いる公国軍の奇襲部隊だったが、ノヴィツ目前で帝国の待ち伏せと追撃を受けて壊滅状態に陥る。辛うじてノヴィツ郊外へ逃げ切ったブレグ率いる公国軍。
公都奪還からソールズベリー、マーシャルと進んだ精鋭の兵士達は多くが討ち取られ、生き残った者も殆どが負傷している。それは軍を率いるブレグやアヤも例外ではなく、シリアン軍は何とか軍としての体裁を整えているに過ぎない程にボロボロの状態だった。それに加えて知らされていたブルガンツの戦闘停止とシーチェのノヴィツ入りの情報。
彼女の考えていることを理解したブレグは、彼女の救出を目指す。
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数刻前 シリアン公国領内
鳥が空へと羽ばたいていく。あの鳥のように飛ぶことが出来たのならこんな所からは今すぐ立ち去りたい、と珍しく卑屈な考えを持ちながらその姿を見送る。
生まれてからずっと
今度の作戦も段取りは完璧だった。だが、現実は二万を超える軍はほぼ壊滅状態となり戦闘力をほぼ喪失した。公国領内に撤退した軍の様子はとにかく悲惨の一言で、半分は戦死し、残った者も殆どが負傷者扱い。体を動かせる人間が総出で治療や炊事などの活動を行っていた。
人生で初めての失敗。それも取り返しがつかないほどの大きさにブレグは、打ちのめされていた。自分さえも無傷とはいかず、鎧も傷だらけで一部が既に壊れてしまい、身体もいつもと同じ様には動かせない。これだけの失敗をこれから取り返さないとならないと考えるだけで吐き気がしてくる。自信を失い、体さえも満足に動かせない中、ブレグは軍を立て直す為に奔走した。
もう一度
「…今なんと?」
「ノヴィツに戻る。任務継続だ、と言ったんだ」
リアは兄の常軌を逸した考えに耳を疑う。なぜそんなことを、と一瞬考えたがもはや問い質す気にもならなかった。このまま行って何が出来るというのか、という気持ちを率直に伝える。
「…全員死にますよ。シーチェさんを助ける為とは言え無謀では?」
「今我々が一番近い所に居て自由に動けるんだ。我々がやらなければならない。この国の為に」
ブレグはそう言ってリアに向き合う。彼の中にある想いは言葉としてはそう表れた。
だが、本心では違った。国の事ももちろん大切に想っているが助け出したいのは、国の為だけではない。いつもとは違う事に気づけないリアではなかった。
「らしくもないですよ。いつもならそんな決断しないでしょう?」
「普段であればだ。リア。ここで彼女を失う事などあってはならない。シーチェ無くして、この戦いを収めることなど出来ないからだ」
「あの方は戦争を止める為に単身乗り込んだ。その身を犠牲にしてでも戦争を止めようとしています。交渉が駄目だったとしてもあの咆哮…きっと黒竜がノヴィツの兵糧を焼いてもう戻ってきますよ」
リアの言葉はどこか力がない。自分の発言に自信が持てていないのはブレグにも伝わった。
希望的観測というものの心地よさに飲み込まれてしまいたくなる。残酷な状況で自分達に都合の良い想像は幾らでも出て来る。そうであってほしい。それらは苦しみから逃れようとする逃避行動だ。かくいう自分だって、本当にそうであったらどんなに喜ばしい事かと思う。
「そうだな…そうなったらどれだけ良かったか」
逃げ出したい気持ちと引き下がれない思いがぶつかって、絞りだした声。だが、
「それでも行かなければならない。きっとあいつはもうボロボロだ」
リアは兄の様子がいつもと違う事に気付いていた。
死ぬ事前提の戦い方など選ばないはずのブレグが、シーチェ救出には異常なまで固執している。その理由ははっきりとは分からなかった。
(先代陛下の暗殺事件からシーチェさんを殺したいほど嫌っていたのに。気が付けば彼女を救い出すと言っている…)
「兄上」
放っておけばこのまま何も言わず行って死んでしまうだろう。踵を返し掛けていたブレグは呼びかけに応じて足を止める。
「そこまでする理由を聞かせてください。
「隠す事でもないからな。お前には言っておこう」
ブレグはそう言うとゆっくりと間を置く。まるで昔話を思い出すかの様に、穏やかな表情を浮かべ、やがてゆっくりと語り始める。
「あいつと私は幼い頃から共に文武を競い合う仲だったのは知っているだろう。好敵手と呼ぶに相応しい…そんな間柄だ。私とシーチェ、そして殿下であるリク。私達は幼い時間の殆どを共に過ごした。今でも覚えている…しっかり者だがひょうきんなシーチェ、おふざけが余り理解出来ていなかった堅物の自分と、不器用で真っ直ぐなリク。いつも一緒に居た」
ブレグの話にリアは口を挟まず聴いている。
「自分の役割はあいつらを守る事だと、その時から思っていた。王家のリク、正位軍師の血筋のシーチェ。この国の中心になる人物の手足となって領地を切り盛りし、そこから国を支える事が私の使命だと考えて日々研鑽し、領地を継承した直後にあの事件だ。裏切られた、と思った。共に励んだ人間が私欲の為に王を弑したなど聞けば疑いたくもなる。だが、結果としてシーチェはゲランに謀殺されかけただけだった。“自分の両親が幼い時に死んだ理由は、実は裏から先代国王が糸を引いていた、と知ってその復讐をした”なんて話を皆が信じたばっかりに…あいつは一人で苦しみ、人を信じられなくなっていた」
「事件が起こる前のシーチェさんは…困った人には声を掛け、独りぼっちは仲間に入れようとし、悩んだりしている人には寄り添って話を聴いてあげる様な人物でしたからね」
そんな彼女は三年経ってこの軍に加入した時には、人からあえて離れて用がなければ話す事もしなくなった。曖昧な返事でそそくさと会話を切り上げる、そんな瞬間をブレグは何度も目の当たりした。
「だが、知っている通りゲランの話はただのまやかしだった。それを知った時はもうあいつは復讐の事しか考えていなかったし、黒竜を体に宿していた。公都奪還の前から詫びるタイミングもなかった…あいつは引き受けた軍師の役を全うして…今だ。俺は死ぬ前にシーチェに謝らなければならない。そしてこの国はあいつを失ってはならないんだ。賭けてもいい。先代陛下の志がリクや後世に続く限り、あいつは必要な存在だ。お前は伝令としてここを離れ、戦いを見届けて欲しい」
ブレグは強いまなざしでリアを見つめる。普段ぶつかり合う事が多い妹だが、仲が悪い訳ではない。視線が交わった瞬間、リアはブレグの意図を感じ取った。
「理由は分かりましたが…ダメです」
リアの否定にブレグは目を丸くした。
「私も共に参ります。戦える兵士は多い方が良い」
「たまには私の言う事を素直に聴いてくれ。お前は伝令となり、リクに伝えろ。“ブレグ隊はこれからノヴィツに再突入し、シーチェを救出する”」
「兄さん!」
「…言えなくなるかも知れないから念のため言っておく。お前との日々、楽しかったよリア」
ブレグは言いながら、優しくリアの頭を撫でる。トレードマークの紅い髪に触れるのはいつぶりだろうか。自慢のさらりとした紅い髪も、汗や泥にまみれてざらつき、べたりとしていた。
大きくなってからは特にだが、突っかかって来る事ばかりだった妹とまともに話をしたのも久しぶりだ。懐かしい。ここを離れて故郷に帰りたい。そんな弱気な感情が生まれて来て、気持ちを揺るがしている。
迷いを振り払う為には自分から動き出す他なく、ブレグは踵を返す。
「各員聴いてくれ!動ける者は速やかに集合整列せよッ!!」
リアの呼びかけは、同じタイミングで発したブレグの声によってかき消され届かない。兄の考えている事が分かるからこそ、リアは思い留まらせるために話を続けようとした。
このままでは二度と生きて会う事は出来ない。待ってよ…と念じながらもう一度叫ぶ。
「兄さん!!」
貴方が行ってしまったら、居なくなったら。誰を目標に努力をしたらいいんだ。誰がプラマーを切り盛りするんだ。
すると、ブレグは脚を止めて振り向いた。声が届いたと思い、リアの表情が少し晴れやかになる。だが返ってきた言葉は受け入れる言葉ではなかった。
「お前はいつまでそこに居るつもりだ!早く行け!!」
リアはさっきと変わった兄の剣幕に怯む。それでも食い下がり続ける。
兄の決断は間違っていると直感が告げている。兄と言えど、このままでは何もできずに死んでしまう。出来るのは訴える事だけだった。
「考え直して下さいッ!このまま戻るのが良案だとは思えません!」
「くどいぞリア…!私には使命があるのだ。ここで引くわけにはいかないんだ…」
二人の言い争う姿を見ていた兵士達が少しずつざわめき始める。
「その使命感に従って命を失えば何もかも終わりですよ!自分も、付き従う皆にも命は一つです。燃やす場所を間違えたら無駄死にになります」
周囲を置いてきぼりにして続けられる二人の口論。ブレグの号令に従って集まった部下と共に遠巻きに眺めていたアヤは難しい問題だと感じていた。
どちらも間違ってはいないが、個人の感情は折り合いを付けなければいけないし、それが現実的かつ論理的な対処より優先されることもあってはならない。
そんな二人の口論を部隊を率いて集合の命に従ってきたアヤも聞いていた。兄妹の喧嘩に口を突っ込めるほど達観してはいないが、ブレグが言う事も良く分かる。
「…少し離れますわね。整列して待機を」
アヤは部下に指示を下すと、ひとり口論の場へと近づいて行く。兵士達の輪を抜けてその中心へ行くとすぐにブレグ達はアヤの存在に気が付いて口論を止めた。
北に近い土地の暗い時間。寒さを感じやすい環境だというのに、そこだけは熱気に包まれていた。
「アヤ、君は待っててくれないか。私とリアが話しているのだ」
「無礼なのは重々承知で。命を捨てても、助けに行きたいというのは私たちの勝手な気持ちではなくて?」
前置きせず単刀直入に、アヤは要件を伝える。勝手な気持ち、というフレーズを聴いた瞬間ブレグの表情が一気に苦々しいものになり、低い声でどういう事だ、と絞りだされる。
「シーチェはここで私達が行く事を望んでいないと思うのです。もう彼女の策は破綻してしまった。作戦予定も我々が壊滅した時の事は想定されていなかったのですから」
彼女がカイに旅立つ前の軍議で、彼女は確かにソールズベリーとマーシャル、二つの反乱貴族の討伐をブレグに命じた。それと同時に中央のブルガンツはグライフ率いる王宮騎士団が守り抜き、カイの援軍と国内の反乱を鎮圧したブレグの軍とで、帝国の拠点を挟み撃ちする。そして帝国の兵糧を焼くというのが本来の計画だった。
だが、達成されたのは国内の鎮圧のみ。カイからの援軍到着の報せは届かず、反対のこちらも進攻前に壊滅的被害を出してしまった。こうなった時の戦略は示されていないが、この状況では選択肢はそうある訳ではない。アヤの目の前にいる男は、そこに入っていない選択肢を提示しようとしている。
「君はだからと言って彼女を見捨てようと言うのか?作戦などもう関係ない」
詰め寄るブレグにあくまでアヤは冷静であり続け、そしてくすりと笑うと言葉を返した。
「全くですわ」
我々に出来る事は、最悪の状態にあるブルガンツとこの公国を存続させるために必要な頭脳である彼女をノヴィツから救出すること。
作戦の失敗の責任を取り、恐らく命と引き換えに時間を稼ごうとしている軍師をここで失う訳にはいかない。
「もう作戦など関係ない。無謀だ、愚か者だと罵られようとも、私も助けに行くべきだと思いますもの」
それを聴いてブレグはもう一度はっとする。逆にリアは同じ反対派だと思っていた所でまさかの発言に目を丸くした。
「ちょっとアヤさん?!それは…えっ…?」
リアは二人の事を理解出来ない、とでも言いたげにゆっくりと首を横に振る。それを見ていたアヤはくすり、と笑うと、その疑問を晴らそうと呟く。
「私やブレグ様…三年前から軍で一緒だった居た仲間は、彼女の事をよく知っています。“何かを守る為に何かを差し出す”…シーチェはそんな人なのです。いつでも冷静で、残酷で、そして誰よりも熱い心を持って、どんな難局にも立ち向かう。自分の命も惜しまず、この国と、仲間の為だけに尽くしてきた…これまで彼女に守られてきましたが、今度は私達の番。ですからブレグ様は貴女を伝令に出そうとしているのですわ」
言いたい事を言い終えて、晴れやかな表情を浮かべるアヤ。傍からみたら兄妹喧嘩にしか見えないその口論を止める者は存在せず、間を空けて再び言葉が繋がる。
「アヤの言う通りだ。我々もこの国を守る為に戦っている。彼女はこの国難を脱する為に絶対に必要な存在なのだ。これまで倒れた仲間達の死を無駄にしない為にも、我々は進まなければならない」
ブレグの静かな言葉には強い意志が宿る。握り締められた拳が小刻みに震えていた。
「屍を積み上げて進んだ先が例え詰られる未来だとしても…真っ先に敵陣に突っ込む事で、残る皆に遺志を託す。既に賽は投げられた」
「兄さん……」
ブレグの言葉にすぐに返答出来なかったリア。込み上げるものを必死に堪え、やっと言葉を絞りだす。
「もう止めはしません。ですが私も行きます」
分かってくれた嬉しさと最後まで言う事をきかない妹らしい強情さを噛み締めたブレグはふっと笑うと一言呟く。
「お前ってやつは本当に…私の話を聞かないじゃじゃ馬だな。ならばこの作戦はお前に託す」
そしてブレグはリアに耳打ちをする。この作戦の唯一残されている、成功に導く方法。ほとんどない成功確率をほんの僅かに希望をつなぐだけの一手だ。
諦めた顔をみせた兄を見てリアは微笑む。いつもの様に優越感から来る感情ではなく、今度は気持ちを通わせられたという喜びから出た表情。
命令に対して心から共感を感じて必ず達成するのだ、と体の奥底からアドレナリンが溢れる。
「必ずや」
誰が見ても清々しく見える見事な敬礼で兄に応える。それを見てブレグは一度だけ満足そうに首を縦に振ると、口論を眺めていた兵士達に改めて整列を命じる。
鋭い指示に従い、すぐさま部隊毎に並んだ騎士達を前にしたブレグは語り掛ける様に話し始める。
「ブレグ隊はこれより再びノヴィツへ向けて前進する。騎乗可能な兵士で騎馬突撃を行い、城内に侵入する。目標はシーチェ・フェイエンベルクの救出だ」
言葉を区切って少し間を取ると、静まり返る平原に穏やかな風の凪ぐ音だけが通り過ぎた。小さく一息入れて、ブレグは言葉を続ける。
「これから始まる戦いは嘗てなく困難だが、目的を達成する為に最低限必要な事は、皆に覚悟があるかどうかだ。だから出立前に自分に問い掛けて欲しい。
ブレグはそこまで言って並んだ自分の部下の表情に目を向ける。首を小さく縦に振る者。正気を疑う眼差しを向ける者。言葉を噛み締め何かを考える様子の者。恐怖に顔を引きつらせる者。様々な表情が見えた。
「バカな。勝てる見込みなんかほとんどない。ここが俺達の最期だと…そういう事ですかブレグ様」
「そうだ。私達が命を擲って彼女を救う事は公国にとって価値がある」
ブレグは声の主を視線に捉えて、迷いなく言い切る。ネガティブな反応で問い掛けてきたのは長年プラマーの地で騎士を務めてきた男だった。
「先ほどリア様も仰っていましたが、このまま進めば確実に全滅します!目的の重要性も理解しますが、達成できない目的に命を懸けて戦うことは出来ません!」
「君の言うことは良く分かる。このまま進めば、無意味な死があるだけだ」
「ではなぜ!」
食い下がる騎士にブレグは小さく息を吸うと、驚くほど柔和な表情を作った。
「私がこれまで無意味な命令を下したことがあったか?君たちの命や想いを無駄にすることなど、出来るものか。無意味な戦いに見えるかも知れないが、協力して欲しい。この戦いで散った者たちが報われるように」
語りかけながら騎士の前まで行き、肩に掌を乗せる。冷たく、傷が付いてギザギザとした金属の感覚を感じながら面甲の向こうにある瞳を見据える。
「もう一度だけ私を信じてくれ」
そしてすぐにブレグは踵を返して元いた場所に戻ると、再び振り向いくと同時に収めていた剣を抜き放ち兵士たちに問い掛ける。
「これより作戦を開始する!!戦える者は武器を!戦えない者は勝鬨を上げよッ!武器を上げる者はその命を以て祖国に忠を為し、勝鬨を上げる者は彼らの遺志を未来に繋ぐ!!我々は一人残らず、最期の瞬間まで祖国のために戦うのだッ!!」
整列している者の殆どは手にする武器を天へと掲げた。立つことの叶わない者や列外に並んでいた負傷兵は力の限り叫び、死地に赴く者を鼓舞する。残る者たちの大歓声に包まれながら戦える兵士は騎乗し、ブレグの号令で馬を走らせる。
「前進せよォォォッ!!!」
ブレグを先頭に、休息地から再び隊列が走り出す。二千騎にも満たない部隊の、極限まで士気を高めた騎士達は再びノヴィツへ向かった。