てぃーえすっ♡~男、織斑千冬の自分探し青春ストーリー~ 作:逆立ちバナナテキーラ添え
俺が両親を殺したのは、まだ妹たちが物心がついたばかりの頃だった。
親子関係が悪かったとか、家庭環境が複雑だっただとか、そういった事実はない、いたって掃いて棄てるほどにある家庭だったのだが、俺は実の親を殺した。そこに大層な理由はなくて、これは自分のきわめて正常に機能している思考で以て殺すべきであると判断したのだ。
両親は役人だった。第一種国家公務員というやつで、俗に言う典型的なエリート官僚だった。勤め先は厚労省で、毎朝いいスーツを着て、仕事に行く姿を俺は一人のリビングでサンドイッチ片手に眺めていた。食事を一人で摂ることに異議も不満も、その時分の俺は抱くことはなかった。大きくなればこういう一人の時間は自ずと増えていくものなんだから。それが他人より早く訪れているだけなんだ、と。幼いながらも、納得して、完結していた。寧ろ、学校の給食で机を合わせてみんなで食事を摂ると内心落ち着かなくて仕方がなかった。
勉強やって、本を読んで、近所の道場で竹刀振って、という楽でも苦でもない生活に突然風穴が空いたのは、俺が小学校に慣れ始めて、束という友人の異常さに感付き始めた頃のことだった。
おまえに、妹が出来るぞ。
父親の冷えた言葉がやけに鋭く感じた。一人の世界に血縁を伴った他者が割り込んでくるという、未知との遭遇を前にして何となしに母親を見やると酷く具合が悪そうに腹をさすっていた。それが聴くところの妊娠した際の症状だと思った俺はおめでたいですね、とかなんとか言って祝っているふうの態度を示していた。自分の世界に新たな命が加わるなんて現実感が追いつかなかった。
その宣告から暫くして、産まれた双子を抱いて、母親の担当の看護婦が微笑ましいものを見る視線を俺に向ける母の病室で、俺は言い様のない違和感に見舞われていた。それが所謂第六感と呼ばれるもので、それから先、随分と世話になる得体の知れない絶対の直感であることなど俺は知りもしなかったけれど、その感覚に従って憔悴する母親に声をかけて、なるべく双子に気を向けさせないようにした。
母親の様子がおかしいことに気付いたのは宣告の少し前からだった。とても綺麗な人だった母の美貌に陰が差し始めた時から、体調を悪くしていた。大丈夫か、と訊いても力ない笑顔で大丈夫だから、と俺の髪を撫でるだけだった。そして、ベッドに伏せながら窓の外を見る母親は窶れて、幽鬼のように白い肌を陽でさらに白くさせて遠くを見ていた。何処か遠い場所を。
あなたはきっと、
そう呟いた母親を見て、俺は口の中が一瞬にして乾き、干からびた。
なんて痛ましい、なんて哀しい、なんて悲劇的で、この世のものとは思えない美しさなんだろう。その瞳には底知れない哀しみがあって、罪悪感が涙に溶けて溢れていた。生気を感じられない白磁の上に、精一杯の力で繕われた笑顔は、これ以上の美に生涯出会うことがないと確信させた。
なにがあったの、と訊ければなにかが変わったわけじゃあない。そこに踏み入るのは、母親を犯すのと道義だと感じた。俺はそんな恩知らずな真似はしたくなかったし、弱った母親をこれ以上追い詰めるようなこともしたくなかった。
呟かれた言葉はまるで願いのようだった。俺がそうなるように祈るような。
「俺はそんなに優しい人にはなれませんよ、たぶん。せいぜいが、隣のやつの消しゴムを拾ってやるくらい」
「それも優しさよ。誰かを思いやれるような、素敵な大人になってね。それで、綺麗なお嫁さんを貰って……」
気が早いことを言う母に、まるで遺言じみてきたな、と思った。母親に早く死んでほしいわけがない。俺はやめてくれ、と言ってその話題を切り上げた。その時の母親の顔は覚えていない。どうしても思い出せない。確かに見たのに、砂浜に描いた絵が波に拐われたようにきれいさっぱりなくなってしまった。
母親は退院してから、寝たきりの生活を送るようになった。職場復帰など無理だった。そこから俺の生活はなにもかも変わった。妹二人の世話に、母親の介護と家事全般に、自分のことを成立させなければならなくなり、剣道なんてやっている暇はなく、寝る時間を削ってやりくりする毎日。母親と妹たちを引き会わせないようにうまく立ち回りながら、家に帰ってこない父親の代わりに家主代わりもしなければならない。時たま束や、篠ノ之家の面々が手伝ってくれたりしたのが唯一の救いだった。妹たちが篠ノ之家で過ごすことが多いのも、この名残だったりする。
そんな生活の中で癒しだったのは意外にも、母親との会話だった。幼い頃、あまり話すことの多くなかった俺と母親は、その分を補填するようにたくさんの言葉を交わした。ほとんどがつまらない話だった。学校の話だったり、一日の出来事だったり、そういう話を母親はとても楽しそうに聴いて、満足していた。しかし、その会話が疎かになると母は酷く拗ねた。まるで、俺と同い年のような、子供のような怒り方。めんどくさい女のテンプレートみたいだった。話し足りないと部屋を出ようとする俺の腕を掴んで離さなかったりすることもあった。
俺はある日、帰ってきた父親と話すべく地下の書斎を訪れた。父親に母親を再び入院させることを打診するためだった。母親が酷く不安定な状態にあるのは眼に見えていた。歳不相応な言動や、あまりにも俺にベタベタするのは悪い傾向だと思ったからだ。どうであれ、一度詳しく医者の話を聴いてみるべきではないか、と考えて扉を叩いたわけだが返事はなくて、断りを入れて扉を開けると父親がデスクの前でなにかしらファイルを読み耽っていた。声をかけても気が付かない父親に、出直せということだろうと察して母の部屋に戻って慣れた笑みを浮かべて話し相手になる。右も左もない妹たちに本を読んでやる。寝る前に妹ばかりに構うなと半狂乱を起こす母親に寄り添って、眠るまで添い寝をして、寝たのを確認してからまたじたばたと働く。
疲れていた。神経を磨り減らす日々。妹たちに心配をかけさせないために余計に気を張って、気丈に振る舞い、近所に変な話をされないためにもっと明るく振る舞う。時折、疲れて、母に添い寝したまま寝てしまうこともあった。
それらが全部まとめてごみになったのは、俺が中学三年生の秋のことだった。
俺が夕食を母親の部屋に運びにいくと、何処にしまってあったか分からない果物ナイフの刃先を自分に向ける母親がいた。持っていたお盆をかなぐり捨てて、俺はナイフを取り上げて怒鳴った。肩を掴んで、きつく言った。
すると、母親は俺に気持ち悪い視線を向けて、キスをした。俺を強く掴んで、口を抉じ開けて、舌で俺を犯してきた。やめてくれ、と言っても母親──彼女は俺を離してはくれなかった。
おぞましい、抗いがたい快感の波に俺の脳は溶かされて、蠱惑的な表情で俺を押し倒した母親の残骸は俺の服に手をかけた。その手を払い除けて、母親を突き飛ばして、俺は逃げた。逃げた先は地下の書斎で、鍵をかけて扉に背を預けたまま崩れ落ちた。頭がくらくらして、なんだか哀しくなって、涙が溢れ出た。両手で拭っても、拭っても視界は揺らいでしまって、理由のない喪失感が胸に突き刺さった。
書斎に籠って数十分ほどすれば、少しは落ち着くことが出来て、父親の座る椅子に腰を下ろした時に、ふと一冊のファイルが眼に入った。それは以前、父親が読み耽っていたもので、俺はちょっとした好奇心でそれを開いてしまったのだ。
産まれてはじめて恐怖した。
おぞけが走って、胃液がせり上がってきた。
母は犯されていた。妹たちとは血縁がなかった。そもそも、俺自身がこの家の誰とも血縁がなかった。
そのファイルは報告書だった。母が産んだ、産まされた妹たちの父親は、全く知らない、赤の他人だった。父親が主導していたプロジェクトで、母親は望まぬ子種を子宮へと注がれた。とてもあっさりとした処置で、茶に混ぜられた睡眠薬で眠らされている間に。
なんでも、母親は随分と優秀な遺伝子の持ち主だったらしく、その遺伝子を元に優秀な人間を造り出す試みの一環として、母親は苗床にされたと、紙面上の英文は宣っている。その産物が俺の妹、一夏と円。
俺に関しては、他所から連れてこられた哀れな餓鬼でしかなかった。本当の名前もなにも分からない。織斑千冬でしかなかった。
だから、その日の深夜。誰もが寝静まってしまった頃に、父親を殺した。殺してしまうべきだと思った。非常にシンプルな動機で、俺は書き物をしていた父親の首筋に包丁を突き立てた。ごりごりとナイフが入っていく感触は気色悪かったものの、父親はちゃんと死んでくれた。倒れてもなお、神経の反射でびくんびくん跳ねる姿を見て、おかしな笑いがこみ上げてきて、吹き出してしまった。文句のつもりか?
血を浴びたまま、母親の部屋に行くと、母親は俺を待っていた。安心したように笑って、俺も笑みを返す。
壊れていたのだ。あの筆舌に尽くしがたい宣告の時には、母親は──母さんはもう壊れていたのだ。
俺は母さんと血が繋がってはいない。ろくな人間でもないし、母さんの言うような優しい人間でもない。感情の起伏は少ないし、おかげで友達も少ない。篠ノ之束と友人である時点で俺もまともではないはずだ。
でも、少しばかりの情けはあった。もう、戻れない、生きる気力が希薄な人間にこれ以上苦しめないで逝かせてやることぐらいはしてやれる。それが形はどうであれ、母親ならばなおさら。
「知っちゃったんだね」
母さんはそう言って、手招きした。ベッドに腰掛けると、俺の頬に手を当てて、血を拭ってくれた。
「殺したよ」
「うん」
「今から、あなたも殺す……。最期になにか、ありますか……?」
「千冬、ありがとうね……」
俺と母さんは抱き合って、ナイフで首筋をなぞった。
俺は母さんの額にそっと唇を触れさせて、片付けの準備を始めた。その時、いつの間にか廊下にいた束を殺そうとしたけれど、束はなにも言わないで手に持ったビニールシートと鉈を見せた。
地下の書斎で人の身体を二人がかりで解体して、ドラム缶の中に束が何処からか持ってきた苛性ソーダを注いで、跡形もなく溶かしてしまった。それらを束が何処かに置いてきてから、俺と束は風呂に入った。
「どうして手伝ったんだ?」
風呂上がりに、一本だけ手元に残した母の骨を弄りながら朝焼けを拝む。ふと、髪を拭く束に訊いた。
「友達だからだよ、千冬。それだけだよ。きみが困っていたから助けた」と束は言って、「これ、きみのお母さんの部屋にあったよ」
一枚の写真だった。セーラー服を着た若かりし頃の母さんと、学ランを着た、俺とよく似た男が腕を組んでいた。
「でかい借りが出来たな……」
「気にしないでくれよ」
そうやって、俺は両親を殺した。
両親は行方不明だ。
妹たちはなにも知らない。
その翌日、俺ははじめて女とセックスした。
織斑──:面影があったの。あの人の面影が。