出発
カルメン伯国の首都、カルメンの北にイテという男がいた。彼はある日、決心して旅に出ることにした。イテは一番信頼している友人に自らの農場を二束三文で売ってしまうと、荷物をまとめて村を出た。一四四四年五月七日のことである。
いきさつ
去年の暮れのこと、イテはベッドの上で思い悩んでいた。実は、彼には秘密があった。それは、自らが「転生者」であるということだった。
彼には生前の記憶があり、そこで彼はある島国の学生であった。彼は不慮の事故で死に、天界において神への謁見を許された。神は彼に謝罪し、大きな力を授けることを約束して、彼をこの世に放った。
イテは領主の息子に生まれた。母親は彼の出産のときに死んだ。また、姉が一人いたが、イテが三歳のときに赤痢でこちらも死んでしまった。イテも遺伝子を受け継いだのか病弱で、喘息があった。そんなわけで彼は大事に育てられた。父親は彼に家庭教師をつけ、フルートを習わせた。父親は金を惜しまなかった。成人すると、父親は彼に農場を託して、隠居した。そして、その父も一昨日に死んだ。
イテは独り身になった。農場には百人の農奴がいたので、人手の心配はなかった。彼はベッドに横たわって今一度考えた。懐かしき遠い昔の記憶、学生の頃を。神は自分に力を与えたらしい。しかし、それはどんなものか? 幸せな生活はある日打ち砕かれ、思い入れもないところへ私を追いやった。本当の父母はどうしているだろうか、妹は寂しがってはいないか、ポチは玄関できっと帰りを待っているに違いない。いっそ成仏させてほしかった。野心などない! 力の代わりにあの日々を!
梟の鳴き声がした。夜風が半開きの窓から入ってきた。イテはベッドに突っ伏した。
イテは生への活力を失ってしまった。前から思っていたことが、孤独とともに彼に重くのしかかった。父の居たころは良かったのだ。期待に応えようという、そういう気持ちがあった。しかし、今や一人だ。
イテは籠りがちになり、みるみる痩せていった。
農奴の頭がイテの邸宅にやってきた。禿ていて、真っ白な髭を胸あたりまで伸ばした老人だった。イテの部屋に入ったとき、農奴の頭は驚いた様子で言った。
「旦那様、どうなさいましたか。ご病気ですか」
「いや……お前には関係のないことだ」
「お話しください。先の短い年寄に物怖じすることもありますまい」
頭は老人特有の図々しさでベッドに座り込むと、イテを促した。
「お前は子供のころからの付き合いだったな、でも、信じないだろう、こんな話」
イテは言い捨てたが、頭は首を横に振って言った。
「この世には術もあれば、魔物もいる。神の思し召しで物事は如何様にもなるのです。さあ、お話しください」
「お前のことだ、他言することもあるまい……」
イテは全てを話した。頭は目を瞑り、時々頷きながら聞いていた。
イテは話し終わった。頭は頬杖をついて、しばらく考えていたが、やがて静かに言い出した。
「旦那、旅に出るべきです。この世界を回るのです」
「何故だ」
「神は貴方に重大な試練を与えたのです。それを克服しなければならない。貴方に与えられた力はその助けだ」
「しかし、私に野心はない。もし、皇帝にでもなれというのなら、私にそんなことはできない!」
イテは語気を強めて言ったが、頭は彼を諭した。
「それも旅に出ればわかることです。すべては神の思し召しなのです」
長い沈黙の後、イテは拳を膝の上に置いて言った。
「わかった、考えてみよう」
「旦那、貴方にはフルートがある。音楽は貴方を必ず助けるでしょう……」
そう言って、頭は屋敷を出て行った。
カルメンの街道で
イテはよく整備された街道を進んでいった。カルメンの市が近づくにつれ、建物が増え、人も増えた。彼は馬車鉄道の轍を避けながら歩いて行った。
イテは中性的な顔の青年に見えた。目は黒く、短く刈られた髪も黒かったが、目鼻立ちはしっかりしていた。北の人らしい白い肌を持ち、金糸を編み込んだグラスグリーンのルバーシカを着ていた。
しかし、彼はもう三十を過ぎていた。あまりに見た目が若いので、村人はそれを羨ましがったし、イテも誇らしく思っていた。しかし、そのために女は彼を馬鹿にして、相手にしなかった。
イテはとりあえず帝都を目指すことにしていた。そこへ行くには二つの道があった。一つは、北東の山脈を越えるルートで、これは危険が伴った。なぜなら、山には魔物が出るし、それらを討伐する「狩人」たちも実際は山賊のような野蛮人だと聞いていたからだ。
二つ目の道は山脈の間に広がる大きな平野を通るルートだ。これは前者の二倍以上の時間がかかるが、幾分か安全だった。
彼はまだどちらを行くか決めかねていて、考えに耽りながら歩いていた。突然ベルと怒号がイテを襲った。
「どけ、小僧! 轢いちまうぞ」
彼の目の前には乗合馬車があった。彼は慌てて端に寄った。乗客が窓から覗き、馭者は舌打ちをして走り去っていった。
イテは市の中心へ歩き続けた。売り子が威勢のいい声を出していた。彼女が出てきた石造りの重厚な建物は、一階が店になっていて、二階と三階が集合住宅になっていた。窓から狭いベランダが伸びていて、鉄格子で囲われていた。こんな建物が街道の両脇にずっと続いていた。中央広場の二つ手前で彼は曲がった。路地裏に彼のなじみの酒屋があった。
カルメンの酒場で
イテは樅の重いドアを開けた。ベルが揺れた。明るいうちだったので、客はいなかった。裏にいた店主の親父が出てきた。
「やあ、イテ君。どのジュースにするかい?」
「やめてくださいよ、まったく。三十路の人間に」
イテは苦笑いしながらカウンターに座った。店に窓はなく、術式ランプが夜でもないのに点いていた。
注文を済ませると、店主が先に話し出した。
「それで、どうしたんだい、こんな昼間から」
イテは旅に出たことを告げた。店主は目を見開いて言った。
「旅! その口からそんな言葉が出るとは思わなかったよ、イテ君は奥手だからねえ」
「だから……まあ、いいや。それで、ルートについて悩んでるんです。中央まで行こうと思うのですが、山を越えるか、迂回するべきか」
店主はマドラーを水割りに滑り込ませながら言った。
「旅行はもっと後のほうがよかったんじゃないかい、なぜかというとね、平地ルートも今争いの真っ最中なんだ。教皇様と皇帝の争いが酷くなってる。商人の行動も制限されているから、旅人はなおさらだろう」
イテは聞いた。
「そうすると、山しか無いと」
「そうなるだろう」
水割りが出された。イテはそれを啜った。いくつかの会話があり、店主はイテに尋ねた。
「どうして旅に出たの?」
イテは悩まなければいけなかった。本当のことを言っても理解してはもらえないだろう。ふと、ある言葉が浮かんだ。それは彼の前世において昔流行したものだった。彼は答えた。
「自分探しの旅です」
「ふーん、まあ、旅人というのはそういうものだ。それで、農場はどうしたんだ」
「友人に譲ってしまいました」
「思い切ったことをするもんだ! 君にそういう勇気があるとは思わなかったよ」
「断ち切りたかったんです。こうでもしなければ、今、私はここにはいなかったでしょう。それで、詳しく道を教えてもらえたりしませんか」
「いや、そんなものは知らんよ。又聞きの話だ。街道を伝っていけば多分着けるだろう。わからなければ、それこそ行商人にでも尋ねることだ」
イテが飲み終わって、グラスを置いた時、まだ新しい客は誰もいなかった。イテは酒場を発つことにした。お代を渡そうとしたとき、店主はそれを退けた。
「いらない、いらない。それより、もう一杯飲んでいきなさい。こいつは幸運の酒だ」
店主は裏に回ると、透明な酒の入った瓶を取り出してきた。そして、酒杯を二つ取り出し、お互いになみなみ注いだ。
「ウオトカだ。それも、百年前の戦争を潜り抜けた極上ものだ」
「いいんですか、こんなのを開けてしまって」
「構うもんか、酒は飲まなければね」
店主はイテに酒杯を持たせ、そして自らも持ち上げると、高らかに言った。
「友人の門出を祝って、乾杯!」
そして、一気に飲み干した。イテもそれに続いた。それは、とても強い酒だった。イテは一瞬ふらついたが、すぐに持ち直して、また椅子にしっかりと座りなおした。イテは言った。
「いや、ありがとうございました。私はもう行こうと思います」
「そうか、それなら気を付けて。君のような可愛いのは狙われるんだから」
「心得ているつもりです。それでは、さようなら」
「いつかまた、会えることを願っているよ……今後とも御贔屓に」
ベルが揺れ、ドアが閉まった。イテは街道をまた歩き始めた。