ロレーヌの城門で
旅に出て一か月ほど経った。イテはいくつかの国を通過してここまでやってきた。はじめは上等な宿屋に泊まったが、懐が寂しくなるにつれて、泊まるところも貧相になってきていた。彼はまだ道端で笛を吹くような心持になれなかった。それは、恥ずかしかったし、乞食みたいな気がした。そんなわけで、彼がロレーヌの街に入ろうとしたときには、彼の財布は空っぽだった。
イテは街への石畳を進んでいった。南のほうに霧がかった青い山脈が見え、近くに目を移せば、丘陵帯の一面に荘園が広がっていた。そろそろ小麦の作付けが始まるらしかった。
歩いていると、城壁が迫ってきた。この内側に街があるのだ。イテはロレーヌの城壁を見上げた。大人四人分ほどの高さのそれは、最近より強固にされたように見え、古い石との境界がその微妙なグレーの差によってわかった。城門に近づくと、人々によって列が作られていた。彼はそれに並んだ。順番がやってくると、衛兵が手を差し出して言った。
「税を」
「いくらですか」
「十デゥカト(三万六千円)だ」
「あんまり高いじゃありませんか、どうしてですか」
「これは特別税だ。払わなければ通せないぞ」
「私に野宿しろというのですか、いつ追いはぎに襲われるかも判らぬのに」
「お前が襲われようと知ったことではない。ほら、後ろがいるんだ、どいてもらおう」
「一デゥカトじゃいけませんか」
「ならん!」
イテが粘り続けたので、列はすっかり止まってしまった。騒ぎを聞きつけて、司祭の一人がやってきた。彼はイテに言った。
「今、いくらお持ちなのですか」
「五デゥカトだけです」
「そうですか、いや、なぜここで税をとっているのかといいますと、戦争の準備なのです。いま、向こうのほうで緊張が高まっておりまして、教皇が破門を言い渡そうものなら、すぐに戦争が始まるでしょう」
少しかかって、イテは、「向こう」が帝都を指しているらしいと理解することができた。というのも、末端の人々はあまり情勢を知ることができなかったのだ。ただ、いずれにせよ、街に入るのは難しそうだった。イテは本当に道の端で野宿かもしれないと身構えた。そこで、司祭は手を叩いて、にこやかに彼に言った。
「貴方は楽器をお持ちのようだ」
イテは間の抜けた声を出してしまったが、司祭は続けた。
「フォルクマー様……司教様のことです。は腕の良い吟遊詩人を探していて、もしそういうたぐいの者が来たら、是非とも連れてくるように、というお達しなのです」
「本当ですか! 私は幼いころからフルートをやっておりまして、大体の曲は吹けます」
そんなわけで、イテは城門をくぐることができた。司祭に案内されて街を進んだ。広い街道には店が布を広げて露店を出しており、建物は赤みがかった二階建てが主だった。街の中央に緑青色のドーム天井を持った、バロック式の立派な聖堂があったが、司祭はそれを素通りした。曰はく、司教の家は別にあるのだという。
さらに大路を行くと、二階建て、平屋根の大豪邸が現れた。そして、勧められるがままに、イテは中に入った。
ロレーヌ司教、フォルクマーの邸宅にて
イテは控えの間で少々待たされた。しかし、そこだけでも度肝を抜くほどに絢爛豪華であった。部屋自体はそこまで広くはないけれども、三重にもなるシャンデリアや色とりどりのタペストリーが飾られ、壁の隅々に金細工が施してあった。床も最上級のカーペットである。
やがて、かれは次の部屋へ通された。そこに、フォルクマーはいた。彼は白髪交じりの痩せた男で、司教の立派なローブを着ていた。イテは、部屋中を嘗め回すように見た。控えの間の二倍ほどの大きさに、やはり豪華な飾り付けがなされていた。イテはフォルクマーの前に跪き、儀礼的なあいさつをした。フォルクマーはさっそく笛を吹くように頼んだ。好きな曲を吹けというので、彼は自分の村人から教えられた民謡を吹いた。
演奏が始まった。最初、曲は馬の並足のように進行する。広い未開拓の草原をゆっくりと進んでいく。森を横切り、小鳥のさえずりが包み込むように流れると、にがよもぎの爽やかな香りが立ち上がった。青い空に白い雲、それが果てしなく続いており、馬はなおもゆっくりと進む……。
地平線より敵が現れた! 一匹の馬はたちまち散開陣形の騎兵に姿を変えた。馬はギャロップに移った。草原が流れている。馬を騎手たちは急き立てる。規律ある陣形を保ったまま、騎兵連隊は全速力に移った。目に映るものすべてが流れてゆく、目にはっきりと映るのは、敵の服だけだ。サーベルを抜け! 隊長が号令をかけた。突撃前の燃え滾るような意志がひとつの弾丸となって、期待とともに草原を全速力で駆け抜けていった。
喊声がこだました。赤と緑の弾丸は衝突し、砕け散った破片は、絡み合うように円を描き、うねるようなサーベルの一振りは、耳元に奇妙な死の予感を渦巻かせる。馬の悲鳴、弧を描く足取りが乱れ、騎手とともに地に伏す。サーベルが光った。最後の二人は、相討ちで倒れ散った。
草原にまた平和が訪れた。その中心には若い男たちの精悍な屍が、赤と緑のモザイクを作り上げ、馬のとりどりの色がその深みを増していた。円状に展開する芸術作品は、サーベルの反射によって、きらきらと輝いた。雲は流れ、また小鳥のさえずりが聞こえだした。
イテは、演奏を終え、静かにフルートを降ろした。フォルクマーは唖然として、しばらく口がきけないでいた。
「フォルクマー様、次はいかがいたしましょうか」
イテがそう尋ねた時、フォルクマーはやっと話し出した。その声は驚嘆のために上ずっていた。
「君は法術使いかね、いや、恐らくそうではないだろう。でも、私は術にかけられたような気がした。音楽の世界に取り込まれてしまったような、禁忌の術のような、そういう、気がするのだ」
フォルクマーは冷や汗をかいていた。長い一呼吸の後、彼はまた話し出した。
「先ほどはすまなかった。イテ君だったか、君のような人は税を取る必要はない。褒賞を与えるべきだよ」
イテは首を傾げた。彼は自分の笛がそんなに上手であるとは思っていなかった。すぐに追い出されるだろうと思っていた。それについて彼は聞いた。フォルクマーは手を左右に振って、それを否定した。
「そんなことはない、イテ君、君は皇帝付きの音楽家であったっておかしくはない……私が思うに、君はそういう特別な力があるのではないかね」
「というと、フォルクマー様は法術をお使いになれるのですか」
「ああ、法術庁の奴らほどではないがね」
「法術庁とはなんですか、実は、私はそういう知識が全くないのです」
「では、すこし説明してみよう。」
「まず、法術というものについて、これは、まあ、平たく言ってしまえば魔法なんだが、法術は神より与えられ、教皇から認められた術のこと。魔術はそれを逸脱した禁忌という形で使い分けている。例えば、そのシャンデリアだって法術で動いているんだ」
イテは天井を見上げた。フォルクマーは続けた。
「それで、我々は教会に所属している。皇帝は神から与えたものとされているから、教会と皇帝は不可分で、これに基づけば、教会のほうが皇帝より優位だ。教皇は教会の最高権力者だ。私の司教位だって彼から与えられているのだ。
さて、次は法術庁だ。これは教皇庁の一機関に過ぎないんだが、帝国中の法術使いを統括できるし、皇帝にそれを提供できるので、やたら強くなってしまって、皇帝も教皇も支配下に置いていたから、ある時期から世俗権力は全部彼らが握っていたんだ。
ここから、今の政治状況について話そう……。そういう状況だったんだが、四年前に教皇シエメヌス七世が即位すると、状況は一変した。彼は即位すると、すぐに法術庁、皇帝との対立を明確にした。例えば、この二年後に皇帝へインリスフ五世がするが、教皇はこれを認めなかった。その後も叙任権について対立を繰り返した。その結果として、今年のはじめに教皇は別荘のサイドリッツ宮に移動した。本来、教皇は帝都である中央島にいるものだから、これは異常事態なのだ。そして、教皇は『一月勅令』を出した。これは法術に対する神の優位を再確認するもので、実質的に法術庁の破門の予告みたいなものだ。これによって、対立はさらに深まった。
この動きに呼応する邦領が三つあった。ボーメン準王国、ソプトルフェトヒト公国、アンハルト王国だ。これらの国も含めて、北部の邦領は南部への経済的従属が進んでいて、それに反発する目的ともいえるだろう。ともかく、その三か国は教皇に味方するべく『神聖同盟』を結成した。これは、軍事同盟で教皇に忠実だ。
そんなわけで、二つの対立軸によって、帝国は大きく揺れているのだ。わかったかな」
「詳しい説明をありがとうございました。少しわかったような気がします」
イテはうなずいて答えた。
「旅に出ているのだから、これぐらいは知っておいたほうがよかろう。しかし、君、本当に面倒な時期に旅に出たね。どこで戦争が起こるかわからないのだよ」
「そういうのに疎いもんですから……」
「だから、うちの専属になってくれないかね。私も年の功で地位はある。君を必ず守り通せるだろう。そして、そのフルートを私に毎日聞かせてほしいのだ」
イテは悩んだ。こうも外が危険だとは知らなかった。確かにこの人についていけば、当分は安全そうだ。でも、それは目的ではない。もっと重要なものが別の場所にあるかもしれない。イテはフォルクマーに言った。
「少し、考えさせてください」
「構わない、衣食住は保証しよう。おい、茶を!」
フォルクマーは召使に命じた。そして、イテに向き直った。
「次の曲をお願いしよう」
イテは遅くまで吹き続けた。フォルクマーは熱心に聞いていた。物悲しい曲では、彼は涙を流し、憤怒の曲では、彼もまた怒った。楽しい曲になれば、満面の笑みが浮かんだ。このようなことはなかなかできないものだが、イテはそれを軽々とやってのけた。
イテはフォルクマー邸の一室に泊まった。一夜が明け、召使が彼を起こした。久しぶりに良いベッドで眠れたので、彼は特別よく眠ったのだ。
朝食もフォルクマーが用意してくれた。イテは、フォルクマーとともにそれを食べた。卓上で、フォルクマーは彼にもう一度頼んだ。報酬はいくらでも出すという。しかし、イテは首を縦に振ることはなかった。イテはフォルクマーに言った、「旅を続けたい」と。
青磁の深皿に盛られたリンゴを齧りながらフォルクマーは言った。
「君は信念の人だね。ならば、ぜひ、その音色を多くの民に聞かせてやってくれ。人々は吹き始めた嵐に怯えている。君の演奏は彼らを少しでも助けることができるだろう。」
レースのカーテンが揺れた。フォルクマーはさらに尋ねた。
「次はどこへ?」
「山脈を越えて帝都を目指そうと考えています」
「帝都に行くのか。ならば、この方にお会いするといい。アクーイタニア大公のオドー様だ」
フォルクマーは本黒檀の棚から青いフェルトのアルバムを取り出し、二三ページめくってイテに見せた。
右上の手のひらほどの大きさのカラー写真が指さされた。そこに写っていたのは、金髪の若い男であった。顔は彫が深く、口ひげを蓄えていて、燕尾服を着ていた。
「これがオドー大公だ。彼は皇帝の直臣で、二十歳で即位すると、自国の常備軍を強化した。今や、かの国の軍隊は非常に強力だ。皇帝にも認められ、去年、帝国の軍需大臣に就任した」
フォルクマーはイテにその写真を渡した。イテは慌ててそれをしまった。写真は珍しかった。フォルクマーは付け加えた。
「信心深く、真面目な人物だ。君を悪く扱うことはないだろう」
フォルクマーは葉書を取り出すと、そこに羽ペンでいろいろと書きつけて、封筒に入れると、それを閉じ、右手をかざしてぼそぼそと呪文のようなものを唱え始めた。
"perum,ihhi give-ensen power bonn fire en put sear."
すると、鋭い光とともに封筒から紫煙が立ち昇り、封筒には印璽のような円形の茶色く焦げた模様が押され、封筒はしっかりと閉じられた。
フォルクマーがイテにそれを渡したとき、イテは呪文について尋ねた。フォルクマーは答えた。
「今、君と私が使っている言葉じゃないか。聞こえなかったかもしれないけど、『神よ、私に炎と、刻印の力をお与えください』と言ったんだ。法術の呪文さ」
「すると、それを唱えれば私も法術が使えるのですか」
「無理、無理」
フォルクマーは手を振った。
「こういうことはそもそも能力があり、かつ経験を積んだ人にしかできないよ。逆に、貴族は法術ができることが条件だからね。たまに、一般人でも使えるやつがいたりするのだが、稀だ。これから君が通るであろう狩人地帯も、そこにいる魔法使いはみな、元は貴族なのだ。貴族の私生児が法術庁から逃れて逃げ入ったのが狩人の始まりだ。それで、もし帝都に着いたらこの封筒をオドー大公に渡してくれ。すぐにわかるはずだから。彼の家の地図はこれだ」
地図をしまいながらイテは実際それを唱えてみていたが、煙一つ上がることはなかった。
ロレーヌ大聖堂での別れ
イテは昼前にフォルクマー邸を出た。彼はフォルクマーの勧めで聖堂に立ち寄ることにした。イテはフォルクマーを伴って昨日通った道を逆戻りして聖堂へ向かった。
聖堂の前に立ち、改めて眺めると、それはとても荘厳に思えた。三階建てのバロック様式の白亜の聖堂は中央に蒼のドームが配置され、豪華に装飾された窓や円柱の彫刻は細部まで作りこまれていた。入り口はアーチを描いていて、イテがそれをくぐったとき、その前に色とりどりのステンドグラスが現れた。内部は木造の長椅子が並び、最奥にパイプオルガンや、祭壇が配置されていた。祭壇の上には黄金の松葉杖十字が蝋燭の光を受けて輝いていた。
聖堂にはたくさんの司祭がいた。イテは教えに従って合掌し、フォルクマーは言った。「この若き吟遊詩人に慈悲と、武運を!」
昨日の司祭もいた。実は彼は司祭長であった。
「昨日は守衛が済まないことをしました」
「いや、そんなこと……それなら、仲直りに一曲やりましょうか」
「ぜひやり給え!」
フォルクマーも賛同した。
そして、イテは讃美歌を吹いた。それを聴いたフォルクマーはこう回想する。「本当に天使が円天井を破って青き天界より下りてくるようであった」と。
いずれにせよ、感動の余韻を残したまま、最後の時がやってきた。結局彼の笛の音に誘われて、聖堂中だけでなく、大路の人々まで中に入ってきていた。たくさんの人に見送られてイテは聖堂を出た。別れの時、フォルクマーは言った。
「イテ君がこれから行くところは私でも想像がつかないぐらい危険なところだ。魔術師はいるし、魔物もわんさか出る。できるだけ肝っ玉のある隊商についていくことだ。誰も信じてはいけないよ。いつ殺されるかもわからないからね」
イテは頷いた。
「それでは、神のご慈悲があらんことを……さようなら」
イテは城門を出た。昨日とは違う衛兵が徴税していた。大路には荷馬車がちらほらと通り、農地の丘の連なりを越え、遠くの山脈に向かってイテはまた歩み始めた。