もう順応してきていたベルベットは、部屋がノックされても嫌な顔をすることはなくなった。慣れきったルーチンワークのようにドアをガチャッと開く。
「べるっち~。悩み相談に来たよ~」
廊下には底抜けにほんわかとした少女、布仏本音が一人いるだけだ。
バタン。
ベルベットは何も言わずにドアを閉めた。
コンコン。コンコン。
再びのノック。無視を決め込もうかとも考えたが、いくらなんでも自分の行動が非人道的な気がしたために、仕方なくもう一度ドアを開く。
「悩み相談に来たよ~」
やはり底抜けにほんわかとした表情は揺るがない。ここまで明るい顔をした相談者はこれまでいなかった。普段から布仏本音が何を考えているのか推測すらできていないベルベットとしては、彼女の期待に全く応えられそうにない。
「……とりあえず入りなさい」
久しぶりに頭を抱えてしまうも、律儀に部屋の中に通すあたり、ベルベットの対応にはたしかな変化が生まれてきている。
テーブルを挟んで1対1。やはり自称相談者である布仏本音の顔には少しの陰りもない。
「それで? あなたの用件は?」
「悩みの相談だよ~」
一度でいいから『悩み』を辞書で引いて欲しい、と思ったベルベットだったがなんとか口には出さずにいられた。
ベルベットが先を促さずにいると、本音は自分が喋るターンだと判断したのか、勝手に話し始める。
「実はねー、私には悩みがないんだ~」
「帰って」
「えー、聞いてよ~」
反射的に『帰れ』と即答していた。いくらなんでも意味がわからなかったのだから仕方ない。
だがそれはベルベットが冷静でなかったからであろう。
本音は明るい顔を崩さないまま、淡々と告げる。
「皆は当たり前のように悩んでるのに、私にはなかったの~」
意外と根が深そうな話となりつつある。
悩みがない。それこそが悩み。立派な相談内容だった。
しかしこれはかなり特殊なケース。ベルベットも想定できてない領域の話である。
「あなたは悩みがあった方がいいと思ってるの?」
「違うよー。かんちゃんの悩みは早く解決して欲しいしー。おりむーも一人で苦しんでて欲しくないからね~」
「あなた自身は?」
「よくわからないんだー。だって――」
布仏本音は相も変わらずゆっくりとマイペースに喋る。彼女の本心も、表に出ている温和なものと決まっている。
「今が楽しいからね」
悩みを抱えるとは理想から隔絶された現状を嘆いている状態である。布仏本音には高い理想が存在しない。故に悩みがあるとすれば、自分以外が悩んでいる状態そのものとなる。
「……あなたって不思議ね」
「そうかなー?」
「悩みなんてない方がいい。それでいいし、あなたはあなたのままでいればいいとも思うわ。あなたまで暗い顔をしてしまったら、皆の調子が狂うと思うから」
「うん、わかったよー。ありがとうございましたー!」
そもそも本当に相談に来たのかすらも怪しかったが、相談した本人は満足したようだ。変わらぬ上機嫌な様子で部屋を去って行く。
むしろ悩んでいたのはこちら側なのではないかと思うくらいにベルベットは憔悴していた。今まで相手にしたことのないタイプなのもあり、話しているだけで疲れてしまっている。
「大丈夫、ベルベット?」
クーリェが心配そうに声をかけてきている。普通なら疲れを隠して笑顔で応じるところだったが、今のベルベットの耳には届いていない。
「……今が楽しい、か。それがこの先も続くと信じていられるだなんて、羨ましいわね」
楽しかった過去を思い起こす。もうそこには戻れないと考えるだけで涙腺が高まってきた。
「私は楽しいよっ!」
ここでベルベットはクーリェの存在に気づいた。クーリェは必死に訴えている。
「ずっとぷーちゃんしかいなかった。ルーちゃんと会ってから、楯無が外に連れ出してくれて、ここで一夏たちと――ベルベットと会えた。ここは楽しいところだよ」
「そう……良かったわね」
ベルベットは視線を合わせないままクーリェの頭をひたすらに撫で続ける。
私もそうだとは言えないまま、胸の内は『ごめんね』で埋め尽くされていた。