ふたりっきりのスタジオに無機質なクリックの音と、温かな低音が鳴り響く。
20時、練習の予約もライブも無かったため、いつもより早く閉店したCiRCLEの入口やロビーの照明は最低限にまで落とされており、普段の喧騒が嘘のように静まり返っている。まるでふたりだけを残して世界が滅びてしまったみたいだ。
「あ、ズレた。やっぱり裏拍が苦手みたいだな」
「うー、やっぱ地味。この練習・・・」
「ベースは基本的に地味な楽器なんだから、必然的に練習だって地味になるさ」
弟子入りから1週間ほど、リサとのレッスンは近所の貸しスタジオを利用していた。CiRCLEでやったほうが手っ取り早いのだが、まりなさんだったり勇人だったりに騒がれると精神がとても保たないので、リサに頼み込んでそのようにしていた次第だ。
まぁ今日もういいだけ騒がれたから、これからは開き直ってCiRCLEも利用していくつもりでいる。
スタジオ代だってバカにならない。それこそ今日みたいな日は店員特権を使いまくってやる。
「なんかもっと劇的な練習をやらされるものだと思ってた、レッスンって」
「マンガじゃないんだからそんなのはないよ。俺はこの練習、ベースを始めて3年の間は毎日欠かさずやってたぞ。インフルに罹ってもやってた」
「いやそこは休もうよ・・・。でもそれなら頑張る!」
リサには基礎中の基礎のクロマチックスケールを練習してもらってる。仰々しい名前の練習法だが、内容はいたってシンプルで4弦から1弦までを1フレットずつクリックに合わせて下降と上昇を繰り返し、12フレットまで到達したら、今度はクリックの裏拍に合わせて1フレットまで戻ってくるという練習だ。
リサは指とピックの両方を使うので片方しかやらない人の倍、この練習をしなければならない。
「ミュート意識しろー、3弦がちょいちょい鳴ってるぞ。あと音の粒が粗い」
「ドS!」
バンドの曲の中で技術を習得していったんだろう、歴のわりに多彩な奏法をリサは身につけている。いかんせん、そのひとつひとつの練度が低い。すぐに効果が見えない練習でつまらないだろうけど、心を鬼にして基礎を叩き込む。
「よし、一旦止めよう」
「はー、つっかれたー!指が痛いー」
「お疲れ様、頑張ったね。少し休憩して次に移ろう。ちょっとベース貸して」
リサから深紅のベースを受け取る。ESPのBTL、女子高生が持つにはいささかどころじゃなく高価なベースだ。
いったいどうやって手に入れたのかと尋ねたところ、かつてメジャーで活動していたという湊さんの父親のツテで格安で手に入れたという。氷川さんのギターとお揃いで指板に入れているRoseliaのロゴのカスタムインレイも、湊さんがバンドを始めると聞いたお父さんがリペアマンに3日でやらせたと聞いた。
娘のバンドにここまで入れ込むのだ、その親バカっぷりは相当なものなのだろう。
垂れ流しにしていたクリックに合わせて、先程までリサが弾いていたクロマチックスケールを弾いてみる。
うわぁ怖いくらい弾きやすい。
「・・・同じベースで同じことやって、なんでこんな違う音が鳴るのかなぁ」
「そりゃ同じ機材で全く同じ音が出たらプロの存在意義がなくなるだろ。このベース最後にメンテナンス出したのいつ頃?そろそろ弦を交換した方がいいかも」
「いつだったかなー、ライブもあるし練習もあるしでしばらく出せてないや。弦の交換ってイマイチ苦手なんだよね・・・」
「今度時間あるときやろうか?弦の交換と簡単な調整ぐらいなら出来るし」
「ホント!?それじゃあお言葉に甘えちゃおうかなぁ」
「自分でできた方がいいけど今は練習の方が大事だから。ベースありがとう、やっぱり良い楽器だね」
ひとしきり弾いて満足したので、リサにベースを返す。
赤いボディはピカピカの磨かれているが、いたるところに擦り傷や打痕が見られ、弾き込まれている楽器であることが一目見てわかる。
「それじゃ残り時間は曲練をやっていこう。デモに合わせるんじゃなく、クリックに合わせてで。曲は今日全体練習でやったLOUDERでいこうか」
「うん、おっけー!」
クリックのテンポをLOUDERの速度に合わせる。
リサに目配せをして1、2、3、4とカウント、ピックを握った華奢な手が力強く振り下ろされる。スタジオの中は再びリサの奏でる温かな低音で包まれた。
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