「ちょ、ちょっと陽さん!無理無理!これ以上は開かないって!」
「いや、いける。人間、限界だって思ってからが勝負だ」
濃密な女の子の匂い、リサの匂いに満ちた空間。リサの自室になぜか俺たちは二人きりでいる。室内にはリサの余裕のない声が響き、それを俺がまだまだと追い立てる。
「前にも言ったろ?1フレットに指1本が基本だって」
「それって男の人の手が基準なんでしょ?女のアタシには厳しいよ・・・」
夕飯が出来るまでの時間、リサの部屋で待っているように彼女の母親から申し付けられた俺たちだったが、流石に黙っていては場の空気だとか、精神だとかがとてもじゃないが、もたないため、結局いつものようにベースのレッスンを始めていた。
「1フレット1フェンガーは身に着けておくと、ジャズとかプレイするとき役立つから徹底した方が良いんだよ。リサは指が細くて長いから十分いけるって。ほら、俺の指なんて太いわ短いわで散々だぞ?」
「わ、ほんとだ。ベース弾くとき楽々押さえてたからもっと大きいと思ってた。アタシとあんまり変わらないね」
広げて見せた掌に、ベッドに腰掛けたリサが手を伸ばす。
リサの掌がペタリと重なる。広げた掌越しにリサの瞳と視線が合ってしまう。目が、逸らせない。
「・・・手が冷たいのは、心が温かい証拠っていうよな」
「そ、そうだね。陽さんの手は温かいね。最近よくアタシのことイジメるし、実は心が冷たかったり?」
「あれは師匠の愛情だよ。本当は優しくしたいんだ」
「えー、その割にアタシのことイジメてるときの陽さん、すっごい楽しそうなんだけど」
不満げな声を上げるリサだけれど、触れあった掌は離れない。最初に感じた冷たさはなくなり、お互いの体温を共有しているかのような温かさに包まれる。
「・・・陽さんさ、アタシにベース貸してくれるって言ったじゃん?」
「あぁ、言ったな。今度Roseliaの練習があるときに持っていくよ」
「凄く、凄く嬉しいんだけどさ、でもそれって陽さん、もう本当にベースは弾かないってこと?」
掌がぐっと押し付けられる。より密になった距離のせいで、その体温がそちらの物なのかはもうわからない。掌越しに見えるリサの琥珀色の瞳が寂し気に、さざ波のように揺れている。
「いや?使ってないベースって言ったろ?たまに呼ばれるセッションのヘルプとか、ライブのサポートとかで使うやつは手元に置いてるよ」
「・・・えっ!?待って、陽さんライブ出てたの!?」
繋がっていた体温が急に途切れる。外気にさらされた掌は、先程までよりずっと冷たくなったように感じた。
ベッドから立ち上がったリサはこちらを見下ろすように見ている。肩からぶら下がったままの真っ赤なベースが、何故かこちらを非難するかのように鈍く輝いた。
「言ってなかったっけ?たまにだけど出てるよ。しょっぱいサポートばかりだけど」
「聞いてない!最後にやったのは!?」
「えっと、日曜の夜だったから・・・。あぁ、リサが弟子になった次の日だ」
「なんで呼んでくれないの!?」
確かあの日は終電まで、ひたすらブルースのバッキングを弾いてたはずだ。クラプトンのコスプレおじさんなんて、女子高生が見ても意味不明だろう。
「俺がサポートで行くハコって、飲酒喫煙OKな所ばかりだから未成年は呼びづらいんだよ」
「・・・そのくらい、陽さんのベースが聴けるなら我慢するし」
「それに演者も客も、ロクでもない男ばかりだから、リサくらい顔が良いと曲が止まるたびにナンパされるぞ?心配でプレイに集中できないって」
何故か未成年の勇人が遊びに来て、いつのまにか元気にドラムを叩いていたけれど、あいつはバカだから仕方がない。
「心配してくれるのは嬉しいけど・・・、けどやっぱり陽さんのベース聴きたいよ」
リサの表情に影が落ちる。こういう顔をさせたくはないけれど、それでもあんな閉じた音楽のサポートをしている自分の音を、今の彼女に聴かせたいとは思えない。
「まぁ、ほら、それはもうちょっと仲良くなったらだな」
「・・・アタシ、お昼に言ったよね」
いつの間にかベースを背中側に回したリサに、肩を強く掴まれる。目と目が合った。彼女の瞳のあまりの熱量に吸い込まれて、視線が逸らせない。
「陽さん、アタシ言ったよね?そういうことばっかり言ってると、ホントにキスするって」
リサの瞳が近づく。こんなに近くで見たのは初めてだ。どこまでも透き通っている彼女の瞳を。
「待てリサ、待て。今のは俺が悪かったから!ちょっと落ち着け!」
「慌ててるのは陽さんの方でしょ?アタシは落ち着いてる」
こんな熱を湛えた瞳の持ち主が落ち着いてるわけがないだろう。こちらもリサの肩に手をかけ抵抗するが、上下の位置関係でじりじりと距離が近づく。彼女の目がゆっくりと閉じていく。
ーーー電子音が鳴り響いた
無機質に、規則的に鳴り響く電子音の発生源はリサのスマホからだ。
リサが閉じた目を開き、スマホの方へ視線を向ける。そして弾かれたようにその視線を、中途半端に開かれていたカーテンの方へと向けた。俺もそれにつられて視線を動かす。
その先には、対岸のベランダから、スマホを片手に呆れた表情でこちらを見る、友希那がいた。