10月に入って随分と気温も落ち着いてきた。夜にもなると少し肌寒いくらいで、もうひと月もすれば、冬の気配を感じられる事だろう。
リサのお母さんとの話がひと段落した後、間も無く友希那がそろそろ帰宅するとリサとふたり、リビングに顔を出した。ふと時計を見ると、いつのまにか21時を回っていたのでそのタイミングで俺もお暇することにする。
「またいつでも来てね!」と声をかけてくれたお母さんに、深くお礼を伝え、玄関を出た。
すぐ隣の家に住む友希那をリサとふたりで見送るが、別れ際に「仲が良いのは良いことだけれど、節度をもちなさい」と釘を刺されてしまい、リサの間にはなんともいえない微妙な空気が流れた。
「今日は楽しかった。お母さんにもご飯のお礼を伝えておいて。それじゃお休み」
「うん、アタシも楽しかった」
「・・・なんでついてくる?」
帰ろうと歩き始めると、そこにいることが当然と言わんばかりに、隣にリサが並んだ。
「送ってく」
「いや、リサの帰り道が危ないから大丈夫だよ」
「ママにも送ってくるって言ったから大丈夫」
何も大丈夫じゃないよねそれ?
こちらには意識を向けずにスタスタと歩いて行ってしまうリサの後を慌てて追った。
「先に行くなって、俺の家知らないだろ?」
「うん、だから家までついてく」
「・・・リサどうした?なんか怒ってる?」
「・・・ついて来て、ちょっと話そ」
こんな淡々としたリサは初めてだ。
先に行ってしまうリサの背中はどこか儚げで、触ったら崩れてしまうガラス細工のようだった。
リサを追いかける。近くにいないと不安でどうにかなってしまいそうだから。
リサに連れられて辿り着いたのは、コンビニ近くの公園だった。
ここで俺はリサの師匠になった。まだひと月程前の出来事だというのに、随分前の出来事に感じられる。
あの日と同じベンチに、リサはあの日と同じように腰掛けた。座りなよ?と促される。
あのときに感じた、秋の昼過ぎの穏やかな陽だまりはすっかり消え去って、今は少し肌寒さを感じさせる夜の闇が公園をすっぽりと覆ってしまっている。
その闇の中から染み出したかのように、リサの声が響いた。
「・・・アタシ、キスしようとしたこと、謝らないからね」
熱のこもった瞳を思い出す。近くでみたリサの瞳は、今までの人生で見たどんなものよりもきっと綺麗だった。
「それはリサが悪いところはひとつも無いんだから、謝る必要がないよ。怒ってたのはそのこと?」
「違う」
「じゃあどれだ・・・」
俯いたリサの表情は暗い影が落ちてしまってわからない。あの日のように昼間だったならわかったのだろうか。その表情も、リサが怒っている理由も。
「陽さんはバンドのこと、どうしてアタシに話してくれないの?」
「・・・そのことか」
この話題にリサはやたらと執着する。よりにもよってこの話題に。
「話しても楽しくないことだからだよ。俺にとっても、リサにとっても」
「それでもアタシは聞きたい、陽さんのこと、知りたい」
右手に熱が触れる。リサの左手が、俺の右手を覆った。右手の甲から柔らかな熱が伝わる。
「どうして、そんなに知りたがるんだ?俺のことなんか知ったって、どうしようないだろう?」
「この話をはぐらかすときの陽さんの表情が、今にも消えちゃいそうな感じで不安になるから、アタシ、そんなの絶対イヤだから、陽さんがいなくなるなんて」
重ねられた手が強く握られて、手の甲に優しい痛みが走った。
リサが俺の前から去ることを恐れていたように、リサも俺が消えてしまうことを恐れていたらしい。
こんな所は似なくても良いのに。優しすぎる弟子の想いに触れて胸の奥が熱くなる。まるで手から伝わった熱が、身体中に浸透してしまったみたいだ。
「キスしたら教えてくれるの?それ以上が必要?それなら今から陽さんの家に行こう。話してくれるならアタシ、なんだってするよ?」
「お願いだから、そんなに自分を安売りしないで・・・」
リサの手をやんわり振りほどくと、酷く傷ついた、怯えたような、そんな表情を浮かべられた。違う、そういう顔をさせたいんじゃない。
彼女に左手を今度はこちらの方からからギュッと握った。貰った体温をお返しするかのように。
「ごめん、気がつかなかった、リサがそんな風に想ってくれているって」
「・・・そうだよ。陽さんはアタシの先生で、もう居なくなるのとか考えられないくらい大切な存在なんだから」
「それは・・・、照れちゃうな、ありがとう」
「この空気で茶化さないで」
握った手をキツく握り返されてしまう。走る痛みが心地良いと思ってしまえるのは何故だろう。
「話すよ、リサにはちゃんと。でも少しだけ待って欲しい」
「・・・いつ話してくれる?今、ちゃんと決めて。じゃないとこの手、絶対離さないから」
「今月末、Roseliaのライブがあるよね?それが終わってからなら・・・。それまでにはちゃんとリサに話せるようにしておくから」
沈黙が横たわる。今すぐに、というのは厳しい。話の内容が内容だ、さすがに心の準備が必要だ。
「・・・へー、先生は可愛い弟子に、こんなモヤモヤを抱えたままでライブに出ろって言うんだー?」
「この空気で茶化すなよ・・・」
握った手が解かれて、冷たい外気が熱を持った手を冷やした。
しかしそれは、ほんの一瞬のことで、今度は指を絡めて握り直される。密着した掌から今までよりもさらに深い熱がふたりの間を行き来する。
「わかった。絶対だからね?ウソついたら社会的に殺すから」
「・・・物騒すぎるだろ、その殺し文句。ていうか、そんなこと言ってこの手は何?」
「だって寒いんだもん。陽さんが鈍いからなんだよ?こんな寒空の下で話さないといけなくなったのだって」
リサが座る位置をズラし、俺との間に会った距離をゼロにしてしまう。
触れ合った体の右側に彼女の体温を感じる。彼女の部屋と同じ、甘くてどこか優しいリサの匂いが、鼻先をくすぐる。
「悪かったって。ちょっと近すぎない距離?社会的に死ぬやつだよこれ」
「陽さんが意地悪するからいけないんだよ。あー寒い寒い!」
肩にリサの頭がこてんと乗って、体重がグッとかけられる。寒さなんてどこにも感じない。触れた部分から伝わる温かさが、ふたりの身体を、心を、柔らかく包み込む。俺の方からも少しだけ体重をかけてやると、肩に乗った頭から擽ったそうな声が漏れる。
「陽さん、ママからお金もらったの?」
「・・・話、聞いてたのか?」
「ううん、この間ママが友希那のパパにレッスン料のこととか聞いてるのを見たからさ、陽さんとふたりになったらそういう話するんだろうなって」
バレてますよお母さん・・・。でも会話を聞かれたわけじゃないのなら助かった。あの話は、リサに聞かれると少し気恥ずかしいものがある。
「そういうこと・・・。いや受け取らなかった、気持ちは凄くありがたいんだけど」
「どうして?プロじゃないからってやつ?」
「それもあるけど、なんていうか。リサにベースを教える目的がお金のためになってしまうみたいで嫌だったから」
「へーそっかー・・・、そっかー」
グリグリと肩に乗せた頭を押し付けられる。顔をかすめるウェーブがかった髪の毛が擽ったい。まるでじゃれてくる猫みたいだ。その髪を撫でてみたい欲求に駆られるがグッと堪えた。
「・・・今日、なんかずっと怒ってばっかでゴメンね?」
「俺に原因があったんだから仕方ないよ。むしろ怒ってくれてありがとう」
「・・・普段意地悪するクセして、こういうとき甘やかすのってどうなんだろなー」
体重を更にかけられる。もうほとんど彼女の体重を支えているのではないだろうか。
「バンドのこと、話してくれるの待ってるからね?」
「うん、ちゃんと話すから待ってて」
今の時刻はいったい何時くらいなのだろう?腕時計を確認する勇気が出ないのは、今の時間を知ることの怖さよりも、この瞬間があまりにも愛しくて、終わらせることが出来ないからだろう。
「そろそろ、帰ろうか?」
「・・・もうちょっと、こうしてよ。帰り送ってね?」
「もちろん」
互いの体重を預け合う。ぴったりと密着した上半身は、一緒になってしまった体温のせいで、どこからが自分のものなのかわからなくなってしまった。
絡められた5本の指も、溶け合ってしまいどこからが自分のものなのかが分からない。
俺の頭のすぐ横にある彼女の頭から感じる吐息の音と、陽だまりのような優しい匂いだけが、ただそれだけが世界に存在している。ずっとずっとこの時間が続けば良い。
リサもそう思っているといいな・・・。
そんな都合のいいことを考えて、リサの存在を噛みしめるように、ゆっくりと目を閉じた。