以前に聴いたときよりもずっと安定感を増した、クロマチックスケールが鼓膜を揺らす。この間、苦手にしていた裏拍も随分と安定した。
リサにベースを教えるようになって、1ヶ月と半月くらいになるだろうか?
上達のペースはなかなかのもので、彼女の努力に思わず頰が緩む。
「それじゃ次、Aのスケールを各ポジションで」
クロマチックから、最近になって伝えたスケールを指板の上から下まで順番に、走り抜けるように弾く。
多少ミュートや押弦に甘い部分があるものの、運指に迷いはなく、しっかり指順を体に叩き込んでいることがわかる。
「いいよ、一旦止めよう」
「ふー、集中したー!」
「自分の楽器じゃないのに良く弾けてるな。正直、驚いた」
「ホントに?陽さんのベース、めちゃくちゃ良い音だけど、なんか難しいね。アタシのに比べて、ちゃんと弾かないと鳴ってくれないっていうか・・・」
「ヴィンテージはワガママな楽器が多いから、鳴らすのが難しいんだよ。リサのベースと違ってプリアンプも載ってないし」
「プリアンプって?エフェクターのこと?」
リサが自分の足元を指差して首をかしげる。ほっそりした脚のすぐ真下には5台のエフェクターが並んでいるが、それはアウトボードプリアンプであって、リサのベースに内蔵されるオンボードプリアンプとは少し違う。
「違う違う、そのエフェクターを小さくしたようなやつが、リサのベースの中に入ってるってこと」
「わかったような、わからないような・・・。陽さんベースとツマミの数が違うのも関係してたり?」
「関係してるな。買った時、店員さんに説明されなかった?」
「説明されたけど、専門用語ばっかりでわからなくってさ・・・。友希那のパパに聞いたら、とりあえずは2つだけ触ればいいって教えてくれたんだ」
2つというのは恐らくボリュームと、弦の音を拾う部分のバランスを調整するツマミのことだろう。
友希那の親父さんの判断は正しい。初心者に多くの選択肢を与えるとロクなことにならないからだ。
とはいえ、リサの技術はすでに初心者のレベルを大きく超えている。音作りの勉強もそろそろ始めたほうがいい頃合いだ。
「まぁ、いい機会だから、メンテナンス終わって返すときに使い方を伝えるよ。最初は混乱するかもだけど、慣れると便利なものだから」
「わかった!よろしくね先生!」
「うん、よろしくされた」
お喋りはこれくらいにして曲練に移ろうか。という所でリサが更に質問を重ねてくる。
「さっきやったAのスケールってやつ?陽さんに言われて練習したけど、あれって何に使うの?」
「ベースライン考えたり、アドリブをするときに使うんだけど・・・これは実際に体感した方が良いかな。リサ、預かってるベース使っても良い?」
「え?もちろん良いけど、どうするの?」
「まぁそれは、やってみてのお楽しみで」
スタジオを出て、事務所からリサのベースを取ってくる。
今からベースアンプをもう一台運び込むのはさすがに骨が折れるので、手早くチューニングを合わせると、横着してスタジオのミキサーにシールドを差し込んだ。
普段、友希那の歌声を吐き出している天井のスピーカーから、リサの深紅のベースの音が鳴り響く。褒められた使い方ではないけれど、少しくらいなら許されるだろう。
「リサ、この間やったAのブルース進行のバッキング弾いてみて、テンポはこれくらい」
指を鳴らして速度を指定するが、リサは展開についてこれないのか目を白黒させている。
じゃあ最初は一緒に弾いてみようかと伝え、先導するようにこの間、教えたばかりのベースラインを弾いてみせる。
どこかで聴いたことがある泥臭いフレーズ。ブルースはロックンロールの源流になったと言われており、3つのコードで12小節をひたすら回すだけのシンプルな構成は、理論を勉強し始めたミュージシャンにとってこの上ない教材だ。
最初の12小節を終えた所で、リサのベースがおっかなびっくりといった様子で合流してきた。
ふたりして全く同じベースラインを弾くことが、軽快なシャッフルのリズムも相まって、なんだか無性に愉快で笑えてくる。
リサの方も同じなようで、だんだんとその表情と音とが、跳ねるような元気なものに変化していた。
たっぷりふた回しを2人でユニゾンした所で、先程リサが弾いていたAのスケールを弾いて見せる。
自分の弾いていた音がバッキングに溶け合うのが不思議らしく、始めて自分の姿を鏡で見た子猫のように、リサは目を丸くしている。
パートを交代して今度はリサがスケールを弾いてみると、その目はキラキラと輝きだした。
音楽の一番楽しい所はこれだ。
自分の音と他人の音が溶け合うの実感する瞬間。こんなにも楽しいことがあるだろうか。地道な基礎練習はこの瞬間のために存在していると言っても過言じゃない。
何度かバッキングとスケールを交代して、所々にアドリブを入れて見せると、リサもぎこちないながらも、自分なりに考えたラインを紡いでくる。
どうしよう、楽しくなってきた・・・。
当初の目的を忘れて、リサにまだ教えていない技術を交えてソロを取ってみる。
驚いて揺れるリサのバッキングを気にもせず、どんどん調子に乗って弾きまくる。
こんなにもベースを弾くのが楽しいだなんて、一体いつ以来のことだろう。
自分の手の中で歌うのがリサの深紅のベースで、それを支えているのがリサの弾く俺のボロボロのジャズベースというのも、なんだか非現実的だ。
リサのベースに染みこんだ彼女の情熱が、ボディやネックを通して体の中に入ってくるような感覚に、心の奥の方が燃える様に熱い。
その熱が、指を通して弦に叩き込まれ、シールドケーブルを伝ってスピーカーから音の塊になって吐き出される。
その日はいつもよりも少し遅い時間まで、2つの赤いベースの絡み縺れ合う音がスタジオ内に響き続けた。