弦を弾く右手の指先に、見えない粘着質の何かが纏わり付いているような、そんな違和感を覚えた。いつも通りに動かしてる筈なのに。不快感を振り払おうと指先に力を込めると、強く弾き過ぎた弦がフレットに当たって不快な金属音を響かせてしまう。弦を押さえる左手も引きずられるように調子を狂わせ始め、調子外れの音を連発した。じわじわとクリックの音との溝が広がっていく。耳にタコができるほど聞いてきたクリックの音が、何故か俺を嘲笑う声に聞こえて神経を逆撫でしてくる。
「あーもういい!やめろこのバカヤロウ!」
ベースの音をかき消して、真正面から飛んできた怒声にびくりと手が震えた。ぺん、と間抜けな音を残して、低音が断ち切れる。
「陽、お前どうしたんだ最近。目ぇ瞑ってたけど今日は流石に酷すぎんぞ?」
「・・・すいません」
「怪我や病気じゃねぇだろうし、精神的なヤツか?」
「わからないです。・・・次はしっかりします」
「何があったんだか知らねぇけど、メンタルがゴミのやつがプロになれると思うなよ」
「すいません・・・」
「・・・ちょっと前の音は良かったんだからよ、しっかりしろバカ。ほら次、お前だよ!さっさと弾け!」
口から溢れた謝罪の言葉は、隣のやつが弾き始めたベースの音に呑み込まれて消えた。教室中に響く力強い低音に、頭の後ろを思い切り殴られたような気持ちになった。ネックを握ったままの手が強張る。強く噛みすぎた唇から鉄の味がした。
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六月下旬の空はまだ昼過ぎだというのに、雲に覆われて真っ黒で梅雨明けの気配は未だに感じられない。大きめのビニール傘を叩く雨粒の音が、イヤホンを挿した耳に微かに聞こえる。
イヤホンから流れるのは、もう二ヶ月近く前にやった人生史上最悪なライブの録音。あの後、店長に謝りに行った貸しスタジオで貰った、店長の知り合いが録ってくれたらしいこの音源を、俺は貰った日から繰り返し聴いていた。
櫻井がキレてギターをぶん投げた音や、マイクスタンドを叩きつける音まで鮮明に収められた音源は、聴いてるとあの状況を思い出して頭が痛くなるけれど、そうなる前、三人の音のチグハグな音が鳴り響いている部分、ここに何かを感じ取ってしまった。
その正体を確かめるために、何回も何回も繰り返し聴いた。
そして聴くたびに、その正体がわからないまま、自分のベースの音がわからなくなっていった。
イヤホンを外して、乾燥した唇を舐める。さっき血が出たところがじくりと痛んだ。
「なにやってんだろ、俺・・・」
「そんなのアタシか知るわけないじゃん。てか話聞いてる?」
「は?」
突然声をかけられて、びっくりして立ち止まる。傘に溜まった雨水がこぼれ落ちた。
声のした方をみると、イヤホンの中でギターをぶん投げてた女が、記憶の中とまったく同じ不機嫌そうな表情でこちらを見ている。
「櫻井?」
「なに?もう人の名前忘れたの?しけた顔してんなぁ」
流れるように口から出てくる憎まれ口も記憶の中そのまま。少しくらい怒ってもいい筈なのに、不思議となにも言い返す気が起きなかった。
「アンタ、この後暇でしょ?ちょっと付き合ってよ」
「い、いやこの後バイトがあるから」
「うそ。愛子から聞いてるんだから。付いてきて」
ギターケースを揺らして、歩いていってしまう櫻井の背中を、ぼんやりと見送る。録音の聴き過ぎで夢か幻覚でも見ているのかもしれない。だとしたら、なかなかの悪夢だ。
悪夢の主がこちらを振り返った。眉間に皺を寄せてこちらにずんずん向かってくる。おっかないから逃げようとすると、傘を持っていない方の手をむんずと掴まれて、そのまま引っ張られた。転びそうになりながら付いていく。彼女の雨に濡れた手は少し冷たくて、指先のマニキュアの赤が綺麗だった。
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「や、茜ちゃん。陽ちゃんは久しぶりだね。元気してたかい?」
「お久しぶりです店長。・・・まぁそれなりに」
櫻井に連れてこられた先は、ライブ前に何回か入っていた例の貸しスタジオだった。雑然としていたカウンターが前よりも散らかっているように見えるのは、きっと気のせいじゃない。
「そいつは良かった。しかし仲直りできたみたいで良かったよ。あれから茜ちゃんずっと落ち込んでてさ」
「店長、適当なこと言わないで。別に落ち込んでないし。まだ仲直りもしてないから」
「そうなの?なら茜ちゃん、その手はどうしちゃったのさ?」
怪訝そうな表情を浮かべた櫻井が視線が、店長指差す先を追う。そこには俺の手をがっしりと握ったままの櫻井の手。
櫻井は乱暴に手を振り払うと、恨めしげな視線で俺を睨みつけてくる。いや、お前から掴んだろう・・・。
「そ、そういうのじゃないから!店長、部屋貸して!空いてるでしょ?」
「あーうん、いつも通り三番のスタジオ、予約は入ってないからご自由に」
「ありがとう!」
顔を真っ赤にした櫻井は、今度は俺を置き去りにしたまま奥の部屋へさっさと行ってしまった。
「陽ちゃん、これマイクね。セッティングは適当によろしく。早く行ってあげな。怒らせると怖いよ?」
「ああ、はい。ありがとうございます」
マイクが三本入ったカゴを受け取って、櫻井が入って行った三番のスタジオに向かう。正直、急展開すぎて頭がついて行ってない。どうしてついて来てしまったんだろう。
「あーそれと陽ちゃん、そこの部屋は防音が少し甘いからさ。あんまり激しくすると僕にも聞こえちゃうから気をつけてね」
「うっさい!バカ店長!」
開いたままの扉から、憤怒の表情を浮かべた櫻井が怒鳴り声を上げて、それを見た店長が腹を抱えて笑い声を上げる。愛子の存在を恋しく思う日が来るとは思わなかった。とてもこの混沌に一人では立ち向かえない。
店長を威嚇する櫻井を部屋に押し込んで、そっと扉を閉じる。
無事に帰れますように。心の中でそう祈った。