「ホントに直ってる・・・」
「そりゃ壊れたまま返さないって」
あれから数日が経って、リサにつけられた首周りの痕も消えたり薄くなったりして、人前に出しても白い目で見られないくらいにはなってきた。
噛まれた部分だけは、歯の形に青黒く変色してしまい、まだ絆創膏が外せそうにない。
すこし痕が残ってしまいそうな雰囲気だけど、それはそれでいいかと開き直っている。
「でもお願いしてからまだ、全然日にち経ってないでしょ?」
「パーツが思ったより早く届いたから。手は抜いてないけど、マズイ所があったらすぐ教えて」
ケースにしまったベースを手渡すと、一瞬ビクッと震えたリサの手が恐る恐る受け取る。
正直に言うとかなり急ピッチで作業を進めた。半田ごてを握ったまま朝を迎えたのは、いつ以来だったろうか。
「ゴメン、急がせちゃって・・・」
「別に急いでないよ。ライブ後の初練習だし、万全の状態で臨んで欲しかったから」
「ホントありがと、陽さん。・・・次のライブは失敗しない、絶対に成功させるから」
「期待してる。じゃあごめん、ちょっと忙しいから。練習頑張れ」
「うん!陽さんも頑張ってね!」
リサがRoseliaの面々が待つスタジオに入って行くのを見送ってカウンターに戻る。
12月に入って、じわりじわりと忙しくなり始めた。
年末は至る所でライブが立て込む。CiRCLEでもイヴとクリスマスには大きめのイベントを企画してる。
そのせいか、先月と比べるとスタジオの利用も多く、一向に途切れない。
今のうちに機材のメンテナンスを済ませておかないと。下旬に入ったら恐らくそんな暇は無くなるだろうから。
作業台に載せたバックパネルが外されたマーシャルを丁寧に拭いていく。
「よく間に合わせたね、リサちゃんのベース。愛の力は偉大だ」
まりなさんが、カウンターに広げたノートPCをいじりながら顔も上げずに言う。
年末にかけて、ブッキングマネージャーを務める彼女は特に忙しい。
「茶化さないで下さいよ」
「いいなー高橋君はかわいい彼女がいて。私は大忙しだっていうのに」
「まりなさんだって、当日は無理でも誰かとクリスマスを祝うくらいはするんでしょう?」
忙しなく鳴っていたタイピングの音が唐突に止んだ。
ロビーに控えめに流れる、まりなさんチョイスのクリスマスソングが寒々しく漂う。
「高橋君、去年のクリスマスのこと覚えてる?」
「去年って・・・。イベントが終わった後、一緒にケーキ食べましたね」
去年のクリスマスイベント終了後、照明を落として真っ暗になったロビーで、何故かロウソクの刺さったクリスマスケーキを前に、まりなさんがジョンレノンのハッピークリスマスを弾き語るのを聴かされた記憶がある。
歌が普通に上手くて反応に困った。
「あれね、高橋君が来るまではひとりでやってたんだ・・・」
「嘘でしょ・・・」
ひとり、ロウソクの灯りを前にハッピークリスマスを口ずさむまりなさんを想像すると、食べ残しの冷えた固いピザを食べているときのような、形容しがたい虚しさに襲われる。
なんでこの人には相手がいないんだろう、こんなに美人なのに。
「あーあー、今年はまた一人かぁ、私のジョンはいつになったら現れるんだろう」
「それだと、相手に40歳で先立たれて未亡人になりますけど大丈夫ですか?」
「そしたら高橋君が貰ってね?」
「勘弁してくださいよ・・・」
悲し気なハッピークリスマスの鼻歌とともに、タイピングの音が聞こえ始めたから、会話はここで終わりなのだろう。
なんだか気が滅入った。
アンプの中の埃を吹き飛ばそうとエアダスターの缶に手を伸ばしたところで唐突に、激しい音を立てて防音扉が開かれた。
思わず缶を取り落としてしまい、甲高い音が鳴る。
何事かとそちらを向くと、顔を真っ青にしたリサが、口元を抑えながら出てきた。
声を掛けようと近づこうとしたら、青い顔を歪めてトイレの方へ走って行ってしまった。
「ま、まりなさん、リサの様子見てきて貰えますか?俺、水買ってきます!」
「う、うん!わかった!」
さすがに女子トイレに入るわけにはいかない。突然の事態に頭が追いつかないが、とりあえず水を。
外の自販機に走ろうとしたところで、腕を思い切り掴まれた。
驚いて振り向くと、物凄い勢いで胸ぐらを締め上げられてせき込む。
「高橋さんあなた!今井さんに何をしたんですか!?」
「さ、紗夜!?何って俺が原因なの?」
「あなた以外に誰がいるんです!?あれほど節度を守れと言ったのに!」
「節度!?何を言ってるんだ?」
尋常じゃ無い剣幕で詰め寄られてしまい混乱する。
リサといい、何が起こってる?
「しらばっくれないで!今井さんの人生を何だとーー」
「落ち着きなさい、紗夜」
横から白い手が伸びてきて、胸ぐらを掴む紗夜の手に添えられる。友希那だ。
「湊さん!?この人が今井さんを」
「だから落ち着きなさい。リサと陽さんとが知り合って、まだ2ヶ月も経っていないのよ?ありえないわ」
「あ・・・」
糸が切られた人形のように、紗夜の手から力が抜けた。
掴まれたシャツの襟は皺だらけで、ボタンも3つ程飛んでいってしまった。
翠色の瞳と、宙をさまよう手が震える。
「た、高橋さん、私」
「大丈夫、紗夜は何も悪くないから。リサのことお願いしていい?紗夜が必要だ」
嫌がられるかと思ったけれど、手を強く握ってそう伝えると、紗夜は頷き返してリサの元へと向かってくれた。
「友希那、ありがとう助かった」
「いえ、こちらの方こそ、紗夜がごめんなさい。迷惑をかけたわ」
転がったシャツのボタンを拾って手渡してくれる。
ちらりとスタジオの中に視線を向けると、それぞれ楽器の前で動けずにいるあこちゃんと燐子が目に入った。
ふたりとも、怯えともとれる表情を顔に貼り付けて唖然としている。
「リサも紗夜も一体どうしたんだ?」
「練習を始めようとしたら、リサが急に吐き気をもよおしてしまって・・・。紗夜はそれを見て原因が陽さんだと勘違いしたみたい」
吐き気、勘違い。
確か節度だとか、リサの人生どうだとか言っていた。
・・・それはさすがに短絡的すぎるだろう、紗夜。
「リサは風邪?最近寒くなってきたから」
「恐らくだけど違うわ。学校では元気にしていたもの。特別、体調が悪いようには見えなかった」
だとしたらなんだろう?
いきなり吐き戻すとなると、たちの悪い病気か・・・。
リサの様子が落ち着いたら病院に連れて行った方がいいかもしれない。
この辺りですぐに診てもらえるところはあっただろうか。
最悪、救急車が必要になるかも。
「・・・陽さん、もしかしたら、なのだけど・・・」
どんどん悪い方向に沈み込んでいってた思考を引き上げられる。
いつもなら強い意志の宿った友希那の瞳が、不安に揺れていた。
こんな友希那は初めて見る。紗夜の激昂ぶりも今までに見たことのないものだった。
コールタールのような黒くドロリとした不快感が、腹の奥から染み出して体中に広がっていくを感じる。
自分の言葉が信じられないような口調で、友希那は言った。
「・・・リサ、ベースを弾けなくなったかもしれない」