カメラ付インターホンのボタンをそっと押し込むと、力の抜けた呼び出し音が家の中で鳴り響くのが薄っすらと聞こえた。
「はいはーい、お待たせしましたって、あら陽くん?」
受話器を置く無機質な音をスピーカーが吐き出すと、直後にパタパタと足音が聞こえ、鍵の開く音とともに玄関の扉が開かれる。
娘そっくりの猫目を丸く見開いた、リサのお母さんが顔を出した。
「すみません、いつもいきなりで」
「ううん、それは全然いいんだけど。・・・リサ、どうかしたの?今日はバンドの練習だったでしょ?」
俯いたまま、俺の右手の二の腕あたりを掴んで離さないリサを見て驚いたように言う。
結局あの後、まりなさんに残りの仕事全て肩代わりしてもらって、引っ付いて離れないリサを自宅まで送り届けることになった。
文句のひとつも言わずに「仕方ないなー」と苦笑したまりなさんの表情が忘れられない。
今日1日で、沢山の借りを作ってしまった。
「リサさん、練習の途中で体調を崩してしまったみたいなので、送り届けに来ました。明日になってもダメそうなら病院に連れて行ってやってください」
「またこの子は無茶して・・・。陽くんごめん、ありがとうね」
お母さんにリサの荷物を手渡そうとするが、背負ったベースを下ろそうとしたところで、二の腕を掴む手が邪魔になって下ろせない。
前髪で隠れてしまって表情を伺うことが出来ず、掴まれた腕がただただ熱い。
「リサ、ベースが下ろせないからちょっと手を離して」
「・・・ヤダ」
蚊の鳴くような、隣に立つ俺にしか聞こえないような声の大きさでリサは拒否した。
腕に指が食い込んできて少しだけ痛い。
「・・・陽くん良かったら晩御飯、食べていってよ?」
「いや、毎回押しかけてご馳走になるのは・・・」
「いいから。ね?」
リサの面影を感じる顔が、困ったような表情でちょこんと手を合わせる。ちらりとリサに視線を向けるのが見えた。
「・・・いつもすみません。お言葉に甘えてもいいですか?」
「もっちろん!・・・ありがとね、陽くん。ご飯の準備が出来たら呼ぶから、リサの部屋で待っててね」
敷居を跨いで玄関に入るとリサはようやく手を離してくれたが、靴を脱いで揃えると今度は上着の裾を握られてしまった。
それを見たお母さんは、ふっと表情をやわらげてそのままリビングへと入っていった。
「逃げないから大丈夫だって。ほら、部屋に行こう」
「・・・ウン」
頷くものの、裾を握った手が離されることはなかった。
先導して階段を上がり、もう何度か訪れたリサの部屋へと向かう。
後ろについてくるリサに、逃げ場を塞がれているみたいだ。
本人がすぐそばにいるからノックは省略してドアを開けると、見慣れつつあるリサの部屋の光景が広がっていた。
カーテンはぴったりと閉じられていて薄暗い、視界が暗く嗅覚が鋭敏になったせいなのか、リサの匂いがやたらと濃く感じる。
かばんやベースを置いたところで、ドアの閉じられる音に次いで、鍵の閉まる不穏な音が聞こえた。
「リサ、ちょっと暗いから電気点けて」
振り返った瞬間、リサのダッフルコートの赤が至近距離に迫り、体当たり気味に抱き着かれた。
突然のことに対応しきれず、たたらを踏んでリサを抱きかかえたまま、床に仰向けに倒れ込んでしまう。
頭の真横にテーブルの脚が見えて背筋に冷たいものが走った。
「リ、リサ!いきなり危ないだろーーー」
さすがに文句のひとつでも言ってやろうとしたが、柔らかい感触に塞がれてなにも言えなかった。
すぐに口内に侵入してきた熱いものが好き放題に動き回り、突然の刺激に頭の奥がチカチカしてくる。
薄暗い視界に必死そうにギュッと目を閉じたリサの顔が、至近距離で見えてようやくキスされていることがわかった。
口から熱いものが引き抜かれ、触れ合っていた唇が透明な粘っこい尾を引いて離れた。
腹のあたりに馬乗りになって俺を見下ろすリサの表情は、暗くて良く見えないけれど、とても冷静には見えなくて、大切なおもちゃを取られないよう必死に抵抗する子供のように見えた気がした。
「どうしたんだ?ちょっと落ち着けって」
出来る限り、穏やかに語り掛けてみるが、リサは激しく首を横に振るばかりで何も答えてくれない。
どうしたものだろうと小さく息を吐くと、それをどう受け取ったのかリサは制服の上に着たダッフルを脱ぎ捨て、ブレザーも乱暴に脱いでしまった。
ネクタイを雑に抜き取り、スカートのホックを外してYシャツのボタンに手を掛けたところを見て、ハッと我に返る。
「リサ!待て!待てって!」
頼りない腹筋を総動員して上体を起こし、ボタンをはずす手を掴む。
第三ボタンまで開けられた胸元に黒いものが見えて、必死に視界からそれを追い出して瞳を見つめる。
綺麗な瞳は暗く染まっていた。
「落ち着けって、どうしたの?話してみて?」
「よ・・は・うから」
「え?」
「こうでもしないと、陽さんがアタシから離れていっちゃうから・・・」
「ごめん、どういうこと?」
リサの口から出てきた予想外過ぎる言葉に、思わず間抜けに聞き返してしまう。
「アタシ、ベース弾けなくなっちゃった。陽さんが期待してるって言ってくれたのに、みんなに散々迷惑をかけたのに・・・」
「友希那はみんなで待つって言ってただろ?俺の期待なんか気にしなくていいから」
「ベース弾けなくなったら、Roseliaにいられない。陽さんも離れていっちゃう。アタシの居場所がなくなっちゃう」
ダメだ全く会話にならない。
焦点の合っていない瞳からはボロボロと大粒の涙が溢れて、リサのYシャツを濡らしてしまっている。
こんなに近くで触れ合っているのにまるで通じ合えない。
その距離感がじれったくて、悲鳴を上げる腹筋に鞭打って、力いっぱいリサの身体を抱きしめた。
小さく痙攣したように、華奢な体が苦し気に震えたけれど、構わずに腕に力を込める。
「陽さん、見捨てないで、いやだ、いやだよぅ」
「俺も、Roseliaのみんなも絶対にリサのことを見捨てたりしないから」
「・・・一緒に、いたい、・・・みんなと、陽さんと」
「リサが嫌がったって、みんなも俺もそばにいるって」
そこからはもう言葉にならない嗚咽しか聞こえなくなった。
ついに腹筋が限界を迎えて、リサを上に乗せたまま床に寝転ぶ。
リサの柔らかい髪の毛に指を埋め、落ち着かせるようにゆっくりと優しく撫でた。
「リサに愛想を尽かされない限り、俺から離れることは絶対にないから安心して。離れようとしたら殺してくれていいから」
少しおどけて言ってみると、シャツのあばらのあたりをギュッと握られた。
今日1日でこのシャツは、紗夜に襟を皺だらけにされて、ボタンを飛ばされて、きっとリサの涙で胸元も酷いことになっているだろう。
「大丈夫、ベースだってちゃんとまた弾けるようになるから。弾けるようになるまで、弾けるようになってからもずっと、リサのそばに居続けるから」
返事は無いけれど、頷いたのがわかった。
とはいえ、現実は非情で時間は待ってくれない。24日のライブまでもう3週間も無いのだ。
このライブまでにリサのベースを取り戻さないと、このやたらと責任感の強いこの娘はきっと自分を許せないだろう。そうしたら、いよいよ本当にリサはベースを弾けなくなってしまうかもしれない。
それだけは、絶対に嫌だ。
歯を食いしばって覚悟を決める。絶対になんとかしてみせる。
くぐもったリサの嗚咽に混じって、聞こえるはずのない音が聞こえた気がした。意識を集中してそれを手繰り寄せる。
その音は歌声だった。ハスキーで少し幼げな、そんな歌声だった。