風呂上がりのふやけた指で弦を弾くと、静まり返った部屋にベースの生音がそっと溶けた。
初めたばかりの頃は風呂上がりになんて、指先がすぐに痛くなってとても弾けたものじゃなかったけれど、今では何の問題もなく音を紡ぎ出せる。
ベースはアンプに繋がなければ、ほとんど音が鳴らないから、夜でも気軽に弾けて良い。
最近は夜中まで練習することなんてなくなったけれど、今日ばかりはベースでも弾いていないと、とてもじゃないがやってられない。
じっとしていたら、ベッドの隣に敷かれたふかふかの布団や、何年振りに着たのか思い出せない少し窮屈な借り物のパジャマや、そしてリサの濃密な匂いが精神をガリガリと削ってくるからだ。
この展開は予想していなかった・・・。
リサを家に泊めたときとは違った緊張感が胃の奥に溜まっていくのを感じる。
自分が泊められる側になるとこうも違うものか。
気持ちの悪い緊張を紛らわそうと少し難しい曲を弾き始めたところで、ぱたぱたとスリッパの足音が聞こえ、部屋の前で止んだ。
ドアノブが一瞬動いてから、思い出したかのように控えめなノックが2回。
ゆっくりとドアが開かれると、ラフなスウェット姿のリサが遠慮がちに部屋に入ってくる。
頬がほんのり赤く色づいて色っぽい。
俺の手にある深紅のベースを見て一瞬表情を固まらせた。
「まだ起きてたんだ?」
「さすがに部屋の主人をほっといて寝れないから」
おずおずとベッドに座る俺の隣に腰掛ける。
スプリングの軋む音が生々しい。
なんだか居心地が悪くて、さっき中断した曲を再開する。
親指と人差し指と中指とを使った、ベースでは少し珍しいアルペジオが、とある名曲のメロディを奏でる。
「これなんて曲だっけ?どっかで聞いたことがあるような・・・」
「Jackson5のI'll be thereって曲だけど、知ってる?」
「うーん知らない・・・けど聞いたことはあるんだよなー」
恐らく、テレビのBGMか何かで聞いたのだろう。
洋楽の名曲はCMや番組の最中で使われることが多い。
「どういう曲なの?」
「ラブソングかな。愛する人に、君が名前を呼んでくれれば僕はそこに行く、君の支えになる、君を慰める、みたいな。甘ったるいやつ」
洋楽だから訳によって細かい意味は変わってくるけれど、大筋は合ってるはずだ。
「その甘ったるいのを、今日みたいなことがあった恋人の隣で弾くのって、ちょっとキザなんじゃない?」
「・・・うるさい」
完全に無意識だったけれど確かにキザだ。鳥肌が立つレベルで。
気恥ずかしさを誤魔化すため、もう一度最初から弾き始める。
珍しい弾き方が気になるのか、リサはそれ以上からかってこないで、ベースを弾く手に視線を集中させている。
この曲はベース一本で弾くと、後半盛り上がる部分が上手く再現出来ない。
有名なベーシストがカバーした際もそこにはもう一本、ベースの音が重ねられていた。
いつかリサと2人で弾けるといいな
そんな思いを込めた演奏は、盛り上がりに欠ける後半部を通り過ぎ、最終音をたっぷりと響かせて終わりを迎えた。
ラブソングの余韻が漂う部屋に、小さな拍手の音が響く。
「凄いけど、曲の意味がわかったらなんか照れちゃうね」
「リサのために弾きました」
「か、からかわないでよ・・・」
顔を赤くしたリサに肩を小突かれる。
こっちだって恥ずかしいんだ、からかうくらいしないと、この空気に耐えられない。
「もう・・・。でもベースってこんなことも出来るんだね。ビックリした」
「ソロベースってあんまり拓けたジャンルじゃないから。やってみると結構楽しいもんだよ。ちょっと教えようか?」
ベースを差し出すと、おっかなびっくりといった様子で受け取った。
少し突っ込みすぎかもしれないが、どの程度ベースが弾けなくなっているか確認しておきたい。
「とりあえず、スリーフィンガーのやり方からかな。親指と中指と人差し指で、解放を弾いてみて」
「え、えっとこう?」
音粒の揃っていないぎこちない3音が紡ぎ出される。
普段使わない親指のコントロールが難しいようで、首を傾げながらも愚直にEとAとDの音を弾き続ける。
スタジオのときのように、顔が青くなることもなく、指も動いている。
いつも通りのリサだ。
「ベース、全く弾けないわけじゃないんだな」
「・・・うん、家でも普通に練習出来てたし。今日みんなの前で弾こうとしたらいきなりああなっちゃって」
繰り返されていた音が止んで、表情に陰が落ちた。
リサからベースをそっと引き取って、スタンドに立てかける。
「多分だけど、バンドで弾くのが怖くなっちゃったんだと思う。あのときみたいに、またアタシの演奏でバンドが崩れたらって思うとさ・・・」
苦笑するリサの姿はあまりにも痛々しい。
でも、全く弾けなくなったわけじゃないのなら、それは不幸中の幸いだ。
ベースそのものに恐怖心を抱いてしまったら、本格的にマズかった。
「あんまり思いつめても良くないよ。今日はもう寝よう。明日は学校行くの?」
「うん、病気ってわけじゃないしね。友希那たちにも心配かけたくないし」
「そっか。まぁ無理はしないようにな」
布団に入ろうとベッドから立ち上がりかけたところで、パジャマの裾を掴まれた。
無意識だったのか、掴んだリサ本人が驚いたような顔をしている。
「どうした?今日は色々あったし早めに寝ておいた方がいいと思うけど」
「・・・陽さん、一緒に寝たいって言ったらどうする?」
薄く赤い顔で、上目遣いにそんなことを言われてしまって、後頭部を思い切り殴られたような錯覚を覚えた。
乱れた制服姿のリサを思い出してしまって、必死にそれを頭から追い出す。
「一応、俺にも理性の限界はあるんだけど・・・」
「・・・まぁ、それならそれで?」
部屋の片隅に置かせて貰ったかばんの中にある、手のひら大の小さな箱の存在が脳裏を過った。
パジャマは借りれてもさすがに下着は借りられないから、リサが食事をとっている間にコンビニで下着と一緒に念のためと買ってきたそれ。
「そうなっちゃってもいいからさ・・・今日だけでいいから一緒に寝てくれない?」
その表情は、親に縋る子供のような必死さを感じさせるもので、頭の中で渦巻いていた邪な考えを吹き飛ばされてしまった。
少し自分が恥ずかしくなる。
パジャマの裾を握る手をそっと解いて指を絡めると、緊張気味に握り返された。
「・・・今日だけだと俺が寂しいんだけど?」
「・・・スケベ」
真っ赤になった顔で言われても、ただただ可愛いだけで痛くも痒くも無い。
「ベッドにする?布団にする?」
「べ、ベッドでお願いします」
それじゃ、と手を解いてベッドに潜り込む。
尋常じゃなく濃いリサの匂いに、なんだかとても悪いことをしているような気持ちになった。
ちょっと今日は寝られないかもしれない。
「あ、壁際貰っちゃって大丈夫だった?俺、どっちでも大丈夫だから代わろうか?」
「え、え?アタシもどっちでも大丈夫かな。・・・お邪魔します」
自分のベッドなのに、遠慮がちに入ってくるリサの様子が面白い。
一人用のベッドはあまり大きいとは言えず、それなりに壁際によっているのに肩がピッタリとくっついてしまっている。
少し窮屈だけど、その温かさがとても心地いい。
「電気は消した方がいいかな?」
「そりゃ、消した方がいいだろ。明るい方がいいなら、それでもいいよ?」
「い、いや、消す、消すから!」
枕元のリモコンを焦った様子でひったくると、無機質な電子音が鳴って部屋が真っ暗になった。
常夜灯すら点いていない、正真正銘の真っ暗だ。
視界が閉ざされて、隣のリサの息遣いや、体温がより近いものに感じる。
「それじゃ、おやすみ。起きる時間はリサと同じで大丈夫だから」
「え、寝ちゃうの!?」
天井を見ていた目を閉じた所でリサの驚愕ともとれる声が響く。
真横でそこそこ大きい音量だったため驚いた。
「どうした?眠たくないなら少し話そうか?」
「い、いやー、てっきりそういうことされちゃうのかなって思ってたからさ」
「傷心の女の子にそんなことしないって」
結構ギリギリだったけど・・・
「・・・陽さんって、全然手出して来ないよね。アタシって魅力なかったりする?」
不安が混じった声が気になって、リサの方の体を向けると、目がまだ暗闇に慣れてないけれど、互いの呼吸すら感じられる至近距離で視線で交わるのが分かった。
ちょっとだけ不服そうな表情を浮かべている。
「むしろ魅力しかないから。今日だってかなりやばかった・・・」
今日のは状況が状況だったから踏みとどまれたけれど、あれだってギリギリだった。
我慢していた欲求を少しだけ解放して、リサの身体を抱き締める。
薄いパジャマ越しの柔らかすぎる感触や、香ってくるシャンプーの匂いに、その行いをすぐに後悔した。
「陽さんだったら、いいからね?」
「このタイミングでそれは勘弁して・・・」
リサは俺の脚の間に、自分の脚を差し込んで絡めると、思い切り抱きついてきた。
胸に埋めた顔を擦り付けるたびに、ふわふわの髪の毛が顔を掠めてきてどうにかなりそうだ。
もう少しだけ欲望に素直になって、その髪の毛に指を潜らせてゆっくり撫でると幸せそうな声が胸元から聞こえてきて、どうしようもない気持ちになる。
しばらく、無言でお互いの感触を楽しんだ。
「ねぇ、陽さん。聞いていい?」
「何?」
顔を上げたリサと目が合う。
すっかり暗闇に慣れていて、リサの猫目がしっかり見えた。
「陽さんも今のアタシみたいにベースが弾けなくなったことってあった?」
「弾けないってことは無かったな。リサほど責任感のあるタイプじゃないし。でもバンドなんか二度とやるかって思ったことは二回ある」
「一回はその、茜さんのときでしょ?もう一回あったの?」
「あったあった。聞きたい?」
無言で頷く。猫目の中に好奇心が見えたような気がした。
うなじのあたりを撫でると、猫みたいにくすぐったそうに目が閉じられる。
「今のリサと同じ高校2年のとき、軽音部で同じバンドのドラムの娘と付き合ってたんだけど。痛い痛い、リサ痛いって」
鎖骨を思い切りかじられた。本当に猫か。
「なんでいきなり昔の女の話になってるのかなー?」
「そこは置いといて、とりあえず聞いてよ」
機嫌を取るように背中をゆっくり撫でると、不服そうな表情をしながらも続きを促すように鼻を鳴らす。
「1年のときからずっと同じバンドでやってて結構仲良くやってたんだけど、3年の最後の文化祭の1週間前に事件が起きて」
「事件?」
「その日は部活がなかったんだけど、帰ってから部室に忘れ物したのに気づいて取りに戻ったんだ。・・・それで部室のドアを開けたらボーカルのやつと彼女が致してまして」
「・・・うっわー」
「それでも文化祭のライブはやらなきゃいけないから、平静装って我慢したんだけど、ステージで抑えきれなくなって好き放題に弾いたら怒ったボーカルと殴り合いになって」
「・・・うっわー」
「それが一回目の二度とバンドなんかやるか物語。笑っていいよ?」
「いや、笑えないから」
飲み会の席だと結構笑いを取れるエピソードなんだけれど、リサの表情は苦虫を噛み潰したようなものだ。
「そんなことがあっても結局バンドをやってたんだから、リサもすぐ元どおり弾けるようになるよ」
「参考にしていいのかなー・・・。でもありがと、陽さんのこと知れて嬉しい」
はにかむように笑うリサが愛おしくて、頰にキスをひとつ落とした。
「でもそっかー陽さん高校の頃、彼女いたんだ?」
「そりゃまぁ高校ともなれば・・・。リサだってそうだろ?」
「え、アタシは陽さんが初めてだよ?」
ビー玉のような瞳でそう返されて時間が止まったような感覚に襲われた。
普通高二にもなれば、ある程度の経験を済ませてるものじゃないのだろうか。
特に女の子はその辺が同年代の男子よりも進んでいる筈だ。
初めて?
「見た目で判断したでしょ?アタシ、中学も高校も女子高だからそういう経験がなくってさ、全部陽さんが初めてだよ?」
嬉しい?と首を傾げるリサに何も言えなくなってしまって、返事の代わりに強く抱きしめる。
苦しげな声が聞こえたが、構わず強く抱きしめた。
「なんかごめん、大切にするから」
「いいよ、でもあんまり大切にしすぎなくてもいいからね?」
首に甘い刺激が走って、痕をつけられたのが分かった。
さらに二回、三回と刺激を感じたが、何も言わずに受け入れる。
「陽さん、アタシまたRoseliaでベース弾けるかな?」
「大丈夫、絶対に弾ける。弾けるようになるまで、全力で支える」
「ダメだったら、また慰めてくれる?」
「リサが嫌だって言っても、慰めるよ」
リサの瞳が閉じられるのを見て、唇に触れるだけのキスをした。
そっと唇が離れると、そのまま顔が胸に埋められて、少しすると穏やかな寝息が聞こえ始めた。
起こしてしまわないように、優しくその身体を抱き締める。
伝わってくる感触が、体温が彼女の存在の全てが愛おしい。
リサのベースを取り戻すためなら、リサのためになることならなんでもしよう。
熱に浮かされたような頭の中の冷静な部分で、明日から自分がやるべき行動を整理する。
色々と無理があるかもしれないけれど、きっと必ず上手くいく。
目を閉じてリサの寝息に耳を傾けていると徐々に意識が落ちていくのを感じる。
寝れないかなと思っていたけれどそんなことはなくて、もうリサが隣にいないと寝られなくなるんじゃないかってくらいの安心感と幸福感に包まれて、ゆっくりと意識を手放した。