この街に不似合いな黒塗りのリムジンに乗り込んだあと、僕はそのリムジンの後部座席に座り、窓の外で流れる景色を所在無さげに眺めていた。
車の中は静かで揺れも少ない。運転席の老執事は、イギリスの大貴族であるというところらしいノイマン家の名にふさわしい能力を持っているのだと推察できた。何でも一流なんだな。
気に入らないな、と思った。生まれながらに貴族で、すべてを持っている。にもかかわらず、今僕たち庶民を手のひらで転がしている。
だからといって、僕にどうすることができるというのか、社会の縮図だ。この世の強者の前に、弱者はただひれ伏すしかない。ないしは、ただ抗議を声を上げるしかない、それが受け入れられるかどうかは相手の気分次第だ。
では革命にでも訴えてみようか。貴族の横暴に苦しむ民衆が武器をとって立ち上がる。
車の後部座席で乾いた笑いをもらしてしまう。
それこそ不可能だ。彼女が大貴族であることや、それに付随する権力を持つことや、イギリス社交界の星であることなど実のところたいした問題ではない。問題は数万人の群集が武器を持って押し寄せても紅茶を作る片手間にすべて叩き潰してしまえるような圧倒的な武力にある。
だって光速で動けちゃうんだぜ。1秒に地球を7周半、タングステン合金もたやすく引き裂く。お手上げだ。
じゃぁせいぜい交渉でなんとか落としどころを探るしかないではないか。それにしたって、パワーバランスが大きく傾いてる状況で交渉なんてものが成立するかはわからないが、やれるだけやってみよう。
車は街の西方面、ノイマン家の日本における臨時的な別荘に向かっている。羽川に聞いたところによれば、一世代前に、金を余らせた成金が気まぐれで立てた屋敷だということらしかったが、気まぐれで建てられて、気まぐれに使われなくなり、誰も住みてがいないまま不動産屋の登記帳に眠り続けて今ノイマン家に一時的にでも、ちょうどよく使用されるにいたったというわけである。聞いた話だけど。
「阿良々木様、何か不自由ございませんでしょうか?」
リムジンの運転手席から老執事が言った。
その声はすこしかすれているが、なにやら格調のようなものを感じさせる。
「ええ、はい。丁寧な運転で、助かりますよ。あと阿良々木様なんてやめてください。僕なんてリムジンに乗れることもない小市民ですよ」
実際に運転の丁寧さとかよくわからなかったけどとりあえずそう言ってしまった。
老執事はゆるやかにハンドルを切りながら答えた。
「そうはまいりません。エルザお嬢様の大切なご友人ですので」
大切な友人。そうなのかなぁ、はなはだ疑問である。
「そういえば、なんで僕が戦場ヶ原の自宅から出てくるってわかったんですか?」
それは誰にも教えてないことだった。
戦場ヶ原の家を出て、自転車でエルザの屋敷に向かおうと思っていたのだが、道路に出たところにこの車とこの人がいたものだからえらく驚いたのだった。驚いたけど、車に乗ってくれといわれて断ることはもちろんできず、そしてこうなっているのだった。
「わたくしは、何も。お嬢様にそう申し付けられましたので」
「あ、そうですか」
沈黙。そういえば、彼女は常人離れした異能の戦闘能力だけでなく、いわゆる千里眼のような能力を見せたことがあったのだった。そういう能力でもって、僕が戦場ヶ原の家にいることを遠視した。そういうことだったのだろうか。
もしかしたら、エルザは今もこの車の僕たちを見ているのかもしれない。
僕の沈黙をよそに、車は立体道路を走り続けている。
「阿良々木様、よろしければ少し昔の話をさせていただいてもよろしいでしょうか?」
運転席でハンドルを操作する老執事にふと言われて、僕はもちろんどうぞとお願いした。
老執事は、後ろからだと流れるような整った白髪しか見えないけど、車の前方の道路を見ながら話を始めた。
「つまらないわたくしごとで恐縮ですが、わたくしはもともと、軍属でありました」
軍属、軍属というと、いわゆる軍隊である。
「イギリス空軍に所属し、10年と少しつとめましたあと、SATという特殊部隊に配属されました。そのときエルザお嬢様のお父様にはじめてお会いしました」
「エルザ、さんのお父さんですか」
ここでエルザと呼び捨てにするのは少々気が引けたので一応さんをつけておく。空軍というと僕のような素人にも軍人の中でもエリートだと知り及ぶところである。
SATというのはなんなのだろう?もしかしたらエリートぞろいの空軍のさらに生え抜きということになるのかもしれない。
「お嬢様のお父様である、わたくしの旦那様ですが、当時からイギリス国内において大変高名であられました。わたくしは時折、SPとして旦那様の警備を担当しておりました」
僕が黙って聞き入っていると、話は次に進んでいく。
「当時、恥ずかしながらわたくしの家庭はうまくいっておりませんで、妻は軍務を第一にするわたくしに愛想をつかしていましたし、一人娘はというと母親についてしまって距離はひらいて冷め切っておりました。わたくしは軍務を優先したことを後悔はしておりませんし、そのときもむしろそれによって軍務により入れ込んでおりました。ちょうどその折、政府に旦那様の殺害予告が送られました。わたくしはその警護を任されておりました」
テロリズムというやつだろうか。国家紛争なのか企業テロなのかわからないけど。一体どういう経緯だったんだろうか。
エルザの話によれば、エルザの父親は現在も存命であるようだから、たぶんその計画は失敗したんだろうけど。
「結論から申させていただくと、その殺害計画はすんでのところまで進みましたが、なんとか阻止することができました。わたくしはそのとき銃弾をひざに受けまして、SPとして動くことができなくなりました。しかし、軍の上層部は殺害計画をすんでのところまで進行を許したことに責任を求め、その矛先はわたくしに向かいました。誰かが詰め腹を切る必要があったのでしょう」
「それは、ちょっとひどいんじゃないですか?体を張ってエルザの父さんを守ったんでしょう?それなのになぜ責任を取らされる必要があるんですか?」
「同様のことを、当時のわたくしも考えましたが、過ぎたことですな。その経緯の後で、妻が離婚を申し入れ、娘も妻と一緒にわたくしの元を離れました」
それは、日本の言葉で言えば泣きっ面に蜂みたいなもののように思われた。そういうときって普通元気付けたりするもんなんじゃないのか?そりゃ人によって、関係によっていろいろあるのかもしれないけど。この老執事から受ける印象はそうされる資格がないとは思えなかった。
「そういう時期です。軍の上層部にも、妻にも、娘にも見放されたわたくしに、旦那様がノイマン家の執事にならないかと申し出てくださいました。わたくしには軍属として生きるか、旦那様にお仕えするかという選択肢が与えられましたが、わたくしは旦那様に仕えることを選びました」
そこで老執事は少し言葉を切った。
「ノイマン家の屋敷に入ったときにエルザお嬢様とはじめて出会いました。お嬢様は6歳でした。そのときから、わたくしはエルザお嬢様の専属執事として今日まで仕えてまいりました。お嬢様は当時よりお優しいお人柄で、度胸がおありなのか向こう見ずなのか、当時の人をよりつかないわたくしにも屈託ない様子でいらっしゃった。数年後には社交界でも頭角をあらわしなさりはじめました、将来的には貴族界の大部分を掌握されるやもしれません。それからさまざまな出来事に見舞われましたが、仮にそうでなくても、忌憚なく申し上げさせていただくのならば、エルザお嬢様はわたくしのすべてです」
僕は何もこたえることができなかった。
車はおおよそ道程の半ばを過ぎて走っていた。
運転席の老執事からは、それらの話はただの世間話のように、何の圧もなく話されるものだった。額面どおりに受け取っていいものかは僕にはちょっとはかりかねた。
「阿良々木様。今宵はどうぞお間違えのなきよう、申し添えさせていただければ」
僕はあいまいに返事をした。それはどうとでもとれる返事だったが。老執事はその後は何も言わずに車を運転し、ほどなくかなりの時間走り続けていた車は街外れの大きめの門の前についた。
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車から降りると、目の前に大きな門があり、その扉は開け放たれていた。
ここまで僕を車で送ってくれた老執事は「では阿良々木様、どうぞお気をつけて」といって車に乗ってどこかに走り去ってしまった。お気をつけて、か。
なるほど、エルザは二人だけで会いたいといっていた。
ということはこの屋敷に今いるのはきっとエルザ一人だけに違いない。
門をくぐるときに心に戒める。今から入るのは、敵地だ。
相手は交渉相手である。少しも気を許すな。気を許せばその分身を危うくする。
門をくぐると、だだっぴろい中庭の先にえらくでかい屋敷が見える、石畳で続く道を、庭園やらよくわからないオブジェのようなものをチラチラ見ながら歩き、屋敷の玄関までたどり着いた。街のはずれだからってレベルでもなくでかすぎる庭だった。
玄関は玄関で、2.5mほどの高い扉に細やかな細工が施されている。
インターホンを探してみるが、扉にとりつけられたわっかのような呼びガネが気になって、それを手に持って2回ほどカンカンとならしてみた。
それですぐに、まるで扉が痛覚か何かを持っているように、驚いて飛び上がったかのように扉が開いた。
しかし、それは扉がひとりでに開いたのではなく、開かれた。その主は、この屋敷の主であろう、エルザ・フォン・リビングフィールドだった。
私服姿の彼女は、まるで僕の来訪をどこかで見ていたかのように、さっと扉を開けると、驚く僕に柔和に微笑みかけた。
「ようこそいらっしゃい、阿良々木君。待っていたのよ、本当にずっと待っていたんだから」
驚く僕の顔をのぞきこんで笑うエルザはふわりとした髪になにやらこわく的な香りをただよわせている。私服姿は肩から胸元までわりとひらいたワンピース調のドレスというんだろうか、白い素肌が軽く上気しているように見える。かわいらしい花弁のような唇に、陶器のようなほおに健康的な赤みがさしている、その上の彼女の目は透き通るような青に少し金色がかって僕の目を覗き込んでいた。
心を奪われるというか、何も考えられなくなっていた。さすがエルザ、先ほどの気を許すなという戒めがすでになきものになってしまっていた。
「あ、あぁ。なんていうのかな、今日は呼んでもらってありがとう」
「今夜はディナーの用意ができているのよ。阿良々木君は食べられないものはある?ベジタリアンじゃないわよね?」
「あ、うん。特には」
エルザはコロコロ笑って身をひるがえすとでかい玄関から奥へ長く続く廊下を歩きはじめた。
「フフフ、よかったわ。それじゃぁあがって頂戴な」
僕がその屋敷に足を踏み入れると、エルザが頭を振り向かせて僕に言った。
「早速ご飯にする?それともお風呂に入る?フフフ、それとも阿良々木君、私に食べられてみる?」
振り向いて僕を見る彼女の目は屋敷の廊下の証明でかいっそう金色に輝いて見える。
「エルザ、その前に」
僕はエルザのえらく綺麗に光る目をのぞき返して言った。
「火憐ちゃんと神原を返してくれ」
そういうと、エルザは僕を見ながらいたずらそうに目を細めた。