土曜日の午後、僕は一人自転車で川沿いを走らせていた。
天気は半分くもり、日差しがきつくなくて助かった。
川がキラキラ反射している。近くの水辺でどこかの飼い犬が水をパシャパシャやっていた。
「吸っていたわね。阿良々木君」
時を少しさかのぼった土曜の午前、僕の部屋で勉強を見てくれていた戦場ヶ原が、休憩に入るなりそういった。
「吸ってたって、何をだい?」
戦場ヶ原の唐突な言葉に思わず聞き返す。
「あら意外。この後に及んでとぼける気なのね。ほら、あのイギリス娘のことに決まっているじゃない」
「んん?」
「吸ってたっていうか。むしゃぶりついていたように見えたのだけど」
戦場ヶ原は、犯罪者を問い詰めるような圧を帯びているものだった。
こいつは先日のエルザの屋敷でのことを言っているようだった。
「いや、まぁガハラさん? 吸うには吸ったけど、あれはもう不可抗力ってもんなんじゃないのか? だってそうしないと僕消失してたんだぜ?」
「彼女の首筋のお味はどうだったのかしら?」
「いやいやいやいや、それを聞いてどうするっていうんだよ。こんな話は無意味だね! 僕は断固黙秘するぞ!」
「それに揉んでもいたわ」
「まじで!? そっちはぜんぜんおぼえてない!!」
そういえばあの時はエルザに必死に抱きついてたからな、どこかひっかかりのあるところをつかんでいたかもしれない。ぜんぜん覚えていなかった、僕はなんて愚かなんだろう。
「そっちは? ふーん……」
「あ、いや」
なんだか語るに落ちた感のある僕であった。
戦場ヶ原が何かさぐるように僕の目を見ている。たまらず右にそらしてしまう。
「まぁいいわ。それじゃぁ今日から寝る前に一時間、ノートに戦場ヶ原様と書き続けてから寝る。そういうことにしましょう」
「ぜんぜんよくねぇよ! いやちょっとまて、今日からってどういうことなんだよ」
「どういうことって、今日から36回、分割でそうしようということよ。浮気性な阿良々木君に、やさしい私は今だけ限定ニコニコ分割払いで罪をあがなわせてあげようというわけなのよ」
「それのどこに僕がニコニコできる要素があるんだよ」
「何を勘違いしているのかしら? ニコニコするのは私の役目よ」
「だと思ったわ!」
「おっと、ちょうどいいころあいね。休憩は終了よ、机に向かいなさい」
微妙に休憩の意味が変わっていた。
でもそれはそれとして、戦場ヶ原が勉強を見てくれていること自体はとてもありがたい。
彼女の見ている前で別の女と吸った揉んだしてたというのは、内容に検討の余地はあると思うけど特別な事情もかんがみて今のやり取りで清算されたってことで、いいんだろうか。まぁそういうことにしておこう。
#
そういうわけで、午前はガハラさんに勉強を見てもらい。午後はガハラさんを家に送ったあと、こうして川べりの堤防を自転車を走らせているというわけである。
「のうお前様よ、ワシへの埋め合わせはいつになるのかのう」
影の中から忍が問いかけてくる。
「え? そういうのっているのか?」
だって僕と忍は一心同体なわけだし、運命共同体だったんだしさ。
「はぁ!? いやじゃいやじゃ。なにかしろ! どんな小さなことでもいいんじゃ!」
ヘソを曲げはじめた。
まぁ、ちょっとしたことくらいなら別にいいけどさ。
「んー仕方ねぇなぁ。じゃぁ何がいいんだよ」
「ワンハンドレッドエイトアイスクリームの新作が出たらしいぞ! それも含め全部食べるとしようではないか!」
「しねーよ。てか108個も頼んだら1個100円としても1万800円になるじゃねーか。せいぜいいつつぐらいにしてくれよ」
「まぁまぁ、よいじゃろう。カカッ」
そういって忍は再び影の奥にもぐっていった。
自転車を降りて、しばらく歩いていると、ふとまた別の声が僕を呼んだ。
「阿良々木君。フフフ、こんなところで会うなんて奇遇じゃない?」
聞きなれた声だ。
振り返ると、くだんのエルザ・フォン・リビングフィールドが僕に微笑みかけていた。
いや、今はノイマンって呼ぶのがいいんだっけ。
「いいわよ。リビングフィールドで、私はそっちのほうが語感が好きだわ」
「それに奇遇って言うけどさ、お前は僕がここにいることを知ってたんじゃないの?」
僕が軽口で問いかけると、エルザはコロコロ鈴が鳴るように笑った。
「どうかしら? フフフ。でもね、阿良々木君のおかげでヴィゾープニルを正しく宿せたから、もう眼は使えないのよ。ちょっと残念だけれど」
「でも結局、僕はそれでよかったんだろうって思うよ」
「ええ、それはもちろん私もそうだわ」
隣を歩いていいかと聞くエルザに僕が承諾をして、自転車を押す僕の横をエルザが歩いていた。
「なぁエルザ、もしかしてお前、僕にお前を斬らせようとしてたんじゃないのか?」
歩きながら出し抜けにそうたずねた。
エルザはこちらをちょっと見て、目線で続きを促した。
「お前はヴィゾープニルと不完全に融合してたんだろ? だからヴィゾープニルの意思と矛盾しない形で、僕に始末をつけさせようとしたんじゃないのか? 僕を殺さないように手加減したんじゃなくて、エルザ自身を殺させるためだったとか」
「フフフ、どうかしらね。いいじゃない。こうしてうまく運んだんだもの」
「捨て身なことするよな」
「でも仮にそうだとしても、誰でもそうしたわけじゃないのよ。阿良々木君、あなただからそうしたのよ」
エルザに吸われてしまうか、エルザを斬るか、エルザの血を吸うか。
それにしたってかなり可能性として賭けになる部分は多かったように思うけど。
「じゃぁエルザ、おまえもう光速で動けたりってしないの?」
「動けるわよ? モチのロンよ」
言ってエルザの綺麗な髪が軽く金色に輝いた。
「あ、そう」
「あくまで眼が使えなくなっただけよ。あれはヴィゾープニルの領分だから」
「ふーん」
つまり人の記憶を食べたり、傀儡にしたりってことはできなくなったということらしかった。
それはイギリス社交界の星というエルザの人間としての領分にも影響するのかと思ったが、どうもヴィゾープニルを宿すずいぶん前からそういう立場にあったらしくそこらへんは関係ないらしい。
僕の隣を歩くエルザは、今見ても息を呑むくらいだった。
エルザが僕の視線に気づいてこちらを見返す、その眼は透き通るように青く、その瞳の中で泳げそうな感じさえする。
「ねぇ阿良々木君」
エルザが僕を見たままいった。
「あなた、私の彼氏になりなさいな」
「はっ?」
思わず自転車を押すのをやめてしまう。
「え? い、いやいやいや。 だって僕、彼女いるし!」
キョドりまくる僕を見て、エルザは楽しそうにクスクス笑った。
「そうなの? でも阿良々木君、私といるときにいやじゃなかったでしょう? 見えてたもの」
「いや、そうだけど! いやそうっていうか!」
ヴィゾープニルの眼を通してそこまで見られていたらしい。
自分で何を言っているかわからなくなっていた。
「阿良々木君のおかげで、私のここ、こうなってるのよ?」
そういって、エルザは髪をちょっとつかんで見せた。
エルザの白い首筋に、ふたつの穴のあいたあとが残っている。
僕がエルザの血をすったときに残ったあとだった。
「おいおい! 何で残してるんだよ! お前たしか傷なおせるんだろ? 恥ずかしいから消してくれよ!」
「フフフ。いいじゃない。貴重な経験だったもの、記念にしばらくこうしておくわ」
「とにかくだ。彼女とかはダメだよ。僕にはもうお付き合いしてる彼女がいるんだから。エルザの気持ちはうれしいけどさ」
「あらそうなの」
エルザがきょとんとした様子で、しかし続けていった。
「それだったら、側室ということでもいいわよ」
「一夫多妻制!?」
とんだ戦国武将だった。
その後、僕はエルザに今の日本ではそういう制度はもうないということと、そんなことしたら戦場ヶ原に二人とも殺されてしまいかねないことなどもろもろ納得してもらうのにしばし奮闘することとなったのだった。