夜、僕は部屋でぼうっとしていた。
読んでいた本が読み終わってしまい、やることがないのだ。
大学の課題も終わってしまったし、部屋にテレビの一つもない。新しい本でも買いに行こうか、とも思ったけど、外に出る気力も起きない。
「……あっ。夕ご飯もないんだった」
そうだ。
ちょうど昨日、インスタント食品が底を尽きた。
しまったなあ、買い足すのを忘れてた……。
お腹の具合は、やや空いてるという感じだ。
外食をして、帰りに本を買って帰る――というプランも考えたけど、やっぱり気力が出ない。
めんどくさい。
今日はもう寝よう。
明日大学に行く前に、朝ご飯を食べればなんとかなるだろう。
そんなことを考えてると、部屋のドアが叩かれた。
ピタゴラス、フリードリッヒ、ケイローン。
過去のどんな名教師達であっても、彼女にインターホンの使い方を教えることは出来ないかもしれない。
ドアを開けると、そこにいたのはやっぱり鹿倉さんだ。
「こんばんは、佐々木くん。いい夜ね」
「こんばんはです、鹿倉さん。別に普通の夜だと思いますけど」
そう言った鹿倉さんは、普段と少し趣が違った。
なんていうか、ベトベトしてる。
茶色いベタつきが、身体中に引っ付いていた。
「どうしたんですか、それ」
「肉じゃがを作っていたら、あり得ないくらい失敗したのよ。びっくりよね」
「いや本当に、あり得ないレベルですね」
「暴発したのよ、鍋が」
「何したんですか」
「よくゲームであるじゃない。料理や錬金に失敗したら、爆発して『とほほ……大失敗』って表示されるやつ。あれよね」
「現実世界とゲームをごっちゃにしないで下さい」
「分かったわ。それじゃあ佐々木くん、コマンドを入力してちょうだい」
「ごっちゃにはしてませんが、こっちの世界がゲームになってます」
「そのコマンドは昇竜拳よ」
「格ゲーだったんですか。せめてシミュレーションゲームにして下さい」
「大変よ。私に爆弾がついたわ。起爆まで3……2……」
「どこのときめきメモリアルですか。それに起爆までが早すぎます」
「私が爆破したら大変よ。他のヒロインが未来永劫、攻略出来なくなるわ。ニューゲームしても」
「クソゲーじゃないですか」
「どかーん」
「爆破しちゃった」
「これで佐々木くんは、私以外攻略出来なくなったわね」
鹿倉さんは攻略出来るんだ。
そう思ったけど、それはあえて言わなかった。
「ところで、佐々木くん」
「はい」
「シャワーをお借りしてもよろしいかしら?」
「えっ?」
何故僕の部屋でわざわざ浴びるのだろうか。
疑問に思っていると、鹿倉さんは少し考えてから「ああ、なるほど」と言った。
「シャワーというのは、お湯が出るノズルのことよ」
「何もなるほどじゃないです。シャワーの意味が分からないわけじゃありません」
「そう。賢いのね」
「このくらいで賢いって思われるなんて、僕はどれだけ馬鹿だと思われてたんですか」
「ちょっと頭の悪いチンパンジー程度かしら」
「それもうただのチンパンジーじゃないですか。せめて頭の良いチンパンジーにして下さい」
「では頭の良いチンパンジーの佐々木くん」
「はい」
「シャワーをお借りしてもいいかしら?」
「いや、いいですけど。なんでわざわざ僕の部屋で浴びるんですか。部屋にあるでしょう」
「止められてるのよ」
「いや、嘘ですよね。だって料理してたんでしょう?」
「……鋭いわね。伊達に頭の良いチンパンジーを名乗ってないわ」
「名乗ってはないです」
「それより、貸してくれるなら早速頂きたいのだけれど。これでも身体中がベタついて、結構不快なのよ」
「……まあ、構わないですけど。着替えはあるんですか?」
「もちろんよ。私は準備がいい女だもの」
「準備がいいなら、鍋を吹き飛ばさないで下さい」
本当に、何をやったら鍋が爆発するんだろうか。
相変わらず、
僕の隣人のお姉さんは、肉じゃがを持ってこない。
◇◇◇◇◇
鹿倉さんが、シャワーを浴びている。
そのこと自体は普通のことだ。
最低日に一回はシャワーを浴びるだろうし、女の子なら朝にも浴びるかもしれない。
シャワーを浴びること自体は、普通のことだ。
ただ場所がよくなかった。
鹿倉さんの家から5メートルくらいズレてる場所のがよくない。鹿倉さんの家から5メートルズレた所というと、つまり僕の家だ。
僕の、というかこのアパートのシャワー室のドアは、曇りガラスになっている。
もちろん僕はシャワー室から離れたリビングにいるが……。
「佐々木くん、聞こえるかしら?」
「は、はい。聞こえてますよ」
鹿倉さんの声が聞こえる。
おしゃべりの相手が一切れも布を身につけていないというのは、不思議な感覚だった。
普通に話しているだけなのに、妙に緊張する。
「そう。良かったわ。まだ妄想の世界に行ってはないようね」
「行ってないですし、これからも行く予定はないです」
「そうなの? てっきり、私の裸を想像して小躍りしてると思ったわ」
「どんだけ想像力豊かなんですか、僕は。それで、何の用ですか?」
「別に用と言えるほどのことはないのだけれど、少しお話ししようと思っただけよ。ほら、私髪が長いじゃない。思わずヴィーナスが神席を譲るほどの上質な長髪じゃない」
「気軽に愛と美の神の座に着かないで下さい」
「だからトリートメントに時間がかかるのよ。率直に言って暇だわ。お話ししましょう」
「まあ、いいですけど。何の話をするんですか?」
「それじゃあお互いに、佐々木くんの嫌いなところを挙げていきましょうか」
「僕の人生でしたくない話題ワースト1位をぶっちぎりで更新するくらい嫌な話題なんですけど」
「私は大好きだわ。一人でもよくやるくらいよ」
「一人で何してるんですか」
「私がラジオを持ったら、絶対にコーナー化するでしょうね」
「オールナイトニッポンが鹿倉さんにオファーを出さないことを祈ります」
「もしお誘いの声がかかったら、記念すべき初ゲストは佐々木くんにお願いしようかしら」
「丁重にお断りさせていただきます」
「それは困ったわね。私、佐々木くん以外に呼べるような友達がいないのだけれど」
「少なくとも僕の良くないところを挙げるコーナーがある内は、行きたくありませんよ」
「ゲストが嫌なら、レギュラーになって貰おうかしら」
「負担増えてるじゃないですか」
「そういうことなら、今から練習しましょうか。先ずは私から行くわね」
「僕の方は行きませんよ」
「そうね。忘れっぽい所が、良くないと思うわ」
「忘れっぽい……」
忘れっぽい、だろうか。僕は。
まあ頭はそれほどよくない方かもしれない。
鹿倉さんから見たら、忘れっぽく見えるのかも。
「それじゃあ次は佐々木くんの番よ。佐々木くんのダメな所を言って、一緒に盛り上がりましょう」
「盛り下がりますよ」
「盛り上がりなさい。狂喜乱舞しなさい」
「人生初の狂喜乱舞をこんな所で失いたくはないです。それで、僕の良くない所でしたっけ。そうですね……結構ズボラな性格だと思ってます。今日も面倒くさくて夕ご飯食べてないですし」
「ダメよ。育ち盛りの男の子なのに」
「だから、育ち盛りって歳じゃありませんよ」
「髪の毛は伸びてるじゃない」
「髪だけじゃないですか」
「反論がなくなったから、この話題は切り上げるわね」
「なんですその話題の変え方。自由過ぎません?」
「都合が悪くなったら強制的に話を止めるのは、私の必殺技の一つよね」
「反則技の間違いじゃないですか?」
「では、次は私の番ね」
「まだやるんですか」
「やるわよ。私の人生で最高の娯楽だもの」
「そこまで言われると、もうなんか光栄です。それで、なんです。次の僕の悪い所は」
「ないわ」
「なかった」
「忘れっぽいところ以外は、大体全部好きよ」
「そ、そうですか」
そう言う意味で「好き」と言ったわけではない。
分かっているのに、少し嬉しい僕がいた。
ずっと聞こえていた水音が止まった。
鹿倉さんはシャワーを浴び終えたようだ。
シャワーを浴びている時よりもむしろ、身体を拭く音の方が緊張する。そして着替える時の服の僅かな音は、もっと心臓に悪かった。
「良いお湯だったわ、ありがとう佐々木くん」
「どういたしまして」
「流石だわ。シャワー設備も一流ね」
「鹿倉さんの部屋にも同じ物があるでしょう」
「ないわ」
「なんでですか」
「肉じゃがの失敗で吹き飛んだもの」
「本当にどんな失敗したんですか」
「ところで、佐々木くん。まだお夕飯を食べてないと言っていたわね」
「はい」
「お腹は空いてるかしら」
「ええ、まあ。そこそこには」
「それなら良かったわ。今からパーティーをしましょう」
「パーティーですか?」
「乱痴気パーティーよ」
「二人で乱痴気するのは、ちょっと盛り上がり過ぎな気がします」
「じゃあ普通のパーティーでもいいわ」
「妥協したみたいに言ってますけど、二人でパーティーやるのも結構凄いですよ」
「二人だけのパーティー、いいじゃない。昔の映画でありそうだわ」
「たしかにありそうですけど。そういうのって、お洒落な洋館でワイン片手にとかですよね」
「そうかしら。私は盗もうとした財宝こそ手に入らなかったものの、もっと大事な物を盗んだ後のささやかなパーティーを想像していたわ」
「映画版ルパンじゃないですか」
「それで言ったら、私は藤子で佐々木くんは銭形さんかしら」
「鹿倉さんの中で、僕はどんなイメージなんですか」
「変態」
「訂正します。鹿倉さんの中で銭形さんはどんなイメージなんですか」
たわいもない話をしてると、不意にインターホンが鳴った。
僕の家を訪ねて来るのは、精々鹿倉さんくらいだ。
その鹿倉さんはいつもインターホンを鳴らさないから、一瞬なんの音か分からなかった。
「ちょっと対応して来ますね」
「その必要はないわ。多分、私が呼んだ人だから。佐々木くんはそこに座っていて」
「いや、でも」
「座ってなさい」
「はい」
鹿倉さんに睨まれて、僕はすごすごと引き下がった。
あの人、眼力が強すぎる。
ゴルゴーンと睨み合ったら、多分向こうの方が石化するんじゃないだろうか。
扉を開けて、来訪者と何やら話しているらしい。
その後鹿倉さんは、平べったい箱を持って戻って来た。
中身を予想するのに、箱の形はあまりにも分かりやすかった。そもそも臭いが強いから、もしかすると見なくても分かる人は分かるかもしれない。
「ピザですか」
「ええ、出前しておいたの。言ったじゃない、乱痴気パーティーをするって」
「あれ本気だったんですか。僕が夕食後だったら、どうするつもりだったんですか?」
「ヒント:ボディ・ブロー」
「吐かせるつもりだったんですか」
「それもまた一興よね」
「まったく一興じゃないです。なんの趣きもないです」
「吐く様子がマーライオンみたいに美しいかもしれないわ」
「マーライオン、世界三大がっかりスポットじゃないですか」
「いいじゃない。結局お夕飯はまだだったんだから」
「まあ、そうなんですけどね。実際、ピザなんて久しぶりなんでちょっと嬉しいです。いくらだったんですか? 半分出しますよ」
「そこは男らしく、全額出すくらい言ってもいいんじゃないかしら」
「無理です。貧乏学生ナメないで下さい」
「冗談よ。今日は私からのおごり。たまには先輩らしくしてあげるわ」
「え。いや、いいですよ。半分出しますよ」
「佐々木くん」
「はい」
「引っ叩くわよ?」
「なんでですか」
「たまには素直に喜びなさい。人の好意は受け取るものよ」
「……そこまで仰るなら、分かりました。有り難く受け取ります」
「嬉しい?」
「嬉しいです」
「乱痴気する?」
「乱痴気します。いえーい」
「そう。私も嬉しいわ」
そう言った鹿倉さんは、本当に嬉しそうだった。
どうしてだろう?
鹿倉さんは、いつも変なことをする。
でも今日は、輪をかけて変だ。
肉じゃがが爆破したなんて明からさまな嘘をついていたし、金払いがいいし。
ただの好意、で片付けてはいけない気がする。
鹿倉さんは最初、パーティーをすると言った。
つまり、何かめでたい事があったわけだ。
なんだろう。
鹿倉さんの誕生日パーティーはこの間やったし、もちろん僕の誕生日でもない。
今日は、一体なんの日だ……?
「……あ」
「どうしたのかしら、何かに気がついた様な声を出して。死にたくなったの?」
「いきなり何に気がついてるんですか、僕は」
「私が佐々木くんだったら、日に四回は死にたくなるわ」
「僕は今まで一度も死にたいと思ったことはありません」
「そう。佐々木くんは鏡を見た事がないのね」
「そんなに酷いですか、僕の顔は」
「どちらかというと、タカアシガニに近いわよね」
「何と比べてタカアシガニに近かったのかはこの際置いて置くとして、確かにタカアシガニに近い顔をしていたら死にたくなるかもしれません」
「でも、私は嫌いじゃないわよ」
「そ、そうですか」
今からちょうど1年前。
今日と同じ日付の日に、僕はある授業に出ていた。
一人で授業を受けていた僕の、前の席。
そこには一人の、恐らく先輩だろうという女性が座っていた。
授業が始まる前、彼女は席を立った。
トイレか何かだったのだと思う。
するとその席に、さっきの女性とはまた別の女性が近づいて来た。
最初は、隣に座ろうとした友達か何かだと思った。
だけど机に置いてあったレジュメを取り、何処かへ去っていく様子を見て、そうではないと悟った。
案の定戻って来た女性はしばらくレジュメを探した後、諦めた様に授業を受けていた。
その時の悲しそうな顔を見て、僕の心の中で何か汚い物が生まれた。
次の授業も、同じような事が起きた。
その時僕は、よく分からない正義感に駆られた。
普段はそんな事まったくしないはずなのに、レジュメを盗もうとする女性に、僕は注意したのだ。
女性はひどく驚いた表情をした後、僕に対して罵倒を浴びせてきた。
僕も負けるわけにはいかないと、負けじと言い争った。
そうこうしているうちにトイレに行っていた女性が戻ってきて……もうしっちゃかめっちゃかだ。
結局三人で授業をサボって、僕らはカフェで話し合った。
話を聞いてみると、どうやら二人は元から知り合いだったらしい、
しかし些細なことで喧嘩してしまい、その腹いせにレジュメを盗んだ、ということだった。
ちなみに被害者の女性はトイレに行っていたのではなく、加害者の女性に電話で呼び出されて席を空けていたそうだ。
その後僕が仲介して、二人は仲直りした。
被害者の女性からは、顔を真っ赤にしながら何度もお礼を言われた。加害者の女性からも、まあ一応お礼っぽいことは言われた。
めでたしめでたし、というやつだ。
それからというもの、僕はこの二人とそれなりに交流を持つようになった。
ここまで言えば分かるかもしれないが、これが僕と鹿倉さんの出会いである。
ちなみに、レジュメを盗んでいた女性が鹿倉さんね。
余談だが、被害者の女性は蝶ヶ崎さんという人だ。
現在、蝶ヶ崎さんと僕は同じバイト先で働いている。
元々僕が働いていたところに、偶然採用されてきた形だ。
それに何故かほとんど毎日、スーパーや駅、大学構内で会う。
この前なんか、早朝ふと目が覚めて家を出たら家の前で出くわしたくらいだ。
偶然って怖い。
まあとにかく、今日は僕と鹿倉さんが出会った日である。
……確かに、僕の短所は忘れっぽい所かもしれない。
「鹿倉さん」
「何かしら」
「パーティーを始める前に、僕が音頭を取ってもいいですか」
「いいわよ。千年間盛り上がるような、素晴らしい音頭をお願いするわね」
「それはちょっとハードルが高すぎますけど、僭越ながら」
グラス――ではなく、コーラが入った紙コップを僕らは掲げた。
「僕らの出会いに」
「……覚えていたのね」
「ええ、まあ。思い出したのはさっきですけど」
「思い出したのならいいわ。これで短所は全部なくなったもの」
僕らは乾杯した。
グラスがぶつかる乾いた音の代わりに、紙がぶつかる間の抜けた音が響く。
「それで、どうでした。僕の音頭は」
「そうね。少なくとも、私の心は千年間盛り上がっていそうだわ」