逆境武人。
ユキが口にしたそれは、例えそれが凡人であろうとも、その人を最強の地位に着かせるには十分な程の力を秘めた、彼女だけの力だった。
正しく、英雄の。勇者の。ヒーローをその身で表す事が可能なその力は、文字通りの力を彼女に与える。
ユキがピンチに陥れば陥る程、それを跳ね返すだけの強化の彼女に与える。筋力も、反射神経も、思考速度も、剣筋も、技術も。何もかも、何もかもを一瞬にして強化するのだ。それ故に、今。レイブンブランドに押しつぶされ、守るべき人を殺されるという逆境に陥った今。ユキはそれを覆すための力を得る。
『逆境武人、だと!!?』
「ぶ、っとべぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」
ユキの叫んだそれに反応するレイブンブランド。その言葉を放つのに一秒と少ししかかからない。かからないが、その一秒はユキにとっては十分な隙となる。
己の力がどれだけ増したのか確認する事も無く。ただ、『やれる』という確信と共にユキはレイブンブランドの、今までどれだけ押しても力負けしていた足を一気に跳ね上げ、そのまま立ち上がりつつ思いっきりアッパーをその足にくらわせる。それだけ。たったそれだけでユキの十倍以上は優にあるレイブンブランドの体が。体重が。ユキの拳を支点に一気に跳ね上がった。
『ぐおぉ!!?』
「今のオレは!!」
そのままユキは両手の剣をしっかりと持ち、上昇した身体能力を全力で使い、後ろ足だけで数歩後ろへ下がっていくレイブンブランドの顔の真ん前に躍り出る。
その時間は一秒にも満たない。
足に力を込め、己の体を一気に飛ばし、そして相手の目の前に躍り出る。先ほどのユキなら一秒以上は優にかかったその動作を一秒未満。本当に一瞬としか言えない速度で成した。
道理を超えた、意味不明としか言えないほどの強化を施す。それが逆境武人。それが発動している今、ユキに――
「負ける気が、しないッ!!」
――負けはありえない。
飛び出した勢いのまま、眉間を雑な蹴りで思いっきり蹴り飛ばす。それだけでレイブンブランドの体は後ろにある木々をなぎ倒しながら吹き飛んでいく。これが、逆境武人。これが、英雄の力。龍すら一人で狩りつくす事も出来てしまう、最強の力。
自身の内側から力があふれ出してくるのを感じながら、ユキは吹き飛んだレイブンブランドを追うことなく双剣を構える。このまま、この力に恐れをなして逃げてくれれば御の字ではあるのだが。なんてありえない事を考えながらユキは思考を改めて構えを変える。
左手を逆手。右手を順手。攻めと守りを両立する構え。
このままレイブンブランドは全力を出して自分を迎撃してくるだろう。そう思い、初見殺しを避けるための構えを取り、息を大きく吐く。落ち着くために、次のレイブンブランドの一手を見逃さないために。
『逆境武人を使うか……使ってしまったか……ッ!!』
その声が聞こえたが、しかしレイブンブランドの姿が見えない。
しかし、すぐに異常には気が付いた。
自分が真上から照らされている。しかも、徐々に気温が高くなっていく。それに気が付いたが、何が起こっているのかは分からず。しかし、自分の直感に従って上を見れば、驚愕した。
『ならば、手加減はしていられぬ。殺しはせぬ。が、先にあの青年を屠ることにしよう!!』
そこにあったのは、太陽だった。
二十メートルはありそうな、純粋な炎のみでできた太陽。その中心には、額の鱗が割れたレイブンブランドの姿が見える。
紅龍と名付けられた龍だからこそできる荒業。自身の目の前全てを巨大な火炎で埋め尽くし球体にするという、他のドラゴンならそこまで火炎を集めるまでに炎を霧散させてしまう。そんな荒業をレイブンブランドは吹き飛んでから、姿を消して飛んでから成した。
恐らく、ユキが生き残るだけなら可能だ。あれをどうにかする方法は分からない事もない。
だが、エルリックは。後ろで寝ているエルリックは、その限りではない。あの火炎球に巻き込まれてしまったらエルリックは骨も残さずに蒸発してしまうだろう。
危険。危機。逆境。
守るべき人を失ってしまうかもしれないと言う逆境。
普段なら困惑する。
だが、今は違う。
この逆境は、文字通り力となる。
『生き残って見せろ! あの青年を見殺しにして!!』
「殺させない。殺させて、たまるか!!」
ユキの内側から湧き上がる力が更に高まる。
自分の全てを燃やし尽くしていく。そんな錯覚を感じたが、燃やせば燃やすほど力となる。自分の気力を、体力を、精神を。何もかもを燃やし、逆境武人は力を与えていく。
守りたいという意志と、死なせないという思いと、絶対に守り抜くという誓いが逆境武人の力となっていき、その力をユキに上限無く与えていく。
故に。最早人間という種が持つことのできる身体能力を大幅に超えた力を手にしたユキが、その両手の剣を左右同時に、それぞれ左右に振り抜くことで、二つの剣が作り出した鎌鼬が上から振ってくる火炎球を文字通り真っ二つに斬り裂き、四散させる。
しかし。それすらもレイブンブランドの読み通り。いや、ここでユキがあれを斬り裂けなくても、斬り裂けても。どちらでもいいようにレイブンブランドは既に動いていた。
自らの体を使った突撃。最早なりふり構わぬその攻撃は、己を質量の爆弾とし、そのままユキへ叩き落し、彼女を一気に押しつぶす。その目的で行われた。
しかし。それすらも。ユキを殺す気で放ったそれすらも。今のユキにとっては少しの脅威にすらならない。
落ちてくるレイブンブランドをそのまま三枚おろしにしようと構え、そして振りかぶり――
「ユ、キ……?」
後ろから聞こえてきた青年の声を聴いて、思わずそっちを振り返ってしまった。
全身ボロボロだが。しかし、それでもしっかりと両足を地に付けて立ち、こちらを見つめてくる青年。
来ちゃだめだ。巻き込まれたら死ぬ。そうやって彼に警告しようとして口を開き。
『余所見とは、余裕だな!!』
レイブンブランドの声を聴いて今が戦闘中だということを思い出し、ユキは本来なら余裕で対処できるはずだったそれをマトモにくらってしまい、押しつぶされてミンチとなることだけは避けられたが、レイブンブランドの衝撃を受け止めるにはとても小さすぎるその体は衝撃と風圧によって空を舞い、血をまき散らしながらエルリックの前に生々しい音を立てて落ちる。
死んだ。そう思えてしまうくらいには、この攻撃は致命的にしか見えなかった。最早重症とかで済む問題ではなく、致命傷としか呼べないほどのダメージを受けたユキは、暫く動かなかったが、十秒ほどで再び動き出した。
「ぐう、あ、あぁあぁぁぁぁっ……!!」
呻きながらも両手の双剣と逆境武人を頼みに立とうとするユキ。
しかし、それでも。支えをそれだけもらっても、ユキの体は立つだけの力を込められない。力を入れたそばから抜けていくような。そんな錯覚。
しかし、それでもユキは立とうとする。エルリックを守る。ただそれだけのために。自分のためではなく、人のためだけに。まるで英雄のように、立ち上がろうとする。
「も、もうやめろ……」
だが、それを見ているエルリックの方の心が先に折れる。
どうして殺されなきゃならないのか。どうして見も聞きもしたことのない龍に目を付けられなきゃいけないんだ。そうした理不尽に対する怒りを覚えないわけがない。
だけど、そのせいで。狙われているのは自分なのに、それを守るためにこの小さな少女が傷ついていくのは。死んでしまうのは、耐えられなかった。
だから。
「もう、やめてくれ……! そこまでして俺を守って、何になるんだよ……!!」
そのまま寝ていてくれ。助けが来るまで、見て見ぬふりをしていてくれ。
そう告げる。もう、守るのをやめてくれと。
だが。
「黙っててよ……!!」
ユキの、腹の底から出た、今まで聞いたことない程低い声を聴いてエルリックはその口を閉じた。
歯を食いしばり、剣と今まで以上に力を与えてくれる逆境武人だけを頼りにユキは立ち上がる。
「オレが、守りたいんだ!! これはオレの意志なんだよ……オレの、想いなんだよ!! だから……黙って、守られてよ……!!」
誰の願いでも意志でもない。
ただ、自分だけの意志で。彼女は立ち上がる。親しい者を守りたいという、その一心でユキは立ち上がる。その一途な思いに、逆境武人は力を貸す。
全身から血を吹き出しながらも。その出血で毎秒意識が飛びそうになっても。内臓に骨が突き刺さっていても。咄嗟の防御でヒビが入ってしまった両手を構え、掲げ、そして吠える。
「そう簡単に、生きるのを諦めないでよ……!! オレは、自分の意志で戦ってる!! だから、頼って、縋り付いて、無様に助けを乞うてもかまわない!! それを、オレは望んでいる!! そのために、この力はある!!」
彼女は、歪んでいる。
人間として歪んでしまっている。人を助けるという行為に、己の命を全て懸けれてしまう、英雄的な思考を彼女は持ってしまっている。
だけど、歪んでいるから。歪んでしまっているからこそ彼女は立つことができる。だからこそ、彼女は力を使うことができる。その力を、正しき方向へと。
そういう人間を。人は、英雄と呼ぶのだろう。
彼女は、正しく英雄であれと言われ産まれてきたとすら言える、正真正銘の、産まれついての英雄なのだ。
「だからさ、一言、言ってよ。助けてって。そうしたら、オレは戦えるからさ。限界なんて、ぶっ壊して勝てるから」
紅に染まりながらも、純白の笑顔を向ける彼女は、とても美しかったとすら言える。
そんな彼女だからこそ、エルリックは言葉をこぼした。
もう、これ以上言っても彼女は聞かないと。むしろ、これ以上言ってしまうと彼女はそのまま力なく倒れて死んでしまうのではないかと思ってしまったからこそ。エルリックは呟いた。もう負けだ、好きにしてくれという言葉の代わりと言わんばかりに。
「……助けてくれ、ユキ。あのクソトカゲ、倒してきてくれないか?」
その言葉を聞き、ユキは双剣をしっかりと握り、構える。
「任せて。ちょっくら戯れてくるよ」
そして、全身の痛みを一切解せず、彼女は再び戦場へと舞い戻る。
逆境武人を使ったユキは、本当に一部の存在を除けば負けません。レイブンブランド相手でも、レイブンブランドを瞬殺できるくらいには、逆境武人はユキを強くします。
ピンチになったら絶対に劣勢を覆して勝つ。故に、英雄なのです。