二代目海賊王に捧ぐ   作:コタツ蜜柑

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おかしい、ルビとか傍点とか振りたくてついでにちょこっと修正するだけのつもりだったのに……。
pixiv版からあまりにも雰囲気が変わり過ぎた冒頭のみ、こちらの第一話として抽出しています。


狭間にて

 ――()は夢を見ていた。

 それは一人の男が駆け抜けた、偉大なる半生の夢。仲間とともに巨悪を倒し、理不尽に満ちた世界を引っくり返して、希望溢れる新時代の道標となった、かの男の生涯。

 無論平坦な道のりではなかった。男の仲間が、あるいは稀なれど、男自身が危機に陥る事もあった。そんな折に彼は、夢と分かっていながらも男への激励や助言を呟いた。不思議と、夢の登場人物であるはずの男は、彼の声を聞き取って反応していたようだった。己の言葉が男の力となって状況を切り拓いてゆく様は、彼に大いなる喜びをもたらした。

 

 男は最期、多くの人々の涙と感謝に見送られながら、自ら放った炎に包まれた。

 彼の夢もこれで終わる。素晴らしい夢であったと、この上なく満足した心持ちでいたその時だった。

 炎に飲まれた男が、にぃ、と歯を剥いて笑った。ずっと自分を見ていた、彼の存在に気付いているとでも言うように。

 ……彼は確かに感じ取った。燃え盛る赤の向こう、既に溶けて形を失ったあの真っ黒い瞳が、己を獲物と見定めたのを。

 

 

   --------------------

 

 

「――…ッ!!? ……ッぁ、ぐほッ、ごほ! …はぁっ――」

 

 仰向けの姿勢から飛び起きるなり、彼は盛大にむせた。長きにわたる夢の住人となり、自ら呼吸する感覚を忘れていた弊害だろうか。

 息が落ち着いた後も、しばらくは放心して動けなかった。直前に見た、あの光景のせいである。

 いい夢だと思ったのに。このまま昇天しても悔いはないというくらいの、極上の物語だったはずなのに。

 それが最後の最後で、いきなりホラーになるとは何事だ。舞い上がっていた気分が、すっかり地の底へ沈められてしまった。

 よって彼が周りを見る余裕を取り戻したのは、自失を脱し、ひとしきり憤慨もし終えた後の事であった。

 

 ゴウンゴウンと、大型機械の作動音と思しき騒音が響いている。

 彼が座り込んでいたのは、冷たい金属の感触をもった床だった。ぐるりと見回した周囲も、何の温かみも無い武骨な鋼の壁で覆われている。広さも決して十分ではなく、牢獄さながらの印象を与えるその部屋は、しかし彼を不快にさせなかった。

 彼はゆっくりと部屋を歩き、置かれたデスクや棚、ベッド等の家具を検分して回る。照明に浮かび上がるそれらの一つ一つが、実に彼好みの風合いを持っている。

 棚の大半を埋めている書籍は医学書ばかりで、冒頭少しずつ摘まんだ感じでは、どれも彼が読んだ覚えのあるものだった。気紛れにベッドに寝転んでみれば、それなりに上背のある彼でも足がはみ出ない丁度良いサイズだ。

 

 この部屋の主はよほど彼と趣味が合うに違いない。すっかり機嫌を直して、起き上がった彼が次に目をつけたのはデスクの抽斗。

 鍵は掛かっていない。すらりと開いた中は一見空っぽであった。が、ふと思い付いた彼が内側に手を差し入れ、デスクの天板の裏にあたる部分を探ると――大当たり、何かがテープで貼り付けてある。

 容易に剥がれたそれを取り出し、目の前にかざしてみれば、正体は飾り気の無い真っ白な封筒。表面には宛名も署名も見当たらない。

 見知らぬ他人のプライバシーなどまるで頓着しない彼は、好奇心の赴くままに開封した。

 中身は質の良さそうな便箋一枚きりだ。記された文章に軽く目を通すと、どうやら遺書であるらしい。普通そういうものは厳重に保管されているか、誰にでも見られるようにしてあるかの二択だと思う。それを抽斗の天井に貼り付けるなどという半端な隠し方をするあたりに、執筆者かつこの部屋の主と思われる人間の、複雑な心境が垣間見える。

 

「見つけてほしかったのか、それとも見つけられたくなかったのか……」

 

 どちらにしろ、彼には関わりの無い事である。だが少しばかり興味を惹かれた彼は、さらに詳しく遺書の内容を精査してみた。

 大部分は、執筆者の死後の財産分与について書かれていた。執筆者は海賊団の船長で、この部屋はそいつの乗る潜水艦の船長室だったのだ。どうりで狭いし、金属製なわけである。目覚めた時から止まない騒音は、今まさに艦が潜航中であるのを示している。若干湾曲した片側の壁には十字格子の入った丸窓が付いており、分厚いガラス越しに真っ暗な深海が覗いていた。

 続きを読むと、銀行の裏口座やら、どこそこの島に隠したお宝だのと、分配可能な動産が列挙されている。これだけ儲けている海賊団となると、結構有名どころなのではなかろうか。

 たださすがに潜水艦を分ける事はできないので、それについては細かく指示がなされていた。

 曰く、クルー全員の同意が得られる場合に限り、自分亡き後も■■■の海賊団の存続を許す。その際は船長を■■■■■■とし、副船長を■■■■とする。しかし一人でも辞めたいと希望する者がいた場合、団は解散、■■■■■■■号は売却しその他の動産同様にクルー全員に等分に分配する事……。

 

「……? 何だ、…」

 

 何故か、文中に読めない部分が複数ある。字が汚いとか潰れているというわけではないのに、意味のある単語として認識できない。

 ぱちぱちと瞬きして、もう一度同じ文を検めるが結果は同じ。

 おかしい。己は何か、脳に損傷でも受けているのだろうか。

 にわかに湧き上がった不安を脇に置き、遺書を最後まで読み進める。読めない部分はほかに二、三箇所で、そう多くなかった。

 そして末尾、これを書いた海賊団船長の署名と思われるものを見た彼は――

 

「――っぐ、…ぅ……ッ!!」

 

 頭をがつんと、殴られたような衝撃が走った。唇の隙間から、殺しきれない呻きがもれる。

 遺書を取り落とし、そのまま床に蹲った彼の脳裏を、幾つもの声がよぎり、重なってゆく。

 声たちは口々に彼を呼ぶ、――“船長(キャプテン)”と!

 

 体感で、数分は経ったであろうか。

 彼への呼びかけは、もう静まっている。額を押さえてじっとしているうち、指の下で感じる脈拍も、次第に平常に戻ってきた。

 固まった姿勢を解き、緩慢な動きで彼は遺書を拾い上げた。

 再び視線を落とした署名の部分は、己の知覚の一部が欠けてしまったかのように、どうしても読めない。

 彼にショックをもたらしたのは、認識できぬ人名などではなかった。その横に描かれた、一つのシンボルこそが原因だ。

 虚ろな眼窩は残したまま、円に詰め込まれたせいで髑髏の面影を無くしたスマイルマーク。中心から放射状に伸びた六本のT字が、その背後を飾っている。

 この奇抜なジョリーロジャーは、たしかに彼が考案したものだった。

 この潜水艦は、彼の船だった。未だ名を思い出せぬ海賊団の、彼は船長であったのだ。

 

「なんで、忘れてたんだ……!」

 

 絞り出した声は苦渋にまみれていた。

 彼にとって、己のクルーたちは家族同然だった。愛していた、愛されていた。血縁も庇護者も全てを失った彼にとって、唯一甘えられるような存在だった。それをどうして、今まで平然と忘れていられたのだろう。

 無意識に力がこもったか、手の内にあった便箋には皺が寄る。そんな些末事に構いはせぬとばかり、彼は勢い付けて立ち上がった。

 思い出さなければ。失われた記憶を、必ず取り戻さねばならぬ。

 それは己のものだ、誰にも渡せぬ己だけの宝なのだ。

 誰かに奪われたというのなら、奪い返してやる。海賊の流儀は、不本意ながら()に叩き込まれている。

 

 いきり立ち、手掛かりを求めて三度、整然と並ぶ文章に目を落として。そこで彼は気付いてしまった。

 これは遺書だ。己がこの手で書いた遺書。

 これが自室にあるのならば、己は死を覚悟して艦を離れ、そのまま戻らなかったという事だ。

 その事実が、何を意味しているのか? 分からぬふりはできない。もう誤魔化せない、ああ、――ああ、そうだ! 己は、

 

「おれは――もう、死んでるのか……」

 

 意図せずこぼれ落ちた言葉は、彼に現実を知らしめる。

 彼は既に死んでいる。死したる者に、現世への未練など不要。

 だから忘れたのだ。己が作り上げた海賊団の存在も、家族と思うクルーたちの事も、己自身の名ですらも。

 己が拠って立つ全てを失った事を理解した彼は、しばし呆然とその場に立ち竦んでいた。

 

 

 

 それからどれほど時を浪費したものか。いや、そもそも死後の世で時間という概念は意味が無いのかもしれない。

 彼は胸の内を満たす空虚そのままに、何をするでもなく俯いて棒立ちになっていた。

 全てがどうでもいい。死者たる己には、現世で何が起ころうともそこへ干渉する事は叶わない。それに、たとえ天国や地獄があるとして、背負うものを無くしこの身一つ――いや魂一つか?――となった己がどうなろうと、ただの自業自得と言うやつである。

 そのように自暴自棄となっていた彼だが、ほんの一瞬、何かに意識を惹かれた。

 

「………? 今…」

 

 鈍った思考のまま、部屋の中を見回す。

 当然ながら、誰もいない。けれど今し方、誰かに呼ばれた気がしたのだ。

 クルーたちの声ではなかった。「船長(キャプテン)」ではなく、別の名前で呼び掛けられたような……。

 

「……分からない。だが、」

 

 彼はゆるゆると頭を打ち振り、久方ぶりに足を動かした。

 手にしたままだった遺書をデスクの上に置き、壁際に歩み寄ると窓から外を眺める。潜水艦は未だ深海を航行中だ。黒一色の中、まれに不自然な発光体が浮かび上がってくるのが見える。

 己とて深海の生物全てを把握しているわけではないが、あれはおそらく生き物ではない。直感では、己と同じく死を迎えて何処かへ旅立とうとする、誰かの霊魂といったところか。人の形をしておらぬそれらは、既に自分が何者であったかも忘れているのだろう。

 それらと己を比べた彼は、この現状に改めて疑問を抱く。

 

「何故おれは、思い出したんだろうな……いや、思い出すようにお膳立てされた、と言うべきか」

 

 現世への未練を残さぬために死者の思い出が失われるのなら、どうしてわざわざ彼の記憶を刺激するようなものを置いておくのか。彼が目覚めたここは、何故彼の船を模しているのか。

 ……逆であれば、説明が付くのである。

 彼はとっくに未練を昇華し、己が何者であるかも忘れ、死の先へと旅立つところであった。今も艦の外を浮遊する、誰のものとも知れぬ霊魂と同様に。

 しかし何かが彼の魂を引き留めようとして、彼の記憶を蘇らせるために、この状況を用意した。

 

「まさかと思うが、おれを生き返らせようなんてバカなこと考えてる奴がいるのか? 死者蘇生なんざ、いくら悪魔の実でもそうそうできるもんじゃねェぞ……」

 

 一度死んだ者を現世に返すなんてインチキが可能なのは、彼が知る限りヨミヨミの実くらいしか無い。それとても、死者本人が生前に予め実を食べていなければ無理だ。

 だがほかに、己の記憶を復活させる意味があるのか? そもそも何が、誰がこんな真似をしたのだ?

 その疑問に答えを出すためには、さらに思い出す必要がある。それこそが、現状を仕立てた者の狙いだと分かっていても。

 

 幾分かはっきりしてきた頭で、今一度室内を漁ってみる。されど己は艦を出る時に身辺整理していったらしく、情報を得られそうなものは特に見当たらなかった。

 艦内の別の場所はどうだろうか。――いや、どうせ無駄足になる。己の性格からして、自室以外に何かを残していくとも思えない。

 使えるかどうかの確認も兼ねて、試しに見聞色の覇気を発動してみたところ、艦内は全くの無人だった。潜水艦は、誰が操作しているわけでもなく独りでに動いていた。

 物証は無し、目撃者もいない。さてどうするか、と腕組みして思索にふけろうとした時である。

 

   ――……、■■■!――

 

「っ! 誰だ、さっきからおれを呼んでるのはてめェか……!」

 

 咄嗟に顔を上げて眼光鋭く周囲を睨みつけるものの、もちろん誰の姿も無ければ、異変の兆候も見られず。

 不可解な事ばかりでいい加減苛立ちが溜まってきたのを、がしがしと髪をかき混ぜる仕草で頭から散らす。気に入りの帽子が手元に無いのも、落ち着かない原因の一つだ。

 努めて肩の力を抜き、深呼吸を数回。焦ったところでどうにもならない、冷静になれ。

 室内にある物以外で、何か手掛かりは無いのか? 物ではない、……そう言えば。

 

「あの夢……アレは結局何だったんだ?」

 

 呟いた声は苦い。

 何故か最後でホラーになった夢。そこまではごく普通に、一人の男の英雄譚といった内容だった。王道ゆえに奇をてらわぬ、万人に好まれる類の美しい物語だったのに。

 とは言え……今考えてみると前兆はあった。主人公の男は、物語を外から眺めているはずの彼の声が聞こえている様子だった。それがまるで、彼自身が物語の中に入り込み、男の仲間としてともに冒険しているような気分にさせてくれたのだが。

 

   ――…■■■、……! ……!!――

 

「うるせェ、今考えてるんだよ黙ってろ! ったくてめェは、いつも――」

 

 また聞こえた呼び声に無意識に叫び返した彼は、はたと気づいた。

 己の口から出た、「いつも」という言葉。それは声の主と己が、それなりに親しい間柄でなければ出てこない言い方ではないか?

 クルーたち以外で、己が気安い呼び掛けを許し、纏わりつかれてもさしたる不快を覚えぬ人間。そんな相手がたしかにいた気がする。

 いつも、の続きは何と言おうとしたのだろう。その相手は、いったい誰だった?

 目を瞑り記憶を追いかけると、ぼんやりとだが浮かんでくるイメージがある。常に冒険を求めて飛び出し、いつも余計なトラブルに首を突っ込んでいく――何度も繕われた麦わら帽子――大きく歯を剥いた笑み……

 ……その笑みが、細められた真っ黒の瞳が、夢の男の最期の笑みと重なって。

 それらの要素が同一人物であることを理解してしまった彼は、ざっ、と血の気が引くような寒々しい感情に駆られた。

 

   ――■■■! …ぃかげ…、…も…だ……!――

 

「……おまっ! …てめェ、夢のアイツかよ!! 何なんだ、なんで夢が現実になってんだ!」

 

 絶妙のタイミングでさらなる呼び声が届き、反射的に叫んだ声に震えが混じる。

 その醜態を情けないと恥じる思いが、かえって己を律する切っ掛けとなった。

 落ち着け、考えろ。そもそもあれは、本当に夢だったのか? 死者である己が、夢など見るものか?

 夢でなければ何だ――現実だ! 己が先ほど無意識に返事をしたように、事実として声の主は己の知人なのだ。生前の己は声の主と親しかった。夢と思っていたのは生前の記憶であり、声の主にして夢の主人公たる男とは、実際に仲間としてともに冒険した……

 

「……待て。じゃあおれは、いつ死んだんだ?」

 

 男が炎に飲まれて死んだ後か? 己に向けられたあの笑みの衝撃で、記憶の再生は中断してしまったから分からない。

 ああ、だが……おかしい。腑に落ちぬ点がいくつもある。

 己は一海賊団の船長だったのだ。それが何十年もクルーたちを放り出して、男の下につき暢気に冒険などするものだろうか? 男以外は己を認識していなかったのだって妙だ。透明人間などになった覚えは無いのだから。

 やはり己はあの物語が始まる前に、既に死んでいた? 男は幽霊となった己の声を聴いていたのか?

 ……分からない、分からない、分からない!

 己はいつ、どうやって死んだのだ! 親しいはずの男が、最期に己に向けた獰猛な笑みの理由は何だ!

 掴めそうで掴めぬ真実に、感情は激しく波打つ。そこにとどめを刺すように、ひときわ明瞭に男の声が響き渡る。

 

   ――■■■! …まえ、勝手に………ぃて、忘れてんじゃねェ!!

 

 

   --------------------

 

 

「――お前、勝手だぞ!! なんでこんなことしたんだ! なんで……!!」

 

 眠りの淵に吸い寄せられる意識が、間近に叫ばれた男の怒声で呼び戻された。

 こっちは一世一代の大仕事を終えて、休もうとしているところなのに。まったく――

 

「……うるせェな。静かに寝かせろ、もう思い残すことも無ェ……」

 

 己が言おうとした事と一字一句同じ台詞が()()()()聞こえて、思わずその発生源を凝視する。

 そこに、――()()がいた。

 戦塵に薄汚れてはいるが、大きな怪我も無くただ地面に横たわっているだけに見える。けれど、……分かる。この()()には、生き物として最も重要なものが欠けている。謂わばこれは、“抜け殻”だ。

 

「ふざけんな!! お前の仲間は、お前を待ってるんだぞ! お前が絶対帰ってくるって、信じてるんだ!」

「ああ……そう言や遺書のありかを伝えてなかったな、おれの部屋の抽斗の裏だ……」

「……ッ、■■■ォ…!!」

 

 己の手が独りでに動いて、()()の胸ぐらを掴み上げる。

 ()()は僅かに眉をひそめたが、されるがままで脱力していた。

 

「おれはッ! もう誰も死なせねェために、強くなるって決めたんだ!! なのにお前が! ■■■はおれの話なんて聞かねェで、勝手に、――っ」

 

 相当な力がこもっているのか、()()を掴む己の拳はぶるぶると震えている。

 その様子を鼻で笑った()()が、下りようとする目蓋を懸命に持ち上げながら、最期の言葉を口にする。

 

「バカが……おれに、命令するなと…言っただろ。……おれはここで、終いだが……満足だ」

「ッ、■■■! おい、寝るな!! 起きろよ!」

「へへ……。せいぜい長生きしろよ、■■■■……。ドレスローザでの、命の借り……確かに返したぞ……」

 

 ついに()()の目が閉ざされる、その間際。半ば曇りかけた()()の瞳に、対峙する己の姿が映っているのが見えた。

 麦わら帽子の似合う素朴な顔立ちに、左目の下の傷跡。常日頃陽気な笑顔をたたえているそれが、今は憤怒に歪んでいて――

 

 

   --------------------

 

 

   ――…■■■!! ■■■、答えろよ! ■■■!!

 

「――、…ぁ、」

 

 声が喉に貼り付いたように、うまく喋れない。

 己は今何か、白昼夢のようなものを見た気がしたが……よく思い出せない。

 ふらふらと、壁に手をつく。

 現実と夢、生と死の区別がつかない。己は今、果たして正気なのだろうか?

 

   ――聞こえてんだろ? ■■■! お前が思い出すまで、おれ諦めねェからな!

 

 男の呼び掛けは、もう彼の呼び名と思しき部分以外は完全に聞き取れていた。

 姿は見えないのに、近くで叫ばれているようだった。息遣いすら感じられそうな、何なら今まさに背後をとられていてもおかしくなさそうな……。

 そんな妄想が実体化したかのごとく、耳元すぐから、情念をにじませた男の低い声が、

 

   ――覚悟しろよ、■■■

 

「…――ッ!!」

 

 ぞわりと、背筋を悪寒が通り抜けた。

 無様をさらすまいとする意識を裏切り、震える唇が開いてゆき。身も世もなく、恐怖の叫びを上げる直前で――

 

 ……何の前触れもなく艦を襲った強烈な揺れにより、彼は悲鳴ごと息を呑み込んだ。

 

「!! ……な、にが、」

 

 壁に寄り掛かったままだったので、転倒は免れていた。

 状況を把握できずにいる彼の耳に、艦内放送で流れる激しい警告音が飛び込んでくる。生前一度も聞かずに済んだそれは、音が漏れるのを心配している場合でないほどに、艦体が深刻な損傷を受けた事を意味する。

 艦内には彼以外誰もいないし、彼は既に死人である。特に問題無いのでは、と一瞬錯覚した。

 しかしよく考えると、現状はまるで生きているように感覚があるのだから、溺れる苦痛も忠実に再現されてしまう可能性が大だ。溺死はかなり苦しいと聞くし、彼に被虐趣味は無いので、好き好んで体験したいとは思わない。

 

 独りでに動く艦だ、隔壁も自動で下りているだろう。あとは穴の開いた場所次第だが、……どうやら、彼は生前で悪運を使い切ってしまったようだ。通路と繋がる扉の下から、チョロチョロと水が漏れ出してきた。穴は隔壁のこちら側だ。

 これはもう無理だな、と溜息をつく。忘れている記憶の中に、この状況を脱する方法もありそうな気はするものの、悠長に考え込んでいる時間は無い。

 早々に諦めた彼は、遠い目で窓の外を眺めた。外は相変わらず真っ暗で、深海の域を脱していない。溺れるより先に、水圧で押し潰される事になりそうだ。

 やがて通路の過半を満たした海水が、扉を破って猛烈な勢いで室内へ流れ込んできた。

 水流に呑まれた彼の意識は、どこぞに頭でもぶつけたか、一時そこで途絶した。

 

 

 

 次に気が付いた時、彼は真っ黒な空間に浮かんでいた。

 光などどこにも無いのに、己の姿だけは見えている。手足を動かすのに僅かな抵抗を感じる事から、水中にいるのかとも思ったが、それにしては苦しくない。息ができているというよりは、呼吸を必要としていない、と表現するのが近い。

 

 意識を失う前の出来事は覚えている。しかしあれは、現実に体験した事なのだろうか。全て己の、妄想ではないのか?

 この暗い場所でただ一人、いつまで続くとも知れぬ孤独に飽いた、己の独り遊び。

 独りは嫌いではない、と思っていた。騒がしい連中のペースに振り回されるのは疲れるし、趣味に没頭する時間は他人に邪魔されたくないものであるから。

 けれどいざ、誰の存在も感じられなくなってみると、己の内を冷たい風が吹き抜けていくような心地になる。このままどんどん熱を奪われ、いずれ己は凍えて固まり、意思の無い人型の置物にでもなるのかもしれない。

 そんな馬鹿な事を考えるうち、彼はあの潜水艦と男の声の行方が気になってきた。

 

 己の妄想であれば構わない。だが本当にあった事だとしたら、男はどうなったのだろう。

 最後に聞いた声からして、姿は見えねども、男は彼の至近にいたはずだ。ならば彼と同じく、水に呑まれてしまったのではないか。

 悲鳴を上げそうになるほど恐怖を覚えた相手を心配するなど、おかしな話だ。しかし彼は、それでもあの男自身を嫌いだとは思えなかった。獲物を狩り立てる凶暴な笑みでなく、太陽のように朗らかな笑顔こそがその本質であると知っているからだ。

 

 ……あの男は助かっただろうか。夢だか記憶だかはっきりしない一連の物語が事実だとするなら、男も既に死者であるのだが。

 けれど己同様にこのわけの分からない空間に漂っているとしても、己と違ってあの男は独りではないだろう。生前の男は、自らを慕う幾人もの仲間たちにいつも囲まれていたものだ。

 思い出そうとすればすぐ、脳裏に光景が浮かび上がってきた。見覚えのある面々の中心で、男は何やら楽しげに談笑している。

 こちらに気付いた男が、屈託の無い笑顔を浮かべつつ手を差し出してくる。

 これは己の願望なのかもしれない。でも、所詮想像なのだから己の好きにしたっていいはずだ。

 

 彼はゆっくりと持ち上げた腕を、前方へ伸ばす。

 男は笑っている。ためらいつつも、その手のひらに己が手を重ねようとして。刹那、――男の方から先に、こちらの手を掴んできた。

 己の手を握り締めた、その手の肉感がやけにリアルで。

 彼は、はっと()()()()()

 

 

 

 目前に、男の笑顔があった。

 にま、と三日月に曲げた唇は、その男にしては珍しい。だが細められた黒い瞳に宿る光は穏やかだ。

 しっかりと握られた手は、彼の逃走を許さぬと言わんばかりであるものの、久々に感じた他者の体温は彼を思いのほか安らがせた。

 水面から漏れる陽光を背負い、美しいオーシャンブルーに抱かれた男。

 その名を呼びたくて、彼は口を開きかけ。ごぼりと泡になった吐息に、慌てて再び唇を引き結ぶ。……ここは普通に、海の中だったらしい。

 

 彼に釣られたのか、男まで口を開けてしまって、より派手に泡を吐き出している。

 何をやっているんだ。己を棚に上げて呆れた目を向けると、不服そうに唇を突き出した男は、彼の身体をぐいと引き寄せて脇の下へ抱え込んでしまった。

 彼は抗議のために腕に力をこめようとして、それが叶わない事に気が付いた。腕だけでない、全身脱力してしまっている。

 そう言えば己は生前、悪魔の実の能力者であった、と彼は思い出す。死んでからもその呪いは続いているらしい。

 しかし同じく能力者であったはずの男はこの通り、水中で元気に動き回っている。もっとも男は能力者になる前からカナヅチであったようで、闇雲に手足をばたつかせるばかりで、ほとんど浮上できていないのだが。

 

 幸いにして仰向けの状態で抱えられているので、彼は状況を観察できた。

 深海から海面近くまで、一瞬にして移動したのは謎だが、おかげで圧死せずに――既に死んだ身ではあるが――済んだのだから、気にしない事にする。

 明るさから言って、洋上の天候は快晴。海面までの距離も、そう長くはない。水面には小振りな木の板が一枚、ゆらゆらと漂っているのが見えた。

 今はただもがいているだけの男も、運動神経は保証済みなのだし、完全に溺れる前には泳げるようになるだろう。

 ――問題は一つだ。あの板切れ一枚では、鍛えられた筋肉の成人男性二人を支える事などできまい。まして片方は、海の悪魔の呪い付きである。

 辛うじて動かせる首をめぐらせて周囲を見渡した限り、ほかに漂流物は無い。近くに都合良く島や船があるわけでもない。

 

 彼は、己自身に問う。この状況で、望む事は何だ?

 決まっている。――あの男の、生存だ。

 そもそも己も男も既に死んでいるというのは野暮な指摘だ。これが死後の世界だろうが己の妄想だろうが、どうせもう何も背負うものは無いのだ。やりたいようにやって何が悪い。

 彼は男の生き様に憧れた。己がその人生の一助となれる事を幸福と思った。

 だから今からする事も、自己犠牲なんて殊勝なものではない。己は己の望みのために、この方法を選ぶのだ。

 

 決意した彼が脱力した四肢を意地で動かし、男の意識が逸れるタイミングを見計らっていたその時。

 不意にもがくのをやめた男が、脇に抱えていた彼を自らの正面へ持ってきて、がっぷり抱きついた。……いや抱きつくなんて生易しいものではない、締まっている。

 ベアハッグか、やめろ。■■だってもう少し加減は知っている――などとくだらない事を考えるうちに、次なる衝撃が来た。

 猛烈な力で足を引っ張られるような感覚。間髪入れず、視界がぐるりと回る。そのまま回転は止まらない。

 抱きついている男ごと、彼は渦を巻く水流に取り込まれていた。まるで水の竜巻だ。

 こうなっては男を引き剥がしたところで、容易に脱出させる事はできない。

 締められたせいでまた空気を吐いてしまったし、酸欠で次第に思考が鈍ってきた。男の腕の力も緩まない。

 ぐるぐると回りながら、彼と男は水竜巻の発生源と思しき方向へひたすら流されてゆく。最後に目に映ったのは、自分たちと同様に巻き込まれたらしき、深海で見た発光体。

 力尽き、目蓋を閉ざした彼の意識は急速に闇に沈む。その終わりまで彼は、決して離さぬと言わんばかりの男の執念を感じていた。

 

 




推しキャラのSAN値を削るのは性癖です。
これ本文中で一時的狂気入ってるんじゃないかな。
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