二代目海賊王に捧ぐ   作:コタツ蜜柑

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前回のあらすじ:SAN値削れた。

……ええと。今回以降はpixiv版と内容はほぼ同じになります。
前回との整合性をとる必要がある部分の加筆修正、そのほかは細々とした表現の修正のみです。


命の飴玉

 子供の泣く、声がする。

 

 ――ああ、泣くな……お前に泣かれると、どうしていいか分からないんだ。やっぱりおれは男だから、女のお前とはちょっと考える事も違うんだよ。

 困ったな、母様がいればいいんだが……父様じゃあ役に立たないしな。

 ほら、おれのおやつをやるから。もう泣きやんでくれ。なあ、

 

「――…泣くな、■■……」

 

 己の口から出た声の低さに、はっと現実を意識する。

 馬鹿な事を言ってしまった。■■はもういないのに。

 ……確かに己で口にしたはずの名は、掴もうとすれば水面に映る月のように消えてしまった。

 

 耳に届く泣き声は子供のものではあるが、よく聞けばあの子の声とは違う。

 死んだはずの己は何故か潜水艦の中で目を覚まし、あの男に捕らわれたまま、渦を巻く水流に呑まれて。息ができるという事は、ここは陸上。運良くどこかの島にでも流れ着いたか。

 現在に至るまでの経過を脳裏で反芻しつつ、彼は目を開けてむくりと身を起こした。

 一瞬ブレた視界は、ピントを合わせるようにすぐに鮮明になり、目を灼くような赤がいっぱいに広がる。

 

 そこはどこかの砂浜だった。狭い入り江のような地形で、中央を細い川が通っている。川の流れてくる方向には建物が見え、人里があるようだ。

 少し離れたあたりには小舟が繋いであるが、外海へ出るのに耐えるとは思えぬ小ささである。あれでは大人一人すら乗れるか怪しい。

 時刻は黄昏、水平線の上にじりじりと落ちてゆく太陽がある。

 砂を払って立ち上がり、海から吹く風に髪を弄られながら、彼は赤く染まった世界へ一歩を踏み出した。

 

 歩く先に、泣き声の主らしき幼子と、その傍らにしゃがんでいる男の姿が見える。

 砂の上に膝を抱えて蹲る幼子は、見た目からすると四、五歳の男児。そして男の方は、潜水艦で散々彼を脅かしてくれた奴である。

 時間を置き、落ち着いて考えてみれば、この男にあれほど恐怖を覚えたのが不可解かつ理不尽な事に思えてきた。これは一言文句を言ってやらねばと足を早めるうち、男と幼子のやり取りが聞こえてくる。

 

「お前さァもう泣くなよ。目ン玉溶けっちまうぞ」

「ぅえ…だっで……!! おれ、…おれ……まだあっぢいぎだくないのに……!!!」

「じゃあ逝かなきゃいいじゃねーか」

「もどれねえんだよォォ!! うわああああ!!」

 

 ……全く慰めになってない。さらに泣かせてどうするのだ。

 いや、そもそもあの男ほど気遣いやらデリカシーとかって単語と無縁の人間はいない。子供相手だろうとそれは同じだろう。

 彼もさすがに幼子が哀れになり、「おい…」と声を掛けて歩み寄る。すると男だけでなく幼子もこちらに顔を向けたのだが、並んだ二つの顔を同時に見比べて判明した事実に、彼はぎょっとして足を止めた。

 続くはずだった台詞がどこかへ行ってしまい、代わりに飛び出したのはこんな言葉である。

 

「お前……女に興味無ェふりしてたが、ヤることはヤってたんだな。隠し子がいたとは知らなかったぜ」

「ん? お前何言ってんだ。おれに子供なんていねーぞ」

「いやだが、どう見てもお前の血縁者だろう、そのガキは。まるでお前をそのまま小さくしたようなナリだ」

「そりゃそーだろ。だってコイツおれだし」

「はァ?」

 

 こいつまた何か変な事言いだした。そんな内心が表情に出てしまったのか、男に「ウソじゃねェ!」と睨まれる。

 理解はできないが、この男に詳細な説明を求めても無駄だろう。彼は頭を振って、気を取り直し話を進める事にした。

 

「……そのガキがお前だと言ったな。ならお前、分裂したのか? “新世界”特有の現象か何かか?」

「おれはおれのまんまだぞ。そーじゃなくて、コイツはおれじゃねェおれなんだ」

「意味が分からない……。よしお前ら、…お前もだガキ。自分の名前言ってみろ」

「モンキー・D・ルフィだ!」「……ひっぐ、…モンキー・D・ルフィ、だ……」

 

 威勢良く立ち上がって叫ばれた男の名と、座り込んだまま涙声で紡がれた幼子の名は、同じ響きを発する。

 その名を耳にした瞬間――彼の頭の中で歯抜け状になっていた記憶の幾分かがまとめて蘇った。

 衝撃に眉を顰めるとともに呻き声がもれてしまい、聞き咎めた男に「大丈夫か!」と顔を覗き込まれる。彼はそれに答えず、男と己の間を手で遮る事で無用の心配を退け、拙速に情報の抽出に取り掛かった。

 これで全てを思い出したわけではない上に、潜水艦で目覚める前の夢だか記憶だかについては、逆に詳細がぼやけてしまっている。しかしこの男に関しては――

 

 ……そうだ。この男の名はモンキー・D・ルフィ。彼の同盟者であり、とんでもないトラブルメーカーであり、彼の死後に海賊王となったであろう男。その男が目の前にいるという事は、意味するところは一つだ。

 

「何も分からないままだが一つだけ理解した。てめェまた厄介なことにおれを巻き込みやがったな麦わら屋」

「おれのせいじゃねーぞ! ……んん? あ、でも()()に流されたのは多分おれがいたからだな!」

「自覚あるんじゃねェか……あァ、もういい。おれはおれで勝手にやらせてもらう」

 

 口振りからして、男――ルフィが事態の真相に近い何かを知っているのは間違いなさそうだった。

 しかし生前ルフィの言動に散々振りまわされた彼としては、『麦わら語』の解読に頭を悩ませるより先に、幾ばくかなりとも判断材料を得るべきだろうと思った。

 

 まずは自身の状態である。既に死んだ身で何をとも思うが、水に溺れる身体があるのだから生前とそう変わらない感覚だ。

 服装は生前好んで身に着けていたもので、けれど帽子は潜水艦で気がついた時から持っていなかった。己なら最期まで手離さぬであろうはずの刀、鬼哭もここには無い。

 彼は徒手空拳も多少は使うものの、やはり武器が無いのは心許ない。何か、と考えた途端、左胸のポケットに僅か重量が増した感じがあった。まるで今突然、中身がそこに現れたような不自然さだ。

 やや用心しつつもそれを手に取ってみれば、正体は刃が剥き出しのままの手術用メスだった。いくら己が医者でも、医療用具そのものを暗器にした覚えは無いのだが。ひとしきり訝った後、とりあえず無害なようなので、刃に気を付けて別のポケットにしまいなおす。

 

 メスをしまったポケットには、古びたライターが入っていた。こちらも己で入れた記憶は無かったが、よく観察するとその形に見覚えがある。

 特にブランド物ではない量産品だが頑丈で、いつも()()()が煙草に火を点けるのに使っていたもの。ああ、あの人の名前がまだ思い出せない――

 

「――なあ、なァって! 聞いてねェのか?」

「……っ、うるせェ……なんだ、麦わら屋」

「だから、これでメリー彫ってくれよ! ヘッドのとこ! お前器用だもんな、できるだろ?」

 

 ……この男がいる前で悠長に考え事などできるわけがなかった。

 たしかに外科を主体とする己が不器用だと思った事は無いが、だからといって医者に彫刻をさせるのはどうなのだろう。

 彼はため息をついて、人の腕ほどの太い木材を抱えたルフィを見やる。浜に流れ着いていたのなら、あれは船の竜骨か何かの残骸か。

 こちらの事情などお構いなしに一方的な要望を口にする事も多い男ではあるが、子供よりも子供のようにきらきら期待で輝く目を向けられると、あまり無下にもできない。勢いに押されて木材を受け取ってしまった後の彼は、言い訳のように言葉を並べる。

 

「……もう日が沈む。見えなきゃ手元が狂うし、木を彫れるような道具も持ってねェ」

「たき火の用意ならおれがやるぞ、火を出すのは得意――…あーそっかもう能力使えねェんだったな」

「使えてたら、たかがたき火一つのために、この辺り一帯吹っ飛ばしたのかよ」

 

 ゴムゴムの能力で火が出るものとなると、彼が把握している中では、火拳銃(レッドホーク)とか言う極めて高威力の正拳突きぐらいしかない。

 そんなものを使うつもりだったのか、と呆れ混じりに見やれば、ルフィは不思議そうに首を傾げるだけだ。

 

「別にそんな大技じゃねェぞ? ……おっ、じゃあそのライター貸してくれ! それと道具な、道具は――なんだ、いねェと思ったらお前んとこに行ってたのか」

「おれの所に? 誰が……いや、人じゃなくて道具の話をしてるんだ」

「うん、だからお前のポケットに()()ぞ」

「言い方がおかしい。だいたいおれのポケットに入ってるのはこれだぞ、メスだ。メスで彫刻しろってのか、よ……?」

 

 これ、と言ってメスが入っているはずのポケットを軽く叩いた瞬間、そこが重くなった。

 増えるばかりの謎現象に眉間の皺も深まるものの、二回目となると無駄に構えたりはしない。見下ろせば、ポケットからややはみ出す形で、作業に丁度よさそうな小振りのナイフがそこへ鎮座している。メスの方は無くなっており、メスがナイフに変わったとしか言いようがない状況だ。

 視線でどういう事だとルフィに問うが、あちらはまるで疑問に思っていないようで、それが当然のような顔をしている。溜息をついてライターを渡すと、「ありがとな!」と言って火を熾す材料を探しにすっ飛んでいってしまった。

 

 太陽は既にその頭を隠し、残照もほどなく消える。ルフィがすぐに戻って来るとは限らないので、作業を始めた方がよさそうだ。

 ルフィの言うメリーとは、『ミニメリー2号』と名付けられた蒸気機関外輪船の事だろう。そのヘッドは、愛嬌のある羊の頭を象られていた。正直細かい所は覚えていないので、それっぽい雰囲気で誤魔化されてくれればいいのだが。

 角と頭は別のパーツとして後で組み合わせた方がいい。ざっくりとあたりを付け、ナイフを木材に沿わせていると、近くでぐすんと鼻をすする音がした。

 彼はそちらに目をやらぬまま、相手が口を開くのを待つ。

 

「………。――おれ、…でっかくなれたら、……アイツになったのかなぁ」

「……さァな。アイツがそう言ったんならそうなんじゃねェか」

「でっかく、なりてェよ……ぼうけん、したかった。もっともっと、いきたかったっ……!! おれまだ、なんにもできてねェ…おれ、おれ……っ」

 

 四歳程度にしては存外に弁達者な幼子がぽつぽつと落とす言葉からは、本能的に“死”を理解している様子が伝わってきた。幼子自身が今まさに、その淵にいるらしき事も。

 幼子の外見からは負傷や病の気配は見られない。しかしそれを言うなら死者である彼がこうしてぴんぴんしているのもおかしな話で、おそらくはこの場所自体が現実でなく、生と死の狭間にある夢のようなものなのだろう。

 

 弱ェ奴は死に方も選べねェ、とはかつての彼の発言であるが、今となっては()の受け売りをそのまま口にした黒歴史だ。だいたい、強い弱いの前にまず運が無ければどうしようもないのが、世の中というものだったりする。

 幼くとも“麦わらのルフィ”に運が無いとは考えにくいが、人生は何が起こるか分からない。

 

 とはいえ、彼には今一つこの幼子がルフィであるという実感が湧かなかった。

 確かに見目は瓜二つである。しかし彼の知るあの男は、自分の命を惜しんで泣く事など無かった。男が自分のために涙を流したのは、兄を亡くした悲しみに我を失っていたあの一時――それとて彼は声を聞いただけで直接目にしてはいない――のみ。

 自分の生をただ自分自身の選択にのみ委ね、たとえ死にゆく時ですらも笑って逝ったのだろうと確信させるあの男。

 目の前でただ泣き伏すばかりの幼子が、その前身であるとは、いやはや。

 

「あの麦わら屋も、小せェ時は人の子だったってことか?」

「う゛ーーー! なんか、…なんかひでェこといわれてるきがする……!!」

「安心しろ、お前のことじゃねェ」

 

 意味を理解していないくせに妙なところだけ勘のいい幼子に、ニヤリと笑いかけてやる。昔馴染みの白熊にまで「キャプテンって小児科向いてなさそうだよね」と言われた凶悪面だ。それに怯みもしないのだから、この幼子にも度胸だけはあるらしい。

 己の態度が少々大人げないものであるとは自覚している彼は、遅れ馳せながら幼子の意図を考えた。

 述べた通り、彼は一見して子供に好かれるような容姿はしていない。一人残されるのが寂しかったにしても、己とあの男なら十人中十人の子供があちらへついていくはずのところ、何故こちらへ寄ってきたのだろう。

 慰めの言葉を期待しているというのなら見当外れだ。あの男ほどではないが、己とて別に気の利いた事は言えない。

 けれどじっとこちらを見つめてくる深い黒目はやはりあの男と似ていて、気付けば口を開いていた。

 

「……自分を哀れんで泣いてる暇があったら、動くんだな」

「! …だ、だってもう……」

「『もう』、なんだって? 『もう』って言って納得できねェからグズグズ愚痴ってんだろが。だったら今からだってやれること全部やってみりゃいいんだ。力尽きるまで突っ走って、それで倒れるなら同じ死ぬんでも今よりはスッキリするだろうさ」

 

 突っ走った結果、同盟という言葉で破天荒なあの男を釣り上げて、最終的に目的が叶った上に生還まで果たしたのが己である。

 しかしたとえ生きて戻れなかったとしても、最期の最後まで己は足掻き続けただろう。無様と嗤われようとも、無駄だと切り捨てられようとも、ただ己の心が走るままに。

 結局は、自分がそれでいいと思えるかどうかだ。

 

「だが、お前みてェなガキには難しかったか。ガキだからな、仕方ねェ」

「が、ガキガキいうな! この……。この…――ヒゲ!!」

「ああ、いいだろう気に入ってるんだこのヒゲ。剃っちまうと迫力が無くてな、雑魚にナメられる」

「くっそおォォ!!」

 

 必死に考えたであろう罵りを呆気なくかわされ、地団太を踏む幼子。

 ひっきりなしにこみ上げていた涙は止まったようである。今やはっきりと彼を睨み、何か反撃の糸口は無いかと少ない知恵を絞っているのが見てとれる。

 やがて、ぐっと引き結ばれていたその唇が大きく開かれた。

 

「――あ、アイツ! …かいぞくおう、ってやつなんだろ!」

「まァ、そうだな」

「じゃあ! ……じゃあおれは、アイツにかつ!!」

「……何?」

「アイツにかって、おれ、かいぞくおうにかったおとこになる!! そしたらおまえよりすげーんだからな!」

 

 指を突き付けてくる幼子の顔は、未だ涙の跡と鼻水にまみれてはいるものの、目は爛々と光っていた。死への嘆きはどこへやら、あれほど泣いていたくせに、やたらと切り替えが早いのはあの男らしい気がした。

 付き合いの長い者にしか気付けぬ程度に弾んだ声で、彼は続きを促す。

 

「へェ。で、どうやって勝つんだ?」

「それはこれからかんがえる!」

「そうか。なら、イイコト教えてやろう。アイツはな、……カナヅチだ」

「かいぞくおうになったのに、カナヅチのまんまなのかっ!?」

「悪魔の実の能力者だったからな、海に嫌われちまってたのさ。あとついでに言うと、おれも泳げねェ」

「おまえもなのか! そっか……よォし!」

 

 すっかりその気になったらしい幼子は、ししっ、と彼のよく知るあの笑い方をして拳を握った。

 それはいいのだが、もうとっぷりと日の暮れて目印の一つも無い暗い海へ、考えなしに飛び込んでいこうとするのには彼も困った。下手をすると方角を見失って沖に流され、浜へ戻れなくなる恐れもあるのにだ。

 どうにか言いくるめて準備体操をやらせたところへ、大きい方のルフィが戻ってくる。

 

「お? なんだお前ら、仲良くなったのか!」

「なかよくなんかねェ! みてろよ、おまえもコイツもおれがブッたおしてやるからな!」

「戻ったか麦わら屋。よし、もう行っていいぞ、……小さい麦わら屋。今から火を焚くから、あんまり遠くまでは離れるなよ。ああそれと砂浜だから大丈夫だと思うが、岩なんかには気をつけて――」

「ちいさいっていうな!! いちいちうるせェぞ、おまえはおれのかあちゃんか! ほっとけ!」

 

 幼子はぷりぷり怒って、服や靴を点々と脱ぎ棄てながら海へ走っていった。彼が軽く肩をすくめてそれらを拾い集めていると、大きいルフィは「かあちゃんかーたしかにそれっぽいな!」と笑う。誰のせいでこんな口うるさくなったと思っているのやら。彼が一睨みすれば自分のやる事を思い出したようで、手早く火の用意を始めたが。

 彼は回収した諸々を一つ所に纏めて置き、波を蹴立てる音に耳を澄ませる。浅い場所で躊躇しているように聞こえるので、意気込みはあってもやはり簡単にはいかなさそうだった。

 

「アイツよー、海に落ちた時に岩で頭打ったらしいんだ」

「頭を打った? ……それで死にかけてんのか」

「おれは小せェ時そういうケガしたことねェからさー。やっぱアイツはおれじゃないおれなんだ」

 

 自分でやると言っただけあって、ルフィは慣れた手付きで焚火を熾した。その片手間に話された内容から、彼は己が不用意な提案をしてしまった事を知る。

 海で死にかけた相手に、海で泳げるようになれとそそのかしたのだ。もしかしたらトラウマになっている可能性もあるのに。

 フラッシュバックを起こした場合、足の着く深さでもパニックになって溺れるかもしれない。

 今し方、彼の言葉に怒って遮ったのだって、岩というキーワードに過剰に反応したからではないか。

 

「……別の方法を…」

「ほっとけよ。アイツだってそう言ったろ。いーからさ、お前はメリー彫っててくれって」

 

 ルフィはどかりと火の前に腰を落ち着け、動くつもりはなさそうだ。貸したライターを手持無沙汰にカチカチ鳴らしている。

 多少の差異があるにしても、同一人物の言う事である。他人の自分がこれ以上口を挟むのもと、彼は最後に一度海の方を見てから、火を挟んでルフィの正面に座り直した。

 

 

 

 慣れない作業に集中していると、時間感覚が鈍る。星の動きを見た感じでは、木材を彫り始めて二時間ほどだろう。

 新月なのか、月は見えない。彼は星座の配置から、ここが現実であれば“東の海(イーストブルー)”のどこかだと踏んだ。

 常の騒がしさを忘れて奇妙なほどに沈黙を保っている男に焦燥を煽られ、彼から水を向けてみる。

 

「……確か、お前は“東の海(イーストブルー)”出身なんだったな。ここがどこかわかるのか?」

「ん? ふしぎ村だぞ! フーシャ村にそっくりだけど、ホントにフーシャ村の浜だったら海に向かって日が沈んだりしねェし」

「フーシャ村」

「風車のいっぱいある、おれの故郷だ! アイツにとっては今住んでるとこだな」

 

 言われてみると、遠く低くうなるような音が聞こえてくる気がする。風車の羽が風を切る音なのだろうか。

 周囲を把握する事を後回しにしていたのは、何故かこの場所に全く警戒心が湧かなかったからだ。

 ルフィの故郷に似た村。そんなところで、己は一体何をやっているのだろう。死人は死人らしく、さっさと逝くべきだ。思い出した限りの記憶の中にも、未練らしい未練は無い。己自身に心当たりが無いのだから、現状はやはり誰かが己の魂を引き留めようとして――

 物思いに沈みかける彼を、幼子の甲高い叫び声が引き戻す。

 

「――あーーーーーッ!! うまくいかねえェェ!!」

 

 ややして、ばたばたと砂を巻き上げながら走ってくる小さな影。まだ遠い焚火の明かりで僅かに照らされたその顔は、歯を剥き出して憤懣遣る方無しといった様子である。

 

「……アイツまさかずっと海に浸かってたわけじゃねェだろうな。体冷やすぞ」

「あの海あったけェから大丈夫だ! 人肌くらい? だったぞ」

「人肌? それは海なのか……?」

 

 体温と同じ温度だというなら、確かに長々と浸かっていてもそう冷えはしないだろうが。

 ふと彼は、人間の羊水と海水の成分がほぼ同じであるという話を思い浮かべた。死に瀕した者がそこへ入っていくのは、ワノ国の死後の言い伝えと併せると……。

 もしかすると、あの幼子の向かう先は、もう既に定まっているのかもしれない。

 

「なァ、思い出したか?」

「は、」

「早く思い出せよー。お前が思い出してなきゃ意味ねェからさ、おれも逝けねェんだよなー」

 

 また唐突に変わった話題についていけず、彼は間の抜けた声を漏らして目を瞬かせた。

 内容を理解するうち、脳裏に蘇る男の声。そう言えばたしかに、潜水艦で。

 

   ――お前が思い出すまで、おれ諦めねェからな!

 

 とてつもない執念を感じたあの声。正体を知った今も、あまり触れたくない話題なのだが。

 何故かわくわくとこちらの答えを待っている男を、無視するわけにもいかない。仕方なく話に乗ってやる。

 

「……おれが何かを忘れているから、お前は死にぞこなってると言いたいのか? なんでそうなる」

「いや死んだは死んだんだけどよー。やっぱ一発お前ぶん殴らねーと気がすまねェから、まだ逝けねェなって」

「待て、どうしておれが殴られなきゃなんねェ!」

「だからーそれをお前が忘れてんだよー。なんで忘れっちまうんだよ、お前が死んだ時のことだぞ?」

 

 ちぇー、と唇を突き出してむくれるルフィへの返事もそこそこに、記憶の未だ霞がかっている部分を必死に掻き分ける。何せ海賊王になった男の拳だ、ちょっと殴らせろと言われて殴られてやるには殺意が高すぎるだろう。可能ならば説得で回避したい。

 思い出せ、己の死に様だ。己に生への未練が無い以上、そう酷い死に方をしたとも思えない。思い出した途端に無様に取り乱すような事にはならないはずだ。

 己はいつ死んだ? 何故死んだ? 思い出すんだ、さあ――

 

   ――お前、勝手だぞ!! なんでこんなことしたんだ!

   ――静かに寝かせろ、もう思い残すことも無ェ

   ――おれはッ! もう誰も死なせねェために、強くなるって決めたんだ!! なのにお前が!

   ――へへ……。せいぜい長生きしろよ、麦わら屋……

 

「……駄目だ。会話の断片しか思い出せねェ」

 

 しかも、肝心なところが抜けている気がする。

 思い出した限りで分かるのは、己の死に際にルフィが付き添っていた事。己にはやはり未練は無く、むしろ非常に清々しい気分で黄泉路へ旅立ったと思われる事。

 ……あと、明らかに何かやらかしたらしい事。ルフィに対して。

 

 困った。どうにもこちらに非があるような印象だ。これでは海賊王の全力パンチを回避できない。

 悶々と頭を抱えていると、横からすっかり存在を無視された幼子の声が割り込んでくる。

 

「おまえら、もうしんでんのか?」

「おー、死んだ死んだ。まァおれは十分生きたし、あとはコイツを一発ぶん殴って礼言ったら満足だ!」

「ぶん殴る気なのに礼ってなんだ…おれは本当に何をやった……」

「だから早く思い出せよな、■■■!」

 

 ころっと表情を変えてもう笑っているルフィの、その口が発した最後の一節が聞こえない。

 文脈的に、それは彼の名を示しているはずだ。唇の形から、母音は『お』『あ』『お』。

 それだけ情報は出ているのに、何故か彼には答えが分からない。死に際にしでかした事と同じく、どうしても思い出せないのだ。

 彼の苦い顔を見て、ルフィは首を傾げる。

 

「自分の名前、分かんねェのか? やっぱ自分の体なくして長いこと経ってっから、頭で何か考えるってできなくなってんのかな。お前頭イイはずなのになァ」

「てめェに考えなしと言われる日が来るとは思わなかったぜ……」

「んん……そーなるとよ、体無ェとお前色々忘れたまんまってことだよな。困ったなー」

 

 大して困ってなさそうなあっけらかんとした声で、ルフィは困った困ったと繰り返す。

 しかしこの男の直感は結構な的中率を誇るので、体が必要というのも本当かもしれない。そうであれば、記憶の回復は絶望的だ。

 ついには謎のメロディをつけてこまったーこまったーと歌いながら横になってしまったルフィは、もう会話に飽きたのだろう。

 同じく飽きたらしい幼子は、また立ち上がって海へ入るようだ。だがこのまま闇雲に水中でもがいていては、いつ泳げるようになるのやら。その背に向けて、彼は思い付いた助言を投げる。人肌と同じ水温の『海』だから、本当の海ではない“海”だから言える事を。

 

「怖がるな。大丈夫だ、()()()はお前を害するものじゃねェ……気を楽にしろ。力を抜いて、体を伸ばして水面に浮くんだ」

「べ、べつにこわくねェ! だいたい、おまえだっておよげねェくせに……」

「今はな。悪魔の実を食う前は泳げたさ。お前と同じくらいガキの頃の話だ」

「なんだそれずりぃぞ! ……おまえのガキのころよりはやく、およげるようになったらおれのかちだからな!」

 

 振り返った幼子は舌を出して「べー」と声にした後、一目散に海へ突っ込んでいった。

 笑みの気配に彼がルフィを見やると、寝転んだまま小枝を持って焚火の火を調整していた。

 

「■■■はやっぱいい奴だな! おれもゴムゴムの実食う前にお前のアドバイス聞いてたら、泳げたかもなー」

「そのいい奴をお前はぶん殴ると宣言してるわけだが」

「ぶん殴るぞ! だってあれは■■■が悪いからな!」

 

 どうにか海賊王パンチを回避したいがゆえの悪あがきは、爽やかな笑顔で切って捨てられる。

 これ以上の問答は無駄と判断し、彼は彫刻を再開した。

 うろ覚えなりに、それらしい形はできてきている。見ているルフィが何も言わないので、大きく間違ってはいないはずだ。

 船首像であれば取り付ける船と接合部を合わせる必要があるが、この場に船など玩具のような小舟一艘だけ。ボートと呼ぶにもみすぼらしいその舳先にこの大きさの船首像を設置したら、完全にバランスが崩壊する。

 ひとまず接合部は後回しにして、黙々と作業を続ける。

 ルフィの方からは、とうとう寝息が聞こえてきた。

 

 それから、また時を置いて。

 

 

 

「っぃやったああァァァ!!!! およげたぞおおォォ!!」

 

 歓喜の雄叫びが暗闇を切り裂く。比喩でなく、幼子が叫ぶと同時に太陽が顔を覗かせたのだ。

 ……()()()()()から。

 

「もうなんでだと言うのにも疲れてきたぞ……沈んだ日が同じとこからまた昇ってきやがった……」

「――…んがっ! お、おお? もう朝か?」

 

 鼻提灯が破裂したルフィが、起き上がってきょろきょろと周囲を見回す。

 そこへ勢いよく駆け寄る幼子。まっすぐと、ルフィに――いや。ルフィではなくて……

 彼は慌ててナイフを放り出した。直後、胸に感じる軽い衝撃。

 

「ぅおっと。おい、危ねェだろ。刃物持ってんだぞ」

「やったぞ!! おれ、およげたぞ! こわくなかったぞ! おまえのいったとおりだった!」

「聞けよ…いや、無駄か。麦わら屋だもんな。……まァいい、ならやって見せてくれるんだろう」

「おう! みてくれ、はやくはやく!」

 

 しがみ付くのをやめた幼子だが、待ちきれないとばかりに彼の手を両手で握って引っ張ろうとする。ついさっきまでナイフを握っていた手を、そして生前は刀を握り幾つもの命を散らしてきた手をだ。

 一瞬、死を刻み込んだその手を掴む小さな両の手が、遥か昔に亡くした妹のものに見えた気がした。

 けれど視線を上げれば、そこにいるのは性別さえ異なる、何よりあの厄介な男の幼少期の姿だ。こちらを見つめる瞳は、星のようにきらめいていて。

 彼は感傷を振り切り、握られた手をそのままに立ち上がった。もう片手に持った、ほぼ完成した船首像を脇に置く。

 拾ったナイフをしまい直し、幼子に手を引かれて海へと足を向けるうち、後ろから「おお! すげェ、あとくっつけるだけだな!」とはしゃいだ声がした。すぐに本人も追ってきて、加減なしに彼の背中に飛びついたあたり、喜び方が大小で同じである。予想できたので今度は踏ん張りがきいた。

 

「サンキューな■■■! なァ最後おれが組み立てていいか?」

「構わねェが、結局そいつはどうするんだ。あの小舟じゃ取り付けただけで転覆するぞ」

「っしし! 任せろ!」

 

 離れる体温に、彼は少々の違和感を覚えて理由を探した。

 思い当たったのは、ルフィがゴムゴムの能力を使わないという事だった。今も、船首像を取るために、腕を伸ばすのではなく自分の足で焚火の傍まで引き返していったのだ。生前ならば、このくらいの距離の物を取る時はよく腕だけを伸ばしていた。

 要するにルフィと言えばゴムで、その印象が強すぎるあまりの錯覚というわけだ。

 悪魔の実の能力は()()()()肉体に宿る。ならば死後の霊魂となった自分たちが、能力を使えないのも自明の理ではある。そもそもこれは焚火の材料を探しに行く前、ルフィが既に触れた話だし、能力を失ったあの男はここに流れ着く前も海中で元気に動き回っていた。

 己とて、オペオペの能力を失っている――

 ……いや待て、本当に?

 

 何故だろう。己はまだ、能力が使えるような気でいる。己を小脇に抱えたルフィが水中で存分に手足をばたつかせられるのに、己は全身脱力して指先一つ動かすのも苦労した理不尽を根に持っているせいだろうか。

 ポケットの中の、ナイフが存在感を増す。幼子に掴まれているのとは反対の手をそこへやると、鉄でできているはずのそれが体温以上の熱を持っており、独りでに震えた。まるで、正解だ、と訴えるように。

 長年連れ添った伴侶のごとく彼の考えに反応する、意思持つ刃。最初はメスだった、これの正体は。

 

「おしっ! そこでみててくれよな!」

「……あァ。期待してる」

 

 思索を中断し、幼子に言葉を返す。

 その場で何度か両足跳びをした幼子は、気負う様子もなく海へ入っていく。腰の上まで浸かる深さで止まり、そこで一度こちらに向けて手を振ると、上体を倒すようにして水に身を委ねた。

 無駄な力の入っていない、水面に対して平行な姿勢。交互に振り出される腕はぴんと伸び、バタ足で飛び散る水も控えめだ。逆光でわかりづらいが、息継ぎだってしっかりしているように見える。

 一つ一つの要素がここまで良くできているというのは、以前から練習を重ねていた証だ。あとは本当に、水に対する恐怖心だけだったのだろう。それはこの海ならざる“海”がもたらす本能的な安らぎによって打ち消された。

 

「どうなんだ? アイツ」

「見事なもんだ。むしろ何で今までできなかったか疑問に思うレベルだな」

「ああ~……それな。たぶん、じいちゃんのしごきが原因だ……」

「お前の爺さんってガープだろ。ガキにも容赦ねェのか……」

 

 視線は小さなルフィからそらさぬまま、彼は船首像を持って戻ってきたルフィと話す。

 やがて泳ぐのを止めた幼子は、その場で大きく拳を振り上げて快哉を叫んだ。彼もまた軽く手を挙げて応えてやれば、ざぶざぶと波をかき分けて海から上がってくる。

 駆け寄る幼子はやはりまっすぐに彼の方へ飛び込んだ。

 

「なあなあ! どうだった? おれちゃんとおよげただろ! みてたよな!」

「見てたぞ。すげェじゃねェか。これまでしっかり練習してたんだな、だからこんなすぐに泳げるようになったんだ。……お前のやってきたことは、無駄じゃなかったんだぜ」

「……うん! むだじゃなかった…おれ、――ちゃんといままでいきてきた!!」

 

 幼子は一瞬、また泣き出しそうな顔をして、それから満面の笑みをこぼした。

 その様を見て、大きいルフィが口を開く。ここまで幼子に向けようとしなかった、太陽のような輝く笑顔で。

 

「……お前、すげェな!! おれ結局死ぬまで泳げなかったけど、お前は泳げるようになったんだな!」

 

 いきなり大声で話し掛けられた小さい方はぴゃっと飛び上がった。

 若干の不審を滲ませて大きい方を見上げ、けれどその顔に浮かんでいるのが確かな笑顔である事に目を丸くして。認められたのだという実感がようやく出てきたのか、はにかむように小声でニシシと笑った。

 

「――っそうだろ! おれ、おまえにかったぞ! かいぞくおうにかったおとこになったんだ!」

「ああ! お前は海賊王に勝った男だ! 宴して祝ってやりてェけど、ここ肉ねェしな。代わりにプレゼントやるよ!」

「プレゼント? ほんとか!? なにくれるんだ?」

「まァついて来いって!」

 

 警戒を解いた途端、物に釣られてホイホイとそちらへ寄っていく幼子。

 ちなみにその単純さは成長しても変わらなかった。ルフィのクルーたちがそれでしょっちゅう苦労していたのを彼は知っている。閑話休題だ。

 子供へのプレゼントなど、あの男は持っていただろうか――彼が様子を見守っていると、ルフィは例の玩具のようなボートの前で立ち止まった。そして組み上げた船首像の顔の部分と自分の額をくっつけ、目を閉じ何事か呟いている。

 

 やがて船首像から溢れ出す、やわらかな光。朝日を受けるのではなく、自ら発光するその木像をルフィはそっとボートの舳先へと載せた。

 接合部だけは未完成の、取り付けられるはずのない船首像は、ルフィの手を離れても浜へ転がり落ちる事は無かった。半ば宙に浮いたままその場に留まり続け、ルフィが数歩後退するのを待って一際強い光を放つ。光は膨張し、ぽかんと見ていて飲み込まれそうになる幼子を大きいルフィが回収してさらに下がった。

 一辺二十メートルほどの範囲にまで膨らんだ光の塊は、そこから次第に放つ輝きがおさまっていって。

 光が消えた後、波打ち際に残されたものは――。

 

「すっげーーーー!! かいぞくせんだァ!!」

「ゴーイングメリー号だ! 海賊王の船だぞ!」

 

 彼が想像していたサイズを大きく上回る、けれど船首に鎮座する羊の頭だけは同じ、麦わら帽子の海賊旗を掲げた船。

 どうやら根本的に勘違いしていたらしい。ルフィがメリーと言っていたのは、ミニメリー2号ではなかった。彼も乗船した事のあるサウザンドサニー号以前に、麦わらの一味が使っていたというキャラベル船の事だったのだ。

 なので正確には、これは海賊王でなくいずれ海賊王になる男の船であるわけだが、そんな細かい話で幼子の感動に水を差すのも無粋であろう。

 それに、そう考えればこの幼き“モンキー・D・ルフィ”を乗せるのにこれ以上相応しい船もあるまい。

 涙の跡を海水で洗い流され、船とその向こうの遥か水平線の彼方を決然と見据える幼子は、ルフィの『プレゼント』の意味をもうわかっているのだ。

 幼子を抱え上げたまま、ルフィは一転して真摯な声で語りかける。

 

「……逝くんだろ。でも、寂しくなんかねェさ。手前までは、メリーが送ってってくれる」

「メリー……このふね?」

「そうだ。“声”、聞こえるだろ?」

「……――! うん、きこえる……」

 

 彼には何も聞こえなかったが、二人のルフィには船の“声”がわかるようだ。

 目を閉じてじっと耳を澄ませ、聞こえる“声”に対して何事か答える幼子。時折口を挟む大きい方。

 語らう彼らをその場に残し、彼は焚火の傍へ置いていた幼子の服を取りに行く。旅立つ者へのはなむけとばかり、なるべく丁寧に砂を払い、ポケットの中まで綺麗にしてやってからルフィたちの元へ戻った。

 

 船の前では話し終わったらしいルフィたちが彼を待っていた。小さい方はもう大きい方の腕から下りて、こちらをじっと見ている。

 物言いたげだが僅かに迷いの残るその視線に、ならば先にと畳んだ服と靴を差し出しかけて、彼はふと気付く。

 

「まだ結構濡れてんな……。おい麦わら屋、あの船の中にはタオルとかあるのか?」

「あるぞ。取ってくるか?」

「頼む」

 

 渡そうとした服を一旦手元に戻し、大きい方が勝手知ったる様子で船に乗り込むのを見送る。靴だけ幼子の足元に置いてやり、さて待つかといったところで、小さな手がずいと伸ばされた。

 

「ズボンだけくれ」

「? ああ」

 

 意図がよくわからないまま、彼は要求通りにしてやる。

 幼子は受け取ったズボンのポケットをごそごそと探り、何かを取り出した。彼が確認した時には、ポケットの中は空だったはずなのだが、この空間で起こる現象に理由を求めても無駄であろう。

 幼子は暫し、握り締めたそれを拳の上から凝視していた。

 浜へ打ち寄せる波の音が幾度か過ぎていって。やがて静かに顔を上げた幼子は、心を決めた目をしていた。

 

「これ、やる」

「……おれにか?」

「おまえにやる。おれの、だいじなものだけど……おれはもう、もってられねェから」

 

 彼は逡巡した。果たしてそれを、己が譲り受けてよいものか、判断がつかなかったのだ。

 これは、自分ではなくあの男こそが得るべきものなのではないか――そんな天啓に似た思いが彼の胸に広がる。

 しかし幼子は既に決断してしまっており、翻意を促すのは容易ではなさそうだ。

 彼がいつまでも手を出さないのを見ると、幼子は「ん!」と口を結んで、握ったままの拳を彼の腿あたりへ叩きつけた。

 背が届かないのだなと思うものの、屈んでやれば受け取らずにはいられまい。彼が棒のように突っ立っていると、次第に幼子の勢いがしぼんでいく。

 

「……いらねェのかよ…おれの、……」

「……それはおれが受け取るべきものじゃねェ気がする。おれじゃなく、アイツに――」

「おまえにやるっていってるだろ!! アイツじゃねえ、おまえじゃなきゃいみねェんだ! おまえ、いしゃなんだろ!!」

「確かにおれは医者だが、それが……いや、悪かった。お前の決意をないがしろにするつもりじゃなかったんだ」

 

 悲痛の色の滲む叫びとともにぽかぽかと足を叩かれれば、さすがに彼も罪悪感のようなものを覚えた。ゆるく両手を掲げて降参の意を示し、膝を折って幼子と目線を合わせる。

 若干涙に潤んだ瞳で、幼子はそれでもまっすぐに彼を射抜く。

 改めて突き出された拳を、今度こそ彼は拒めなかった。その下に、そっと手のひらを差し出す。

 力んでいた幼子の手から、ゆっくりと強張りが解けてゆく。指の隙間が開いて、彼の手のひらに一つ落ちる、軽い感触。

 幼子が腕を引く。彼の手の内に残されたのは、赤い、――溶けかけの、飴玉。

 普通なら価値があるとは思えぬそれ。けれど本当に大切にしていたであろう事は、手放した今もそれから目を逸らせずにいる幼子の姿が何より雄弁に語っている。

 彼は無意識に、空いたもう片方の手を幼子の頭に触れさせた。まだ水を含んでしんなりとした手触りを、二度三度と撫でさする。

 

「お前の大事なもんくれて、ありがとうよ」

「……おまえ、すっげェいしゃなんだってきいた。だから…おまえなら……」

「よくわからねェが……医者だってことに、何か意味が――」

「――おーい! タオル取ってきたぞー」

 

 医者であるという事へのこだわりに疑問を感じた彼だが、戻ってきたルフィの声に遮られる形で口を噤む。

 ルフィは彼の方をちらりと見て、得心したように笑った。そして持ち帰ったタオルを彼に渡さずに、自分で幼子の身体を拭ってやる事にしたようだ。慣れていないのか、少々手付きが荒いのは仕方があるまい。

 じゃれ合っている二人のルフィを眺めながら、彼は貰い物の飴玉をしまい込んだ。何となく、ナイフを入れているのとは別のポケットへ。溶けかけといっても、表面が一度溶けてからまた固まった状態なので、ベタついているわけではなかった。

 やがて水気を拭き取られた幼子に残りの服も返し、幼子がすっかりと身繕いを整えれば、いよいよ別れの時だ。

 

「うしっ! んじゃ、乗るか」

「おう! ……あのな、いろいろ…ありがとう、ございました!!」

「礼を言われるようなことはしてねェよ。お前が自分で得た答えだ」

「しししっ。■■■は照れ屋だからな! お前のこと、結構好きみたいだぞ!」

「チッ……達者でな」

 

 余計な事を言う大きい方に舌打ちして、顔を隠す帽子が無い彼は視線を背ける。幼子まで大きいのの発言を真に受けてニシシと笑うものだから、居たたまれない。

 また大きい方に抱えられて船に乗り込む幼子を横目で見守っていれば、気付いたのか顔だけこちらへ向けて手を振ってくる。

 彼は少々複雑な心情のままに息を吐き出すと、唇を緩めて片手を上げる事で応えてやった。

 

 やがて船から大きい方だけが飛び降りた。

 すると、帆に描かれた麦わら帽の髑髏が形を変えてゆく。帽子は無くなり、髑髏自体も剥き出しの歯がより大きく強調されたデザインに変化した。黒目にも見える眼窩は三日月に細められ、笑っているようだ。

 ひょっこりと船の欄干から顔を出した幼子が、晴れ晴れとした笑顔を浮かべている。その白い歯も眩しい様は、出来上がった新たなジョリーロジャーにそっくりだった。

 

「……あ、メリー浜に乗り上げたままだった! なァ■■■押すから手伝ってくれ!」

「馬鹿言えキャラベル一隻だぞ、何トンあると思ってんだ。押すよか()()()のが早い」

 

 今更な事で騒ぐ大きいルフィを制し、彼は久々の感触を引き出すために目を閉じた。

 すうっと片腕を船の方へと伸ばし、「“ROOM”」と呟けばたちまち自身の知覚が広く引き伸ばされていくような心地になる。

 目蓋を上げれば、船を含む彼の周囲半径百メートルほどが薄青い半球の膜のようなもので包まれていた。

 できるとは思っていたが、実際に能力が発動した事に人知れず安堵して、彼は続けて声を発する。

 

「“タクト”」

「お……おォ!? う、ういてるーー!!」

「おー! よかった、能力の使い方は思い出したんだな■■■!」

 

 本来の重量をものともせず宙に浮かび上がった船に、乗っている幼子は欄干にしがみ付いて戦々恐々としていた。しかしすぐに楽しくなってきたのか、身を乗り出して下を覗き込む。転げ落ちても彼が浮かせるとはいえ、危機感の無い子供である。

 彼はそのまま空中を滑らせた船を、座礁の心配が無さそうなあたりで海へと降ろした。同時に青い膜が消え去り、ざぶりと船の下から波が立つ。

 仕事は終わったと腕を組む彼に、大きいルフィは礼を言って波打ち際へ駆けていった。

 

「おォーーーい!! 元気でなー! メリー、そいつのこと頼んだぞー!」

「――…!! ――ぁ……とな、……! ■■■も、また…ったら、……だちに……って…るか――!!」

「ああ、きっと大丈夫だぞー! がんばれよーーー!!」

 

 大きいルフィの叫び声に、小さい方も答え返しているが子供の甲高い声は聞き取りづらい。同一人物ゆえにか、大きい方は内容を理解しているようだから良しとしよう。

 しばらくすると、船が独りでに沖へと進みだした。船尾からこちらへ手を振っている幼子の姿も、次第に小さくなる。

 彼は大きいルフィのように、ぶんぶんと腕を振り返してやりはしない。

 ただ、その影が水平線の向こう、ここではない次の世界へと去ってゆくまで、目を逸らさずに見つめ続けていた。

 

 

 

「――逝っちまったなァ」

「ああ」

「おれじゃねェおれだけど、ありがとな■■■。お前がいなかったらアイツ、笑って逝けなかったからさ」

「別に……。お前と同じ顔のガキが泣きわめいてんのにうんざりしたんだよ。おれが言いたいこと言っただけだ」

 

 何の気なしにそう答えてから、彼は気づく。これではまるで、目の前の男が泣くのが嫌だと言っているようではないか。

 ああ本当に、どうしてここに帽子が無いのだろう! 分かっているとでも言いたげに、にんまり笑う男の態度にまた舌打ちがもれる。

 

「……それよりもだ! お前、…いつまでフラフラしてるつもりだ。お前の直感じゃ、体が無けりゃおれは思い出せねェんだろ。なら待ってたって無駄だ」

「大丈夫だ! ついさっき、解決法が見つかった!」

「は? バカなこと言うな、おれはとっくに死んでるんだぞ。しかも、さっきってのはどういう意味だ」

「んー、■■■が分かるまで説明してる時間あっかなァ。あっち見てみろよ」

「あっち……?」

 

 ルフィが視線で示した先を辿ってみれば、確かに先ほどまでと何かが違う気がする。

 一見すれば普通の砂浜の光景だ。太陽の位置は多少高くなったし、波打ち際に乗り上げていたキャラベル船は出航済みだが……いや、それだ。波打ち際。ついさっきまで、波はこれほど近くへは来ていなかった。

 

「……潮が満ちてきている? しかし、こりゃ尋常な速さじゃねェな」

「そのうちここら全部海に呑まれると思うんだよ。たき火の材料取ってくる時に村の方行ってみたんだけどさ、何か見えねェ壁みてーのがあってそれ以上先に進めなかったし」

「海に呑まれたらどうなる?」

「また溺れるな!」

 

 口ではそう言いつつも、不安の欠片も感じさせないルフィの様子にさらに疑問が募る。

 追求しようとする彼に先んじて、ルフィは話題を蒸し返してきた。

 

「だからその前に、■■■が新しい体に入りゃいいんだ!」

「……どうやってだよ。新しい体なんてどこにあるんだ」

 

 当然の問いだというのに、ルフィは首を傾げている。まるで、そんな事も分かんねェのか、とでも言いたげだ。腹立たしいが、彼は話を先に進めるためにぐっとこらえた。

 ルフィはその後しばし言葉を探して唸っていたが、面倒になったのか、全く関係無さそうに思える話を始めた。

 

「お前、アイツから飴玉もらったろ。食えよ」

「いきなり話変わったな。今そんな場合じゃねェだろ」

「食えって。そしたら何とかなるからさ」

「はァ……人の話聞かねェ奴だ。だったらお前が食えばいい。おれよりも、お前が食った方が――、……ッ!!!!」

 

 ――お前が食えと。その言葉を唇に乗せた瞬間、彼は全身の毛が逆立つような悪寒に襲われた。

 ぶるぶると、勝手に身体が震えだす。これには勝てないと、本能で理解する。

 己に向けられているのは、これまで感じた事もないほどの強大な威圧感だ。覇王色の覇気。それも“四皇”クラス、いやそれ以上。

 ルフィが海賊王になる前に死んだ、ルフィの同盟者であった彼には知る機会が無かった。これが、これこそが王たる男の気迫――!

 

 だがわからない、何故ルフィがこれほどに憤っているのか。覇王色が漏れ出るほど、タガを外すほどの怒りを何故己が向けられねばならないのか。

 直前までしていたのは、ただの飴玉の話だ。確かに飴をもらったのは彼だが、貰い物を他人にやるのが失礼だとかそんな理由でここまで怒るわけはないだろう。

 では何故、何がルフィの逆鱗に触れたのだ?

 

「ぐッ…! ……!!」

「……そうやって、()()おれに渡そうとするんだ。おれの話なんて聞かずに……! お前、ほんと勝手だぞ!!」

 

 呼吸さえ圧迫する覇気の中、必死にルフィの発言の意味を考える。

 また、とは過去にも彼が似たような何かをしてルフィを怒らせたという事だろうか。これほど激怒されるような悪事に、心当たりは無いのだが。

 ほかに引っかかる言葉は――お前、勝手、……己は直近で、そんな台詞を思い出さなかったか?

 

   ――お前、勝手だぞ!! なんでこんなことしたんだ!

 

 そうだ、これは、己の死に際の……。

 ルフィは彼の死を看取っていた。彼はルフィの前で、何か明らかにルフィを怒らせるだろう事をやらかして死んだ。身勝手に、独りで決めて。ルフィが思い出せと言っている、彼を殴りたい理由がそれだ。

 なんだ? 己は一体何を仕出かした?

 ルフィの言の中で、今回新しく出たキーワードが一つある。「渡そうとする」――『渡す』……。

 

 ……彼は、ルフィに何かを渡した。何かを譲渡して、死んだ。

 死に際に渡せるものとは何だ? そもそも己は何故死んだ? ……違う、順番が逆なのだ。

 

 死ぬ前に渡した、ではなく、()()()()()()()()

 

 思い出せたわけではない。己がその時何を思ってそれを為したのかは覚えていない。

 けれど彼は知識として知っている。そうなる理由を。()()()()()その状況になるのかを。

 はくはくと、息に詰まりながら彼はその答えを口にする――。

 

「…おれ、は……! おれは、…ハァッ、……やったんだな、お前に……!」

「………」

「『不老手術』をッ……! おれは、やっちまったんだなッ……!?」

 

 瞬間、ぶわりとさらに膨れ上がった覇気。

 耐え切れず後方へ傾ぐ身体を、無理矢理に前へと引き戻される。霞む視界は、こちらの胸ぐらを掴んで拳を構える、ルフィの憤怒の形相を刹那に捉えた。

 殴られる。衝撃に備え、歯を食いしばる彼だったが、……痛みはいつまでも訪れなかった。

 

 ルフィの構えた拳は震えていた。殴りたいという衝動を、必死に抑え込んでいるように見える。

 あの、気に入らない相手はノータイムでぶん殴るルフィが、我慢しているのだ。

 獣のように呼気を荒げながらも、未だ無意識に武装色すら纏っている拳を、ゆっくりと、本当にゆっくりと、下げてゆく。その角度が完全に垂直に戻って、もう片手に掴まれていた彼の上着も解放された。たたらを踏んで、膝をつく彼。

 直後、血を吐くような咆哮とともに、ルフィの腕が地に叩きつけられる。

 

「……ッぁあああああァァァ!!!!」

 

 盛大に巻き上がった砂は一時空を覆い、やがて雨のように降り注いだ。

 直撃してはいないが、至近でその衝撃を浴びた彼もその場から吹き飛ばされている。受け身は取ったものの、遅れて降りかかった土砂からは逃げられず、あわや生き埋めかといった惨状だ。

 どうにか脱出し、若干吸ってしまった砂を吐き出して咳き込んでいるところへ、ずんずんと歩み寄ってくるルフィ。

 立ち上がれずにいる彼に、構わず向けられる怒気。

 

「もう二度と!! おれの代わりに死ぬなんて!! するな!!!!」

「――ゲホッ! ……ハァ、ハ…ッ。……おれを、殴るんじゃ…なかったのかよ……」

「お前、まだ思い出してねェ!! お前が死んでお前の仲間がどんだけ泣いたかも! そいつらからの最後の言葉も……! おれだって! すげェ悲しかった!!」

「………」

「なのに、お前、■■■ッ! すっかり忘れて、また同じことしようとしやがって! この、バカヤローがッ……!!」

 

 ひとしきり叫んで、彼の不実をなじったルフィは、しばらく俯いたまま息を整えていた。

 まき散らされていた覇気も既におさまり、圧迫感から解き放たれた彼だが何を言えばいいのかわからない。

 

 ただわかったのは、彼が受け取ってしまった飴玉が、幼きモンキー・D・ルフィの命であった事。

 理解した途端、あの赤い飴玉が血を噴き出す子供の心臓であるような気がして、彼は咄嗟にポケットへ手をやった。

 ポケットの表面を、手で触れて――気付く。

 布地が、本当に濡れている。見下ろせば、触れた手にべったりと纏わりつく鮮紅色……血の色。

 

「…あ……」

「……あ? …んん!? やべェ、飴溶け始めてるじゃねーか! 本気で時間無ェぞ!」

 

 呆然と漏れた声に反応し、ルフィが顔を上げ彼の視線の先へ注目する。その手を濡らす赤の正体を言い当て、慌てて駆け寄ってくる姿には今し方までの激情の名残は見えない。

 ルフィの足元を、追うようにじわりと波が迫ってくる。

 

「全部後でいい! とにかくお前は飴食え!」

「だが……」

「ゴチャゴチャ言うな!! だいたい、おれが食ったってどうにもなんねェ! アイツ死にかけだったんだぞ? 死にかけの体もらったって、医者じゃねェおれに治せるわけねェだろが!」

 

 彼は思わずまじまじとルフィの顔を見た。ここへ来ての全くの正論であった。

 なるほど幼子が医者にこだわるわけだ。しかし、たとえ医者でも死にかけの身で自分自身を治療する事は普通できない。それができるのは、オペオペの能力者で――「すっげェいしゃ」である彼をおいてほかにいないのだ。

 

 ルフィに急かされ、彼はポケットから小さくなった飴を取り出した。もう随分と溶けていて、とてもだが美味そうには見えない。

 色々とありすぎて、一周回って冷静になった彼の頭は、それを口にする前に医師としての所見を弾き出す。

 ルフィの言っていた幼子の状況から想定されるのは、頭部の外傷を発端とする重篤な脳神経疾患。外傷自体によるものか、その後に血腫等が生じた事によるものかは不明だが、脳組織が損傷して機能不全を起こしている。

 現在進行形で治療が行われているという可能性は除外する。それで助かるなら今飴が――命が溶け続けている理由が無いし、手術中だとしても既に執刀担当者の手に余る容体なのだろう。

 正直、その状態の身体と感覚が繋がったとして、意識を保てるかは彼ですら五分五分だ。末期珀鉛病の激痛を耐えて己を手術した実績を信じるしかない。

 

 早く早くと焦るルフィを脇目に、覚悟を決めた彼は一度深呼吸して、小指の爪ほどまで体積を減らした飴玉を口に含む。

 舌に乗せたそれは、すぐに形を崩して蜜のように溶けた。一息に飲み込み、喉を通ったそれが胃の腑まで落ちてゆき――。

 

 不気味な沈黙が過ぎた後、その衝撃は一気に来た。

 

「………――ッが、…っあ、あァッ!!?」

 

 痛いとか気持ち悪いとか、もうそういう次元ではなかった。

 彼が医者として知るあらゆる病の症状を全部足したような……さらにドロドロになるまでじっくり煮詰めて、しまいに熱いままのそれを鋸でごりごり割り開いた頭に流し込まれたような……とにかく酷いとしか言いようのない体験だった。

 繋がった感覚が、瞬時に切り離された。むしろ手放さなければ、この場でひたすらのたうちまわり、治療どころか何もできないまま時間切れで力尽きていただろう。

 気付けば息絶え絶えのまま倒れていたようで、上から不安げに覗き込んでくるルフィの顔が見える。

 

「■■■ッ! 大丈夫か!?」

「…ハァ、ハァッ……どうにか、な……」

「……お前でも、やっぱ無理なのか?」

「ハッ……誰に、物言ってやがる……!」

 

 医師としてのプライドを刺激され、彼はルフィを睨んで起き上がった。

 確かに、今なお脳機能を損ない続けている幼子の肉体を動かして手術に及ぶのは不可能に近い。

 だが、彼ならばその状態からでもやりようはある――“覚醒”したオペオペの能力を用いれば。

 

「一瞬だが、繋がった……小せェお前の、体がある“座標”は把握した。あとはここから、直接『手術』と行こうじゃねェか」

 

 死にかけとは言え、再び命を得た影響か。忘却していた記憶の幾らかが、彼の手元に戻ってきた。

 特にこの場で重要なのが、能力の使い方だ。生前、彼はオペオペの実の能力を“覚醒”段階まで昇華させていた。

 死んだはずの彼が未だ能力を使用できるのは、それが理由だった。“覚醒”したオペオペの能力は、能力者の肉体から霊魂へとその宿主を替える。能力者の死後、その霊魂が完全に自我を喪失するまで消える事がないのだ。

 そして“覚醒”したオペオペの能力の影響範囲は、現世の物理的領域に留まらず、ここのような生と死の狭間――霊的領域をも同時にカバーしている。逆に言えば、能力者自身が霊的領域に存在している場合でも、現世の患者に対して能力を行使する事が可能だ。

 ただしそれには、患者がどこの誰なのか、つまり患者の肉体が存在する現世の“座標”と患者自身の名前を知る必要がある。

 

「患者は『モンキー・D・ルフィ』、四歳六ヶ月。“東の海(イーストブルー)”ゴア王国フーシャ村、村長宅のベッドの上にて昏睡状態……」

 

 張りのある声で読み上げられた自分の名前に、大人のルフィはむず痒そうに身じろぎした。

 彼はそちらに構わず「“ROOM”」と呟くと、出現した青い半球を大きく広げてゆく。拡大した範囲は遥か水平線の彼方まで届き、領域の境目を越えて現世まで到達した事だろう。

 支配下に置いた世界の中心で、一息つく間もなく彼は次なる行動に移る。

 先ほどからうるさいほどに存在を主張する刃物を、ポケットから取り出して手のひらに乗せる。その腕をまっすぐ前方へと突き出して語りかける相手は。

 

「死んだ後まで憑いてくるとはお前も律儀な奴だ。望み通り、存分に使い倒してやるよ――『鬼哭』!」

 

 手の上の刃物、最初はメスで今はナイフの形をしているそれが、光を放つ。

 視界を灼かれぬよう目蓋を閉ざせば、フワリと質量を無くしたのも束の間。すぐに確かな鋼の重さをもって、再び手の内へと戻ってきたものを、揺るぎもせずに彼は受け止めた。

 白十字を連ねた鞘、気に入りの白いファー付きの鍔。鯉口を切れば、無念の嘆きではなく再会の喜びに鳴き声を上げる。

 

「何だ、おれが寝てる間に随分浮かれた性格になりやがって……さてはお前、麦わら屋の(ソウル)も喰ってたな?」

「えェー! おれ食われてたのか!?」

「おれの形見のつもりだったのか知らねェが、妖刀を常に傍に置きゃそうなる。……安心しろ、美味かったってよ」

「そっかならよかった! ……んん? いや、全然よくねェぞ!?」

 

 持ち主の(ソウル)を喰らう妖刀が美味いと感じるならば、それは“(ソウル)の格”が高いという事。

 “(ソウル)の格”が高ければ、霊的な抵抗力も強い。そんな持ち主からは、妖刀とて大量に(ソウル)を奪う事はできないのである。

 心身ともに健康であれば、(ソウル)(たましい)から無限に生み出され続けるものだ。喰われるよりも回復する方が多ければ妖刀に喰い殺される心配はない。

 ――というような話を、きっと同じく妖刀の主であるゾロから教えられただろうが、こいつは絶対に忘れている。

 彼が今言ってもどうせ覚えないので、「とにかくお前は平気だったってことだ」とおざなりに返すにとどめた。

 

 小気味よい音をたてて鞘走らせた刃を、完全に引き抜く。

 持ち替えて切っ先を下に、垂直に立てた刀身を、もう片手を添えて右から左へと滑らせた。

 

「“スキャン”」

 

 刀身の移動に伴い、空間内を同じく右から左へと横切ってゆく、可視化された波動。

 それが通り過ぎた後から、世界が変容する。およそ現実ではありえない、これまでとは全く違う異様な光景へと。

 

 空にも大地にも、細いものから太いものまで幾つもの血管が走り、生き物のように脈打っている。

 砂浜だったはずの地面はぶよぶよとした感触の肉色の何かに変わり、海は赤黒いどろりとした液体になってしまった。これぞまさに血の海、などと考える余裕すらある彼と比べ、足元を見ながらぴょんぴょん飛び跳ねるルフィの狼狽ぶりが目立つ。

 

「ぎゃああぁ!! 気持ち悪ィ! ■■■、何だコレ!?」

「あんまり暴れるんじゃねェぞ。“スキャン”で読み取った小せェお前の脳を模式化してこの空間に投影している。ここで余計なことしたらそのまま小せェのの脳も傷付くからな」

「お、おお……わかった! 暴れねェぞ!」

 

 直立不動になり、息すら潜めるように両手で口を塞ぐルフィ。

 彼はその脇を通り過ぎて、血の海に相対する。

 “スキャン”で得た情報から彼が幼きモンキー・D・ルフィの肉体に対して下した診断は、急性硬膜外血腫。あの血の海は子供の脳を圧迫する血腫であり、今なお出血点からの増大を続けている。

 

「さァて……まずは頭蓋の切開と血腫の除去だな」

「■■■、何かおれにできることあるか……?」

「そのまま治療が終わるまで動かず静かにしててくれ」

 

 背後から遠慮気味に掛けられた声に、一瞥すらせずそう告げて。

 彼は赤黒い海の上を覆う白濁した空へ向け、敵を斬る姿勢で、両手に鬼哭を構える。

 

「任せておけ。――病を斬るのは、医者の領分だ」

 

 ニヤリと笑む彼に、手の中の鬼哭も応えるように熱を持った。

 

 

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