あと、作中の医療知識は適当なので信じないでください。
「――…ッ!! ハァッ! …ハッ、は…!」
衝撃に、カッと目を見開く。叫ぶ声はかすれてどこにも届かない。
口は意識が覚醒する前から既に開いていたようで、苦鳴と唾液をだらだらとこぼしていた。
溺れた人間のように、大きく喘いで酸素を取り入れる。合間に何か喋ろうとするが、舌が鈍って呂律が回らない。
「…ハッ! ハァッ……クソ、やべェ…ッ!」
前例からすれば飛び起きてもおかしくない強烈な目覚めであったが、そこまで身体を動かす体力も無かったか。
ベッドから転がり落ちるようにして床へ下りたローは、そのまま這って扉の前まで来た。どうにか腕を伸ばして取っ手を掴み、開いた隙間に身を滑り込ませる。廊下に出てからは壁を支えにして、震える足で一歩ずつ前へと進んでいく。
言うまでもなく、体調は最悪だ。動悸、冷や汗、頭痛に眩暈。早く処置をしなければ、昏倒する恐れもある。そして医者のいないこの村で、自分以外に正しい治療法を知る人間はいない。
昨夜は難なく辿りつけた食堂が遠い。おそらく“薬”はそこにあるのに。
それでも入り口まであと数歩という所へ来て、焦りから足をすべらせて前のめりに倒れる。手をつこうとしたが、身体が言う事を聞かず、べしゃりと顔面を打ちつけた。
「……ッ!」
「なんじゃ…――! ルフィ!?」
不本意ながら無様な転び方が功を奏して、物音を気にした人物が廊下へ顔を出す。
台所を出てこちらへ駆け寄ってきたのは、スラップだ。
スラップは倒れ伏したままのローを抱き起こし、その明らかに異常な様子に狼狽える。
「ルフィ! こ、これは一体どうしたことじゃ! お前、治ったんじゃなかったのか!?」
「……ハァ、……ッぉう、…さとう、……くれ、…」
「なんじゃと!? もう一回言ってくれ!」
「――砂糖ッ! …くれ!!」
残りの体力を振り絞って叫べば、通じたようでスラップは「砂糖じゃな!?」と聞き返す。
もう声を出すのも辛いローが僅かに頷く仕草で答えると、まだ混乱を脱していないらしいスラップは、ローを両手で抱え上げて食堂へと飛び込んだ。急な浮遊感にさらに気分が悪くなるローだが、辛うじて吐き気を抑え込む。
食堂の長テーブルの中央には、昨夜ちらと見た通り、ほかの調味料とともに砂糖壺が置かれていた。
壺を取ろうとしたスラップは両腕が塞がっている事を思い出し、あたふたと壺とローの間で視線を彷徨わせる。結局テーブルの上にローを下ろして、その目の前に壺を移動させておきながら、付属の匙は自分が握るというちぐはぐな対応になっていた。
「ルフィ! 砂糖じゃぞ!」
「…ハァッ……その、…匙に、三杯……ッ」
差し出された震える手のひらに、スラップは匙ですくった砂糖を指示通り三杯落とした。
ローはこぼさぬように慎重に手を引き戻し、その中身を数回に分けて少しずつ口中へと流し込む。手に貼り付いた分を除いて全てを飲み込み終わると、ようやく一息つけるとばかりに力を抜いて横たわった。
「ルフィ、もう大丈夫なのか!?」
「ハァ…――ああ、……あとは、十分くらい……ハァ、…休む」
「分かった……わしがついておるから、何かあれば言うんじゃぞ!」
「……ッは、…悪い、な……」
その謝罪は、単純に手間を掛けさせた事だけに対するものではない。
異様に衰弱した今のローを見て、スラップは連想したに違いない。昨夜自分の目の前で死の床に就いていた、本当のモンキー・D・ルフィの哀れな姿を。
ルフィではないと分かっているはずなのに、先ほどからローをルフィルフィと連呼するのもそのためだろう。ローはスラップの、未だ癒えぬ心の傷を抉ってしまったのだ。
ここにガープがいない事が、まだしも幸いだ。この上ガープまでもが一緒に騒ぎ出したら、収拾がつかないところだった。
気鬱を散らすようにゆるく首を振り、壁にかかった時計を見上げる。時刻は朝の九時をまわっていた。
処置はしたものの、回復を実感できるまでは念の為意識を落とさずにいたい。
こちらの容体を一瞬たりとも見逃さぬとばかりに見つめているスラップの視線に居たたまれなくなりながら、ローは思考を保つため、こうなった原因である夢の世界での出来事を回想した。
--------------------
「そんで、トラ男はこれから何したい?」
「この流れで聞くかお前。……まだそんなの考えてねェよ」
ゴムのようには伸びなかったせいでヒリヒリと赤くなった頬をさすりつつ、ルフィは気軽な調子で訊ねてきた。
しかしつい今しがた、ようやく前世の自身の在り方に結論を出したローは、今生の展望など未だ全くの白紙である。
「まァとりあえず、お前のアドバイス通り“自由”に生きるのを目標にしてみるか」
「んん? それって、目標になんのか?」
「もちろんだ。前世のおれが満足してた『選択の自由』じゃなく、お前流の真の“自由”を手にするためには、結構な障害がある。今一番ヤバいのはお前のじいさんだ。アレでも海兵だろ、上におれがオペオペの能力者だってことを報告されたら、おれの未来は政府に飼い殺される一択だな」
「じいちゃんは頼めば黙っててくれると思うけどなー。エースをずっと隠してたのだってじいちゃんだぞ? ……あ、でも『海兵になれ!』って言ってくるかもしんねェ」
腕組みして、首を傾げつつルフィが指摘する。
それに納得して「なるほど」と呟いたローは、この場で方向性を決めておく必要を理解した。
朝になれば、夢から覚めてまたガープと話し合わねばならない。その際に武器となるのは、実の孫たるルフィから得た情報だ。
「もっと詳しく聞きたい。そうだな……ガープの人柄はどんな感じだ?」
「えぇー…うーん、……すげェメチャクチャする。ガキの頃、修行だっつっておれ何回も殺されかけたし」
「確かにここの小せェお前は死んだな……おい、本当にあいつ信じて大丈夫なのか」
「政府に告げ口って心配だけは無ェよ。じいちゃんもトラ男のこと『いい奴』だと思ったみてェだし。……でも、じいちゃんに強くなりたいとか、海賊になるとかは絶対言わねェ方がいいぞ! 風船くくりつけて飛ばされたり、底の見えねェ谷に突き落とされたりすっからな!」
「経験談が酷すぎる」
若干顔色を悪くして訴えるルフィにとって、祖父は未だ恐るべき相手のようだ。
ひとまず該当のNGワードを踏む可能性は低いし、最低限の保証だけは期待できると分かっただけで御の字だろうか。
「基本的にはお前と似たような傍若無人の脳筋と捉えればいいか。一度信用されればこっちのものとして、一発勝負だな……」
「おれじいちゃんほど酷くねェよ!?」
「そういうことにしといてやる。で、次だ。根本的なところで、ここが何なのかという疑問」
「ここはトラ男の夢ん中だろ?」
「……正確に言うと、夢という半霊的領域に構築されたおれの精神世界だな。オペオペの能力によるものだ。だが今指してるのはそれじゃない。夢から覚めた後の、今のおれにとっての『現実』世界について考えたい」
しばらく夢の中に居座る事を決めたローは、フォアマストの根元に設置されたベンチに座る。
ルフィも積極的に相談に乗る気があるらしく、ローと対面する位置の丸い芝生ベンチに腰を落ち着けた。
「現実世界なァ。別に普通っぽいけど、トラ男は何が分かんねェんだ?」
「お前が二人いる時点で普通じゃねェんだよ……」
帽子を押さえ、“新世界”のなんでもありに慣れた海賊はこれだから、とこぼす。
ローにしてみれば、現状は空想小説の類のフィクションでしか見た事のない状況だ。いわゆるタイムリープだとか、パラレルワールドだとかそのあたりの話になってくる。
「これがおれの長い妄想だって可能性は、もう切る。たとえ妄想だとしても、こうまでリアルな感覚とこの先も続く時間がある以上、現実として付き合っていくしかねェ」
体感的にはさほど前でもない、潜水艦が大破して、気付いたらただ暗闇の中に浮かんでいた時の事を思いだす。今も結局はあの時の延長で、目の前のルフィも、孫を海に突き落とした海兵も、己の妄想――
……いや、やはり妄想はない。
あの爺の理解不能の行動様式が、自分の想像力で作られたものだとはローは思いたくなかった。
「さらに言うなら、過去にタイムスリップしたって可能性も無しだろう。……麦わら屋、お前はおれか?」
「? おれはおれだぞ!」
「安心したぜ、肯定されたらおれが憤死するところだ。……つまりこの世界と、おれたちが経験してきた『前世』は、現時点で既に連動していない。よく似てはいても別の世界ってことだな」
「じいちゃんはいるけど、おれのじいちゃんじゃねェってことか」
「ああ。だがお前が違和感を感じないほど似ているとなると、完全な異世界というよりも、それこそ蝶が一匹羽ばたいたか否かくらいの微細な違いをもとにした『並行世界』って感じか。実にファンタジーな話だ、真面目に考察するのがあほらしくなってくる」
「今んとこおれが死んでる以外に、おれの覚えてる昔のことと違ってるとこは無いぞ。トラ男が寝かされてんのはガキの頃のおれの部屋だったし、じいちゃんも村長もおんなじだ。村の奴らの顔はまだ見てねェから分かんねェけど」
「情報が足りないな……そういう意味でも、“海軍の英雄”であるガープはうまく味方にしたい」
この世界は、ローとルフィがかつて生きた『前世』の並行世界である。
現状の理解からすれば、それを前提として動いてゆくべきだろう。
しかしたとえ元は僅かな違いであったとしても、バタフライエフェクトなんて言葉が作り出されたように、世界全体に影響を及ぼす何かが変化しているという可能性はある。あまりに前世の知識のみを過信するのは禁物だ。
「とは言え、お前の部屋のレイアウトとかって些細な部分まで一致してるんなら、前世であったもっと大きな出来事は、同じように起こるんじゃねェのか。……ん? ちょっと待て、お前なんで現実世界の様子が分かるんだ」
「おおそれな! トラ男があっちで目ェ覚ましたらここ夜になって、おれ船ん中に閉じ込められるんだけどよー。バーの水槽に、お前の見たり聞いたりしてることが映るんだ!」
「ああ、それでか……」
ローがぶん殴られる切っ掛けとなった失言を知られていたのは、そういう訳だったようだ。
閉じ込められる、というのは、現在霊魂のみの存在であるルフィが、物理的領域から遮断されるためだろう。
夢は霊的領域と物理的領域の境目であり、そこではルフィは自由に動き回れる。だが夢が覚めてしまえば境目は閉じられ、本来存在すべき霊的領域へ戻らざるをえなくなるという事だ。
「あ、トラ男は船ん中入るなよ! なんかやべェことになる気するぞ!」
「お前の直感は本当に優秀だな……分かってる、船の中は完全な霊的領域だ。そして霊的領域における存在の強さは、“
曖昧な感想に対して説明を付け加えてやると、意味を理解したらしいルフィは真顔で訴える。
「絶対入るなよ! 絶対だ!!」
「……『死にたがり』はさっき卒業した、大丈夫だ」
片手を翻して見せつつ、苦笑う。このあたりの信用が低いのは、自業自得なので仕方ない。
「話を戻そう。前世であった大きな出来事は、この世界でも起こる可能性が高い。出来る限り思い出しておきたいが、さて問題だ。今のおれは前世の記憶の大部分を圧縮しちまってて、ガキの頃の世界情勢なんてほとんど覚えてねェ」
「それって思い出さないとダメなのか?」
「さっきも言ったが、ガープを確実に味方につけたいんだ。何せ小せェお前の体におれと大人のお前の霊魂が乗って“D”三人分だからな。お前の知らない、新しい事件に巻き込まれたっておかしくねェ。少なくともガキの間は、事情を理解した上で隠してくれる、力ある庇護者が欲しい。そのための交渉材料は、多い方がいいだろう」
そう、現在ローが問題としているのは世界の在り様を含め、結局のところはここに終始する。
前世においての実績ではあるが、やはりガープが『海賊王の息子』を独り立ちまで世間から隠しきったというのは大きい。そして積極的な擁護を期待するのであれば、まずこちらがどれほどの“爆弾”であるのかを理解してもらう必要がある。オペオペの実の能力者、と言うだけでは不足かもしれないのだ。
保身を前面に出した論理を展開すれば、視線の圧力はゆるめられた。
芝生ベンチに深く座り直したルフィが、さらに意見を重ねる。
「うーん……じいちゃんそこまで気にしねェと思うけどなァ。でもま、トラ男がやりたいようにやりゃいいさ。そのガキの頃の記憶ってのを思い出すには、どうするんだ?」
「圧縮記憶の解凍自体は、特に条件があるわけでもない。おれが望めばいつでも可能だ。ただ、解凍された記憶の量は膨大になる。四歳児のお前の脳には、相当な負荷がかかるはずだ」
「?? どうなるんだ?」
「低血糖の症状が出やすくなる。加えて精神面でも……少しまずいかもしれねェ。解凍した記憶には、その当時の生々しい感情がついてくるからな……。最悪また『死にたがり』が復活だ」
「さっき卒業したって言ったじゃねェか!」
瞬間沸騰して拳をベンチに叩き付けるルフィに、「まァおそらくそうはならない」と嘯く。
そうはならない――正しくは、そうなっても大丈夫、だ。
前世のローが死に魅入られていたのは、自分には生きて『大好き』な人と“愛”を交わす事ができないという絶望ゆえだった。
しかしローの『大好き』な相手は今、ここにいる。……生きてはいないが。
生きてはいないが眠ればいつでも話ができるし、相手曰くローが普通に死ぬまで離れる事はないらしい。自分が生きている限り決して失われぬ“愛”を、ローは手に入れたのだ。
ルフィの存在を思い出すだけで、ローは希望を見出せる。なのにどうして死ぬ必要があろうか?
「万一ヤバそうだったら、目を合わせて呼び掛けてみてくれ。それで戻ってこれると思う」
「うー……! ダメだったらまたぶん殴るからな!?」
あくまでも決行するという態度のローに、ルフィは獣のように唸りつつも抗議を引き下げた。
ローは「そりゃ怖い」と肩をすくめて見せた後、立ち上がって芝生甲板を左舷側へと歩く。ベンチから少し離れたところで、くるりとルフィを振り返って能力を展開した。
「“ROOM”――“メス”」
青い膜が広がると同時、掲げた右腕の先。親指から三指を側頭部へと当て、トン、と軽く叩く。
すると頭の逆側から飛び出したビー玉のような球体を、ローは危なげなく左手でキャッチした。
「お? なんだそれ?」
「圧縮記憶だ。こいつには、故郷を滅ぼされてからコラさんを亡くした時までの三年分が詰まってる。必要なところだけ選んで取り出せればいいんだが、調節が難しくてな……」
よりによってそこか、と自分でも思わなくもないものの、欲しい情報がだいたいその期間に習得した分なのだから仕方ない。故郷で平和に暮らしていた頃は、政治になど興味が無かったし、両親も無理に覚えさせようとはしなかったのだ。
ドフラミンゴはその点、執拗なほどに教育熱心であった。文武ともに、あらゆる分野で自身と同等の教養を、いずれ己の右腕と定めたローに求めたのである。
ローはファミリーで得た知識の多くを、四歳児の脳に収まりきらないとして捨て去った。けれどローの人格の形成に欠かせない人物、ドフラミンゴと直接関わった時の記憶については、消す事ができなかった。
まさに今その部分が必要になるとは、何が幸いするか分からないものである。
「政治、経済、世界情勢……そのあたりの知識は、ドフラミンゴが手ずから懇切丁寧に叩き込んでくれたよ。ファミリーのボスってのはそんなに暇な仕事じゃなかったはずなんだがな」
「ミンゴもトラ男を好きだったんじゃねェか?」
「そりゃねェな。あいつは確かにおれにあらゆるものを与えたが、それはおれを道具として磨き上げるためだ。おれにとっては命の恩であり“愛”であっても、あいつにとってはペットにエサをくれてやったに過ぎねェよ」
ローとて自分の『愛情至上主義』めいた価値観が普通ではない事は理解しているし、他人に押し付けるつもりは無い。
一般常識に照らし合わせれば――そしてきっとドフラミンゴ自身にとっても、ドフラミンゴがローに与えたものは“愛”ではないのだろう。
自嘲とともに吐き捨てて、ローは摘まんだ圧縮記憶の球を目線上に掲げた。
球はちかちかと明滅すると、前方の芝生へと指向性のある光を投げかけた。ローとルフィの間に落ちた、スポットライトのような丸い光の円の上に、モノクロの人物像が立体的に投影されて動き出す。
それは机に向かって書き物をする、幼き日のローの姿だった。
「これトラ男か?」
「そうだ。……お前は見ててもヒマだろうし、適当にしていいぞ」
立体映像には色彩だけでなく、音も付いていない。無秩序な記憶の氾濫を避けるため、情報量を制限しているのだ。見ていて特に面白いものでもないだろう。
しかしルフィはその場に留まっている。そして、余計な事にも気付く。
「トラ男、誰かに抱っこされてんのか? これミンゴじゃねェ?」
「おぞましい表現をするな。……あいつの『授業』は大体あいつの部屋でやってたから、机も椅子もおれに合ったサイズじゃなかったんだ。そうしたらあいつ、自分が椅子に座ってその膝の上におれを乗せやがって……ッ」
当時のローは珀鉛病のせいで、同年代の子供と比べても発育が悪かった。ドフラミンゴはローが背の低さを気にしているのを分かった上で、こうした自身との体格の差を強調するような言動を取る事がままあった。
まったく腹が立つ、と映像を見ている側のローは舌打ちしたが、ルフィからの視線が生温かいものに変わった気がして居たたまれない心地にさせられた。
そこにとどめを刺すがごとく、机上に置かれていたドフラミンゴの手が幼いローの頭を撫でる。
幼いローは威嚇するように何か早口でまくしたてたが、ドフラミンゴになんと返されたのか、勢いはすぐにしぼんで。勉強の続きに戻る前のほんの一瞬、その口元が微かな笑みを象って……。
「………」
映像を進めるうちに、かつて学んだ内容が現在のローの頭に蘇ってくる。
あわせて、その当時感じていた想いもまた、少なからずローの心を騒がせていた。
映像の中では幼いローが、参考書の一節を指さして質問している。ドフラミンゴの顔は映る範囲外にあって見えないものの、身体が揺れているのであの特徴的な笑い方をしているのだろう。
かつてのローはドフラミンゴに、その海賊らしからぬ知識と教養に、憧れさえ抱いていた。
……もしも、この日々が続いていたなら。
自分がファミリーを出奔せずに、何らかの手段で病を克服できていたなら、あるいは――
そんな空想に囚われかけた時、映像の視点が手前に引いて、部屋の全体像が映し出される。
幼いローを膝に乗せたままのドフラミンゴが、奥の扉の方へと顔を向けた。誰か訪ねてきたのかもしれない。ドフラミンゴが短く応答すると、勢いよく扉が開かれた。
はたして、そこに立っていたのは。
「……あ…」
部屋の主のために誂えられた扉よりはやや低い、それでも規格外の長身。ふわふわとした羽根のコートはドフラミンゴのものと色違いで、彼ら二人の関係性を如実に示している。
どんな表情だろうと笑みにしか見えない口周りの化粧は、まるで道化師だ。
愉快そうに肩を揺らすドフラミンゴに話し掛けられて、相手は無言で頷いた。
ドフラミンゴが体勢を変えたので勉強を中断させられた幼いローは、不機嫌に訪問者を睨む。すると訪問者の注目が、ドフラミンゴからその膝の上のローへと移された。
兄とは違いもっさりとした前髪の下から、感情の窺えぬ視線がローを貫く。
モノクロの世界で黒く塗り潰されていたその瞳が、――不意に、鮮やかな赤に染まって……。
「う、ぁ……ッ」
「トラ男!?」
立体映像が、ノイズとともに消える。
記憶の球を掲げるローの手が、痙攣を起こしたように震えていた。
手だけではない。息は乱れ、顔色も徐々に青ざめつつある。芝生の上に投影された映像を見ていたはずの目は、ここに無い別の何かを見るように茫洋としていた。
明らかな異常に、顔を険しくしたルフィが駆け寄ってくる。
けれどローはそれを認識できない。過去と現在の間で心が迷子になっていた。
先ほど得た前世の生き方に対する解が、過去の感情とぶつかって新たな不安を生じさせている。
コラさんを失って死に魅入られたローは、『死んでいい理由』として、コラさんの本懐に殉じるという道を選んだ。
コラさんがローの生を願ってくれたと知っていながら、その想いを裏切って。
ならばローの、コラさんに対する“愛”とは何だったのだ? 結局は自分の我儘を通すための、ていの良い言い訳でしかなかったのではないか?
もともとローは、自分に様々なものを与えてくれたドフラミンゴの方にこそ懐いていた。
そこから無理矢理引き離されて、病院を巡りただ絶望を重ねながら、頼れるのは自分を攫った相手のみという状況。
これは精神医学で言う、ストレス障害の一種ではないのか? 誘拐事件の被害者が生存戦略として犯人との間に心理的な繋がりを築くという例が、事件の発生した都市の名を冠し、正式な疾患として認定されていたはずだ。
ローもそうだったのではないか?
ローの、コラさんへの“愛”と思っていたものは――
「……違う!! おれは、おれはコラさんを…!」
「しっかりしろ、トラ男!!」
矛盾。不安。欺瞞。不信。もう何が本当だったのか分からない。
名を呼ばれている気もするが、飛び散る思考を追うだけで応える余裕も無い。
取り落とした記憶の球が、芝生を転がってローの爪先に当たった。
その感触を頼りに現在を手繰り寄せようと、どうにか視線を定める。
見下ろす先で、透明だったはずの球が内部から赤く濁っていく。
やがて血の色に染まりきった球が、破滅的な音とともに亀裂を走らせて。
「トラ男、おれを見ろ!!」
ぐいと誰かに肩を引き寄せられるのと、球が割れるのは同時だった。
広がる鮮紅色の光が、全てを飲み込んだ。
次第に冷えた血液のように茶褐色へと変わりゆく視界の中、ローの意識は沈んでいった――。
――嫌だコラさん! 約束したじゃないか! おれと二人で世界を敵に回して生きると!
――やめてくれ!! どうしてお前がコラさんを殺すんだ、ドフラミンゴ!
死なないでくれ!! どうか、お願いだから……!
――実の弟なんだろう!? 誰よりお前がコラさんを愛してたはずなのに!
誰でもいい、この人を助けてくれ! おれはどうなったって構わない。 誰か、誰か……!
――おれがお前に弟殺しをさせたのか? おれがいなければ、コラさんは、お前は――
……気が付けば、ローは無我夢中で叫んでいた。暗い箱の中、決して外へは届かぬ声で、届いたところで絶対に叶わぬ願いを。
ローの手足は幼く細く、箱を内側から叩き続ける拳のすぐ下からは、白い痣が肌を染めている。薄汚れた帽子と毛布に身を包み、ただ泣き叫ぶ事しかできぬローは、死病に侵された十三歳の無力な少年だった。
訪れる事の無いと知っている救いを求めて、伸ばした手の先。
……不意に軽くなった箱の蓋。
ああ、もう終わってしまったのか。致命傷を受けたコラさんを放置し、ファミリーの誰かが宝箱を運び出そうとしているのか。
外へ聞こえぬとわかっているから、いやたとえ聞こえてしまうとしても、喉の奥から無意味な叫びが上がり続けるのは止まらない。
だがここで、予期せぬ事が起こる。箱が外側から僅かに開かれ、隙間を縫った光が射し込んだ。
見つかってしまうのか。コラさんの命懸けで為した事が、無駄になってしまうのか。
……いや違う、こんなのは自分の記憶に無い。こんな展開、有り得るはずがない。
思わず叫ぶのも忘れ、呆然と見守る視線の先。完全に開かれた宝箱、四角く切り取られた曇天を背景にひょっこりとこちらを覗き込んできたのは――
「おっ。なんだトラ男、こんなとこにいたのか! 探しちまったぞ!」
頬を膨らませて抗議する、子供っぽい仕草。左目の下の雑な縫合痕。
ここに存在するはずのないその男は、馬鹿みたいに口を半開きにしているローに構わず、子供の軽い身体の両脇に手を入れて掴み上げた。無造作に宝箱の外へ降ろされたローは、はっとして周囲を見回す。
少し離れたところに、仰向けに倒れているコラさんがいた。その口からはまだ白い吐息が冬空へと散っていて、かの人の生存をローに知らしめている。傷の程度は寄ってみなければ分からない。しかしよく思い返すと、直前の銃声は覚えている数よりも随分と少なかったような気がする。
別の方向へと視界を切り替えれば、累々たるドンキホーテファミリー幹部たちの屍。……いやこの男は殺しはしないから、一応生きてはいるだろう。全員、このまま小一時間は起きられないだろうが。
「えーん! えぇーーーーん!! 若様ーーー!!」
「若様がやられるなんて、ウソだすやん!! 若様、若様ー!!」
子供の泣き声がする方を見やる。
幼いベビー5とバッファローが取り縋るのは、顎を腫らして完全にノビているドフラミンゴ。この頃はまだ生え際が危なくなかった、などと物凄くどうでもいい感想が出てくる。
最後に首をめぐらせて見上げた先には、腰に手を置いて「
麦わら帽子はもう無い。けれどローがこの男を呼ぶ名は、やはりこれしかあるまい。
「――麦わら屋ッ!!!!」
声が、出た。厚みを増した、大人の男の声だ。
気付いて自分の身体を確認する。目の前に掲げた左手首にもう白い痣は無い。
視点が未だ低いのは、自分が地べたに座り込んでいるからだ。自分と違って先ほどとまるで変わらぬ姿でいる男の背後、鉛色の空の下で“鳥カゴ”の糸が溶けるように消えゆく。
目に映る風景は、あの雪降りしきる冬島ではない。瓦礫積み重なる、この地はドレスローザ。
若きドフラミンゴも、そのファミリーも、もういない。
――命の尽きるその時まで、ローのために能力を発動し続けたコラさんも。
威風堂々、ただ一人その場に立つのは、この時から僅か一年余りにて海賊王の称号を得た男。
空からみるみるうちに雲が去ってゆく。男の笑顔に似つかわしい、冴え渡る蒼穹と陽光が世界を満たした。
「……ああ……」
漏れた声は、ただ深い感嘆を表す。
事実と些かの相違はあれど、目の前に再現されたのは少年期に勝るとも劣らぬ、ローにとって最も重要な記憶の一つ。
そうだ。“鳥カゴ”の解けたこの空を見た時、最初に覚えたのは心を震わす最大級の達成感。
決して、死ねなかったという落胆ではなかった……!
ローは確かに壊れていた。コラさんが死んだ時から、死に魅入られ続けていた。
けれど。たとえ誰に、理解できぬ狂人と罵られようとも。
それでも、コラさんのために何かをしたいと思った幼い自分の願いは、本物だったのだ。
そして本物だったのは……その悲願を手助けしてくれた男に対して抱いた、感謝の念もまた。
ローの
この男、『モンキー・D・ルフィ』が、いつだってローを導くのだ。
「………麦わら屋」
「おう! なんだトラ男!」
万感の想いを込めて名を呼べば、ルフィは当たり前のように応えてくれる。
「――ありがとう」
「? 何がだ?」
「色々とな。……大丈夫だ。お前がいるなら、おれはおれであっていいと思える」
「うん? 分かんねェけど、まーいっか」
首を捻りつつも深く突っ込んでこないのは、それがローにとって憂いをもたらす内容ではないと直感的に察しているがゆえだろう。
そんなルフィを見つめて、湧き上がる感情のままに笑みを浮かべたローは、一拍後にはその顔を引っ込めて仕切り直す。
「……さて、勢い余って予定外の記憶まで引っ張り出しちまったが……仕方ねェ。全くの無駄ってわけでも無いし、必要経費として割り切ることにする」
「大丈夫なのか?」
「もともと成長に伴って圧縮記憶は少しずつ解凍していくつもりだったんだ。だから面倒なロックは掛けてないし、何かの切っ掛けで不意に溢れ出るって事態も検討はしてた。その分の最低限の余裕は脳内に確保してある…――ん? 鬼哭?」
ふとデニムのポケットのあたりでざわつく気配を感じ、覚えのある状況にすぐさま名を呼んだ。
ポケットにはまたメスに擬態した鬼哭が入っていた。
鬼哭は再び生を得たローから
そして、鬼哭が伝えてきた非常事態にローは表情を無くした。
「マズい、現実の体が死にかけてやがる」
「えッ! でも手術は成功したんだろ!?」
「硬膜外血腫の方は完全に治した! そっちじゃなくて、低血糖の症状が普通なら有り得ないペースで進行してるんだ。ガキの頃に加えてのドレスローザ、こいつの記憶量が当初の想定を上回った……まだ致命的じゃねェが、脳への負荷が危険域に突っ込んでる!」
「よく分かんねェ! つまりどうすりゃいいんだ!」
「とにかく今すぐ目を覚ます! コラさんのこととなれば冷静でいられねェおれ自身をもっと考慮すべきだった……!」
「よし分かった! トラ男、今度こそ歯ァ食いしばっとけよ!」
「ちょっ待て、お前何する気だ――」
「待たねェ! トラ男、起っきろーーー!!」
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――そうして、やっぱりブッ飛ばされて現実で目覚め、今に至る。
あいつはいい加減、ぶん殴る以外の解決方法を学ぶべきだ。ローは遠い目をしつつそう思った。
長々と回想していたおかげで、糖分を摂取してから既に十分。
低血糖を由来とする諸症状は、劇的に回復している。頭だけ、強い痛みは引いたが未だやや熱を持っているのが分かった。解凍してしまった記憶の整理のため、負荷が掛かった状態は今しばらく続くようだ。
ローは自分の想定が甘かった事を認めざるをえなかった。これが自分以外の患者に対しての処置であれば、明らかな医療ミスだ。
もともとルフィが来世へ去るまでの繋ぎと割り切り、その後の自らの生き方などまともに考えていなかったツケが回ってきたのだ。
四歳児の小さな脳に収めるため、幾つもに分割、圧縮してしまい込んだ前世の記憶の詳細。
今回解凍したのは、そんな複数の圧縮記憶のうちの一つに過ぎない。単体ならば問題ないはずであったが、実際はそれに関連した別分野の記憶まで連鎖的に解放されてしまった。
もし今後、何かの折にうっかりほかの圧縮記憶を開いてしまった場合、次こそ脳に重大な障害が出る恐れもある。この問題については早いうちに対応を行わなければならないだろう。
考え込むローだったが、不意にぴくりと肩を揺らし、テーブル上に仰臥していた身体を起こす。
本人の宣言通り傍らでずっと様子を見ていたスラップが、すかさずその背中を支えにまわる。
「ルフィ、気分はどうじゃ?」
「ああ、もう問題無い。ガキにはよくある、低血糖だ。世話を掛けたな」
ローは食堂の入り口を見やる。近づいてくるのは、この家に住んでいるのであろう、昨夜は眠っていたほかの人間の気配だ。
ローが動かずその場で待っていると、やがて廊下から気配の主がのっそりと姿を見せた。
中年の男だ。さして脅威を感じないので、一般人であると思われる。
男はローの姿を認めると、途端に腹立たしげに顔を歪めた。そして足音高く近寄ってきて、やおらローの胸ぐらを掴んで吊り上げる。
ローを支えていたスラップは、男の暴挙が予想外であったのか呆けたように口を開け、我に返ると猛然と抗議の叫びを発した。
「!! な、何をするんじゃピック、離さんか! ルフィはまだ病み上がりだと言うのに!!」
「躾だよ! 親父はこのガキに甘すぎるんだ! そんな汚れた格好で、お客様も使うテーブルに上がりやがって……具合が悪いってんなら大人しく部屋で寝てろ!」
当然、体調の回復したローはその気になれば捕まる前に普通に逃げる事もできた。相手の出方を見るためにあえて逆らわなかったが、吊られただけで床に叩き付けられるでもなし、思ったよりも穏当な対応だ。
ピックと呼ばれたこの中年男、スラップの息子らしいが、幼きルフィに何か含むところがあったのだろうか。
スラップは村の大人たちが皆ルフィの親のようなものと言っていたが、少々誇張されているのかもしれない。
「客、か。この家は飯屋か何かなのか?」
「宿屋だ! いつも閑古鳥だなんてお前に言われなくても分かってるよ、まったく嫌なガキめ!」
「ピック!! そういう言い方はするなと常々注意しておるだろう! だいたいルフィは記憶喪失だと、わしは伝えたはずじゃ!」
スラップは息子の手からローを奪い返すと、また一つ状況把握の材料になりそうな情報を落としてくれた。
とりあえず今、ローは記憶喪失になったモンキー・D・ルフィ本人として周囲に認知されているようだ。真相を知っているのは、居合わせたスラップとガープのみという事か。
スラップはまだ息子に説教し足りない様子だが、それにローが付き合う謂れは無い。
人に指摘されると途端に自分でも昨夜からの色々な汚れが気になってきたので、ほかの必要事項とともにスラップに確認しておく。
「風呂か洗面所を使わせてくれないか。それと、メシはもらえるのか?」
「もちろんじゃとも! 風呂は台所手前から廊下を曲がった先じゃ。朝メシは台所のカウンターにお握りと果物を用意してあるからな! 元気になったなら外の空気も吸いたかろうと、横にバスケットも置いといたが、……本当にもう大丈夫か? 休んでてもいいんじゃぞ?」
「大丈夫だ。ありがとう」
なるべく「麦わら屋らしく」素直に礼を言って、スラップの手を離れたローは一度子供部屋へ戻る事にした。背後では親子喧嘩が勃発しているが関わりたくない。
行きと違ってしっかりした足取りで廊下を歩く。部屋でクローゼットから着替えを取り出し、教えられた風呂場で手早く全身を洗浄。頭だけは塞がったとはいえ真新しい傷があるので、少し注意が必要だった。
さっぱりして、念の為包帯も新しいもの――これも部屋に置かれていた――を巻きなおす。外見から何かあったと判断できるようにしておけば、記憶喪失という設定にも説得力が増すだろう。
着替えて汚れ物を片付け、台所でバスケットの中にお絞りと握り飯を入れる。
握り飯は個別に、大きな葉で包まれていた。手に取った時に仄かな香りが鼻をくすぐり、それはローが嗅ぎ慣れた抗酸化作用を持つ生薬に似ている。薬の元となる植物は図鑑で知っていたが、こういった使い方があるとは意外だった。
豆知識に満足して小さく笑みを浮かべ、別皿から頂戴した真っ赤な林檎を一齧りする。これを食べ終わったら、いざ村内の探検と洒落込もう。
玄関で唯一の子供サイズの靴を履き、真新しい修理の痕跡が残る扉をくぐった。これは昨夜ガープが壊したやつに違いない。
自分で直していったのかスラップの息子が直したのか……もし息子の方だとしたら、よく物を壊すガープが嫌いで、それで孫である幼きルフィに対しても悪感情を持っていたという可能性はあるだろうか。
そのガープは、今朝はまだ姿を見せない。この幼きルフィの肉体が持つ野生動物めいた感知能力でも捉えられないほど、遠くにいるらしい。さすがに話をつけないまま村を去るはずはないから、いずれ向こうからやってくると思われる。
まあ、話すべき内容を吟味する時間ができたのは幸いである。本当は夢のうちに、そこまで終えてしまいたかったのだが。
外はいい天気だ。季節は初冬、乾いた寒風が枯色となりかけた野の草を揺らしている。
宿屋だと言われたスラップ宅の前の通りが、この村のメインストリートのようだ。石畳が敷かれていて、海側は船が着く港まで続いている。もう一方は緩やかに曲がり、山の方へと向かっているが、途中から石畳が剥がれて土が剥き出しになっていた。
一望できる範囲では、海側に商店や住宅が並び、山側に畑や牧草地が広がっている。
情報を集め、夢の中でルフィに確認するためには、人と会った方がいい。ローはひとまず、道沿いに海側へと足を進めた。
「……ルフィ? ルフィじゃないか! もう体は平気なのか?」
そう時を置かずして、進行方向から歩いてくる第一村人と接触した。
にこやかに話し掛けてくる男は、職人らしい白いエプロンを身に着けている。
その手にぶら下げた籠から、……匂い、が、
――さあ焼き立てだよ、召し上がれ
「――ッ」
「ルフィ? どうしたんだ?」
顔色を変えて後ずさるローに、男がさらに歩み寄る。
ローの視線の先に気付いた男は、笑いながら籠にかかっていた布をめくって見せてくる。
「なんだ、腹が減ってるのか? ルフィは食いしん坊だからなあ! こいつは届け物なんだが、サービスのつもりで入れといたクロワッサンが二つ入ってるんだ。一つやってもいいぞ!」
――トラファルガー先生の息子さんなら私の息子も同然さ! 腹ペコのままにはしておけん
「……いい。いらない」
「遠慮するなって! ほら!」
言葉通り籠からクロワッサンを取り出して差し出してくる男。
その姿が、解凍したばかりの記憶と重なる。
――あの禿げ頭の男も、ドンキホーテファミリーの拠点を目指す途上で空腹のローに、自作だというパンを勧めてきた。
かつて父が担当した患者で、ロー自身にも面識があったせいで信じてしまった。
男の言う通りに身を隠した町はずれの小屋に、届けられた美味そうなパン。まともな食事などあまりに久しく、うっとりと見ているうちに先にネズミが齧ったのは間一髪の悪運。
直後、明らかに何らかの毒物を摂取した反応を見せて死んだネズミに、ローは思ったのだ。
もう何も信じない、と――。
「――ルフィ?」
呼ばれた名は、「ローくん」ではなかった。
その事で現実を認識したローは、青い顔のままで男を見上げる。そこにいるのは、ローを毒殺しようとしたあの禿げ頭ではない。
ローの反応をようやく訝しんだ男は、「ああそうか…」と呟いてクロワッサンを籠に戻す。
「そう言えば、お前は記憶喪失になっちまったんだったな……。知らないオッサンがいきなり話し掛けてきて、怖かったんだろ? 大丈夫、酷いことなんて何もしないよ」
頭に怪我を負って、記憶喪失になったモンキー・D・ルフィ。
その設定を素直に信じているらしい男は、黙り込んでいるローの態度を誤解して一歩下がった。
「そっか、『はじめまして』かぁ……寂しいけど仕方ないな。おれはここから五軒先の、パン屋のブレッドだ。ハハッ、パン屋でブレッドなんてそのまんまだろ? これからよろしく、ルフィ」
「……よろ、しく」
「ああ! ……しかし、前のお前はあんまり人見知りしない子だったから、なんだか新鮮だな」
辛うじて返事をしたローに、男はそう言った後「あっ」と気まずげに苦笑する。
「いや、ダメだなこんな、比べるようなこと言っちゃ……。ごめんなルフィ、前のことなんて気にせず、のびのびと過ごしてくれ」
「……別に、気にしてない」
「うん、おれも前のルフィは忘れて今のお前と仲良くなれるよう頑張るからな!」
きっとそれは、委縮しているように見えるローを気遣っての誇張した表現だった。
けれど今の不安定なローは、その言葉を本気に受け取ってしまった。
前のルフィを、忘れる。
つまり本物の『モンキー・D・ルフィ』の存在が、無かった事にされる……。
自分のせいで、本物のルフィが村人の記憶から消える。
人が真に死ぬのは、人々の記憶から忘れ去られた時だと言った誰かがいた。その論に従えば、ルフィを殺すのは自分だという事にならないか?
――おれがいなければ、コラさんは、お前は――
……自分がルフィを殺してしまう。
ああそうとも、どこまでも自分は“愛”した人を殺す運命から逃れられはしない!
「……ぁ…」
「ルフィ?」
「違う、おれは……違う……」
パンの匂いで蘇ったトラウマに引きずられ、前世の感情に心が飲み込まれる。最早ローには、自分が命を捧げたルフィと、自分に命をくれたルフィの区別がつかなくなっていた。
ここは夢の中ではない。ローの心の支えたるルフィの声は届かない。
いや、今この場においては、その『ルフィ』の名こそがローに激しい罪悪感と混乱をもたらす。
ふるふる、と力無く頭を打ち振るローを心配してか、男が再度近寄ろうと片足を持ち上げる。
錯乱したローはそれを切っ掛けに、脱兎の勢いで駆け出した。
「あっ、ルフィ!?」
男の声を背後に、ローは来た道を逆走する。
やがて前方に、新たな人影。
「やあルフィ、大変だったねえ」
「ッ!」
急ブレーキを掛け、また海側へ。
「ルフィ、どうしたんだ!? おれが何か悪いこと言っちまったのか?」
「……!」
パン屋はまだそこにいた。その手がローを捕まえようと伸ばされる。
どう見ても尋常でない様子のローを、一旦落ち着かせるためであろう。だがそれは、今のローをより追い詰める行動でしかなかった。
精神は異常をきたしていても、身に宿る力はローを裏切らない。パン屋の手をかすりもせずに交わしたローは、スピードを緩めぬままさらに海へ向けて走る。
「ルフィ」
「あらルフィ」
「どうした、ルフィ」
「ルフィ!」
出くわす相手が皆、ローをルフィと呼んでくる。
そのたびに本物のルフィが死んでいく。
二度と失われぬはずだったローの“愛”が、手からこぼれ落ちてゆく幻を見る。
人と会うごとに進路を変え、やがて道を外れてどこをどう進んできたのかも分からなくなった頃に、無人の浜辺に辿り着いた。
無我夢中で走り続け、限界を迎えた足は、沈み込む砂に呆気なく敗北する。バランスを崩したローは、受け身を取る余裕も無く砂地に顔面からダイブした。
すぐに顔を上げたものの、それ以上は力が入らない。口に入った砂を吐き出して荒れた息を整える間、ローはどうにか仰向けに姿勢を変えただけで、あとはぐったりと地に横たわっていた。
自分の呼吸が落ち着いた後は、打ち寄せる波の音だけがその場に響いていた。
冬の空は高く、青が薄い。切れ切れに流れてゆく雲を、意味も無く眺め続けた。
鼓動の安定とともに、心中の狂騒もまた静まった。今は何も考えたくなかった。
砂浜に寝転んで動かないローのもとへ、一つの気配が近づいてくる。
無視しようにも、できないほどの強烈な存在感。それをあえて無反応で迎える。
しばらくしてローの全身を影が覆う。立ちはだかる大男が、日を遮ってローを覗き込んでいた。
「なんじゃお前。こんなとこで寝て何しとる」
心底不思議そうに訊ねるガープは、ローの返事を待たずその片腕を掴んで引っ張り上げた。
ローは為されるがままに上体を起こし、けれど立ち上がる事はせず地べたに尻をつけている。
「……まァええわ。ここならちょうど、誰も来ん。お前とはちゃんと、話をせんといかんからな」
ガープはやはりローに無断で、その横へ腰を下ろす。
ちゃんと話を、と言った割に対面に座らないのを、ローは少しばかり疑問に思った。
「夜のことは、済まんかった。ありゃあわしの、身勝手な現実逃避だったわ。このトシになって、情けない真似を晒したもんじゃ」
はーっ、と大きなため息をついた後にガープは謝罪した。
「さすがにな、自分の手で孫を殺したってのはな……堪えた。万一が無いよう常に注意は払ってたなんて、コトが起こってからは言い訳にもならん……」
「………」
「そういうワケじゃから、お前に非は無い。わしの方から、無理に何かを強制するつもりもない。お前はお前で、ルフィではない……それだけ、先に言っておきたかった」
一方的に告げられたその内容を、ローは既に知っていた。前夜に盗み聞いてしまったから。
ただ、その中の「お前はお前でルフィではない」という部分だけは、今のローの心を動かした。
ほんの僅か、肩を揺らしたローの反応に気付いたかどうか。ガープは自分の膝を叩き「さて!」と声を張ると立ち上がった。
「わしの後悔はここまでじゃ。次はお前がそんなに腑抜けとる理由を聞こうかのう」
「………」
「何も無かったとは言わせんぞ。ここに来るまでに会った村の連中も、お前を心配しとった。声を掛けるなり、青い顔してすっ飛んでったって? 人見知りにもほどがあるじゃろ。とりあえず記憶喪失だからって誤魔化しといたがな!」
ガープはローの真向かいにまわると、改めてどっかりと座りこむ。
英雄と呼ばれた男の眼光は鋭く、ローが逃げる事を許さない。
沈黙が続く。ガープは口を開かず、ローが言葉を発するのを辛抱強く待っている。
その黒い瞳が、夢の中で同じようにローを見つめてきた孫のそれと重なって。
「――おれが生きてたら、あいつが死んでくんだ」
ぽつりと、こぼれた声は存外に落ち着いていた。あるいは、既に諦観の域にあるのだろうか。
「人は忘れられた時に本当の死を迎える。ならおれが『モンキー・D・ルフィ』として生きるのは、村の奴らの中にいる本物のあいつの記憶を、おれの存在で上書きして消しちまう、――殺す、ってことだ」
「ふーむ。そういう考え方もあるか」
「おれがあいつを殺すんだ……おれが生きてるから……おれが“愛”したせいで、今度はあいつまで死んじまう……っ」
「………。うん?」
声にする事でまた激情がこみ上げてきて、震える語尾とともに両手で頭を抱える。
そんなローの姿をつぶさに観察し数秒ほど首を捻っていたガープだが、結局考えるのをやめたようで、腕を組んでこう言い放つ。
「………うむ! 分からん!! 前も思ったがお前、なんか根本的に勘違いしとらんか?」
「ッ、勘違いなんかじゃねェ! おれのせいで――」
「そもそもお前の言う『あいつ』ってのは誰なんじゃ」
「そんなの、『モンキー・D・ルフィ』に決まってるだろ!!」
「お前は本当にそのルフィを愛しとるのか?」
「そうだ! 麦わら屋は、おれの恩人だ! おれの命を助けてくれた、おれの心を救ってくれた、おれに“愛”をくれたんだ!! おれを――」
「あーうむ、よく分かったからもうええぞ。……聞き方を変えるか。お前は何があって、その『麦わら屋』を愛するようになったんじゃ?」
「何がって……それは、ドフラミンゴを倒してくれて、…いつだっておれを導いてくれて……」
さらに続けようとしたローの鼻先で、パァン! と盛大な破裂音が鳴る。
絶句するとともに、直前までの熱に浮かされるような心地からも覚めたローは、脱力してぱちぱちと目を瞬いた。
ガープは打ち合わせた両の手のひらを引き戻し、呆然としたままのローへ事実を突きつける。
「ほいダウト。『ドフラミンゴ』と言ったら“
「……――!? …あ……」
「つまりな、お前の言う『あいつ』……さっきは『麦わら屋』と言っとったな。そいつはわしの孫のルフィとは別人じゃ。だから、お前が愛した相手は死ぬとかってアホな話が本当だとしても、それはわしの孫のルフィの死因とは一切! 全く、何の関係も無い!!」
ガープが高らかに宣言した内容は、再起動したローの頭脳に、ぐうの音も出ない正論として染み渡った。
そうだ。いくら並行世界の同一人物とは言え、このガープの孫である幼きルフィが、ローの愛する『麦わら屋』に成長する事はもうない。その未来は、この世界においては既に潰えている。
幼きルフィは、麦わら屋とは別人である。
加えてローが愛した相手は死ぬという理屈も、夢の中で総括したように、単なる妄想である。
恐ろしい事に、その当たり前の事実が、先ほどまでのローの意識からはすっぽ抜けていた。
それはローにとって自らの正気を疑って余りある狂態であった。いっそガープの目も気にせず、今すぐ“スキャン”を自分に対して使いたいほどに。
「……おれは…なんでこんな、……クソッ!」
「お、調子が戻ってきたか? そんじゃ残った方の懸念も解決してやろうかの」
「残った方……?」
砂を何度も握り締め、泡立った感情を流そうと必死に試みるローに、ガープの追撃が向かう。
「人は忘れられた時本当に死ぬんだと、お前は言った。――ならば逆じゃ、ルフィは死なん!!」
「!? 何言って……」
「何故ならば! このわしが! ルフィを忘れはせんからじゃ!!」
立ち上がったガープが、その視線はローを縫い留めたままに叫ぶ。
「村のもんが皆お前をルフィと呼ぼうが、お前ではないわしの孫のルフィがおることを! ルフィを愛している……ルフィを殺してしまったわしだけは! 何があろうとも、決して忘れない!!」
「……ッ」
「お前が生きてるとルフィが死ぬ? かーっ、的外れもいいとこじゃわい! お前がどう生きようが、わしのルフィへの愛は変わらん。そんなことで無駄に悩むくらいなら、メシを食え!」
「……いや最後なんでそうなる!? 話の前後繋がってねェよな!?」
「煎餅あるぞ、食うか?」
「どっから出した!? …じゃねェ、この状況で食うか!!」
思わず身を乗り出してツッコんだローに、菓子袋を手にしたガープは呵々大笑する。
前夜と同様、完全にペースを持っていかれた事に歯噛みしつつも、ローは己の心から一つ重石が取り除かれたのを感じた。
「ぶわっはっはっは! まーわしも老い先短い身じゃし、わしが死ぬ時はルフィも一緒に連れてくことになっちまうがのう」
「安心しろ、あんたはあと…二十八年は余裕で生きてる」
「なんじゃその嫌に具体的な年数は」
「……『知ってる』からな」
昨夜の夢で聞いた、ローに対するルフィの仲間たちからの感謝の言葉。そこにはロー自身は記憶から消してしまった、ローの死後に起こった出来事の情報も幾らか含まれていた。
話によれば、『前世』のガープはルフィが三十二歳の年に死んでいる。死因までは語られなかったので分からない。当時落ち込んだルフィを励ますのにローもそこそこ貢献していたらしく、それゆえの謝辞であった。
「ほう? こりゃあ予想以上に面倒くさそうじゃのう」
「ああ、長くなる。腹が減ったんならその煎餅食いながらでもいいが、ちゃんと聞けよ」
取っ掛かりとしては上々。
自分が錯乱していたせいだが、ようやくガープとまともに話をする姿勢が整って、ローはここからが勝負と唇を湿らせた。
「……おれの名は、『トラファルガー・D・ワーテル・ロー』――“D”は隠し名、ワーテルは忌み名だ。並行世界の未来で死んだ、医者であり、海賊だった」
そんな真っ正直な自己紹介から始まった話は、なかなかスムーズにとはいかなかった。
ガープはその印象通り、読書の趣味など無かったので、まず並行世界という概念を理解させるところで躓いたのだ。
しかし辛抱強く解説すれば、一応は分かってくれるあたり、伊達に海軍という組織で長年勤め上げてはいないという事か。
ちょくちょく疑問に答えつつ、ローが語ったのはおおまかに以下の二つである。
一つ、『トラファルガー・ロー』として歩んだ前世の人生。
これは既に感情を排した『記録』が頭の中にあったので、さして詰まる事なく説明できた。
ただ、ローの人生において、ルフィは最重要人物の一人だ。ルフィについて言及するのは避けられなかったが、ローはその本名を告げずに件の『麦わら屋』であるとだけ開示した。
そこはガープに対する配慮である。孫を殺したと悔いる祖父に、生きてたら孫はこんなに偉大になりましたとか長広舌を振るうのは、控えめに言ってその、まあ、鬼であろう。
二つ、死後に『麦わら屋』の執念と謎の現象によって世界を渡り今に至る顛末。
ここにはガープの本当の孫である幼きルフィが大きく関わるため、ローも特に詳細な説明を心掛けた。幼子のその短すぎる人生にも確かに得たものがあった事、そして悲嘆から立ち上がり新たな旅立ちを迎えた晴れやかな笑みを。
最期の最後、ローに命を引き継いで――恐らくはローに吸収される形で消えた、幼子の精神の残滓。その走馬灯のように幾つもの人の姿がよぎっていった中、ガープの豪快に笑う様が印象的であった事を話せば、しばし洟をすする音が絶えなかった。
「………。すまんな、……続けてくれ」
「……いや。あんたが落ち着いてからでいいさ。おれも少し、思い出した」
向けられた笑顔と、手渡された命――それはローにとって、確かな“愛”だった。
幼きルフィが。『麦わら屋』ではない『ルフィ』が、ローに“愛”をくれたのだ。
旅立ったあの子に、“愛”を返す事はもうできないけれど。死んだコラさんのために何かしたいとかつて心から願ったように、今のローは今の自分にできる事をしよう。
何をすればいいかは、さっきガープが教えてくれた。
「おれも忘れない。あんたの孫の、『ルフィ』のことを」
「………」
「今度こそ、二度と。『麦わら屋』じゃない『ルフィ』を……おれの霊魂が擦り切れるまで、決して忘れずにいると誓う」
瞳を閉じて、もらった心臓の上へそっと手を置く。感じる鼓動は力強く、半日前に死にかけていた事実など無かったかのようだ。
この心臓が止まらない限り、『ルフィ』はローの中で生き続ける。
まったく、困ったものだ。是が非でも死ねない理由ができてしまったではないか。
決意を新たに、ガープを振り仰ぐ。
ガープはじっと、ローを見つめていた。ローの真意を、心根を、余さず見通さんとしてか。
やがてその視線の圧が、やわらいだ。常は破れ鐘のごとき大声を放つ口から、今はむしろ厳かとも感じられる真摯な言葉が降り注ぐ。
「……ルフィの命を受け継いだのが、お前でよかった」
「……おれは海賊だが?」
「関係ないわい。海賊にも気持ちのいい奴はいるし、海兵でもクズはいる。……わしは昔から人を見る目は確かでな、老いてもこれだけは衰えん。そのわしが確信した、お前はいい奴じゃ」
「っ、」
「長生きして幸せになれ。――そして時々でいい、ルフィを思い出してやってくれ」
懇願とともに伸ばされた手を、ローは避けられなかった。
赤子に対するような、決して傷付けまいという心遣いがこもった優しい手付きが、ゆっくりとローの頭を撫でさする。それは海賊の間ではびこる“海軍の英雄”の暴威とも、大きい方の孫から伝え聞いた虐待すれすれの厳しさとも異なっていて。
――ひょっとしたら。
本当は、この男は。こんなふうに、孫を甘やかしたかったんじゃないかと。
けれど継がれた“D”の名が、孫自身が求めた夢が、いずれ孫を押し潰さんとする事を祖父は知っていたから。
だから自身の想いと裏腹に、過酷な修練を課し、途上で諦める事すら願って。
でも、孫は、ルフィは決して諦めずに夢を追って、そして――。
離れてゆく大きな手のひらを目で追いながら、ローは考える。
おれの分まで生きてくれと、命を差し出しながら幼きルフィは言った。
長生きして幸せになれと、孫の忘れ形見に対してガープは言った。
もっと自由に楽しめと、彼岸へ去るつもりだった大人のルフィは言った。
その上で、ローの望みは。
「――これからの、話をしたい」
当初の惑いから完全に覚めたローは、芯のある声でガープに提案する。
ガープは頷き、もう一度砂地に腰を下ろした。次いで少々の緊張感を持って口を開こうとしたローを、軽く手を掲げて制してくる。
「これからの話と言うなら、まず真っ先に考えんといかんことがある」
「真っ先に…? なんだ」
「そりゃ決まっとる、お前の新しい名前よ。お前、事情を知らん他人はともかく、わしに『ルフィ』とは呼ばれたくないじゃろ」
「! ……そうだな、…たしかに……」
ローは瞠目し、言葉少なに同意を返す。
今更呼び名一つで、ガープがローとルフィを混同するなどとは思わない。
ただ、「お前はお前で、ルフィではない」――そう言ってくれた、本当の自分を見ようとしてくれている相手からの呼び名は、やはり自分だけのものがいい。
それはロー自身が気付いていなかった、心の片隅に芽生えた些細な欲求だった。
ローは自分がこの短時間で、あまりにも目の前の男に対して気を許してしまっている事に、愕然としたのである。
「元の世界での名前、『ロー』でいいかとも思ったが、万一の不安が拭えん。
「そこまで読めてるのか」
「……『フレバンス』なんて地名が出てきちまえばなァ」
ガープは雑に頭を掻いた後、両手でパンッと頬を叩いて苦み走った表情を消した。
「ま、とにかく今は名前じゃ。あんまり元から離れすぎてもアレじゃな。ローとルフィ、ロー、ルフィ……うーむ」
「……あっ…いや待て、あんたらモンキー家のネーミングセンスは――」
「よォし! お前は今日から『ロフィ』じゃ!!」
「遅かったッ!?」
一瞬頭をよぎった能天気な麦わら帽子の笑顔。ローは制止の意を込めて片手を突き出して、しかしその連想とよく似た豪放さで間髪入れずブチかまされた宣言に、がくりと上体を崩した。
自分はどうあっても珍妙な呼び名から解放されないのか。
半ば観念しつつも、駄目元で抗議を試みる。
「なんでよりによって一番ダサいとこ選びやがるッ……もっとほかにあっただろ、普通っぽい抜き出し方が! たとえば『ルー』とか、『ロイ』とか!」
「えっ? お前、自分が『ロイ』って感じの顔じゃって思っとるの?」
「あんたの!! 孫の! 顔だよ!」
砂地にダンッと両拳を叩き付けて白目を剥く顔は、まあ確かに『ロイ』なんて語感とはかけ離れている気がする。だがその顔の実の祖父のくせして、まるでこっちがおかしな事を言ってるように反応するのは心外である。
「ぶわっはっは、冗談じゃ!」
「そりゃどっからだ? 名前のとこから全部だよな、そう言ってくれ?」
「顔だけだわい。ええじゃろ『ロフィ』、普通に小さく纏まるよりよかろ? なんせ家族だけの特別な呼び名じゃからな!」
「っ、…かぞ、く……」
なんでもない、当たり前の事実を語るように流された単語。
普通なら、こんな言葉を本気にしたりしない。
なのに、それはローの腹にすとんと落ちてきた。ここへ至るまで何度か感じた、奇妙なくすぐったさに明確な理由がついたのだ。
そうだ。初めの敵対的邂逅、そして盗み聞いた旧友同士の会話。未だ『前世』より十年は若いこの世界のガープは、基本的に一人称を『おれ』と称している。
ガープが己を『わし』と言い、語尾に『~じゃ』などと付けてことさら爺を気取るのは、孫を相手に祖父として接する時、あるいは孫と同年代の子供へ対応する場合だけだったのだろう。
昨夜ローをルフィと思い込んでいた時に、その口調になっていたのは分かる。
では、この浜辺でローをルフィではないと断言した後も。ローの正体がいい歳の大人であると知り、ルフィではない名を与えた今でも、なおローに対して同様に話し掛けるのは……。
「………あんたは」
「ん?」
「あんたは……本気で、そう言ってるのか。おれを、家族にするって……」
ローにとって、家族という単語は軽くない。それは実の両親妹のみならず、死んでも愛してるなどと豪語してくれたクルーたちを表すものでもある。
ローがコラさんの本懐に殉じる事だけを夢見てひた走っていた時も、彼らはずっとそばでローを見守っていた。ローの居場所はここだと、ローは生きていてもいいのだと、声にせずとも態度で示し続けてくれていた。
そんな彼らと同等の存在に、目の前の男はなろうと言うのか。
……きっとローが前世の『トラファルガー・ロー』そのままであったなら、受け入れられはしなかった。
両親と妹とクルーたちと、比較する事すらおこがましいと。ふざけるなと叫び、苛立ちのままに話し合いの席を立ったに違いない。
けれど今のローは、幼きルフィから命と同時に心の欠片をも受け取った存在だ。肉体を失って久しく、あちこち欠け落ちたローの霊体を補ったのは、霊魂の抜け落ちた子供の器に遺された精神の残り火なのだ。
幼きルフィはガープのしごきを恐れてはいても、決してガープ自身を疎んではいなかった。身体感覚以上に、人の心情に敏い子供だった。あの赤い夢の中で、己ならざる己の扱いに窮していた大人のルフィでなく、見た目悪人面なだけのローの方へ寄ってきたように。
あの子は自分が愛されていると、知っていた。
愛を受け取る事を、恐れない人間だった。
生前、失う恐怖に怯えて与えられる愛を拒み続けたロー。
幼きルフィの残り火は、そんなローに愛を受け取る勇気をくれた。
悲惨な前世幼少期の感情から脱して落ち着いている今、ローの胸に湧きあがるのは猜疑でも怒りでもない。
さざ波のごとく打ち寄せた期待は、ノータイムで返される答えによって幸福へと転じる。
「無論本気じゃ! だいたいわしゃァ、演技だの嘘ってのは苦手でかなわん!」
「そう、だろうな」
「……お前、念押ししとかんとどうせ妙な遠慮するじゃろ、戸籍上とか人前だけとか。だがわしはそういう面倒なことするつもりはない!」
「………」
「お前はルフィではない。そして、わしの孫じゃ!! お前がなんと言おうがそう決めた!」
ずいと顔を近づけ歯を剥いて笑う相手から、目をそらせぬままに唇を噛んだ。
子供の体らしくゆるい涙腺を叱咤し、視界が滲む程度にとどめて姿勢を立て直す。締まらない表情を誤魔化すために、叩く軽口。
「……そんな調子で、大事なものを増やして。後悔しても知らねェぞ、“海軍の英雄”」
「なァに、孫は増えるものよ! そもそもお前はルフィより頭は回りそうじゃし、自分から厄介事に首突っ込むタイプと違うだろうに」
「あんたがおれを尊重してくれるんなら、わざわざあんたの足を引っ張るつもりは無ェがな」
前世のくせで帽子のつばを下げようとして、空ぶった手で結局目元を隠して俯く。
幼きルフィから心をもらったとは言え、元のローが大概な頑固者であったのには変わりない。どうにも素直になりきれない意地で、深呼吸して表向きの顔を取り繕う。
そうしてローは、改めて見上げた『祖父』へと、作り慣れた皮肉げな笑みを贈った。
「……上等だ。これからよろしく頼むぜ、『じいさん』よ」
「ぶわっはっはっは! 任せておけ、『ロフィ』!!」
どうせローの虚勢なんて見抜いた上で、触れずに笑い飛ばしてくる大人の余裕に。
その孫に対してと同じく、諦めにも似た圧倒的な安心を覚えてしまったローだった。
途中ローに「もう何も怖くない」とかフラグ立てさせるとこだった。
いかんいかん、まだ早い……。