□
「畜生ッ! ちくしょうッ!」
張り上げたカザミの声が、薄暗い瘴気の谷の底へと響く。その隣ではソードマスターが、ふう、と息を吐きながら、背負った太刀を気だるそうに地面へ放り投げて、谷底を覗き込んでいた。
「この先は瘴気の谷か」
「……はい。ここからは瘴気の谷の……おそらく、中層につながっています。瘴気の濃度は高く、それこそ専用の装衣でもなければ、まともな戦闘すら困難でしょう」
「なるほどな。それに加えて」
と、谷から目を離したソードマスターが、荒れ果てた陸珊瑚の林へ目を向ける。ゴア・マガラの爪痕が色濃く残っているそこには、ぼろぼろに崩れたガンランスと、無造作に放り投げられた盾が、虚しく転がっていた。
「他に彼女が装備しているのは」
「ありません。せいぜい剥ぎ取り用のナイフくらいでしょう。だから――」
そう言って乗り出したカザミの体を、ソードマスターの腕がぐい、と引っ張った。
「待て」
「……どうして止めるんですか? 一刻も早く、セレスを助けないと」
「ああ。だが
ふらふらとおぼつかないカザミの体を立たせながら、ソードマスターが告げる。
「そなたの気持ちも分かる。しかし今は、十分な備えをする時だ。闇雲に動いても、それが彼女を助けることにつながるとは限らん」
「……ですが、動かなければ何も始まりません」
「それでは、そなたは彼女を信用していないのか?」
「そんなこと」
「だろうよ」
よっ、と小さく声を漏らしながら、ソードマスターがその場へ座り込む。肩をいくつか鳴らし、そばに置いてあった太刀を手に取ると、そこからすらりと銀色の刀身を覗かせた。
「信じられないのなら、止めん。けれどもし、そなたに彼女を信じる心があるならば、今何をするべきか、その答えを見つけられるはずだ」
ソードマスターの言葉が、深く昏くカザミの心へ突き沈んでゆく。いつのまにか体を動かす焦燥感も、湧き上がる不安の色も褪せていき、ただカザミはもう一度だけ瘴気の曇る谷底を見下ろしながら、ゆっくりと息を吐いた。
「……ゴア・マガラについての書類は?」
「うむ。一通り目は通してある。あれが古龍の幼体だということ。撒き散らす狂竜ウイルスが、周りへ影響を与えること、そしてその成体……シャガルマガラについても」
太刀へこびりついた紫色の血を拭いながら、ソードマスターが答える。
「しかし、あのゴア・マガラは何だ? 確認したどの書類にも、あのような奇怪なものは載ってなかったが」
「当然です。なにせ、あの個体は元大陸でも非常に稀な存在でしたから。むしろ、あそこまで生存しているだけ珍しい。だからこそ、こんなところまでたどり着いたのでしょうが」
どうしようもないように顔に手を当てながら、カザミはもう一度、ため息を吐いた。
「シャガルマガラ、という龍について、どれくらいご存知ですか?」
ゴア・マガラの成長体である古龍――シャガルマガラ。
虹を思わせるほどに輝く龍鱗に、輝きのそのものを具現化したような金の角。穢れの無いその純白の姿は、まるでこの地に舞い降りた精霊のようで。
腰にある虹色の龍鱗にふと目を落とし、カザミはどこか懐かしむような感情を思い出していた。
「狂竜ウイルスの感染元になっている、というものだけなら」
「はい。ですがそれともう一つ、シャガルマガラの撒き散らす鱗粉には効果があるんです。それが同類の成長阻害……他のゴア・マガラがシャガルマガラになることを止める、といったもので、おそらく今回の個体は、それの影響下に置かれているかと」
「成長が止まる? というのはつまり、他のシャガルマガラの存在を許さない、ということか?」
「その認識で間違いはありません。シャガルマガラが散布する鱗粉にはゴア・マガラの成長を抑制する成分が含まれている。だから、脱皮寸前のゴア・マガラは内に秘めた古龍のエネルギーによって、自壊するはずなんですが」
荒れ狂う二律の相反を思い浮かべながら、カザミが重く口を開く。
「簡単に言えば、アレはそのシャガルマガラの鱗粉を自らの力で克服した個体です。脱皮寸前のゴア・マガラ自身の代謝と、シャガルマガラの成長抑制がぶつかりあった……古龍の
何かから逃れるような叫び声と、全てを恨むように暴れる黒い衣がカザミの脳裏を焼く。けれどその姿にはどこか寂しさが残っていて、それはまるで、帰ることのできないその場所へ叫ぶような、そんな悲しさだった。
「……成熟したシャガルマガラは、全てとある場所へと集います。それはどのゴア・マガラが脱皮した場合も同じ。皆が一様にその場所へ帰ろうとする」
慟哭は、もう叶わないあの地へ響いて。
「天を廻り、回帰する龍――我々は、かの龍を『天廻龍』と呼んでいます」
灰色の彼女が、脳裏でおぼろげに笑っていた。
「けれど、あのゴア・マガラはそれができない。いや、正しくはできなくなった。本来なら、シャガルマガラになり、その地へ帰ることを願ったのでしょうが……体を蝕む他のシャガルマガラの鱗粉によって、それは叶わなかった。そうして帰る場所を失ったゴア・マガラは……」
「この地に流れる古龍のエネルギーに惹かれた、と」
「おそらく。過去の事例から見ても、それが強い理由でしょう」
思い描かれるのは、青く光る龍の結晶。かつて新大陸に訪れた、ゾラ・マグダラオスと同じように、あの相反する龍もその力を求めてここまで辿り着いたと言う。
「あのゴア・マガラの内には、狂竜ウイルスのものと古龍としてのもの、ふたつの力が混じり合った状態です。感覚的には、ほぼ古龍と変わらない――もしかすると、それ以上のエネルギーを秘めている。だから、一刻も早く討伐をしなければなりません」
「……ならば、するべき事は見つかったな?」
「はい。とにかく今は、彼女を信じます」
「うむ、それでいい。であれば、まずはキャンプへ戻るか」
「……分かりました」
頷くカザミは、けれどその瞳に、薄暗い谷底を映していた。
全ての生きる者から追放され、帰る場所すら失った、黒い龍。慟哭はかの地へと届く事は無く、ただ自らに巣くう宿痾に呻きながら、ひとり天を、見知らぬ地を巡る。
そこに帰る場所などないのに、自らの場所を求めながら狂うゴア・マガラを、カザミはどうしてか、ひどく懐かしく思っていた。
叶うことの無い、故郷への回帰。それでも帰る場所を探す、虚無への郷愁。
それはまるで、灰色の彼女のようで――
□
「…………っ」
全身に痺れるような痛みを感じながら、セレスは重たい瞼を開く。視界に広がるのは薄暗い洞窟で、彼女の周囲には、淡い黄色をした煙が見わたす限りに漂っていた。
節々が軋む体を起こし、ぼやけた視界が景色の像をおぼろげに描く。そうして一つ息をつこうと、彼女がすぅ、と口を開いた瞬間、焼けるような痛みが喉を駆け抜けた。
「え”っ”……ぉ”、ぅ……」
喉の奥から湧き上がるような酸味に、セレスがようやく自らが落ちた場所に気づく。腰に巻いていたレイギエナの皮膜を口元に当てながら立ち上がると、暗闇から響く空洞音が、セレスの耳をつんざいた。
岩肌へと手をつきながら、セレスが重たい体を持ち上げる。先へ続く漆黒は昏く、光が届くことは、もう二度とないようにも思えた。
「かえ、らないと……」
ずるずると動かない足を引きずりながら、セレスが何処かへもわからない場所へと進んでゆく。続く血の跡は彼女の足元を示していて、軋む左足に、セレスが顔を歪めた。
血の匂いがする。弱り切った、今にも死んでしまいそうな、肉の匂いが。
「――――っ、ぁ」
全身を駆け巡る殺意へ顔を上げると、セレスはそこに虚ろな瞳を見た。
まるで全身の皮を剥がれたような歪な赤黒い鱗に、光に慣れていないようなぼんやりとした白い瞳。大地を掴むその四肢の先には今にもセレスへ襲い掛からんと光る無数の爪があり、顔に掛かる吐息は、腐った肉の匂いがした。
紅の凶刃。血に猛る修羅。全てを刻む、惨爪の化身。
かの者の名を。
「オドガロン――」
迫りくる荒々しい牙に、セレスはとっさに壁を押し、倒れ込むようにして身を屈める。セレスの真上を通り過ぎていく惨爪竜は、そのまま地面に着地すると、再びその身をひるがえして、セレスの向かいの壁へと体を張り付けた。
「ついて、ないっ」
きゅぉお、と、まるで人がつぶれたような叫びを上げながら、オドガロンがセレスへと飛び掛かる。咄嗟に取り出した使い捨てのハンターナイフは、オドガロンの手の先から生える爪を受け止めて、しかしその小さな体を吹き飛ばした。
背中へ打ち付ける衝撃を受けながら、セレスが急いで立ち上がる。流れ出す左足からの血が、オドガロンの虚ろな瞳に、しっかりと映っていた。
瘴気が、彼女の身体を蝕んでいく。体の力が抜けてゆき、けれどセレスの頭は、どこか快楽のような、ふわふわしたものに包まれていた。
「あ……ぐ、っ…………お”、ぇ」
込み上げる血潮を飲み下し、セレスが膝をついて立ち上がる。もはや満足に立っている事すらできず、揺れる体が岩肌へともたげられるが、けれど彼女の瞳に灯っている光は、衰えることを知らなかった。
手にしたナイフを鈍く光らせながら、小さな腕を対面する修羅へと向ける。白昼夢を表したかのような濁の瞳が揺れたかと思うと、セレスは視界の端に、こちらへと襲い掛かる惨爪を見た。
「ぐ、っ……!」
軋むような音を立てながら、無数の爪と小さな刃がぶつかり合う。オドガロンの牙が眼前へと迫り、その口の奥の暗闇は、セレスの瞳の光を吸い込むようにしてぽっかりと穴を空けていた。
全身が痺れる。力がだんだんと抜けていく。体中を走る痛みは、セレスの意識をだんだんと奪ってゆき、
「――――――ぁ……」
ふらり、と体が揺れる。
惨爪竜の腕は彼女を簡単に押し倒し、そのまま地面を擦りつけながら、その小さな体を投げ捨てた。割れるような頭の痛みと共に、彼女が岩へと叩きつけられたことを理解したのは、オドガロンがこちらへ歩いてい来るのと同じくらいだった。
朦朧とした意識の中、ぼろぼろになったハンターナイフが目に映る。
「……無理、か…………」
もとより使い捨てのものなのだ。むしろ、あの惨爪竜の攻撃を二度も受け流した時点で幸運だったのだろう。もう既に、戦えるような武器も、それを扱うような力も残っていない。そう考えると、セレスはどこか解放されたような、そんな心地よい感覚を覚えていた。
ぱたり、と腕が投げ出される。軽い音を経てるハンターナイフが、血に塗れた視界で鈍く光っていた。
思えば、既に尽きる筈の命だった。あの禁じられた土地へ踏み入った時点で、この小さな脆い命は消え去るはずだったのだ。そう考えれば、これは運命のようにも思えた。
全ての音が消えてゆき、残るのは追憶のみ。そうしてセレスは、かつての残響を見た。
灰色の景色が蘇る。
自らへ指をさすひとと、突き抜けるような高嶺の青空。
全てを蝕んでいく漆黒と、風に揺れる黄金。
孤独に包まれた自分と、差し伸べられた腕。
――思い出されるのはただ一人、彼女を見てくれるひと。
「……カザ、ミ」
既に力も、気力も残っていない。けれど彼女の身体は何かに圧されるようにして立ち上がり、ぼろぼろになったナイフを手に握る。
死ぬのだろう。誰もいないこの地で、彼女は無残に食い殺されるのだろう。それは逃れられぬ運命のようで、生き延びた時間へ対する罰のようなものなのだろう。
けれど、その意志を捨てることは、できなかった。
「死ねない……まだ、私は……!」
虚ろな郷愁が、彼女の心を埋め尽くす。
「カザミの、ところに…………!」
走り抜ける紅が、深淵のような口を開く。大地を駆ける足はセレスを切り刻まんと空を切り、無数の牙がセレスへと向かい来る。けれどそれに憶することはなく、ただセレスはふぅ、と一つ息を吐いて、ぼろぼろになったナイフを正面へ構えた。
戦慄が駆け巡り、体の全ての感覚が抜けていく。そこにあるのは執着のような生きる意志で、その根底にあるのは、灰色の景色を色づけた、彼の伸ばす腕だった。
体を斜めに構え、その意志は銀の切っ先へ。握る手は強く、その瞳はまっすぐと。
――郷愁。
たとえ、それが叶わぬ夢だとしても。
「ああぁぁぁぁああああ――――!」
襲い来るオドガロンへ叫んだ瞬間――それを、黒い衣が薙いだ。
「……っ、何…………!?」
まるで嵐のようだった。荒れ狂うようなその黒い暴風はオドガロンを巻き込んで、岩肌を抉りながら、洞窟の奥へ奥へと突き進んでゆく。
狼のように吠えるオドガロンの叫びを黙らせるように、生まれたての赤子のような、苦しみから手を伸ばすような叫び声が、薄暗い谷の底で響いた。漂う瘴気はいつのまにか薄暗くなり、懐かしいあの記憶がセレスの中へ蘇る。
オドガロンの体を捻じ伏せるその翼脚には宿痾が蝕み、天を仰ぐその頭には、相反するような白と黒の角。届かぬどこかを見つめているその双眸には、虚構のような昏きがあった。
渾沌より生まれし忌み子。叶うことのない郷愁。全てから恨まれた、異形の怪物。
それは、まるで鏡のようで。
「ゴア・マガラ…………?」
そうして、彼女は――――まるで慟哭のような叫びを上げる、二律の狂乱を見た。
□