完全に忘れてました。でも今からコロンビアだけいなかったことにするのはあまりにもかわいそうなので許して
彼は僕の言葉を聞いた瞬間、目にも止まらぬ速さで店を出て行ってしまった。 さりげに僕に会計を押し付けた形になるな。まあ、彼の部下のことを考慮すれば、もう次は無いかもしれないからな。これくらいはいいだろう。
少々飲み足りない気もあるが、悩みを誰かに打ち明けるだけでも違うものだ。それに僕の所も彼の場所に比べれば意外と酷くないのかもしれない。そう考えると気が楽になった。
結局、予定よりも早く泊地に帰ることにした。帰る場所は必然的に泊地になってしまうが、執務に戻る気はない。今日はもう部屋にこもって誰とも会わず本でも読みながらゆっくり過ごそう。うん、それがいい。
「あ、ご主人様! おかえりなさいませ!」
正門のそばを歩いていたベルファスト──をだいぶ幼くしたような女性……? 少女? いや、これはもう幼女だな──が、とてとてと駆け寄って僕を出迎えた。
「うん。ただいま」
軽く手を振りながらベルファストに返事をする。
この幼女(仮称ベルちゃん)は少し前にマリアナ海溝よりも深い事情があって生まれたミステリーかつミラクルな存在だ。
本来のベルファストはこのような愛嬌と砂糖と素敵なものをてんこもりにして生まれたような幼女ではない。かつてはこの泊地においてメイド長を務める
元々は一部の隙も無い瀟洒なメイドだったのだが、本当にどうしてこうなった。
「荷物をお持ちしま……あれ」
事前にイメージトレーニングでもしていたのか、淀みない動きで僕の手から鞄を受け取ろうとするが、その手は空を切った。
「すまない、今日は手ぶらなんだ」
練習通りにやることだけに集中しすぎたあまり、そもそも僕が鞄をもっていないことに気づいていなかったらしい。
初っ端からミスを犯したことでわたわたと慌て始めた。
「あぅ。じゃ、じゃあえーっと、えーっと……あっコート! コートをお持ちします! お脱ぎください!」
「ああ、いいとも。任せたよ」
ベルファスト(幼女)は唸りながらも頭を回転させ、なんとか次の一手の絞り出した。
僕はそれを快諾してコートをベルファストに預ける。実のところ、寒がりの僕としてはまだコートを着たいのだが、ここで彼女の申し出を断るのは流石に酷だからな。
最近は周りの人間関係によく悩まされるので、精一杯頑張るベルちゃんの姿には癒される。何があってもうろたえず、静かな佇まいを崩さないベルファストとは似ても似つかない姿だ。
利己的な話だが、どうしても彼女にはそのままでいてほしいなどと思ってしまうな。
◆
「明らかに指揮官の態度が他の人と接するときよりも柔らかいわ! 認めたくないけど、やはりアークロイヤルの言葉は真実なのかしら……?」
「待て、そう結論を急ぐな。園児服やランドセルの手配をするにはまだ早い」
寮舎の二階に設けられた窓から、双眼鏡を覗いて指揮官とベルファストの様子を覗き見ている人物がいた。エンタープライズとティルピッツだ。
二人は件のアークロイヤルの爆弾発言の真相が気になるあまり、ベルちゃんが指揮官を迎える準備をしているのを見て、渡りに船だと真偽を確かめるべく寮舎の二階から正門を観察せんとやってきたところをばったりと出くわしていた。
しかし立場は違えど同じ目的を持った同好の武士。まさしく呉越同舟、一目見ただけでお互いの思惑を悟り素早く協力体制を敷いていたのだった。
「だいたい指揮官のロリコン疑惑とて疑惑に過ぎんのだからな。アークロイヤルのはやとちりの可能性が高いだろう」
「私もそう思っている。でももし……」
頭ではわかっているつもりでも、心のうちに巣食う不安は拭いきれない。もし本当に指揮官がロリコンだったらどうすればいいのか。高い身長に豊満に育った胸、静謐な顔つき。どれも指揮官の性癖次第では強力な武器にも鈍重な枷になりうる。
うっかりロリコンだった場合は最悪だ。ティルピッツのその容姿は幼女という存在から対極にある。ティルピッツの不安も当然だった。
「そう案ずるなティルピッツ。我々の視線の先にはベルファストという最終手段の実例がいるじゃないか」
「……そうね。私も自分の方からストライクゾーンに飛び込むぐらいの気概が足りなかったわ」
「むしろ全力を賭して指揮官の性癖をこちら側に捻じ曲げる」
「流石のガッツねエンタープライズ……」
「む、見ろ、ベルファストに動きがあったぞ!」
「あれは……」
エンタープライズの言葉を聞き、ティルピッツがすかさず構えた双眼鏡のレンズは、身に余る大きさのコートをよろめきつつ抱えるベルファストを映した。
だが二人は見逃さなかった。そのまま、さりげなくコートに顔をうずめて荒い呼吸を繰り返すベルファストの姿を。
ベルファストがよろめいたのはコートの重さからではない。その小さな体全体を包むような指揮官の匂いに悩殺されて一瞬気を失っていたからだったのだ。
「見ろ、あの表情はコートから漂う指揮官の香りに蕩けているときの顔だ! 私にも覚えがあるから間違いない!」
「くっ、あのロリメイドなんて妬まし……うらやま……けしからんことを!」
「おのれベルファスト! やはり幼くなろうとも中身は澄ました顔しながら指揮官の使ったスプーンをくわえて食器洗ってた頃となんら変わらないではないか!」
「あのメイド、そんなに業が深かったのか……」
在りし日の毅然とした姿のベルファストしか知らなかったティルピッツは、双眼鏡を覗き込んだまま静かに慄いていた。
かつてはその鉄面皮の裏に、現在は屈託のない笑顔の裏側にどのような情念を隠しているのだろうか。あまり知りたくはない。
「それにしてもよく肉眼で捉えたわね。この距離で双眼鏡もなしに見えるのは信じがたいのだけど……」
「見えるとも。私の得物は弓だぞ。この程度の距離ならどうということはない。ベルファストと指揮官が恋人繋ぎで手を繋いでいるまで見え……なんだとぉ!?」
「い、一体いつの間に……!」
仮称ベルちゃんは絡みつくように指揮官の手を握りつつも、僅かに腕をひねることでさらに互いの距離を密着させる高等テクニックを駆使していた。肝心の指揮官もそれに気づいた様子はない。
だんだん縮む、二人の距離。
「ダメだもう見てられん!奴を指揮官から引き剥がす! 今ので確信したぞ、例え外見が変わろうと奴は依然ベルファストのままだ! 周到な奴の事だ、恐らく何らかの手段で指揮官を篭絡する段取りが整っているに違いない……! 急げ、指揮官の理性が無事である内に!」
言うや否や、窓から飛び降りるエンタープライズ。着地に合わせて受け身を取るように前転し、衝撃を殺す。すかさず体を起こし、正面を見やって指揮官とベルファストが屋内の個室に入るまでの時間と、自身の距離を目測で計算する。
「やれる、まだ十分間に合う距離だぞ、走れぇ!」
エンタープライズが駆けだすと同時に、ティルピッツも遅れて飛び降りる。
着地のインパクトを膝のバネで吸収。帽子を深く被りなおしつつ、貯めた衝撃で地を蹴り、爆発的な加速力ですぐさまエンタープライズに並んだ。
泊地を駆ける、二筋の白い疾風。
見るものを惹きつける美しい有り様は、息を呑むほどであったが今はそれどころではない。事態は一刻を争う、エンタープライズもまた帽子が風に飛ばされるように頭を押さえつつも、ティルピッツに事の重大さを伝える。
「ベルファストはあのまま適当に理由をこじつけて部屋に二人きりで入り、内鍵を閉めるつもりだ!」
「合鍵は!?」
「当のメイドが全て管理している!」
「なら壊すのは!?」
「お前は高雄の剣閃よりも早く扉を蹴破れるか!?」
「なるほど指揮官が部屋に連れ込まれたら終わりね、把握したわ!」
「だが相手は所詮幼女、手段を問わなければどうとでもなる。ここは確実に……」
「──お前で28人目。恐れるな、死ぬ時間が来ただけだ……なんてね」
二人の前に立ちはだかるように、上空から一つ影が降り立った。
「っ!?」
「ッ、こんな忙しいときに!」
衝突を防ぐため、二人は砂煙と火花を巻き起こしながら滑るように足に急ブレーキを掛ける。
「何やら急いでるみたいね?」
「エディンバラ……っ!」
エンタープライズが苦々しくメイドの名を呼んだ。
銀髪を二つに束ねて編んだおさげと、大きな丸眼鏡が印象的なメイドだった。何やら垢抜けない、ぱっとしない雰囲気の持ち主で、平常であれば持ち前の影の薄さで気にも留めなかっただろう。だが、それが何よりも異様。
高速で移動する二人の前に突如飛び出すその胆力もそうだが、さきほど聞こえた剣呑な口上には背筋の凍るような確かな殺気があった。
それが今は微塵も感じられない。今の言葉は本当にこのメイドが発したのか? そんな疑問さえ浮かぶ程、彼女の風貌は先の発言の迫力と釣り合っていなかった。
「邪魔をするというのか」
ティルピッツが食って掛かる。エンタープライズは静かに姿勢を低く構え直した。
「今日はうちの妹が珍しくマジだからさ、たまには陰でこっそり支えるくらいいいでしょ?」
「ダメよ、押し通らせてもらう」
「もしあなたがもう一歩でも進めば、あなたたちは──」
ティルピッツが、エディンバラの言葉を遮るように一歩踏み込んだ。
「──サイアクなひとときを過ごすハメになる」
ほんとはもうちょい長いんですけど書ききろうとするといつになるか知れないので短めです