世界と世界には壁がある。それを証明した者は誰もいない。それはそうだ、行ったことのない場所へ、然も在るかどうかすら怪しい別世界である。証明しようとする方が無謀だし、更に言うなら馬鹿げている。だが、それが『ない』とも証明出来ない限り、世間が納得しても自分が納得出来ない。
例えば、ある選択を『した』『しない』で世界が分岐するとしたら、『した』世界と『しない』世界は別のものになるだろう。そのどちらか、或いは両方で更に選択が分岐するとしたら、それによって発生する世界はそれこそ無数になる。そしてもし時間遡行出来たとして、その選択をやり直すことも可能なのではないか? そうすれば今の状況も変わるかもしれない。だがそんな他世界解釈を口にすれば、一笑に付されるのは必死。そもそも射影仮説とか量子もつれとかいったって、理解されないし自分も理解出来ない。バタフライ・エフェクトと言った方がまだ理解されるかもしれないが。
「まぁ、言ってしまえば自己満足なんだがね」
別に良いじゃないか、妄想するのは勝手だし。それに少しくらい現実逃避しないとやってられないよ。タイピングする手を止め、独白しつつ背もたれに体重を預けて背を伸ばす。そしてその姿勢のまま、両腕で隈が浮き出ている両眼を覆った。
たった一つ、そう、たった一つの詰まらない選択で、今まで積み上げてきたものが全て崩れてしまった。それが『正しい選択』であっても、他からすれば――この場合は社会的なものだが――『間違った選択』であることもあるし、実をいうと社会にはそんな理不尽な選択が多々ある。それをやり直したいと願うのは、人として当然だと思う。人は後悔する生き物だから。
……でもどうして『正しい』ことをした私が、『間違ったこと』をしているあのバカ息子の所為でこんな目に遭わないといけないんだ? そんなに自分の子供が可愛いのか? 只のバカなのに! ああ、バカほど可愛いというやつなのか? まったく、あのう○こ院長め! 理事長にチクってやればよかった! でもこんなときに限ってその理事長が出張でいなかったんだよね。いないのを狙ったんだろうけど。そんな悪知恵ばかり働くよ、あの○×△親子は!
そんなことを考え、無意識に歯を噛み締めていた。暫くし、両手を力なく降ろして天井を仰ぎ見る。その視線は、宙を彷徨っていた。
ずっと座って同じ姿勢だったため、思い切り肩が凝ってしまった。肩を回して軽くストレッチをする。うん、まだ肩甲骨は動くな。いい加減運動しないと身体が鈍ってしまう。そんなことを考えつつも、
「シャワー浴びて寝よ……」
後日にしようと寝る算段をした。カーテンから外を覗くと、空の稜線が明るく白々としてきている。いやぁ、流石に一八階は眺めが良いなぁと事実から背を向けてバスルームへ行く。流石に二徹は辛かったな。もういい歳なのに。……はぁ、いい歳なのに今更無職とか、別に誰が困るでもなく自分が困るだけだから構わないと言えばそうだけど。
部屋着を脱ぎ、ポケットの中身を確認しながら洗濯機へ放り込む。手紙が入っていた。
『今度結婚するからリンちゃんも来てね』
ハートマーク付きの招待状だ。式の日付は一週間前だったが。まぁねぇ、現住所誰にも教えてないからこういうのが実家行っちゃって、然もそこには誰もいないからこっちに届かないってのあるからね。でも然して親しくもないのに結婚式に呼ぶとか、嫌がらせかな?
そんな被害妄想的なことを考えつつ、欠席にチェックを入れた手紙をゴミ箱へ『投函』してバスルームへ入る。
「おっと、最近は物騒だからね」
部屋全体を包む〝障壁〟が正しく機能しているかを確認する。ハッキングで電子キーを抉じ開けたり〝物理透過〟で部屋に侵入して強盗する輩もいるし。今の御時世女子の一人暮らしは大変だ。……もう女子って歳でもないかな……こればっかりはコンプレックスでしかないんだけどね。……理不尽な出来事があっても、自暴自棄になりかけても結局元に戻るのは、きっと自分が楽天家だからだろう。
〝障壁〟が綻び一つないのに満足し、お湯を熱くして暫く浴びる。そして長い黒髪を洗い、シャワーで良く流してから落ちないように結い上げて頭にタオルを巻いた。次いで体を洗いつつ、鏡に映る自分を見る。あ、眼の下に隈が出来てる。色々あって眠れなかったしね。眠らなかった、ともいうけれど。そう思いつつ、今度は身体へ視線を移す。女子にしては高い背と、引き締まった身体はまだまだ捨てたもんじゃない、と自己満足するが、若干小ぶりだと思っている胸を見て溜息をつく。なんで男は巨乳が好きなんだろう? まぁ、皆じゃないだろうけれど。でもこれでも一応それなりだとは思うんだが。いや、男なんてどうでもいいさ。恋人いない歴イコール年齢だって気にしない。
そんなことを思いつつ、脇腹を摘まむ。最近怠っていたからなぁ、明日にでもジムに行こうかな。鏡を見ながら身体を左右に捻り、もう一度脇腹を摘まむと、鏡に映る自分の腹から黒髪の頭が生えてきた。
おや?
呟き、思わず腹を凝視する。何もない。もう一度鏡を見た。やっぱり鏡に映る自分の腹から頭が生えている。仰天して後ずさり鏡を見ると、其処から男の頭が飛び出しやがてゆっくりと全身が這い出して床に転がった。
徹夜したから幻視? いやいやこれは現実だ。此処は叫ぶべきか!? などと考えるが、叫んだくらいでは〝障壁〟の外に声はおろか音も漏れない。だがそれを解除すると何が起きるか判らないのも事実。それに外に漏れたとして、誰かが来てくれる筈がない。都会の人情は紙風船だから。トラブルは避けたいけどこの場合は身の危険もあるしそもそも男の裸なんて仕事以外では見たこともないしプライベートで男友達なんて一人としていないしというか友達いないな私ってそれをカミングアウトしている場合でもなくこういうときは逃げればいいんだろうかでも今泡だらけだしまだトリートメントもしていないしお湯にも浸かりたいしあー髪も伸びてるし肩も凝ってるからサロンに行きたいでも最近行きつけで男の美容師が入って私を担当したいとか言って下さりやがってるけど男に髪触られるの嫌だから丁重に断ったけどいや今そんなこと考えてる場合じゃなくてあーもしかして今この瞬間貞操の危機だったりするのかなちょっと待ってよ私はそんなの一生なくていいから……
「う」
「喋った!?」
男が顔を上げ、ゆっくりと周りを見回しながら立ち上がる。大きい、そして一切無駄のない筋肉だ。彼女、リンはその身体を見てそう思い、……じゃなくて! そう自分に言い聞かせた。
だがそれでも、彼の肉体は今まで見た誰よりも均整がとれており、そして美しかった。……でもなくて! なんで裸!? なんで鏡から出て来たんだ!? 新手の変態? 新手ってどんな変態だ!? でも〝障壁〟を超えられる奴なんてこの世にいるのか?
そんなことを考えていると、男は不思議そうにシャワーを見て、シャワーヘッドを覗き込み……顔に湯を被っている。なんか行動が不可解。そう思いつつ頭に巻いてあるタオルを外して体を隠す。そして、やはり此処を出ようと画策した矢先、男と目が合った。
「……やば!」
純粋に身の危険を感じ、戸を開けようと右手を伸ばすと、掴まれた。そして男はシャワーヘッドを元に戻し、リンへ向き直る。
拙い、これは拙い! 押し退けようにもこんなにマッチョな男、振り解けないよ。掴まれてるし動けない、このまま乱暴されちゃうのか、私。混乱してそんなことを考えつつ自分を掴んでいる逞しい手を見る。……ん? そんなに強く掴んでない。むしろ優しく掴んでる? などと考えていると、顔に触れられた。この上何をされるのか身を固くするが、その手は優しく触れているだけだった。
何がしたいんだろう? 怖いという気持ちはあるが、何か挙動がおかしい。それに〝障壁〟で守られている筈のこの場に、更に鏡から現れたのは明らかに異常だ。……もしかして異世界人? 私が異世界のことを知りたがっていたから来てくれたとか! いやダメダメ、現実逃避してる場合じゃ……え?
現実から逃げようとしているリンの顔に男の顔が近付き、その頬を舐める。
なんで舐めた!? そういう趣味なのか!? それともこれが普通なのか!? いやいや『そいうこと』の普通なんて知らないから! ザワっと全身が総毛立ち、冷汗が流れた。するとその男は掴んでいる右腕を見詰め、脇の下から腕にかけて舐め上げる。更に総毛立つリンを尻目に、まるで汗を味わうように口元を動かし、だが首を傾げた。
やばいやばいやばい、こいつやっぱり変態だ! これ絶対私を襲おうとしている! そう考えて必死に対策を練っていると、頬を振れている手で唇を触り、そして其処を覗き込む。
人の顔を触って口に興味を持つなんて、なんか行動が赤ん坊みたいだ。そんなことを考えていると、男は唐突に唇を重ねてきた。その現実を受け止めきれないリンは一瞬にして固まり、だが口腔内に進入してきて蠢いているのが彼の舌だと判ると、それを思い切り噛んで顔を背けた。口の中に鉄の味が広がり、堪らず吐き出し口元を拭う。
よし、判った、腹が決まったよ。やってやろうじゃないか! 病院じゃ絶対に使わなかったけれど、これでも魔術は他より使える自負があるんだからな!
空いた左手で宙に魔術文字を描き、呼吸が一瞬止まる程度の衝撃波を男に放とうとすると、
「今の……方法は……間違えていた……のか?」
男が首を傾げて不思議そうに言う。その言葉に頭が一気に沸騰したリンは、構わず衝撃波を叩き付けた。それは筋肉や骨格などを完全に無視して内臓に達するもの。まともに受ければ、心臓が破裂する強度である。
「あ、しまった!」
男の身体が跳ね上がり、膝が折れる。今の手応えは、完全に生体機能を停止させるほどの威力。受けたら最後、内臓は速やかに再生機に入らなければ治らない。
「ああ、拙い拙い、やっちゃった! でも情状酌量の余地はきっとあるよね!? 知らない男が突然シャワーに乱入して顔や脇を舐めてディープキスしてきたから、私は悪くないよね!?」
「……いや、この世界の法はまだ判らないから、どうだろう」
男が困ったように小首を傾げる。て、なんともない!? それに噛み千切らんばかりに舌を噛んでやったのに、言葉が流暢に出ている。結構な出血だった筈なのに、その痕すらないようだ。
「失礼があったら、謝る。……ああ、雄が雌の裸を易々と見てはならない世界なのか、此処は」
「人のことを雌とか! 失礼なことをあっさりと言うじゃないか、キミは! 突然女の子にキスするのも失礼だ! それ以前に常識外れではないか!」
再び魔術文字を描きながら、睨みながら言い放つ。なんか今更な気がして、もう体は隠していない。
もっとも現状では隠せないが。
「……ああ、済まない、生体情報を得るためにやった。以前、血を舐めて吸血鬼? 扱いされたことがある。汗では充分な情報が得られなかったから唾液を搾取した。それを飲むだけなら傷を付けずに済む」
汗や唾液を飲むって、充分変態発言じゃないか! でも生体情報って何? 以前? なんか要領を得ないな。何が言いたいんだろう?
「だが唾液でも問題があるなら、次の世界ではどうしようか……?」
「次の、世界? ちょっと待て!」
天井を見上げて思案する男に訊く。男は数回瞬きをすると、今度は首を傾げた。〝障壁〟により進入不能であるマンションに、鏡を介して進入した――いや、現れた。そして不思議な挙動、あれは現在地を確認していたのではないか? それに生体情報の取得はその世界の生物を知る上で最も効率が良い。
「もしかして、キミは別の世界から来たのか!?」
明らかに荒唐無稽な質問だが、この挙動と発言を見る限り、そうとしか思えない。……もっとも、単におかしな奴だという可能性もあるが。
「別の……世界……そう、あの世界が『終わって』……」
やっぱり! まだ後者の可能性が拭えないが、彼は別の世界から……ん? 終わって?
「なぁキミ、世界が『終わって』って、どういうことかな?」
興味をそそられ、訊く。自身が裸だということは忘れてしまっているらしい。彼女は興味がある事柄を目の前にすると、現在の状態を失念してしまう質だ。しかし、質問に答えない彼の視線が、自身の身体に注がれているのに気付いてタオルで隠そうとする。それより速く、彼の右手がリンの左肩から胸にかけてゆっくり撫で降ろされる。思わず小さく悲鳴が漏れた。
「この世界の……雌はこうなのか……」
「雌じゃなくて! 女の子って呼びなさい……!」
手は離れていない。続いてその手は腰に降りて行き、そのまま前へと移り……。
「其処は、止めて……!」
足を強く閉じ、羞恥に顔を染めながらそう訴える。甘かった、やはりただのそれ目的の男だった。そっちがその気なら、こっちももう殺す気でやるしかない!
「此処は、触ってはいけないのか?」
「当たり前だ! 全くの他人が触れていいところではない!」
涙目で睨め付けた。男はそれを見詰め、心の底から判らないといった表情になる。そして何か思い立ったのか、両手でリンの顔を優しく包むように掴み、その額に自らの額に密着させる。
「な……に!?」
途端に彼の思考が流れ込んできた。そして、自分の意識の中に何かが侵入してくる感覚に襲われる。それは僅かな時間だったのだろうが、流れ込むその量が圧倒的に多く、精神が悲鳴を上げた。
そしてその中で、リンは見た。此処ではない別の風景、通常の生命体であったなら生存出来ないほどの灼熱の世界、それとは真逆の極寒の世界、大気すらない世界もあった。其処に存在するのは、人以外の見たこともない生命体、そしてその言葉は聞いたこともない言語やそれですらないものもある。更にその中には、子を生している無機物生命体すらいた。
だがそれよりも、彼女を驚愕させたものがあった。
空間を食い破り、圧倒的物量で世界を押し潰そうとする様々な形の……生物? それにより崩壊する世界、続いてそれが消滅し、闇が世界を支配する。いや、これは闇ではない、完全な『無』だ。更に、其処から凄まじい悔恨と悲しみが流れ込み……、
「リン、大丈夫か?」
その声で我に返り、頭を振る。あの光景は、一体何だったのだろうか。
「済まない、この世界を知るために思考を読ませて貰った。だが、俺のも流れてしまったようだ」
思考が流れ込んだ? じゃああの世界は、此処とは別の? でも、あの後全部なくなって……なんだか気持ち悪くなってきた……この男の意識が流れ込んだからな? 体が熱い……あ、此処シャワールームだった。こんなときに湯当たりって……いけない、しっかりしないと何されるか……。
「のぼせてしまったのか。済まない、俺がこの世界を知らなかったばかりに余計なことをした」
そう言い、床にへたり込んでしまったリンを軽々と抱き上げる。
「……触らないでくれ」
そう言いつつ抵抗するが、彼はそれを優しく制止する。そしてバスルームから出て、だがすぐに足を止めて僅かに思案するともう一度戻り、シャワーを止める。そして脱衣室を見回しバスタオルを取って抱き上げているリンを器用に包み、頭にもタオルを巻いた。
なんだろう、優しい……でも、これからどうするつもりなんだろう……。朦朧とする意識をなんと奮い立たせ、何かしたときに即行動出来るように準備をする。だがそれは杞憂であった。彼はリンを抱き上げたまま寝室へ向かい、ベッドへ優しく横たえる。そしてすぐに部屋を出ると、アイスペールとミネラルウォーターが入ったピッチャーを持って来た。グラスに氷水を作って飲ませ、次いでエアコンを作動させて涼しくする。
「済まなかった。ゆっくり休むといい。誓って言うが、リンを襲うなんてことはしない」
言い残し、彼は退室した。シーツに包まりながらそれを半眼で睨み、
「どうだか! 下心のある男なんて皆そう言うのではないか!?」
酔った勢いで襲い掛かってきて、上段回し蹴りの一撃で沈んだバカ息子を思い出し、ドアに向かって歯を剥いた。きっとあの男も同じに違いない。油断させて眠ったところを襲う気だ。人の腕を掴んで押さえつけて……顔を触って……でも、乱暴にはしなかった。舐められたり触られたけど。……男に抱き上げられたの、初めてだな……。ベッドにも連れて来てくれたし。おかしなことをされたのを除けば……、
「……なんか……優しい……」
ベッドの心地良さという凶悪な誘惑で朦朧とする意識の中、そう呟く。だが……、
「なんで寝室とかエアコンの場所を知ってるんだい? これ持って来たってことは、冷蔵庫の場所も知っていた? どういうことなんだ? やっぱり油断ならない!」
そう考え、朦朧としつつも寝室に〝障壁〟を張り、リンの意識はそのまま睡眠という闇に落ちて行った。
――気が付くと、灼熱の大地にいた。そして周りには全身が岩で出来ているかのような生命体が複数いる。
其処で何をしている? その内の一体が此方を見ると、そう言った。それを聞きたいのは自分の方だったが、その意に反して自分からは、なんでもない、という言葉のみが出る。だが発声している箇所は口ではない。自分の常識外な事象に戸惑いつつ、だがそれは当たり前だと意識の何処かで理解していた。
今日は下が『怒って』いる。いつ足元から『アレ』が出るか判らないから気を付けろ。
別の生命体が茫然とする自分に語り掛け、通り過ぎる。怒って? アレが出る? 何のことだ? そう復唱しつつ思案していると、唐突に足元が突き上げられた。
何なんだ一体!? いつの間にか宙を舞っていた。そして先程までいた大地を見ると、其処に巨大な火柱が立ち上っている。だが驚いたのは其処ではない。大地が、世界が、全て炎に包まれていた。こんな環境では呼吸すら困難だろうと思ったが、自身が呼吸していないことに気付く。
呼吸が要らない? そんなことが有り得るのか? 独白し、だが自分が常識外の強さで大地に引き寄せられていることに気付く。重力が桁違いに強い。このままでは炎の大地に叩き付けられる。そう感じた瞬間、世界の全てが氷に包まれた。
こんなところで転ぶとは、おかしな奴だなお前は。
自分を覗き込む、全身が透き通った生命体が発言した。硬そうな身体だが、不定形に流動的に動いている。
今度はなんだ? 周囲を見ると、世界の全てが氷に包まれていた。炎の次は氷か。我ながら突飛な夢だな。……なるほど、これは夢なのか。そう判断し――いやそうとしか思えない――ならば自分の発想力がどれほどのものか、この状況を楽しんでみようではないか。……発想力というか、妄想力だろうが。
一体どうしたら転べるんだ? 氷の大地に接地する面を広くし、転がるように移動している。まるでナメクジだな。そう思ったが、なるほど接地面積を広くすればそれほど滑らず移動出来る。更に移動した後の大地は熱で融けてはいなかった。いや、この生命体は氷を融かすほどの体温がないのではないのか? そう分析していると、再び景色が変わり、光が一切ない世界が眼前に現れる。
上下左右すら判らない漆黒の闇。だが不思議とそれが当たり前だという感覚がある。それに見えない代わりに、全ての感覚が研ぎ澄まされているようだ。見えなくとも、周りに何があるのか判る。
此処は集落なのだろうか、同じようなものが複数蠢いていた。そのうちの誰かを呼ぼうと思ったが、声が出なかった。そして更に、どのようにコミュニケーションを取ればいいのか判らなかった。
誰かが近付いてくる。何かあるのだろうかと其方に意識を向けると、いきなり噛み付かれて丸呑みされた。まさか、此処は同種で喰い合う世界なのか? その結論に達したと同時に周囲が明るくなり、砂漠の中に放り出された。
砂の世界? 周囲を見回し、次いで両手を見ると、手が機械仕掛けになっていた。手だけではない、その身体も全て機械になっている。そしてその容姿は、慣れ親しんだいわゆる『人型』であった。
どうしたものかと途方に暮れていると、彼方から砂煙を上げて三角錐を横にしたような赤いもの――乗り物だろうか――が近付いて来る。それは自分の傍で音もなく止まり、横がスライドして開くと中から機械仕掛けの人? が姿を現した。
こんなところで何をしている。
降りて来たそれは腕を付き出すと、その形が変わって砲身のようになった。まるで銃だな。向けられるそれを見詰めてそんなことを考えながら、それの背後を一瞥する。中には小さな機械を抱く細身の機械がもう一体いた。
これは、機械生命体の『親子』? 機械が子を生す世界なのか。いや、子を物理的に『作った』のかも知れない。そう考えるが、意識がそれを否定した。意識はこう言った。此処は機械が『子を生す』世界だと。
なにも言わない自分に苛立ったのか、その機械の腕が轟音を上げて肩口からカウンターマスが排出され、打ち出された砲弾が自分の頭部に炸裂し……茹だるように暑い気候のジャングルに変わった。
また変わったか。そう思いつつ自分の容姿を確認すると、今度も人型だった。但し、全身が青い鱗に覆われていたが。
今度は両棲類か? 周りを見ると、大きな川があった。いや、この大きさは河だろう。どれ、この身体を試してみるか。独白して河に飛び込もうとすると、突然地面が揺れた。飛び込みを中止し激しく揺れる木々を見上げ、次いで空を仰ぐ。何かが其処にあった。『それ』は悠然と空を漂い、だが『それ』が通り過ぎた後には漆黒の空間だけがあった。然もそれは一体だけでなく無数にあり、そして増殖していた。
あれは……何だ? そう思ったが、意識は『それ』が何かを理解していた。〝侵食者〟意識はそう言った。世界を侵食し、やがて壊してなかったことにする、正体不明の『もの』。
この世界も終わりか……世界の寿命が尽きて崩壊する前に現れるとは……。
その意識がそう独白し、だが自分が納得する前に、聞き慣れた声を耳にして目が覚めた――。
隣の部屋から声がする。ああ、テレビを消し忘れていたか。いけないな、うっかりしていた。それにしてもおかしな夢を見た。私の妄想力もなかなかではないか。そう自嘲しながらも、眠気が抜けずにベッドの中で寝返りを繰り返す。そして何となく頭を掻くと、髪がゴワゴワしていた。あれ、眠過ぎてトリートメントするの忘れちゃったかな? ん~、仕方ない、またシャワー浴びるか。そう考えつつ、だがまだ起きたくないのか寝返りを繰り返し……なんで裸で寝てるんだ、私? その結論に達した。
おかしいな、裸で眠る趣味ないのに。でも素肌にシーツって、クセになりそうだな。起き上がって背伸びをし、まだ半分眠った頭のままでベッドに散乱しているタオルやらバスタオルを掴んで部屋を出る。ああ、熱いシャワー浴びたい。
「あ、おはよう。そろそろ起きるころじゃないかと思ってた……」
声を掛けられ、寝ぼけた頭で其方を見る。頭にタオルを巻き付けた、無駄の一切ない筋骨隆々な男が其処にいた。
「え? う、うわ……!」
「って、こら! なんて格好をしているんだ! 女の子がそんな恰好で出て来るもんじゃない!」
叫ぶ前に怒られた。いやいや待て待てそうじゃない。何があったと思いつつ持っているバスタオルで身体を隠し、その場にしゃがみ込む。……というか、そういうアンタも怖ろしい格好をしているじゃないか!
男は、その身体にフリルの付いたピンクのエプロン――職場のパーティで同僚の女子がくれた。似合いそうにないから一度も着ていないが――しか着用していない。いわゆる『裸エプロン』というヤツだ。然も圧倒的に丈が足りておらず、動くたびに危険な部分が垣間見えそうになるという更に怖ろしいオマケ付きである。
「キミは! 一体ここで何をしているんだね!」
目の前に立つ裸エプロン男からしゃがんだまま後ずさって距離を取りつつ、戦々恐々としながら訊く。すると男は突然床に正座をして深々と頭を下げた。
「リン殿、数々の無礼、誠に申し訳なく、如何なる処罰もこの身に受ける所存! 斯くなる上はこの腹掻っ捌いて……」
「待て待て待て待て」
男の訳の判らない申し出を制止し、次いで自分にも落ち着けと言い聞かせる。えーと、なんだったかな、二徹して疲れてシャワーを浴びてたら鏡の中からあの男が出て来て、顔と脇……を舐められ……て、き、キスされ……て、し、舌を……で、胸……触られて……下を……忘れろ忘れろ、あれは事故! そして額を当てられたら、別の世界が見えて……それが消えて……!
「君は! 異世界から来たのかい!?」
土下座をする男の正面に四つ這いで近付いて正座し、目を輝かせながらそう訊いた。すると男は頭を下げたまま、
「仰せの通りで御座います。某、リン殿が言うところの異世界から参りました」
「……なんでそんな口調なんだい? そういう世界から来たのかい?」
「いえ、そういう訳では。此方の世界ではこれが通例と学びました」
「あー……えーと……」
そういえばテレビが点けっぱなしだった。もしかして時代劇でも観て毒されたのかな? まだ点いているテレビを見ると、桃の家紋を刻印されている戦士が、悪党を次々と斬り倒している場面が映し出されていた。
「アレの真似はしなくていいのだよ、キミ。アレは創作で、あのように話している者など何処にもいない」
テレビを指さし、そう話し掛ける。その瞬間、バスタオルが解けた。おっと危ない。そう思って隠そうとするより早く、
「そうなのか?」
明らかに違うテンションで呟くように言いながら男が顔を上げ、隠す直前の身体を視界に納める。それがわかったリンは、手早く隠して慌てて再び距離を取った。
「何処の世界でも言葉は難しい。ではあの情報は……テレビ? の情報は学ぶべきではないということか?」
リンの身体には興味が無いのか、何事もなかったように立ち上がる。て、見えちゃうんだけど!
「間違ってはいないさ。だが鵜呑みにするのは愚か者のすることだね。ところで、なんでエプロンだけなんだい?」
高いテンションから一気にメランコリーへ落ち込んだようにも思える男へ、話題を変えるべく話し掛けた。すると答えは簡単、身に付けられそうなものはこれしか見当たらなかったから、だそうだ。
「浴槽に熱めの湯を入れてある。昨夜……明け方か……邪魔してしまったようだから、用意した。色々触ってしまって済まない。まさか其処が生殖器だとは思わなかったんだ」
「申し訳ないと思うんだったらそういうことは言うんじゃない! デリカシーがないぞ、キミは!」
別世界に来たばかりの人? にデリカシーとか通用するか疑問だけどね。言ってからそう思案し、僅かに罪悪感を感じてしまう。いやいや、本当に異世界から来たのか? 新手の変態かもしれない。そういうのが好きだとか……どういうのだ?
「そうか、済まない、こういうのがデリカシーがないというのか。リンが院長によく言っているようだからな。学習しよう」
「え?」
確かに勤務先だった病院の院長によく言って喧嘩してたけど。でももういいよ、医者は廃業だ。職業はそれだけじゃないしな。だけど、どうして知っているんだ? そう思案していると、それが判ったのか彼は、
「昨日、リンの思考を読んだときに知った。大丈夫、リンは悪くない」
何言ってるんだ、こいつ。会ったばかりの――いや、遭ったというべきか――こいつに、何が判るというんだ。
「リンの所為じゃない、あれは、院長とやらのバカ息子のミスだ。リンは悪くない」
「……大きなお世話だよ、突然何を言っているんだ、キミは」
言い残すと身を翻し、脱衣室へ逃げるように入る。拙い、思い出した。あのままあの場にいたら泣きそうになる。それに、どうしてキミがそれを知っているんだ? ……ああ、あのとき思考を読んだからか。そんなことが出来る能力者は、自分の知る限り一人としていない。やれやれ、どうやら本当に異世界からの来訪者らしい。それとも漂流者なのだろうか。まぁ、それは後で訊けばいい。まさか裸エプロンのままで出て行くことはないだろうし。……もし出たら、只の変態で最悪じゃなくても捕まる。……行かないよな……いや、来訪者にこの世界の常識を求めるのは愚問だ。
「キミ、まさかと思うがそんな恰好で出歩かないよね?」
脱衣室から顔だけ出し、一応確認してみた。
「リンの常識とやらが正常なら、この格好で出歩くのは犯罪らしいから出ないが……大丈夫だ、リンが悲しむようなことはしないように努力する」
……なんだか一気に従順になった。お風呂から上がったら色々問い詰めてやるか。あ、なんか楽しくなってきたぞ。顔を出したままそう考えていると、彼が此方を見詰めていた。
「リン、悪巧みしている顔になっているぞ」
「おやそうかい? まぁ女の子の色々を触った罪を償ってもらおうと思ってね」
「……それは責任を取ってリンを娶れと言っているのか?」
「私の思考を読んだ――トレースしたと言っていたね。……私の常識って、そんなに俗っぽかったんだな……」
若干自己嫌悪し、覗くなと言い捨てて脱衣所に引っ込んだ。そして念のため脱衣所とバスルームを〝障壁〟で囲み、絶対に入れなくする。……ということをしているんだろうな。そう独白しつつそれを暫く眺め、やがて彼は冷蔵庫を開けて食材を漁り始めた。
読み込んだ情報によると、リンは朝から結構しっかり食べる方らしい。だが余り体重を気にしていなく、そして余分な脂肪が付かないところを見ると、摂取した分はしっかりエネルギーとして消費されているようだ。内容にも気を配っている。バランスがとても良い。
その情報を元に、彼は台所で作業をし始めた。そして暫く後、リンがバスリームから顔を出して此方を覗っているのを感じ、少し考えてから振り向くと目が合い、彼女はすぐさま再び脱衣室へと引っ込んだ。
作業する手を止め、おもむろにリンの寝室へ行きタンスの中から服一式を取り出して脱衣室へと向かい、扉をノックした。先程ドアから顔を覗かせていたため、〝障壁〟は取り除かれているのは判っている。
「え、ちょっと、ダメだからな! 異世界から来てもやっぱりそういう衝動があるという貴重なデータが取れそうだけど、わ、私にはしないでくれたまえ!」
「いや、それはどうでもいいが。着替えを持って来た。ドアの前に置いておく」
「え?」
そう言い残し、彼は再びキッチンへと戻っていった。そしてリンは、そっとドアを開けて彼が持って来た着替えを素早く取り、そして考える。どうでもいいとか言われると若干傷付くな。そんなに私って魅力ないか? やっぱりいい歳だからか……いやいや違う、そうじゃない、問題は其処じゃない。此処は穿って考えず、素直に安心するべきなんだろうか? 飾り気のないヘアゴムを口に咥え、ブラシを持ったまま苦悩する。……でもこれ持って来たってことは、私の服の場所も判っているってことか? ああ、あの時のトレースか……何処まで記憶を共有されたんだろう……私の常識とも言っていたし、院長とかバカ息子とかのことも知っていた……もしかして全部読まれた!? スリーサイズやトイレの回数まで……ちょっと待て、それって裸を見られるより恥ずかしいじゃないか!
脱衣室で暫く羞恥に悶え、だが今更そんなことを思っても仕方ないと自分に言い聞かせて無理矢理納得し、バスタオルを洗濯機へと放り込む。……あれ、洗濯物がない?
僅かに首を傾げて考え、連想出来る答えの可能性に辿り着いたリンは慌てて服を着込み、脱衣室を飛び出してキッチンに立つ裸エプロン男へ、
「なぁ……洗濯物はどうしたんだい?」
努めて平静に、訊いてみた。乾かしたばかりでまだよく梳っていない長い黒髪が乱れ放題で、喋ったために咥えていたヘアゴムが床に落ちた。
「全部洗って『いつもの場所』に干してある。何か問題でも?」
……会ったばかりの男に洗濯物を見られるばかりか洗われて干されるとか……これはどういう状況なんだ、一体!
「うわあああああ! もうお嫁に行けない! 行く予定全くなかったが! というかキミ! もしかして私の記憶を全部読んだのか!? それこそ身長体重からスリーサイズ、トイレの回数まで!」
「まぁ……そうなるな。リンも俺の記憶を読んだだろう。あれは記憶を共有をするものだ。深層心理までは読まなかったが。それから、ブラはネットに入れて洗ったから問題ない」
洗濯の方法として正解だが別の意味では大問題ではないか! 其処まで判ってしまうのか? その気になれば本人が忘れていたことまで読み取れるということになるのか? それは素晴らしい! じゃなくて!
「……待て待て、ではキミの思考にあった風景は真実なのか? なにやら此処には有り得ないような生命体が見えた気もするぞ。それに、なんなんだあの世界を喰らう? ものは? それからあの消えてしまう世界は一体なんだ? いや、その前に今のが真実だとすると、もしかしてキミは私を良く理解したというのか? 事実上、本人である私より」
一気にまくし立てる。それに対して男は何も答えず、
「まず食事にしよう」
トースターから程よく焼けたトーストが、チンという音と共に弾き出された。
「いや、食事より先に……て、ええ!? これは君が全部作ったのかい?」
テーブルに並ぶ食事を見て目を剥き、そして裸エプロン男を見詰めた。彼は頭に巻いてあるタオルを取り、黒髪を手櫛で撫で上げてからもう一度巻き付ける。今まで意識していなかったが、この男は筋骨隆々としているばかりではなく、その黒髪も背の中ほどまであり髪質も綺麗だった。
「……なんか腹立つな」
持っているブラシを器用に回しつつ呟き、警戒しながら半眼で睨む。よくよく見たらこの男、端麗な容貌といい綺麗な髪質といい均整の取れた身体といい、その容姿が完璧過ぎるんだよな。何が完璧なのかって、私が思い描く理想の男性像に、だ。まぁ容姿だけなんだけどね。行動は変態だし言ってることは意味が判らないし。いやでも待て、洗濯炊事が出来る男って、理想的じゃないか? いやいやそうじゃなくて、そもそもどうしてこんなところに現れたんだ? そうぶつぶつ呟いていると、突然手を取られた。
「うわ、な、何を……」
手を引かれてテーブルの傍まで連れてこられると、椅子を引いて座るように促された。その仕草は、まるでギャルソンか執事のようだった。裸エプロンだけど。
「なんなんだ、一体」
こんな扱いをされたのは初めてだよ、まったく。私の理想と同じじゃないか。ブラシをテーブルに置いてそんなことを言外に呟いていると、彼は床に落ちているヘアゴムを拾いブラシを手に取ってリンの髪を丁寧に梳かし始めた。
「うわ、ちょっと待て! 私は男に髪を触られたくないんだ」
「リンがいつもしている方法でやるから問題ない」
「いやいや待て待て、触られるというのが既に大問題……巧いなキミは……」
「リンの髪が綺麗だからやり易いだけだ」
恥ずかしげもなくそんなことを言う。顔が一気に上気するのを感じたが、努めて平静を装った。彼はそんなリンの耳が赤くなっているのに気付いてはいたが、それを指摘するのは無粋だと判っているため見なかったことにした。
ほどなく綺麗に梳られてアップにまとめられ、だが自分のポリシーを崩され軽く落ち込んでいると、その正面に皿が置かれてトングに挟まれたトーストが提供される。
唇を尖らせてやっぱり言外に文句を言い、皿にある焼きたてのトーストを取ると、絶妙のタイミングでガラスの小鉢に盛り付けられたアプリコットのコンフィチュールとジャムスプーンが傍に置かれた。それをパンに載せて味わっていると、今度はダージリンのストレートティが提供された。
……どうしよう、幸せを感じる。相手は裸エプロンだけど。
食べ掛けのトーストを皿に置いて別皿を見る。目玉焼きがあった。それを引き寄せると、これもまた絶妙なタイミングで箸と醤油が置かれた。目玉焼きには醤油派だと理解していて、そして食事には和洋のこだわりなどないのも同じく理解しているらしい。なんだか、そういうサービスを提供するお店に来ているみたいだ。裸エプロンだけど。
「なあ」
だがこんな扱いをされたことが今までなかったために居心地が悪くなり、傍に立つ裸エプロンを見上げて声を掛ける。
「自分でやるから、ちょっと放っておいてくれ」
言うと、彼は首を傾げて「そうか」と言い、少し離れたところに立つ。今度は何をしているのだろう?
そう思いつつ上体を捻って椅子の背もたれに片腕を置き、その様をじっと見詰める。
彼は動かない。
どうして動かないのか不思議に思い、更に見詰める。
それでも彼は動かない。
一体何なんだと思いながら、彼がどんなアクションを起こすのか興味が湧いて見詰め続けた。
やっぱり彼は動かない。
「……なあ、もしかしてずっと其処にいるつもりなのかい、キミは?」
声を掛けると、こっちを真っ直ぐに見詰め、
「リンの理想とする男性像がこうだからしている。何か違ったか?」
言われて、気恥ずかしさにまたしても顔が上気する。いやさ、確かにそう言う理想を持ったさ、いや持っているよ。もし結婚するなら私が働いて旦那か主夫してくれればいいって思っていたよ。そしてお嬢様のように何も言わなくても食卓で不自由なく食事出来るようにしてみたいとか思ったこともあったよ。だけどね、いざ実際やられてみると……、
「これ、恥ずかしい。そして面倒臭い」
立ち上がり、男に近付いてその逞しい手を取り、テーブルに引っ張ってくる。良く見ると、食卓には一人分しか食事がなかった。
「何か作るからちょっと待っていたまえ」
男を座らせ、長い髪を器用に縛り直して結い上げて邪魔にならないようにする。そして壁に掛けてあるエプロンをして、綺麗に片付けられたキッチンを見て感心し、冷蔵庫から食材を取り出した。
「いや、俺が……」
「動くな」
腰を上げようとする男へ包丁を向け、半眼で睨む。彼は少し考え、納得したように座り直した。
「私の理想と言ったが、それは記憶を読んでその情報があったからそうしているのかい?」
トマトを切りながら、背中越しに話し掛ける。切ったそれをボウルに入れ、次いでベーコンを適当な大きさに切り、その間にフライパンを加熱した。
「そうするのが最善と思った。何か違ったか?」
「……最善、ねぇ」
フライパンに水を弾いて加熱具合を見てから荒熱を取り、そしてバターを溶かして其処にベーコンを投入して炒め、次いで溶き玉子を流し込む。
「折角演じてくれたのに済まないが、あれは妄想の類だ。私自身あれは現実ではないと理解している。だから、無理して演じてくれなくてもいい」
玉子が固まってきたところにトマトを入れて僅かに炒め、皿に盛り付けた。其処に千切ったレタスを添えて、男の前に置く。
「まぁ、演じてくれたのには感謝する。夢が一つ叶ったからな」
戸棚からバケットを取り出し丁度いい大きさに切り、バターを塗ってから砂糖をまぶす。そしてオーブンに入れて焼いている間に、冷蔵庫から作り置きしてあるレモンカードを取り出した。
「そんなに気を使わないでくれたまえ。私は気を使われるような人種じゃない」
気を使われると、自分は可哀想なのかと思ってしまう。
「……というか、何で私は得体の知れないキミにこんな話をしているんだ? 然も食事も作って貰って。あまつさえキミにご馳走しようとしているではないか」
「いや、そんなことを言われても、こういう場合に俺はどうしたらいいんだ?」
「知らないよ。私は男とプライベートで此処まで話したことなんてないんだからな。……ああ、初めて部屋に入れた男が現在裸エプロンとか、私の幻想をどうしてくれるんだ!?」
「……リンの言葉を借りるなら……」
「借りるなら、なんだ?」
「『知らないよ』」
「それはそうだ! 当たり前だよ、判っていたさ。ところで」
オーブンから焼けたバケットを取り出し、盛り付ける。それを男の前に出すとエプロンを外して壁に掛けてからその対面に座り、
「異世界とやらの話を、たっぷり聞かせて貰おうじゃないか」
頬杖を付き、不適に笑いながらそう言った。すると男はリンの顔に手を添え、額を合わせようとし、殴られた。
「それはもう止めてくれ、はっきり言ってイヤだ。私の思考が読まれるのも我慢ならんし、それにキミの思考がこっちに流れ込むのが不快なんだ。あ、悪い意味で取らないでくれたまえ。どうやらキミの情報量は私達には多過ぎて、脳内がキャパオーバーして情報処理しきれなくなってしまうんだよ」
あのときそうなったし。半熟の目玉焼きに醤油を掛けて口に運びつつ、出来るだけ相手を傷つけないように言う。……どうしてそんなことを気にする必要があるんだ? こいつには裸見られるし色々されたし……いや、それは考えないようにしよう。
「判った。では口頭でリンの質問に答えよう」
「それで頼む」
カップを両手で持ちダージリンティを口に含む。ああ、凄く美味しい。この男、本当にスペック高いな。それに私が名前で呼んで欲しいのもしっかり理解しているようだし……そういえば、なんで私の名前を知っているんだ? いや、トレースしたから知っているんだろうけど、でも自己紹介もしていないのに呼ばれるのは釈然としない。
「では、まず改めて。もう知っているだろうが、私の名は『リン・
初対面の礼儀として名乗る。本来ならば此処で握手でもするところだが、まだ色々警戒しているため自身には触らせない。そして男の返答を待つが、彼は困った表情で黙ったままだ。
お約束なら、彼の記憶がないということになるのだが、まさかそんなベタなことはないだろう。そう思っていたら、
「名は……持っていない」
それ以上の返答が来た。
「名がないとは、そのままの意味かい?」
訊き返すと、彼は頷いた。名があるのはこの世界だけの常識であって、もしかしたら他の世界では固有名詞を得ることはないのかもしれない。
「では他の世界では各生命体に固有名詞は存在しないのかい?」
「いや、何処の世界でも概ね固有名詞はある」
「……あるのか」
「だが、俺は何処の世界の『物』でもない。言ってしまえば全ての世界の外にいる、隠されいる『物』だ」
「隠された者、ねぇ」
トーストを齧りながら、背もたれに体重を掛けて天井を見ながら独白する。どの世界にも存在しない、だが世界を渡る者。そういうのを何と呼べばいいのだろう。意識的に来たのなら〝来訪者〟だが、
「何の目的で此処に来たんだい?」
訊くと、彼は首を傾げるばかりだった。どうやら目的があって来たのではないらしい。すると〝漂流者〟か。
「キミが見て来た他の世界は、どういうものがあったんだい? 私に流れてきた情報によると、とても生命体が生存出来る環境ではなさそうだったが?」
「そういう世界もある。俺が世界に発生するときは、その世界に適応した姿に作り替わる。最初に見たその世界の生命体に適応した姿になる……らしい」
「らしいって、その辺は判らないのかい?」
トーストを口に咥えながら、そう訊く。口の周りにコンフィチュールを盛大に付け、咀嚼し続けている筈なのに発音がしっかりしているのは何故だろう。だが彼はそれを一切気にせず、しかし口に咥えているそれを取り上げる。
「あん、何をする」
「行儀が悪い」
そういうと左の親指でリンの唇を拭き、付いたコンフィチュールを舐めた。
「うわ! こら! 何をするんだ!? そそそれは簡単にやって良いことではなくて私の口を拭って舐めるとか! やっぱり変態ではないか!」
「勿体ないだろう。何を慌てる? 直接舐められたわけでもあるまい」
そうじゃない、そうじゃないんだよ! 耳まで真っ赤にして頭を抱える。でもこの行動も、きっと自分の中の『理想』なんだろうな。良いじゃないか、別にそういう理想を持っていたって! まったく本当に、容姿から行動まで何から何まで私の理想どおりだ。それは認めるよ。……待て、「最初に見たその世界の生命体」と言ったか?
「するとなにか? キミは私用に最適化されてこの世界に適応した、とでも言うのか?」
「その表現が一番適当だ」
……えーと、つまり、なんだか良く判らない異世界人が、この世界に流れて来たときに偶然私を見付けて私用に姿を変えたってことなのか? そしてついでに記憶をトレースして気に入るように行動している、と。……なんか、それイヤだな。ちょっと気持ち悪い。
「大事な質問だ」
真顔になり、真っ直ぐに彼を見詰めて訊く。
「キミは人間か?」
「違う」
即答された。そしてそう言う彼の双眸には、何の感情も映っていなかった。
「俺は只の『物』、『物体』だ。世界の生命体ではない」
「……おい」
立ち上がり、半眼で彼の傍に行き、腰へ手を当てて仁王立ちになる。このとき彼は初めて、リンが怒っているのを理解した。
「他所の世界から来たとか渡っているとか言うのは構わんが、その姿で自分を『物』とか言うんじゃない。今のキミには生体反応もあるし血液も循環している。今までの一連の行動は私に気に入られたいと思っていたのではないのか? そして私の身体を撫で回したのは、適応したときにそうしたい衝動が備わったのではないのか? まったく、一丁前に下心まで芽生えているようではないか。いいかい、そんなヤツを人は人間と呼ぶんだよ。どうしてそこまで自己を卑下するかは知らんし知りたくもないが、思っていても口に出すな」
「生体反応? 血液? それは、良く判らない」
「キミは私にベロチューして噛まれたろう? そのとき血が流れた。そしてあれは明らかに人間の血だよ」
ちょっと飲んじゃったよ。苦笑しながら肩を竦めて独白し、彼の頭を乱暴に掴んで上を向かせる。彼はされるがままだ。
「キミはちゃんと人間として教育する必要があるようだね。よし、私がキミを飼おう」
「いや、俺はリンのペットになる気はないが」
「比喩表現だ、深くは考えないでくれたまえ。どうせ行く宛はないのだろう? 養ってやろうと言っているのさ。だが下心は持っていても表現しないでくれたまえ。残念ながら私はキミの下心に答える気は更々ないからな。さて名前だが、私が勝手に決めてしまってもいいね?」
「ご自由に」
妙に生き生きと言うリンへ何を言っても無駄だと悟ったらしく、彼は苦笑しそう言った。
「ふむ……『隠されたもの』……隠す……hide……ハイド、か。だがこれだと安直過ぎるな。ではそれを祖父母の故郷の言語に変換してみよう。そのまま読むと、ヒデだな。面白いから文字に起こしてみよう。『秀』『英』『暎』……どれが良い?」
リビングにあるデスクからタブレットを取り出し、彼の隣に来ると至近距離で楽しそうにそんなことを始めた。傍に寄るなとか下心を抱くなと言っているわりに、そういうときの距離はやけに近くなる。トレースして知ったことなのだが、これはリンが無意識にやっている、言わば悪癖であり異性を勘違いさせる要因にもなるのだが、これはまだ言わないでおこうと彼は思った。
「この『秀』は優れている、という意味だ。なにやらキミはスペックが高いからこれでいいかな?」
「いや、俺は優れてなどいない。それは却下だ」
「そうかい? そんなことは気にしなくていいのにな。ではこの『英』はどうだい? これは一文字で『はなぶさ』とも読む。別の文字を当てる場合もあるが、この文字でこう呼ぶことはほぼ無い。もしかしてこう読むのすら知らない場合が多いな」
因みに『はなぶさ』とは花の蕾のことだ。鼻息荒く、得意げに続けた。
「……それでいい」
「そうかそうか、ではキミは今から『
「…………え?」
「祖父母の出身地では家名が先に来るのだよ。実をいうと私の名も家名が先に来て『
そして都市へ届けている登録名は『リン・
「近い」
言われてやっと気付いたリンは、慌ててハイドから離れる。そして先程までの自分の行動を思い返し、自己嫌悪と羞恥で真っ赤になって顔を押さえた。だが其処からの切り替えが殊の外早いリンは、食事を手早く済ませてハイドに食器を洗っておくように言い、寝室に戻って出掛ける準備をする。
あ、そういえばアイスペールとピッチャー片付けたっけ? そう思ったが、傍のテーブルにはそれらはなかった。おかしいな? クローゼットから外套を取り出しつつ首を捻り、あれは記憶違いだったのかと考えながら寝室を出る。すると裸エプロンを靡かせながら、ハイドがアイスペールとピッチャーを片付けているところだった。
「あ、それちゃんと乾かしてから仕舞ってくれたまえ。水を切らないとカビが生える」
言われて、ハイドはアイスペールを逆さに引っ繰り返した。水滴は全くなかった。
「昨夜のうちに片付けておいたよ。氷が融けているのにいつまでも置いておくわけはないだろう。そうだ、眠る前に張った〝障壁〟だが、眠くて中途半端だったようですぐになくなっていたぞ」
つまり、寝込みを襲う気ならいつでも襲えた、ということだ。なんだか、リンは思った。この男の前だとどんどん自分のだらしない部分が露見し際立ってしまう。まぁ、記憶をトレースされているから仕方なのだろうけど。……本当に、そうなのだろうか?
ハイドに外に出ないように、そして誰が来ても出ないように厳命し、リンは彼の服を買うべく出掛けて行った。