ワークガイドに並んでいる就職情報に目を通しながら、リンは盛大に溜息をついた。簡単に仕事が見付かる筈がないとは思っていたが、此処まで見付からないと正直落ち込んでしまう。
「でも、そりゃそうだよね」
医師資格を持っているのにそれが生かされる仕事を選択しないとか、なにかあったのかと穿って見るだろう。実際、言い掛かりとはいえその『何か』があったわけだし。
失業してから
とりあえず色々目星をつけて情報をダウンロードして携帯端末に取り込み、ワークガイドを後にした。
時刻は夕刻にさしかかろうとしているが、夏の気配がすぐ其処まで来ているために良い陽気だ。というかもう暑い。紺色のパンツスーツだと薄く汗を掻いてしまう。何処か避暑にでも寄ろうかと一瞬考えたが、思い止まった。ここは切り詰めないと本気で生活出来なくなってしまう。食費はハイドが色々工夫して切り詰めてくれているし、いざとなったら釣りをしたり野草でも採ってくればなんとかなる。問題は光熱費だ。こればかりは如何ともし難い。まさか外で焚き火をしたり水浴びをしたりするわけにもいかないし。……実家だったら周りに何もないから平気なんだけどね。いっそのこと、マンション引き払って実家戻るかな?
真剣にそんなことを考えてしまう。だが、そうすればしたで負けたような気がして嫌だ。自分にプライドはないけれど、それでも実家を出るときに、たとえまた其処に戻るとしても、何も出来ないままなのは許せない。誰であろう自分自身が。
「……これもプライドっていうのかな?」
上着を脱いでそれを小脇に抱え、今日はもう帰ろうとステーションへ向かう。そしてモノレールに乗り込んで乗降口付近に立ち、それに揺られながらダウンロードした求人情報に眼をとおす。自分に客商売が出来るとは思えないけれど、生きるため背に腹は代えられないかもしれない。他の選択肢は……魔術を使って何かをする、か。でも実際問題として、自分の魔術は未熟であまり役に立つものではない。基礎中の基礎を祖父母に教わり、それしか出来ないから。だが今でもその基礎訓練は欠かしていないし、最近ではハイドも一緒にやっているけれど。やはり一人で黙々とするより二人の方が訓練も楽しい。
ハイドとは、あれから何も無い。当然男女の関係になることもないし、それに一緒に暮らしてみて判ったのだが、彼は生まれたての赤子のようだった。どうやらリンに会うまで本当にこの世界の生物ではなかったようだ。しかしその成長速度は眼を見張るものがあり、たった一月半でリンと同程度の知識と技術を――魔術的な意味も含めて習得してしまった。最初はそれを脅威に感じていたが、ハイドに限ってそれを悪用しようなどとは一切思っていないらしく、プロポーズ紛いのことを言ったとおりに、一途にリンのことだけを考えているようだった。
……白状するよ、私はそんなハイドが好きだ。人としても、異性としても、その能力も――家事全般のそれや魔術的なものも含めて尊敬出来るし、彼がその気ならば添い遂げても良いとすら思える。それが『恋』や『愛』かは判らないけれど。しかし、ハイドは全くその気はないようだ。本当に自分を飼い主程度にしか見ていないのではとすら思える。
まさか自分が異性にこんな気持ちを抱くことになろうとは思ってもみなかったし、それに気付いてしまったときは多少混乱した。しかしその相手が自分を飼い主程度にしか見ていないのは、若干どころか相当に落胆せざるを得ない。だがそれでも、日々の生活でふとしたところで以心伝心するのは、妙に嬉しいものがある。ハイドがそれをどう思っているのか、流石にそこまでは判らないが。
「……そういえば、最近私って家事していないな」
色々しようとすると、それより先にハイドがしてしまうから。以前それは分担でしようと言ったが、就職活動が大変だからという理由で聞き入れてくれすらしなかった。もしかして、そういうのが好きなのだろうか? もう慣れちゃって使用済み下着を見られてもなんとも思わなくなっちゃったし。それは女としてどうなんだろうと思案したときもあったが、そんな気が一切ない相手にそう思うだけ無駄だという結論に至り、もう気にしなくなってしまった。流石に月一回の出来事で汚れてしまったときは気にするが。
「下着姿や裸はまだ見られたくないけれどね」
それは流石にまだ恥ずかしいし。独白し、まだってなんだ? と自問して勝手に赤面する。
いけない、今はそんなことよりも生活のために働かなくては。このままではハイドと二人で路頭に迷ってしまう。まぁ最悪、この街から離れてもいいかとも思えるが。其処で小さくてもいいから診療所でも開いて……先立つものがないから無理。
結局、どうすればいいんだろう。ああ、見通しが甘かったかなぁ。でもあそこであのバカに頭を下げたところで、今後良いように使われて最悪弄ばれるかも知れない。泣き寝入りするしかなかったスタッフを何人も見てきているし。
はぁ、あのバカ破滅しないかな。もっと魔術が使えたら呪術も出来たのに。などと邪悪なことが脳裏を過り、だがあのバカに呪術を使うリスクを冒すのも馬鹿らしいと考え直す。それに、そんなことをして自分に返ってきたら、ハイドが悲しむ。いや、これは違うな。私がハイドから離れたくないんだ。以前は自分のためだけに、生活するためだけに働いていたが、今はハイドのためにもしっかりと職に就かなくてはならない。
「選り好みしていられないな」
再び求人情報に目をとおし、郊外に停車したモノレールから降車する。そしてパスを認識させ、そろそろそれの有効期限が近くなっていることに気付いた。ああ、光熱費だけじゃなく交通費もあったか。此処は郊外で実は市街まで遠くて結構いい値段だし。これ、本格的に拙いなぁ。この端末の通信費もバカにならない。……なんでこんなにお金が掛かるんだろう……やっぱり田舎に引っ込もうかな。
そんなことを考えていると、なんだかどうしていいのか、どうしたらいいのかが判らなくなってしまう。どういうのが正しくて、どういうのがそうじゃないんだろう。本当に、今の自分は中途半端だ。人としても、社会人としても、扶養主としても、そして魔術師としても。
夕刻に差し掛かり帰路についている人々を尻目に、家路の途中にある河川敷に降りて其処にあるベンチに座り頭を抱える。こんな姿は誰にも、少なくとも自分を知る人には見られたくない。
そうか、私は今落ち込んでいるのか。
心の何処かで、客観的にそう思う。いっそ現実から目を背けてしまいたいという欲求が鎌首をもたげるが、それはしてはならないことだと自分に言い聞かせた。
「ハイド、私はどうしたらいいんだ……」
日が沈み、
「此処で、この街に居たいと以前は思っていた。でも、あんなことがあってから何故そう思っていたのかが判らなくなってしまったよ。それになにより、此処にいる意味があるのかすら見失っている始末だ。……私がもし、此処じゃない何処かに移りたいと言ったのなら、キミは付いて来てきくれるかい?」
誰もいなくなった河川敷のベンチで俯き、独白する。そのとき、リンの身体が後ろから優しく抱き締められた。
突然のことに驚き、だがこの感覚は覚えていると理解した。そして自身の左肩に乗せられた頭を撫でる。長い、光の加減で藍色にも見える黒髪がサラサラと流れるように指の間を滑っていく。
「どうしてこんなところにいるんだ? まったく、キミはいつも私の恥ずかしいところばかり見ているな」
涙声になりそうなのを必死に堪え、いつもと変わらない風を装ってそう言う。それも、ハイドに見透かされるのは判っている。だがそれでも、自分はそうしていたかった。そうするのが己だと、自分も――きっとハイドも理解しているから。
「リンの『声』が聞こえた。恥ずかしいことなどない。悲しければ泣けばいい、迷ったのなら好きなだけ考えればいい。どんなことになろうと、何処に行こうとも、俺は、ずっとリンの傍にいる」
「だから、それはプロポーズになるから。キミは私を本気にさせたいのか?」
そう軽口を叩く。ハイドはそのつもりがないのは知っている。この一月半で何度も言われたから。だけど、それ込みであったとしても、言われて嬉しいことに変わりはない。
リンが立ち上がると、ハイドは静かに離れてその手を取った。抱き締めてくれた後は、必ず手を繋ぐんだな。微笑みながら傍に立つ彼を見詰めて視線を落とし、だがふと、
「なぁハイド。なんで素足なんだ?」
そう、外にいる筈なのに靴を履いていなかった。そういう趣味なのか? それともテレビでおかしな知識でも拾って来たか? そんなことを考えていると、バツが悪そうに、
「リンの『声』が聞こえてきたから、なにか、こう、悲しそうだったから『跳んで』来た」
何故か眼を逸らしているハイドを真っ直ぐに見詰めて首を傾げる。
「ん? えーと、なんだって? 私の声が?」
「ああ、頭の中に聞こえた。だから『跳んで』来た」
……そういうことか。僅かに考えて思考を整理し、やっとリンは納得した。つまりハイドは、リンの思考から漏れ出た『声』を〝テレパス〟で聞いて、そのまま〝テレポート〟して来たのだろう。最近、というか最初から魔術ばかりに気を取られていたから失念していたが、ハイドは〝
「なるほど、それは凄いな。なぁハイド、それはどれくらいの精度で出来るんだい?」
興味を唆られて訊いてみる。すると首を傾げ、
「多分マンションまでは簡単に行ける」
それを聞いたリンは、まるで子供のように満面の笑みを浮かべた。そして唐突にハイドの首にぶら下がるように抱き付くと、
「マンションまでそれで行こう」
そんなことを言った。ハイドは嫌な顔一つせずに頷き、
「『跳ぶ』ぞ」
言うなり、いきなり視界が変わる。もしかして移動によって酩酊状態になるのではないかとも思ったが、そんなことは一切なく拍子抜けするほどあっさりと終わった。それはそれで、変化を感じさせないという意味で凄いことだが。
着いた先は玄関である。偶然其処なのかとも思ったのだが、
「リン、済まないが足を拭くものを持って来てくれ」
どうやらしっかり選択出来るらしい。何も考えずに〝テレポート〟したため素足で行ってしまい、それで汚れた足でリビングに入りたくなかったようだ。
「キミでも慌てるときがあるんだな」
ニヤニヤ笑いながら絞ったタオルを渡して言うと、それは当り前だと言わんばかりに、
「リンが落ち込んでいるときに慌てるのは当然だろう」
「また、そういうコトを言う」
嬉しいけど。言外にそう呟き、足を拭いているハイドを見る。なんか散歩帰りの大型犬みたいだ。髪が長くて身体が筋肉質だけど細い方だし、性格的にもラフコリーかな? などと酷いことを思うリンだった。
足を拭き終わってタオルを揉み洗いしてから洗濯機に放り込むハイドを見詰めながら、そういえば〝PSI〟をどの程度使えるか訊いていないことに気付く。
〝PSI〟には一つの能力に特化した〝
「なぁハイド。キミが使った〝テレポート〟は『
〝テレポート〟にも二種類あり、自己を物理法則完全無視な加速で瞬時に移動するものと、目標とする場所へ文字どおり『転位』するものがある。因みに、どちらも科学的に説明不能な事象であるが、前者は行使すると疲労が酷いらしい。物理法則は無視出来ても、移動による疲労は無視出来ないらしい。
「……よくは判らんが、少なくとも体力は消費していない。まぁ
台所へ向かいながらそう答える。そして冷蔵庫から船盛を取り出した。
「なるほど、ランク分けすると高位である『空間転位』としての〝テレポート〟を使えるということは、少なくともハイドは器用貧乏ではないらしい。なんだか、本当にスペック高いな……て! なんでそんな豪勢な刺身盛り合わせがあるんだ!?」
「商店街の福引で当たった」
確かにハイドは此処のところ駅前の商店街に、何処で手に入れたのか籐籠片手に出かけているようだった。数回だけ一緒に買い物へ出かけたときがあり、そのお陰でいつの間にかリンは旦那持ちと噂されるようになったが。そして意外に人当たりが良いハイドは、その容姿も相俟って商店街のオバサマ達から結構色々オマケして貰っていたりする。更にオジサマ達からは、リンちゃんを幸せにしてくれと何故か懇願されていたりもするが。
でも福引で刺身の船盛くれるなんて、何を考えて商品を決めているのだろう? そもそも日持ちしないだろうに。
商店街の珍妙な発想に首を傾げつつ、だがせっかく貰ったものは消費しないと勿体ないという結論に至り、生ワサビをおろしているハイドを尻目に寝室へ向かい、ブラトップにハーフパンツという軽装になる。腰まで来る黒髪は緩く三つ編みにした。リクルート用にしっかりまとめていると、引っ張られて頭皮が痛いから。
「リン、一つ提案があるのだが」
小皿を並べ、汁椀に味噌汁をよそう。そして茄子の煮浸しと春雨サラダを並べながらそう言う。何を言うのかなんとなく理解したリンは、溜息をついて腰に手を当て、
「自分も働くとか言うのなら却下だよ。それは私がどうしても職が見つけられなかったときの最終手段だ。そのときはキミにホストでもやって貰おうかな?」
「……判った。どうしてもというときにはリンが望むとおりにホストでもしよう」
冗談で言った職業に就くとか言われ、女達に傅いてサービスしているハイドをリアルに想像して物凄く嫌な顔をする。確かホストという仕事は店内でのサービスだけではなく、「アフター」とかいうサービスもあって、更に……、
「いや、やっぱりそれはイヤだ。絶対にダメ、そんなことさせられない。ハイドがバカ女どもの毒牙に掛かるのは看過出来ん!」
自身の偏見な知識による妄想を脳内でリアルに再生し、顔を真っ赤にして頭を左右に激しく振りながらそんなことを言う。全てのそういう店舗がそういうサービスを提供しているわけではないのだが。
「大丈夫、私が頑張るから!」
上気させた顔のまま、胸の前で両手を握りしめて力説する。その珍しく女らしい仕草に、ハイドは僅かに胸が高鳴るのを感じた。だが、それが何であるかを考えるのは今ではないと判断し、陶器製の醤油注しを食卓に置く。そして憮然としているリンへ食卓に着くように視線で促し、気付いた。リンの黒の瞳が、薄く青み掛かっている。
「リン、眼が青くなっているぞ」
何気なく指摘すると、リンは数回瞬きをして首を傾げ、何かに思い当たったのか慌てて両眼を押さえてそのまま寝室へ引っ込んでしまった。何事かと思い様子を見ていると、数分後に細いフレームでレンズが僅かに着色された眼鏡を掛けて戻って来る。それを見て不思議そうにしているハイドへ、手をヒラヒラさせつつ愛想笑いを浮かべた。
「いやいや、済まん済まん。驚かせてしまったね」
あははと乾いた笑い声を上げて食卓に着き、無言で見詰めるハイドの視線を無視して両手を合わせ、
「いただきます」
そう言うと何事もなかったかのように食べ始めた。それを、ハイドは何も言わずに見詰めている。
「うん、この茄子の煮浸し美味しいよ」
相変わらず頬張っているのに出る流暢な言葉を聞いても、ハイドの視線は変わらない。
「しかし、福引の景品で刺身の船盛ってどうなんだろうね。日持ちしないだろうし持ち帰るのも大変だろうに」
ハイドの視線は説明を求めているというのは知っているのだが、これはちょっと言いたくない。だが言ったところで、ハイドはきっと全て受け入れてくれるとも思うのだが、これはやはり言いたくない。自身のプライドの問題もあるが、それよりもある感情に気付いてそれを決定付けてしまいそうだから。
そう思っていると、ハイドは無言で立ち上がってリンの傍に立つ。もしかして、珍しく怒った? そう思っていたら、そのまま背を向けて炊飯器からご飯をよそい、リンの前に置く。
「お、ありが……」
礼を言おうとしたら、突然顔を掴まれた。その行動に戸惑っていると、何を思ったのかハイドはリンの顔へ自らの顔を近付けていく。何をされるのか判らずにその行為に赤面し、だが直後にハイドが記憶を共有しようとしているのを察し、
「わあ! ダメだ! それはヤメテ! 言うから、言うから! それだけは勘弁してくれ!」
ハイドの顔を全力で押し退けつつそう言った。そしてハイドは、判れば宜しいと言わんばかりに顔から手を放し、半眼でリンを見下ろす。そしていつもどおりにリンの対面に座り、半眼のまま視線で促した。
リンは溜息をついて頭を掻き、まだ赤面したまま恨めしそうにハイドを睨む。そうしたところで暖簾に腕押しなのは判っているのだが、それでもそうせずにはいられなかった。
「始めに言っておくが、これは私にとって恥ずかしいことなんだぞ」
「……まぁ、通常なら詳細は訊かないところだが、それは知っていた方が良いと
一回の記憶の共有で其処まで判っちゃうのね。今更なのだが、本当にほぼ全てを見られてしまっているようだ。最初はとても嫌だったが、今ではそれを受け入れられたのか慣れたのか、あまり気にならなくなった。だがこの現象は、そのときのリンも忘れていたためか理解されなかったようだ。
「そうだね、これは実はかなり危険なものだ。キミは〝魔眼〟というものを知っているかい? 畏まって話すのも照れ臭いから食事しながら話そう」
小皿に醤油を注し、鯛の刺身にワサビを乗せて醤油を付けて頬張る。
「一般的に視線で呪いを掛けると理解されているものか? こっちにも醤油をくれ」
「はい、醤油。まぁ、世間一般の理解はそんなもんだ。だがそれは〝邪眼〟というヤツだな。呪いと呼ばれている呪法の一つで、対象へ前以て展開してある呪術を転写する、これも魔術の一種だよ」
ご飯を一口食べ、味噌汁を啜る。そして顔を綻ばせて溜息をついた。
「アラで出汁を取った。良い味が出ているだろう。魔術の一種だとしたら、それを使うのに前準備が必要なのではないか? いつものリンを見ていると、魔術の基礎訓練以外は一切使っていないようだったが?」
「物凄く美味しいな、これ。もしかして客商売しても遜色ないくらいな腕になっているのではないか? うん、私はそんな魔術は使っていないよ。そもそも普段から魔術は使っていないし。まぁ順を追って説明するよ」
春雨サラダを頬張り、ああ、これ太り易い人だったら大変なことになるなぁ。いっぱい食べて肥満必死。そんなことを考える。
「まず言っておくが、キミが言う〝邪眼〟と〝魔眼〟は全くの別物だ。前者はさっき説明した通りで、そして後者は瞳自体に魔術の媒介となる陣が宿っているんだ。まぁ一般的には宿っているのではなく宿しているんだけどね。あ、私シャコはちょっと苦手。なんか虫っぽい」
シャコをハイドへ押し付けるが、半眼でそれをリンの方へと戻した。
「食わず嫌いしない。食べてみれば結構旨いぞ。それは瞳に直接陣を宿らせたということなのか? そもそもそんなことが可能なのか?」
戻されたシャコを箸でつまみ、恨めがましくハイドを見る。だが素知らぬ顔をされ、それが案外悔しかったのか、ワサビを多めに付けて一口で頬張った。
「あれ、本当に美味しい。これはちょっとびっくりだ。食わず嫌いも考え物だなぁ。瞳に陣を宿らせることは可能だよ。ただしそれをすると大体は失明するし眼を開ければ常に魔術が発動するけどね。これは以前も言ったけれど、魔術には代償が必要だ。未熟な魔術師が高位の魔術を使えば『理』に触発してそれ相応の『罰』が下る。ぶっちゃけて言ってしまえば、魔術は如何に巧く『理』を騙せるかでその強度が変わってくるんだ。熟練した魔術師は『理』にとってとんでもない詐欺師ということになる。まぁそれは置いといて、この場合は強力な魔術を得る代償として視力を差し出した、ということになる」
ケトルから急須にお湯を注ぎ、湯呑にお茶を注ぎながらハイドは首を傾げる。リンの瞳は常には黒だがあのときだけは青くなっていた。それに今の話しだとリンは目が見えないということになるのだが、そんな素振りは一切ない。
首を傾げているハイドから湯呑を受け取って一口飲み、そして箸を置いて眼を閉じると眼鏡を外す。
「私の眼だが、陣を宿らせたのではないよ。これは、生まれたときから宿っているんだ」
ゆっくりとその双眸を開く。瞳が蒼白になっており、そして複雑な魔法陣が宿っていた。その輝きが増し、やがてリンの背後に瞳に宿っているものと同じ陣が展開され、更に複雑なそれが十重二十重に発生する。やがてそれが一つの陣になり、突然霧散した。リンが眼を閉じたのだ。
「〝二十四魔法陣〟。これが私が使える最高だ。この陣を展開させるとこうなるんだよ。少なくとも人相手に三重以上は使いたくないな。きっと一瞬で消滅する」
眼を閉じたままそう言い、再び眼鏡を掛ける。そして続けて、
「もっともこの陣が見えるのは、多少なりとも魔術の素養がある者だけなんだけどね。ああ、あとこれは実は魔術じゃないよ」
何故か自嘲気味に口元へ笑みを浮かべ、その双眸を薄く開く。瞳は既に黒へと戻っていた。睫毛が長くて揃っている。そして二重瞼が僅かに染まっているのは天然アイシャドウなのだろう。そういえばリンがメイクをしているところなんて見たことがないな。精々ファンデーションとルージュを塗るくらいだ。などと深刻な話しとは全く関係のない見当違いな感想を漏らすハイドだった。
湯呑を置き、箸を持ち直すとハマチの刺身にワサビを乗せて醤油を付ける。リンはワサビが平気な方らしい。因みにハイドは、それほど得意ではなかったりする。
「ハマチは好きだったよな。食べちゃっていいぞ。魔術ではないとしたらなんだ? リンは〝PSI〟ではないだろう? もっとも〝PSI〟にそんな能力はないのだが」
早速ハマチの刺身を頬張り、頬に手を添えて美味しそうに味わっている。そのリンを見て、ハイドは可愛いと思ってしまった。更に、眼鏡を掛けたリンも悪くないとしみじみ思いつつ見詰め、その視線に気づいたリンに何故か睨まれた。
「今おかしなことを考えていなかったか? 言っておくがハマチは返さないぞ」
おかしなことを考えたのは事実だが、別にハマチが食べたくなったから返せとか考えたわけではないのだが。察しが良いのか違うのか。心中でそんなことを独白するハイドを他所に、ハマチを独占してから続ける。
「うーん、まぁ、ハイドも魔術の修業をしているみたいなものだからもういいかな? これはね、この眼に宿っているのは『魔法』だよ。言っておくが、前に話した複合して劣化させた『魔術』ではなく『魔法』だ。私のお婆様はね、この世界で最後の〝魔法使い〟なんだよ」
ハマチを独占しつつ、今度はエンガワに手を伸ばす。リンの話を聞きつつ、だが本当に美味しそうに食べる彼女を見ていると、此方も幸せになってしまう。もっとも会話の内容はやはり結構深刻なものなのだが。
「その一人娘である母には何故かほぼ素養がなくて、そしてこれもまた何故か孫の私に強く発現したんだ。それだけだったら困らなかったけど、生まれてきた娘は〝魔眼〟持ちだった。そんな母に私を育てることなど出来る筈もなく、一般人として生活するために唯一教えられた〝魔術隠蔽〟を生まれたばかりの私に施し、母はお婆様の元へ私を連れて行ったんだ。そう、縋る思いでね。本当は自分の手で育てたかったらしいが、素養のない母では常時『魔法』を発現させている私を育て、そして普通の――『魔法』と切り離した生活を送らせることは不可能だった。結局私はそのまま祖父母に引き取られ、この眼が発現しない程度の『魔法』を学んで今に至る、というワケさ。因みに母は、私へ『魔術』を使い過ぎた所為で早逝してしまったらしい。〝魔眼〟持ちに生んでしまった私への後ろめたさなのか、それとも贖罪なのか、まぁ、自分なりに何とかしたかったんだろうね。……そんなこと、気にしなくても良かったのに。もっともお婆様は、母の素養の希薄さが私の〝魔眼〟の代償である可能性があると言っていたけどね。あー、エンガワ美味しい」
鮪の赤身を食べながらリンの話を黙ってハイドは聞き、だが思った。確かにあまり人に話したい内容ではないが、それほど恥ずかしい内容ではない。どちらかというと恥ずかしいより同情を買う方だと思うのだが。
「……別に恥ずかしい内容じゃないと思っているだろう」
これも見透かされた。表情は一切変えていない筈なのに、ここのところ考えが見透かされることがちょいちょいある。それは何故だろうと思案していたら、
「ハイドは表情を変えなければ思考が漏れる筈がないとでも思っているようだけど、変えなさ過ぎるのも案外判り易いもんだぞ。ある程度は表情に出した方が読まれ難いんだ」
まだまだだね。箸を持ちながら片肘をついてそう言う。だがハイドに行儀が悪いと指摘されそうだから、すぐに止めた。そして一度だけ咳払いをし、
「あと判っていると思うが、同情なんかは要らないからな。このことに関して私は既に飲み込んで昇華出来ている。それに私がその立場だったとしたら、きっと同じことをしただろうね」
もっとも自分なら素養もあるからもっと巧く出来ただろうけど。肩を竦めて苦笑しつつ独白し、ご飯を一口食べ、次いで茄子の煮浸しへ箸を付ける。
「それはもうどうでもいいんだよ。……恥ずかしいのは、この次なんだ」
それに箸を付けたまま、口を真一文字に結ぶ。僅かな時間経過のあと、リンは意を決して言った。
「普段は何事もなく抑えられるんだよ。これはもう意識しなくてもそう出来る。でも、感情が高ぶり過ぎたりすると僅かに漏れることがあるんだ」
なるほど。それを聞いて、ハイドはなんとなく納得した。だが自分が働くと言ったことが、それほど気に入らなかったのだろうか。釈然としないハイドだった。
「……ハイドが、ホストで働くなんて言うから……」
いや、それはそもそも其方から言い出したことである。いくら朴訥なハイドでも、それはリンの冗談であることくらいは理解出来る。
「それを想像しちゃったら、凄くイヤで……ハイドが他の女と楽しく話をするとか、イヤだなって思ったら、なんていうか、その……」
茄子の煮浸しに何か恨みでもあるのかと言わんばかりにつつき続け、バラバラにしている。だがそうしている自分の行動に気付いていなのだろう。そして更に、その顔が上気し始めた。
「焼きもちを焼いてしまったんだ! いい加減に気付け! この鈍感! 大バカ者! 天然たらし! 凄腕ジゴロ!」
バラバラになった茄子の煮浸しを一気に口へと流し込み、咀嚼しながらそっぽを向く。だがそう言ったところで、
「いや、気付く気付かない以前に、なんのことだか判らないのだが……」
その意味すら判っていないハイドだった。そうだった、本当に今更なのだが、彼はそのような感情に気付けるほど、この世界で成長し切っていないのだろう。それを察したリンは、まず天井を見上げて溜息をつき、そして項垂れ、暫しそのまま動きを止める。
きっとこの想いを言ったところでハイドは理解出来ないだろう。知識としては知っているのだろうが、それがなんであるのか正しく理解出来ていない。だがそれとは別に、リンの想いも先程の妄想で限界になってしまったのも事実。
自爆以外の何物でもないんだけどね。そう自嘲し、意を決して顔を上げて正面からハイドを見た。彼もまた、そのリンを見詰め返している。
「聞くだけ聞いてくれ。そして判らなかったら忘れてしまってもいい。私も自分がこんなことをするようになるとは思っていなくて多少困惑している。だけど、きっとそうした後で私は後悔するとも思っている、判っている。でも、言いたいんだ」
箸を置き、姿勢を正して深呼吸する。ハイドもそのリンを見て同じように姿勢を正した。
「ハイド、私はキミが好きだ」
「俺もリンが好きだ」
案の定、そう即答する。そしてそれも予想どおり。リンは目を伏せ、口元に優しい笑みを浮かべて呟くように続けた。
「キミが言っている『好き』と私が言った『好き』はきっと違う。そうだな……私はハイドを愛しているんだ。人として、異性として、私はハイドを愛している。もしかしたら、キミはそういう私を理解出来ていないかもしれない。でも私にとって今はそれでいいんだよ。ああ、気にしなくてもいい、これは私が一方的にそう思っているだ……け……ええぇ?」
リンの言葉を黙って聞いているハイドの双眸から、涙が零れていた。その意外な反応に言葉を失い、だがそうなっているハイド自身も驚いているようで、零れてきている涙を拭い、それを不思議そうに見詰めていた。
「いや、あの、ええと、私、なにかおかしなことを言ったか?」
慌てて立ち上がってハイドの傍に行き、何故か泣いているその頬に触れて涙を拭う。すると彼はリンの細い身体を抱き締め、その胸に顔を埋めた。
「え、と……済まん、きっと今おかしなことを言ったのだな。混乱させてしまったようだ」
ハイドの頭を撫でながら、どうしたものかと思案していると、リンの胸から顔を離してそのまま見上げた。だが相変わらず涙は流したままである。
「よく判らない。だが、嬉しかったのだと思う」
そう言うと、再び胸に顔を埋めた。嬉しかったと言われてこれは喜んでいいのかと思案し、だが自分の胸にハイドが顔を埋めているのに今更ながらに気付く。しかし此処で突き飛ばすのもなんだか可哀想だと思い、だがある別のことに気付いた。
今私が着てるのってブラトップだよね、ちゃんとしたブラしてないよね。ということはこれって、ほぼ生じゃないか!
一瞬ハイドを突き飛ばしたい衝動に駆られたが、泣き続ける彼を見下ろして溜息をつき、そのままその頭を抱く。恥ずかしいことに変わりはないが、そんなハイドを突き飛ばすことなど出来い。きっと混乱してどうしていいのか判らなくなったのだろう。
「仕方ないな、ハイドは。だが済まんな、こんな胸では満足出来ないだろう」
取り敢えず軽口を言ってみる。でも84のDはそれなりだと思うのだが。などと自分を慰めていたりもする。
「あ」
そんなことを考えていると、そう言いながらハイドは顔を上げ、
「鼻水出た」
……ムードも何もないな。天井を見上げて軽く息を吐きつつそう独白し、だがその程度で騒いでどうこうするリンではない。その頭を撫でて優しく微笑むと、もう一度その頭を抱き締めた。
髪をアップにまとめて邪魔にならないようにし、紺色のリクルートスーツを身に纏ったリンが、姿見の前で自身をチェックして頷いた。日焼け止めもしたしメイクもばっちり。といっても普段からあまりしないから薄くしかしていないけど。髪も綺麗に纏まってるし、何処に出ても恥ずかしくない。
今日こそ就職先を決めなくては。そう心に固く誓い、そして昨日の出来事など忘れているかのようにいつもと変わらず朝食の片付けをしているハイドへ出掛けると伝えて玄関へ向かう。すると片付けを中断したハイドが、例の事件(?)で着用していたピンクのフリル付きエプロン姿で見送りに来た。気に入っているのか他に選択の余地がないのか、それは彼専用になっている。ハイドの素肌に触れたエプロンを使いたくないというワケではなく――今ではむしろ使いたいくらいだが――単にフリル付きピンクエプロンにリンが抵抗があるだけだ。
「行ってらっしゃい。……気を付けて」
パンプスを穿いているリンへ、何故か深刻そうにそう言った。その意外な言葉に眼を瞬かせ、首を傾げて怪訝そうに見詰める。
「どうしたんだ、珍しいコトを言うじゃないか? 昨夜のことを思い出して何か気になっちゃったのかな?」
「それもあるのだが……」
あるんだ……。揶揄したつもりが大真面目にそう返答されて言葉に窮していると、今度は突然抱き締められた。
「なぁハイド。こうされるのは嬉しいんだけど、今から私は出掛けるんだよ。それは帰って来てからにしてくれないか? あ、でもだからといってその先を期待されても困るからな! 私にも覚悟というものが……」
「今日は夢見が悪かった。本当は出掛けて欲しくない」
突然そんなことを言われても、それだけでは引き止められる理由にならない。
――本来であったならば。
ハイドは〝PSI〟だ。そしてその能力には、時間に干渉し漠然とだが未来を視る〝フューチャーテラー〟がある。その能力をコントロールするのは難しく、ほぼ意識的には出来ない上にそれの殆どは思い過ごしや考え過ぎ、ストレスや或いは不平不満であったりすることの方が多い。
だがハイドは
魔術的にも〝PSI〟としても、そう言われると物凄く嫌な予感しかしないんだけど。もしかして今日も就職がダメだったりするのだろうか。そんなマイナスイメージが沸き上がり、だが直ちにそれを掻き消して自分を抱き締めているハイドの頭を撫で、軽くペシペシ叩いた。
「判った判った、気を付けるよ。いいから離れてくれ」
そう言われ、渋々離れたハイドへフレンチ・キスをする。今度は彼が眼を瞬かせてリンを凝視した。
「告白されてもどうしていいのか判らないバカモノへのお返しだ」
そう言って舌を出し、
「行って来ます」
手を振って出掛けるリンへ同じく手を振って応え、サンダルを履いて玄関から出るとそのまま見送った。
やれやれ、ハイドにも困ったものだな、色々と。そう考えつつマンションから出て、雲が出ているが日差しの強い空を何気なく見上げると、テラスにハイドがいて此方を覗き込むようにして見下ろしていた。
其処まで心配されると余計に不安になるんだけど。そんなことを考えつつ頭を掻き、でも悪い気はしないと顔を綻ばせる。
今日は昨日と違い、心が軽い所為か足取りも軽い。出掛けにハイドからあんなことを言われて若干気持ちが沈んだが、その程度のマイナスイメージで挫けてしまうわけにはいかない。なんといってもこれからの生活が掛かっているから。取り敢えず今日面接に行くところは未経験者可だというから、なんとか就職出来るように頑張らないと。
そう言い聞かせて自身に気合を入れ、両の頬を軽く叩いて更に集中してその会社へと向かった。
――三時間後。
その会社を後にして、リンは盛大いに溜息をつきながら肩を落とした。結果からいえば、履歴書を見た時点で落とされた。やはり医師資格を持っているのにそれを生かさないのはおかしいと、そして本当に未経験者が来るとは思わなかったと言われ、更に医師を続けないのは何か事故を起こしたのではと言外に勘繰られる始末。
ハイドの『悪い予感』って、やっぱりこれだったのかな? そんなことが脳裏を過ぎり、だがまだまだこれからだと自分を奮い立たせて端末にダウンロードした求人情報へ目を通し、こうなったら手当たり次第にいこうか? などと無茶なことを考えてもみる。だがそれだととんでもなく黒い企業にいっちゃう可能性もあるから、やはり良く吟味しないと……。
「おやぁ、誰かと思ったらぁ、スメラギ先生じゃないかぁ」
思考の途中で声を掛けられ、だがそれよりも聞きたくもない声を聞いてしまったことと、なにより誰よりも会いたくないヤツに会ってしまった事実に直面し、このときやっとハイドが言う『悪い予感』が何であるかを理解した。
「こぉんなところで何をしているのかなぁ? おやおやぁ? そんなスーツ着て、何処かにお出掛けかなぁ?」
この粘度の高い口調を忘れるわけがない。リンが以前勤務していた病院の、院長の息子。彼女が言うところの『バカ息子』だ。
「最近院内で見掛けないからぁ、何処に行ってしまったかと思っていたよぉ。君の麗しい姿を見られない日々は、そうだなぁ、砂漠に咲いているサボテンになった気分だったよぉ」
その言葉に総毛立つ。というかいつも自分を観察していたのか? そもそも砂漠にサボテンは「咲いて」いない。場所や気候によって自生はしてはいるが。
「何か御用ですか?」
一刻も早くこの場を離れたいと思いつつ、だが笑顔一つ見せずに振り返ってそう言い放った。するとそのバカ息子は不思議そうな顔になり、だがすぐに口元に笑みを浮かべてリンを睨め上げる。高級そうなスーツが似合っており、だがそれをさりげなく
「偶然会ったんだ、声くらい掛けてもいいだろぉ? 満更知らない仲でもないだろうしぃ」
「誤解を招く言い方は止めて頂けますか」
あくまで他人行儀にそう言い――実際ほぼ他人だし――その場をそそくさと立ち去ろうとする。
「そんなつれないことを言わないで欲しいなぁ。そうだ、久しぶりに親交を深めないかぁい? なぁに気にすることはないさぁ、ボクは散歩中なだけだしねぇ。ほらほらこのペット、カワイイと思わないかぁい?」
ペット? そんな趣味あったのかこいつ? そういえばリード持ってるな。そう思いつつ、何気なくその背後へ視線を向ける。すると其処に、胸を申し訳程度に覆っているキャミソールとオープンヒップのボンテージスカートを穿き羞恥に涙目になりながら震えている赤毛のショートボブの女性がいた。そしてリードが繋がっている物は、チューカーではなく動物用の首輪だ。しかも彼女は見たことがある。確か、
「この娘覚えてるぅ? 君に連絡したけど無視されてぇ、結局目の前でだぁいじな僕の患者を死なせちゃったんだよねぇ。いやぁ、あれから罪悪感感じちゃったのかぁ、僕のペットになったんだよねぇ」
物陰に隠れようとする彼女を、リードを強く引き寄せて強引に、そしてわざと通行人からよく見える場所に立たせる。首輪が強く締まっているため咽込みながら倒れこみ彼女に道行く人々が気付いて足を止め、其方を好奇の目で見る。何かのイベントなのかとでも思ったのだろう、中には端末で写真を撮る者もいた。
「このゲスが……!」
吐き捨て、複数の端末を向けられたため羞恥に自身を抱き締め身を固くして蹲る彼女へジャケットを脱いで掛ける。それを見下ろしながら、
「あれあれあれぇ? どうしてそんなことをするんだぁい? そいつはねぇ、こういうシチュエーションが好きなんだよぉ? 人に見られるのが堪らなく好きなんだよなぁ! そんな雌豚なんだよなぁ! なぁ、そうだよなぁ!」
リンを押し退けるとジャケットを剥ぎ取って捨て、リードを引いて彼女を引き寄せるとその髪を掴んで引き摺り始めた。小さく悲鳴を上げて一瞬リンを見るが、だがされるがままになっているその姿を見て周囲の人々が眉を顰める。しかしそれでも止める者は現れない。
まぁそうだよね。リンは独白する。所詮人とはそういうものだ。他人に関心がなく、そして自身に危害が及ぶのを極力避け、無関心を装う。元来人付き合いが不得手なリンとてそう思っていた。そうして人との関わりを疎かにしていた結果、他人の――このバカ息子のミスを擦り付けられた。あのときは自分を弁護するものが周囲に誰もいなく――バカ院長からの圧力もあったのだろうが――結果的に医師を辞めざるをえなくなってしまった。あのときには特に絶望して、一時極度の人間不信に陥り現実逃避してしまったが。だが、
「止めないかこの莫迦者!」
それでも自分は、そのような理不尽を看過出来るほど人に絶望していない。
リンは咄嗟にバカ息子の腕を取り、そのまま容赦なく捩じり上げてついでにその腕へ掌底を叩き込む。手加減は一切していない。よって、バカ息子の肩関節が外れ、そして上腕骨が粉砕した。
「ぎゃあ! 痛いぃ――! 腕が、肩がぁ―――――――――!!」
激痛に転げ回るバカ息子を尻目に、路面に落ちた自分のジャケット拾って彼女の傍にしゃがみ、再び掛ける。そのリンを彼女は見上げ、怯えながら目を逸らした。
「どうして……」
俯き、ジャケットで自身の身体を隠しながら、彼女は呟いた。
「どうして、あたしにこんなことをしてくれるんですか……? あたし、嘘吐いて……その所為で先生は病院にいられなくなったのに……あたし、リン先生に酷いことしたのに、どうして……見捨てられても仕方ないのに……」
「え、なんで?」
自身を責め、呟くように訊く彼女へ、リンは心の底から不思議そうに訊き返す。その返答に言葉を失っていると、
「だって、
覚えている筈がないと思っていた名前を呼ばれ、心の奥底で求めていた助けに気付いて貰えた。そして、本来ならば恨まれても仕方ない筈の仕打ちをしてしまった相手から謝罪され、嬉しさと申し訳ないさ、そしてそうするしかなかった自身の情けなさが一気に噴き出し、アリシャはリンの腕を掴んで泣き出した。
「あ……あた、あた……し……ごめんなさ……い……。そうするしか……なくて……しないと、画像、ばら撒くって……」
なるほど。リンはアリシャのその言葉だけで全てを察した。元々こいつは薬を使って昏睡強姦をしている疑いがあった。きっと彼女もその被害者で、そして口止めに裸かその行為中の画像を突き付けたのだろう。呆れるほど形どおりのクズだ。そういえば自分もこのバカに一服盛られたときがあったな。だが残念ながら『煉丹術』で完全に無毒化出来るから全く効かなかったけれど。
「やったなぁ! このバカ女ぁ! パパに言いつけてこの街で二度と歩けないようにしてやる! 其処の雌豚! お前もだぁ!
その言葉で絶望に震えているアリシャの頭を優しく撫で、首輪に手を添える。それだけで首輪とリードが形を無くして崩れ去った。
「こいつ殺す」
漏れ出たその言葉に驚愕して顔を上げるアリシャを尻目に、リンはゆっくりと立ち上がる。そのとき彼女は気付いた、リンの双眸が蒼白になっていることに。
「別にね」
縛ってある髪を解き、頭を振りながら手櫛で髪を掻き揚げる。長い黒髪が広がり、初夏の風に吹かれて靡く。その姿は限りなく美しく、堪らなく格好良く、そして際限なく怖ろしい――まさしく物語にある美しい魔女のようだった。
「私はいいさ。この街にそれほど未練があるわけじゃないし。そもそも『この街で二度と歩けなくしてやる』ってどうなんだい? 脅しとして三流以下だよね。まぁそれはともかく、女を大切にしろとか言うつもりはないし、色を使って生活している人々もいるからそれを利用するのを否定はしないよ。でもね、無理矢理行為に及んであまつさえそれで脅迫するのは看過出来ん。貴様みたいなクズがいるから、私達女が辛い目に遭うんだ」
リンの背後に魔法陣が浮かび上がる。それは危険なものだ。アリシャはそう直感した。だが彼女も、このバカ息子には殺意を持っている。それは良くないことだと判っているが、それでも、自身を弄んだこの男は許せない。
「ねぇアリシャ。もしかして、私のこの眼と魔法陣が
声を掛けられ、驚愕に肩を震わせる。その反応だけで、リンには充分だった。
「そっか。まぁ医者を辞めた私が言うのは説得力がないけど、その素養は希少だから使わないのは勿体ないよ。私が教えられれば良かったんだけど、でももうダメ。もうちょっと早く、それ知りたかったな」
僅かに振り返り、微笑んだ。その笑顔は優しく、そして純粋で無垢だった。
――この人に、この人がそれをしてはいけない。アリシャは術が完成しようとしているリンを止めようと抱き付こうとしたが、それは既に彼女がどうにか出来るモノではなくなっており、不可視の壁に弾かれた。魔術師の術がほぼ完成すると、その周囲にその副産物ともいうべき障壁が発生する。そして術が完成したとき、術者の身体は一時的にこの世界から消失してどのような方法でも触れることすら不可能となる。これは術を放つ瞬間の完全な無防備を補正するための、それ単独では絶対に発動しない初級魔術。それを破るためには、術者と魔術的に完全一致していなければ不可能であり、つまり理論上不可能である。
「お爺様、お婆様、申し訳ありません。これより私は〝殺戒の禁〟を破ります」
何が行われているのかまるで理解出来ていないバカ息子は延々と嘲りと嘲笑と脅迫を繰り返し、リンの魔法陣が僅かでも『視えて』いる人々は危険を察知して逃げ出そうとしている。
そして術が完成し、バカ息子を消滅させるべく放たれる瞬間――周囲に展開している不可視の壁が消失し、そしてリンの視界が漆黒に染まり、その身体が力強く、だが優しく抱き締められた。
何事が起きたのか判らず、リンは数瞬だけだが混乱する。術を放つ刹那にそうされることは、絶対にない。そう、自分と魔術の波動が完全一致し、細胞レベルでも余程相性が良くなければ……そうか……まったく、どうしてキミはいつもそうなんだい?
「まったく、本当に無茶をするな、キミは。それで……どうして止めるんだい? このバカを吹き飛ばしても、困る奴は誰もいないんだよ」
双眸を手で覆いながら抱き締めている逞しい腕に手を添えながら、リンは呟いた。いくら魔術的に波動が完全一致しているとはいえ、その実力はリンの方が遥かに上だ。更にほぼ完成した術の渦中に無理に割り込んだ所為で体力、気力とも大量に消耗したのか、彼は肩で息をしているようだった。
「俺が困る。リンがそれをしてはいけない。この男にはそうする価値すらない」
「私が……私は……そんな大層な人間じゃないんだよ、ハイド」
自分の双眸を覆っているハイドの大きな手の隙間から涙が零れる。
「私はこの莫迦が心底憎かった。本気で殺したいと思った。だからそうしようとしたんだ。幻滅するだろう? 所詮私はその程度なんだよ」
「幻滅などしない。誰だってそう考えるときはある。だが、リンはそれをしてはいけない。それは、俺の役目だ」
その言葉を理解する前に、ハイドはリンから離れた。そしていつの間にかその双眸には魔眼封じのメガネが掛けられている。本当に、そつないなぁキミは。溜息を一つ、リンはその場をハイドに任せてアリシャの傍らへ行く。
「あの……あの人って……」
突然この場に現れてリンの術を消滅させた。アリシャにはそのように見えた。実際そのとおりなのだが、それが容易に出来ないことであると判っている彼女は、いつの間にか眼鏡を掛けているリンへ訊いた。
「ん? ああ、あれは……私の恋人だ」
勝手に決めちゃったよ。呟き、そして照れながら微笑む。先程の恐ろしくも美しい表情は消失しており、その表情はまさしく恋する乙女といったところであった。それに生返事を返したアリシャは僅かに考え、そして派手に驚いた。
「なに? 私に恋人がいちゃ悪い?」
その反応が不本意だったのか、唇を尖らせ憮然としながらそう言う。その表情、仕草が、今まで見たリンからは想像もつかないくらい可愛らしかったりする。
「え……だって、リン先生が……『鉄の処女』、『氷の乙女』のリン先生に恋人って……」
「……なにその恥ずかしい二つ名? 私ってそう呼ばれてたんだ……」
確かに未経験だけど。それ以前に『
「お、お前ぇ~、一体何なんだぁ! 何処から出て来たんだぁ!」
突然眼前に現れたとしか思えないハイドを睨め付け、涙と涎と鼻水をだらしなく垂らしながら絶叫する。それを半眼で見下し、左半身を引いて腰を僅かに落とす。そして右腕を前に出し、左腕を腰溜めに構え――いわゆる〝三体式〟をとる。
「貴様はリンを泣かせた」
静かに、ハイドは呟いた。それを聞いたバカ息子は一瞬呆気にとられ、だがすぐに折れていない左手で顔を覆い、大笑い始めた。
「なんだお前ぇ、あの女が好きなのか? バッカじゃないのか!? 確かにアイツは美人だけど、どうせ裏で遊んでいるに違いないのさぁ! お高く留まりやがってこのビッチが!! このボクが誘ってやっているのに来もしない! なのに患者の評判ばかり高くなりやがって! そんなに患者の御機嫌取りが楽しいのかぁ!!」
患者の評判の良し悪しは純粋に医師としての腕なのだけれど。アリシャが独白すると、それが聞こえたリンに頭を撫でられる。其方を見ると、照れ笑いを浮かべていた。
「ねぇアリシャ。これから起こることから、絶対に目を逸らしちゃダメ。貴女にはその権利があるし、それになにより、貴女が受けた苦痛を『物理的に』晴らしてくれるよ」
何が言いたいのだろう? アリシャがそう訊くより早く、バカ息子がカエルが潰れたときのような声を上げた。見ると、リンの恋人――ハイドがその間合いを一瞬で詰め、腰溜めに構えていた左腕をそのバカ息子の腹へと、『物理的に』突き刺していた。
「また素足だし」
踏み込みで陥没したモルタルの地面を見て、リンはやれやれと言わんばかりに溜息を付いた。