保健室。それは学校ならばどこにもある部屋の一つである。その用途は様々であり、保健を学ぶ場であったり、怪我や病気を癒す場であったり、はたまた不真面目生徒がサボる場であったりする。
そんな保健室の一角のベッドの上で、白野は目を覚ました。
繰り返す一日だったり、襲い来る人形だったり、挙句は犬のような未確認生物であったり、と散々な夢を見たきがする――と白野は頭を抑える。
はっきり言って、体調が良いようには思えなかった白野だが、それでも授業がある。授業に参加するためにも、起き上がろうとして。
「あ、起きた?」
「……」
「あれ?おはよう?ハロー?」
「……」
白野はベッドの傍で寛いでいた未確認生物の姿にフリーズすることになった。まあ、それも当然だろう。犬のような、どう見ても人間ではない生き物が人間の言葉で挨拶してきたのだから。
ついでに言えば、その犬モドキは、白野が夢の中で見た未確認生物と同じ生き物だ。つまり、あの夢は夢ではなかったということで。
思わずもう一眠りしたかった白野は悪くはないだろう。
「えぇっと……」
「……?大丈夫?」
「あんまり。え?君は……?」
「ああ、そうだね。僕はドルモンのドル!で、聖杯戦争でのクラスはイレギュラーらしいよ~?」
「ドルモン?イレギュラー?聖杯戦争?」
明るく自己紹介してくれたドルモンには悪かったが、白野はそのほとんどがわからなかった。ドルモンというのは、前後の文脈からして種族名なのだろう。それはいい。
だが、その後の聖杯戦争やらイレギュラーやら、正直言って白野にはちんぷんかんぷんだった。
「私は岸波白野。で……え?聖杯戦争……て何」
「白野だね。って、え?白野は聖杯戦争のマスターって聞いたけど~?」
「聖杯戦争がなんだか私知らないんだけど……って、あれ?私……誰?」
「いや、僕に聞かれても……ん?ってことは白野って記憶喪失なの~!?」
「……みたい」
真実を求めて白野はここへ飛び込んだ。が、その実、真実はそう簡単に得られそうにはないらしかった。白野は依然として、この世界のことも、自分のことも何一つわからないのだから。
一方、何と声をかければいいのかわからないドルモン。随分と焦っているが、そんなドルモンの不器用な焦りようを前に、若干心癒された白野だった。
「とりあえず……少しづつでも教えてくれる?」
「え、うん。えっとね~」
それから白野がドルモンから聞き出した話は、とんでもない話だった。
この世界は聖杯が作り出した霊子虚構世界“セラフ”であり、聖杯戦争はこの世界で行われる。
聖杯戦争とは、この世界に来た
最後まで勝ち残った者は、どんな願いでも叶う聖杯を手にすることができる。
大まかなルールはこれだけなのだが、既に白野はお腹いっぱいで頭が痛かった。まあ、それもそうだろう。いつの間にか、殺し合いに参加していたのだ。例え、優勝賞品が何でも願いが叶う聖杯だとしても、現状は命を賭けるだけの願いがない白野には、リスクが大きすぎるなんてものではない。
「予選って……あの?」
「うん。記憶を奪われて各々が役割を当てられた偽りの日常の中で真実に気づけるかっていうやつ」
「なるほど。あ、サーヴァントって?」
「サーヴァントは実在した英雄を聖杯が再現したものだね。それぞれクラスに当てはめられて……」
クラスは基本的に七つ。セイバー。アーチャー。ランサー。ライダー。アサシン。キャスター。バーサーカー。の七つだ。まあ、ドルモンのように基本的なクラスに当てはまらない者もいるのだが――どんな英雄も、サーヴァントになった時点でそれらのクラスに当てはめられる。
ここまでふんふん、と頷きながら話を聞いていた白野。だが、どうしても納得できないことがあった。それは――。
「サーヴァントは英雄なんだね。あれ、英雄……?」
「……ひどいっ!いや、確かに英雄じゃないけど!」
ドルモンが全く英雄には見えなかったということだ。まあ、見た目犬のような生物に救われる世界や国など、世紀末以外の何者でもないだろう。
だからこそのイレギュラーなのだが。まあ、ドルモンがイレギュラーと呼ばれる所以はこれ以外にもあるのだが、いろいろと手一杯な白野がそれに気づけるはずもなかった。
「まあ、これくらいかな~。細かいルールはあるみたいだけど、よくわかんない」
「え?大丈夫なの?」
「さあ……僕もさっきこの保健室の人に聞いたんだしね~」
現実感がない。まだ夢を見ているような気がしていた白野だが、これが夢であれ現実であれ、サーヴァントがこのような犬モドキというのは――不安しかなかった。
「起きたなら行こ~?」
「う、うん」
ドルモンの言う通り、時間が有限である以上保健室でゴロゴロしているわけにはいかないだろう。ドルモンに先導されながら保健室から出た白野は、とりあえずこの舞台を見て回ることにした。聖杯戦争の舞台は、予選の時とほぼ同じ学校だ。特に違いはない。当然だが、校門から先には出られなかった。
一階から順に回っていき、二階、三階と行って――白野とドルモンが最後に訪れたのは屋上だった。
「どう~?」
「ドル……う、うん。まだちょっと現実感がないかな」
「それはしょうがないよ~」
校内のマスターの誰と話をしても、そのほとんどがこの聖杯戦争をゲーム気分で参加していた。白野もそんな気分でいられればどんなに良かっただろう。
だが、予選で死にかけたからだろか。白野は現実として知ってしまっている。これが、生死を賭けたゲームであることを。それを知って、まだゲーム気分でいられるほど白野は楽観的ではなかった。
「はぁー……」
「ため息を吐くと幸せが逃げるって言うよ~?」
「それでも吐かなきゃ、やってられないこともあるよ……」
「あら、そこのあなた?そう、そこのあなたよ」
気遣うようなドルモンと話していた白野。だが、そこで第三者の声が混じった。言葉を発したのは、赤い服を着たツインテールの活気そうな少女だ。
一瞬、自分に向けて言われた言葉だったのか気づかなかった白野だったが、屋上に白野以外は誰もいない。少女が白野を指さしていることもあって、白野に用があるのだろう。
少女は白野に近づいてきて――。
「一通り調べてみたけど、作り自体は予選の学校と変わらないのよね。キャラの方はまだだし……調べますか。ちょっと動かないでよね」
「……え?」
「へぇ、温かいのね。生意気にも。
体中を触り始めた。
一体どういうつもりなのだろうか。どこに人の目があるかもしれない場所で、しかも初対面の相手の体を触るなど、痴女や痴漢という言葉で表せる人間だけだろうだ。記憶がないとはいえ、痴女に襲われているという現状に白野は羞恥と恐怖で動けなかった。
そんなこの場で動けるのはドルモンだけである。一瞬、呆然としたものの、ハッとなったドルモンは白野の手を引いて走り出した――。
「逃げるよっ!マスター!」
「え、あ……う、うん!」
「へ?え、あ、ちょ、あれ?……もしかして……!」
マスターだったの!?とそんな悲鳴とも怒声ともつかない叫び声をバックに、白野とドルモンは走り続ける。追ってきている気配があったが、途中でトイレや図書館に隠れたりもしてなんとか逃げ切った二人。
人に紛れるように食堂の片隅に座って、ようやく安心した二人だった。
「聖杯戦争って痴女がいる戦争なの?」
「いや、そんなことは聞いてない……と思う」
「でも……」
ともあれ、聖杯戦争というものをちょっと勘違いしてしまいそうな二人である。まあ。勘違いというものは、事実ではないからこそ勘違いと言うのだが。
その後、もう少し食堂に隠れていよう、と結論を出した白野とドルモン。だが、食堂というものは食事をする場所で、それはここでも変わらない。何を言いたいかというと、誰も彼もが食事をしているのだ。
人間、人が食事をしているのを見ていると自分も食べたくなるもの。白野も例に漏れず、せっかくの食堂。何かを食べたくなった。
「どうやって食べればいいのかな?」
「ああ、何か支給される端末にある電子マネーとかなんとか……ああ、端末は僕が入れておいたよ。ポケットに」
「……いつ?」
「寝てた時に~」
「……」
学校で行われるということもあって、ここの人間はその大多数が制服を着用している。先ほどの痴女のように、例外はいるのだが、白野はその例外ではない。普通に制服を着ている。
眠っている間に端末をポケットに入れてくれたのはいいが、それは言い換えれば“眠っている状態で他人に弄られた”ということで、素直にありがたいと思えなかった白野だった。
「買ってみたら?」
「ほんとだ買えた」
「月見うどん?ダメだよ。食べられる時に食べとかないと。あ、僕はAランチで~」
「うん、わかった」
紆余曲折あったものの、無事に食事を手に入れられた白野とドルモンは、それぞれ料理の乗った盆を持って隣同士の席に着く。
とはいえ、現在進行形で痴女から逃げている白野たちだ。座った場所は隅で、さらに人の影に隠れるような場所になってしまっているのだが。
「そういえば、あの痴女さんが言ってたNPCって?」
「えっ?う~ん……わかんない」
「え?ドルでも?」
「僕が知ってるのは聞いたことだけだからね……」
「NPCっていうのはね。実在の人物を元に作られた聖杯戦争を円滑に進めるためのサポートキャラみたいなものよ」
記憶喪失の白野にとっては、起きてから情報をくれたのはドルモンだ。そのドルモンもわからないのなら、いよいよお手上げ――というところで、NPCについてを親切な誰かが教えてくれた。親切な人物は白野とドルモンの後ろにいて、顔を見ることはできない。
誰だか知らないが礼を言わなければならないだろう。白野たちは礼を言うべく後ろを向いて――。
「へぇ。ありがと……う……あ」
「こんにちは。……ご一緒してよろしいかしら?」
すぐに後ろを振り向いたことを後悔した。そこにいたのは、先ほどの痴女だったのだ。
ニコニコと笑いながら、それでいて怒っているのだろう。圧倒的な威圧感を撒き散らすその痴女を前に、白野もドルモンも逃げるという選択ができず、頷くことしかできなかった。
「それで……痴女さんは……」
「ちょっと待って。さっきのは悪かったから!痴女さんはやめてっ!私は遠坂凛。貴方は?」
「岸波白野」
「うん、白野ね。よろしく。まあ、本当にさっきは悪かったわ。職業病みたいなものでね。これだけ精密な作りの仮想世界だと、調べたくなっちゃうのよ。まぁ――」
「……?」
「そっちも悪いんじゃない?マスターのくせにそこら辺の
グサリ、と。目には見えない言葉のナイフで裂かれたような、そんな気がした白野だった。いや、確かに白野自身、自分には他者と比べるような個性は持っていないと思っている。だが、いかに事実でも、面と向かって言われるのは傷つくのだ。
ともあれ、痴女という誤解も解けた凛は、付き合っていて気持ちのいい少女だった。起きてから、ドルモン以外の人とはまともな雑談をしていなかった白野だからこそ、話が進む。だが、記憶喪失の白野は、話をしていく上でどうしても壁にぶち当たる。記憶喪失であるが故に、どうしても話のタネが少ないのだ。
「え?嘘……あなたって予選の時から記憶が戻ってないの?それってまずいわよ?記憶のない魔術師なんて最弱ってものじゃないわ」
「やっぱり……」
「っていうか、全体的に現実感がないのよ。あなた。戦う姿勢が取れてないって言ってもいいわ。それは記憶のあるなしに関係ない……夢見気分でいるなら改めなさい」
凛の言うことはその全てが白野に突き刺さっていた。
当たりだ。現実味などあるわけもない。いきなり生死を賭けた戦争に放り込まれて、すぐに順応できるものなど狂人の類でしかない。そして、白野は狂人の類ではなかった。
確かに始まりこそは白野自身の意思だった。だが、その始まり――求めた真実は残酷で、もはや白野の意思を超えた所にある。そんな状況の中で、白野は覚悟のないまま流されていると言っても良かった。
「勝者は一人。生き残れるのも一人。死ぬのが遅いか早いかだけの違いだけど、そんな調子じゃ明日にでも死んじゃうわよ」
「……」
「それじゃね」
随分と長い間、白野は考え込んでいたらしい。いつの間にか食べ終わっていた凛はそのままこの場を去っていった。
後に残ったのは、神妙な雰囲気で考え込む白野と呑気そうに食事をしているドルモンだけである。
「ねぇ、ドル。……ドル?……何してるの?」
「え?いやぁ……キノコをどうしようかなって」
「……嫌いなの?」
「まぁね~」
訂正。呑気そうではなく、呑気にだった。生死を賭けるような話が出ている場で、自分の嫌いな食べ物をどうこうしようとしているドルモンは、図太いのか、アホなのか。
ドルモンの意外な一面を見てしまった白野だった。
「……」
「悩んでいるところ悪いけど……僕には聖杯で叶えたい願いがあるんだ。だから――」
「え?」
「一緒に戦って欲しい」
その言葉は、未だ悩んでいる白野にとってどういう意味を持っただろうか。
人殺しを強要させる言葉になったのか、前へと進む勇気の言葉となったのか。それとも――。
「願いって?」
「……僕は帰りたいんだ」
なんにせよ、白野がこの戦いに参加するのは決定事項となった、