芳乃の頬を何かが掠める。
直線状に走る熱と、そこから滴る温かさを無視して、彼女は言葉を紡ぎ続けた。
小梅の帰りが、遅い。
芳乃の見立てでは、幸子を呼び戻すのに30秒もかからないはずだった。
しかし、もう1分は過ぎている。
あまり長くなってはこちらが保たない。
いくら「あの子」が人の形を保つほどに強い霊とは言っても。
目の前に居る悪霊は、それよりも強いのだ。
悪霊に襲われた小梅を助けるために、身を挺することしかできなかったのだ。
あの状況では、可能であったのなら、悪霊の方をどうにかするのが最善のはず。
小梅の代わりに自分が吹き飛ばされてから再び立ち上がるまでの間、小梅は完全に無防備となるのだから。
しかし「あの子」はそれをしなかった。いや、できなかった。
まず小梅を下がらせた後、悪霊に襲いかかろうとして。
しかし呆気なく壁に叩きつけられた。
それの意味することはひとつ。
この悪霊は、「あの子」よりも強い。
芳乃が小梅の元へと辿り着く直前。
彼女が視界に入った瞬間に、芳乃は小梅の気を読んだ。
危険。恐怖。予測不能。
小梅の意識はそのようなものに飲み込まれていた。
小梅よりも幽霊に関する専門性を持たない芳乃は、彼女の持った感情を信頼した。
この悪霊は、危険なものであると。
これは幸子の母親の幽霊だ。
幸子が抱いている問題を解決する手助けにも成り得るだろう。
しかし。悪霊となってしまった。
小梅の意識は明確な危険信号を発し、現に「あの子」が造作もなく吹き飛ばされた。
これらのことから、芳乃は悪霊を。
幸子の母親を、成仏させることに決めた。
幸子をこの場に呼び戻すのは、最善とは言えない苦肉の策だ。
「あの子」が芳乃を最後まで守りきれるのなら、幸子をこの場に戻そうなどとは考えなかっただろう。
安易に2人を会わせた結果、これ以上ややこしいことになってはたまったもんじゃない。
だから芳乃は、最初は「あの子」に最後まで守ってもらうつもりだった。
しかし小梅を助けるために吹き飛ばされた「あの子」を見て、即座に考えを改めた。
「あの子」だけでは攻撃を凌ぎきることはできない。
ならば、幸子を囮として用いるしかない。
幸子を悪霊の行動範囲ギリギリに配置し、注意を芳乃から逸らさせ、万一幸子に当たりそうなものだけを「あの子」が防ぐ。
しかし、これをこのまま小梅に伝えることはできなかった。
芳乃が何故「あの子」と悪霊の力量を知ったかといえば、「あの子」が吹き飛ばされる姿を見たからだ。
しかし小梅は「あの子」を認識できていない。彼女が見ているのは自らが作り出した幻覚だ。
起こった出来事をそのまま伝えれば、小梅から見て齟齬が生じる。
彼女から見れば、悪霊は誰も居ない空間に攻撃をしたことになるのだから。
その矛盾を生じさせないために、芳乃はほんの少しだけ嘘を吐いた。
このままでは無差別に攻撃し続け街に被害が出るから、と。
小梅から見た光景は悪霊の無差別性を裏付けるに十分なものだと判断した、その上での発言だった。
本当は、悪霊は無差別な攻撃など一度もしていない。
善い霊であった幸子の母親は、娘にその存在を無視されるかのような言動を取られ。
過度に精神を掻き乱された結果、悪霊となった。
そして幸子の方へ近付き、それを小梅は攻撃の予兆と判断した。
小梅はすぐさま逃げるように告げ、その言葉に反応して「あの子」は幸子を退避させた。
その後悪霊は、娘との会話を阻害した小梅を狙った。
芳乃と「あの子」が戻り、小梅を幸子の元に行かせてからは、徹底して2人だけを。
芳乃が除霊の儀を始めてからは、芳乃のみを狙い続けている。
一貫しているのだ。
最初から全て、自分の行動を阻害した者にのみ。
それのみに限定して悪霊は暴力をふるっている。
悪霊の攻撃は、全て自分達に集中している。
そんな状況で、「あの子」は全ての猛攻を捌ききれない。
この膠着状態が、幸子が来るまで保つかどうか。
この状態を維持したまま、悪霊の行動可能範囲ギリギリまで後退することも考えた。
だが、それはどうやら許してくれないらしい。
ただでさえ微妙なバランスでどうにか成り立っているこの状態で。
何か1つでも余計な行動を追加すれば、間違いなく均衡は崩れる。
今のまま耐え続けるのが、精一杯だった。
だからこそ、芳乃は小梅の帰りを待ち続ける。
早く。
「あの子」が消耗しきってしまう前に。
早く。
芳乃の身体が貫かれてしまう前に。
早く。
幸子の母親に罪を着させてしまう前に。
早く。
全てが手遅れになってしまう前に。
「──ママっ!」
そして、少女の声が、響いた。
「…………な、」
何と言った。
今、誰が、何と。
それは、直前まで待ち焦がれた声のはずだった。
それは、状況を打破する契機のはずだった。
それは、自分にとって好ましいものであるはずだった。
だが。
万にひとつ。もしも。聞き間違いでないとしたら。
彼女は。輿水幸子は。
……ママ、と。
そう言ったのか。
通りで時間がかかるはずだ。
幸子は自力で気付いたのだ。
しかし、ならば何故。
何故、ここに来ることができた。
幸子の表情を見る。
彼女の内面、その気を読み取る。
困惑。焦り。責務。
……この、程度?
確かに、揺らいではいる。
ショックを受けてはいる。
だが、想定していたよりも大分、軽傷だ。
それこそ、安堵よりも先に違和感を覚えるくらいに。
彼女はそれが嫌で、幻覚すら見ていたんだぞ。
そうまでして、直視しないようにしていたんだぞ。
だというのに、この薄い反応は、何だ?
「……っ!?」
まさか。
彼女が厭忌していたものは。
目を逸らし続けていたものは。
「……なりませぬ!」
芳乃は儀式のことも忘れ、叫ぶ。
悪霊が与える危害については、問題はない。
悪霊の行動範囲内に入らせなければ手は届かず、幸子が芳乃の声を聞き入れなかったとしても、側には小梅が居る。
物理的にでも幸子の行動を妨害してしまえば、悪霊は幸子に手を出せない。
問題なのは、幸子が自分から遠ざけようとしていたものの正体だ。
それが何なのか特定はできないが、確実に幸子の両親が深く関係するものだ。
そして今、母親が死亡していたという事実に直面して尚、異常とは言えない程度のショックを受けるに留まっている。
つまり。彼女が逃げていたのは、両親の死そのものではなく。
両親の死と直面することによって到達し得る何かだ。
幸子は両親の死を覆い隠すことによってそれから逃げていた。
幸子の様子を見るに、まだそこまでは至っていない。
だが、直接会ってしまえば、どうなる。
廃校での出来事を思い出す。
あの時、「あの子」は悪霊となり、幸子の身体を乗っ取ることによって芳乃に忠告した。
つまりは、会話が可能なのだ。
誰でもいい、生者の身体を使いさえすれば。
霊感など持っていなくとも、意思疎通ができてしまうのだ。
もし悪霊が、この手段に気付いてしまったら。
幸子が自身の行動範囲内に入ったとしても、一旦それを無視し。
「あの子」の妨害をすり抜け、芳乃を気絶状態に追いやり。
その身体を乗っ取ってしまったら。
幸子との会話が可能になってしまう。
そうなれば、到達してしまう。
幸子が目を逸らし続けていた何かに、至ってしまう。
その何かを、思い出してしまう。
幸子を呼び戻すようにしたのは、悪霊がこのことに気付かないようにするためでもあった。
気付かないまでに、心を掻き乱す算段だった。
それこそ、幸子の母親が幸子に襲いかかってしまうほどに。
それほどに、冷静な思考能力を失わせるつもりだった。
そうして初めて、幸子は囮として機能する。
幸子がこの場所に来るだけで、それは達成されると芳乃は考えていた。
幸子はここに居る悪霊が自分の母親とは微塵も認識していない。
故に、芳乃が適当に母親に関する質問を投げかければ。
幸子の口から出る回答は、全て悪霊を追い詰めるものになる。
……その、はずだった。
しかし今、幸子は自分の母親が誰なのか、正しく認識してしまっている。
悪霊を冷静で居させなくすることが、できない。
幸子は囮として機能することなく。
碌に心の準備をすることも許されず、今までずっと逃げてきた何かと直面せざるを得なくなる。
それならば、彼女がここに居るメリットが何一つ無い。
ただでさえ覆し難いこの状況を、更に悪化させるだけだ。
「今すぐに此処を──」
幸子に、それを伝えようとする。
今すぐに離れなければ駄目だと。
小梅に伝えた作戦は、尽く悪手となってしまったと。
しかし。
芳乃の口は、最後まで動くことはなかった。
「──ぁ、」
物凄い速度で何かに、強制的に下を向かされた。
後頭部がジンジンとしていた。
再び前を向こうとするが、不思議なほどに力が入らない。
視界にテレビの砂嵐のようなものが、薄く重なって見えた。
「……っ、…………?」
理解する。後ろから殴られた。
何かしなければと思考を巡らせようとするが、何をしたらいいか分からない。
どうすれば思考が巡るのかが分からない。
まるで脳の使い方を、身体が忘れてしまったかのように。
殴られた勢いを殺せずに、ゆっくりと傾いていく。
砂嵐が段々と濃くなってゆき、視界が黒に染まり始める。
「……、ぁ、…………。」
体力と気力を同時に吸い取られる感覚。
考えていられない。立っていられない。
黒しか見えなくなった目が、閉じているのか開いているのかも分からない。
身体の感覚も、ひどく曖昧で。
まだ立っているのか。地面に倒れたのか。
自分という存在がまだ形を保っているのかすらも。
何も。なにも。
「……久しぶりね、幸子ちゃん。」
【error】依田芳乃からの応答がありません。
【caution】逋ス蝮ょー乗「?′豌嶺サ倥″蟋九a縺ヲ縺?∪縺
【caution】輿水幸子が気付き始めています