どうやって出会ったのかは、あまり覚えていない。
いつの間にか知っていて、いつの間にか側に居て。
小梅とあたしは、いつも一緒だった。
あの頃の小梅は、今よりずっと活発だった。
よく喋るし、よく笑うし、よく動く子だった。
あたしとの4つの年齢の壁すら、容易く乗り越えてしまうほどに。
だからあの日も、率先して声をかけた。
学校の昼休み、校庭にあたしを連れ出して。
遊具の方へとかけっこしていた時に。
不安そうに辺りを見回して、来客用の入口を探しているのだろう。
人当たりの良さそうな大人と目が合ったから。
その男は、小梅の所属するクラスに。
その担任教師に用があると言っていた。
先生は普段、昼休みには教室に居た。
だから小梅は、その男を教室へと案内した。
優しそうな笑顔を浮かべて、男は感謝を述べた。
教室に着くと、男はすぐさまドアの鍵を閉めた。
担任教師は偶然席を離れていたようだった。
不審に思った小梅が聞くと、男はもう笑っていなかった。
男はポケットからサバイバルナイフを取り出し、小梅の首に突きつけた。
男は担任教師と面識があるわけじゃなかった。
男は担任教師に用があるわけじゃなかった。
男は学校に侵入するために、小梅を騙していた。
男はついさっきまでの、善人の化けの皮を剥いだ。
教室に居合わせた生徒達の悲鳴が上がった。
男は生徒達に黙れと叫んだ。
でも、小学校低学年の彼等に、大声は単なる逆効果で。
一層けたたましくなったそれに気分を害した男は。
人質を、効率的に用いることにした。
小梅を引き摺るように教壇まで移動し。
凶器を宛てがわれた恐怖で動けない小梅の方を見ようともせず。
ただ乱雑に、恐らく顔の辺りだろう場所を目掛けて。
苛立ちと共に、ナイフを突き立てた。
刃の半分以上が黒板に埋もれた。
小梅の口から、小さな音が漏れた。
鋭利な刃は、小梅の左耳のふちをパックリと裂いた。
辺りはしんと静まり返り、小梅はその場にへたり込んだ。
静寂に包まれた教室に、やがて男の声が響いた。
今からこのガキを殺す。黙って見ていろ。
逆らえる者は、誰も居なかった。
あたしは、目の前の現実を処理することに脳の全てを充てていた。
今何が起きていて、何が起ころうとしていて、何をするべきなのか。
勝手に恐慌状態に陥ろうとする頭を押さえつけて、あたしは必死に考えようとした。
男は懐から2本目の凶器を取り出した。
あたしはようやく理解した。
今から小梅は、あのナイフに殺されるのだと。
あのナイフが身体を突き刺し、引き裂き、抉り出して。
小梅を、小梅の形をしたモノに変えるのだと。
あたしから小梅を奪うのだと。
よく漫画で見た、使い古された表現。
「身体が勝手に動いた」。「気が付いたら行動していた」。
実際にそんなこと、あるわけがないと思っていた。
しかし、今でも思う。あの時のあたしは。
「身体が勝手に動いた」し、「気が付いたら行動していた」。
そしてその行動を、あたしはすぐに後悔することになる。
全力で走り、肩で男に思い切りぶつかった。
男は無様に床に倒れ、苦悶の声を上げた。
大人の男を当時のあたしの力で転ばすことができたのは。
あれが火事場のなんとやらなのか、男の重心が偶然噛み合っていたのか。
何にせよ、結果としてあたしは男を転ばせた。
その姿を見て「ざまあみろ」と思えたのは。
男の目がこちらを捉えるまでの、僅か数秒に過ぎなかった。
逃げる気すら起きなかった。
あたしがしていたのは、ただ震えるだけだった。
恐怖で男から目が逸らせない中、視界の隅に五体満足の小梅が居て。
後悔を叫びたがる本能に向かって。
その事実のみを根拠として、自らの行動の正当性を心の中で叫び続けた。
男はあたしを押し倒し、馬乗りになった。
これから何が起こるのか、考えるまでもなかった。
まだ小梅がこちらを見ているのを、何となく感じた。
せめて目をつむるようにと、叫ぼうとした口から漏れたのは。
声ですらない。空気の抜けるような、間の抜けた音だった。
最初は右手。次は左手。
その次は足を、同じ順番で。
男はあたしの全ての指を削ぎ落としていった。
一周目は第一関節。二週目は第二関節。
指が無くなれば、腕に向かって少しずつ。
男はあたしをじわじわと破壊していった。
突き立てられた数だけ、意識を手放せると直感した。
ああ、きっとこの感覚に逆らわなければ。
このまま気を失うか、心臓が止まるのだと。
でも。
男はきっと、1人でも良いんだ。
単に子供を大勢殺すことが目的じゃない。
男はきっと、誰でも良いんだ。
あんなに簡単に殺意があたしに切り替わったのだから。
男はきっと、楽しみたいんだ。
人が死にゆくまでに見せる、ありとあらゆる反応を。
ただ、鑑賞したいだけなんだ。
ならば。
あたしが呆気なく死んだら、男は満足しないだろう。
ならば。
あたしの次に標的となるのは小梅だろう。
ならば。
この感覚を、小梅も味わうことになるのだろう。
ゆっくりと時間をかけて、自分の身体が自分の知る形ではなくなっていく。
この感覚を、小梅も。
それを考えてしまえば。それに行き着いてしまえば。
手を離れようとする意識を、必死で握りしめるのも。
そんな自傷行為を、飽きもせず続けてしまうのも。
少しは、共感を得られるだろうか。
あたしは長い間苦しみ続けた。
肘から先が綺麗に無くなっても。
膝から下がぐちゃぐちゃの赤い物体に成り果てても。
無駄に五月蝿い音を叫ぶ気力が潰えても。
ああ、骨って肉と比べて、結構綺麗なんだな、なんて。
そんなくだらないことを、ぼんやりと考えながら。
ちゃんと生きている小梅の姿を、目線だけで捉え続けて。
次第に、なんでこんな痩せ我慢をしているのかすら、思い出せなくなっても。
きっと、何か大切なことのためだったと思うから。
そんなあやふやなものを守るために。
あたしは、苦しむことを選択し続けた。
手も足も無くなった身体を見て、男はあたしの腹部を壊し始めた。
ふ、と。
瞬きをした瞬間、身体の感覚が消えた。
でも目の前ではまだ、男が楽しそうに笑っていて。
だから、まだあたしは殺され続けているのだと、そう思い。
振り上げられた凶器から身を守るように、無くなった手を動かそうとする。
痛みを感じる度に、脳が勝手に行おうとする動作。
何十回か、何百回かと繰り返された動作。
視界に何も映らなくて。肩から数センチ先しか風を切る感覚が無くて。
その事実に絶望して、また痛みに忘れさせられる。
飽きるほど繰り返したそれを、こりもせずに。
あたしの本能は再び行っていた。
手が、あった。
ただの赤黒い何かとなったはずの手が。
あたしの身体にくっついていないはずの手が。
綺麗にあたしの視界に映り込んだ。
ナイフがまた振り下ろされ、あたしはその手を犠牲に自分を守ろうとした。
何の感触もなかった。
ナイフはあたしの手をすり抜け、あたしの身体がある場所に突き立てられた。
痛みは、依然として無かった。
何でだろう。ぼんやり思って、久しぶりに目を動かした。
あたしの腕は、無くなっていた。
その上に被るように、半透明のあたしの腕があった。
それを見て、不思議と何も思わなかった。
ああ。多分、とうとう、死んだんだろうな。と。
後は、小梅は無事だろうか、とも。
そのくらいのものだった。
起き上がり、男を見下ろした。
あたしの形をしたモノを、まだ楽しそうに壊していた。
よく見ると、あたしは不気味に痙攣しているようだった。
男はこれを、生きている故の反応と勘違いしているのだろうか。
それとも、死の瞬間だと分かった上で楽しんでいるのだろうか。
そんなことを考えているうちに。
男はあたしが玩具として使えなくなったことに気付いたようだった。
時計を見る。まだ昼休みすら終わっていなかった。
数十時間にも感じたそれは、実際はたったの十数分にしかなっていなかった。
ただでさえ生徒の遊ぶ声が響く昼休みだ。
教職員は事件の発生にすら気付いていないかもしれない。
窓の外から見える景色は、腹立たしいほど平和だった。
あたしが文字通り命をかけて行った時間稼ぎは、どうやら無駄らしかった。
男はつまらなそうにあたしだったモノを一瞥し、無造作に蹴り飛ばした。
あたしだったモノは目を見開いたまま、間抜けに転がった。
男はゆっくりと、小梅へと詰め寄った。
小梅はあたしだったモノを、ずっと見つめていた。
その顔は、見たことのある表情をしていなかった。
男はあたしの時と同じように小梅を組み伏せ、馬乗りになった。
あたしが事切れたことに苛立っているらしい男は、あたしの時よりも攻撃的だった。
ナイフを振り下ろした先は、四肢の末端ではなく。
小梅の、顔だった。
咄嗟に首をひねり、小梅は致命傷を避けた。
しかし代償として、右頬を大きく切り裂かれた。
痛みが発した小梅の悲鳴が、あたしの身体を揺さぶった。
男は再び腕を振り上げた。
あたしの時のように、楽しむために殺しているのではなかった。
殺すために殺していた。
ストレスを解消するために、男は小梅の死を求めていた。
傍観する以外、あたしにできることは無かった。
あたしの身体は半透明で、手はナイフをすり抜けた。
当たり前だ。あたしは死んだのだから。
でも。それでも。
あたしは振り上げられた男の腕に手を伸ばした。
奇跡でも何でもいい。何かが起きてくれるのを。
小梅が死ぬ以外の何かが、起こってくれることを願って。
それだけを祈って、手を伸ばした。
男の腕から先が、消えた。
その場に居る誰もが呆気にとられた。
小梅も、男も、そしてあたしも。
確かに感触があった。何かに触れた感触が。
何かを掴み、握りしめた感触が。
でも。ということは。つまり。
握っただけで、こうなったのか?
いつか遠足で見た噴水のようになっている男の腕を眺めながら。
じゃあ、小梅を助けられるんじゃないか。
男を殺して、小梅を助けられるんじゃないか。
さっきから霧が晴れない、霞がかった頭で。
ぼんやりと、そう思った。
右腕は、さっき潰した。
じゃあ、逃げられないように、左足。
ナイフを持とうとしたから、左腕。
最後に残った、右足。
男があたしにやったように。
あたしは男を、間抜けな形にしていった。
そうしているうちに、ぼんやりした頭がようやく覚めてきて。
ああ、あたしはこんな、馬鹿みたいなやつに殺されたのか。
あたしがあんなに怖がっていたものの正体は、こんな情けないものだったのか。
無くなった四肢を動かそうとするだけの、芋虫みたいなモノ。
そんなものに、あたしは。小梅は。恐怖させられたのか。
無性に、腹が立った。
仕返しをしてやろうと思った。
もう少しだけ長く、苦しませてやろうと思った。
剥き出しになった太ももの骨を踏みつけた。
髪を剥ぎ、目を潰し、歯を抜き取った。
幼い頭で思いつく限りの、痛そうなことを与え続けた。
半透明の手が黒ずんでいくのに、途中で気付いたけれど。
どうでもいいと無視をして、構わずに骨盤を握り潰した。
男がもう生きていないことに気付いたのは、背中の肉を引き剥がして。
丸見えになった背骨を、一つ一つ分解している途中のことだった。
そこで初めて、一歩引いて男を見た。
あたしだったモノよりも、元が何だったのか分からないモノに成り果てていた。
男にされたように、最後に蹴り飛ばそうかと思ったが。
どこを蹴っても、半液状の肉片が少し飛ぶだけだと気が付いて、止めた。
この時あたしの身体は、きっと真っ黒になっていた。
視界に小梅が映っていた。
へたり込んだまま、唖然と2つの肉塊を見つめ続けていた。
頬についた傷が痛々しかった。
小梅の前にしゃがみ込み、慰めるように。
傷口にそっと手を添えて、血を拭おうとしただけだった。
ぐしゅり。
嫌な、嫌な音だった。
あたしだったモノが発したどんな音よりも。
男だったモノで遊んだどんな音よりも。
不快で、血の気が引いて、耳に纏わりつく、音だった。
一瞬遅れて、小梅の身体が跳ねた。
両手であたしが触れた部分を覆い、床をのたうち回った。
口から発せられる音は、悲鳴なんて生易しいものではなかった。
感触が、いつまでもあたしの手のひらの上に乗っていた。
小梅の柔らかい頬が、潰れる感触が。
ここまで来て、初めて冷静になった。
あたしは今、何をした。
小梅の目の前で、男を惨たらしく殺したのか。
あたしは今、何をした。
守ろうとした小梅を、この手で傷付けたのか。
あたしは今、何をした。
何をした。何をした。何をした。何をした。
半透明に戻った両手で顔を覆っても、視界は透けて見えてしまった。
その時、ようやくドアが蹴破られた。
どうやら警察は既に駆けつけていたが、目の前の事態に誰もが呆気にとられていたらしく。
男がひとりでに肉塊となっていく現象が、終わったのを契機として。
また、小梅の耳をつんざく音に目覚めさせられて。
やっと突入に至ったらしかった。
小梅は即座に病院に搬送された。
あたしは、少し離れた場所からその様子を見ていた。
近付いてしまえば、また、ああなってしまうかもしれなかったから。
これが、あたしが死ぬまでの話。
そして、これからが。
白坂小梅が、死ぬまでの話だ。