小梅の目が覚めたのは、病院のベッドの上だった。
霞がかった頭で、何が起きたのかを思い出そうとしていた。
上体を起こし、顔に痛みが走り、反射的に手で抑えて。
その感触から、包帯が巻かれていることを知った。
首を左右に回し、部屋の内部を概観した。
時計。鏡。カーテン。窓。そして。
居るはずのない、あたしの姿。
合うはずのない目が合った。
認識できるはずのないものを、小梅は認識していた。
小梅は幽霊が視えるようになっていた。
彼女の口から、ほんの少し空気が漏れた。
それが小梅があたしを視た、最初で最後の1回だった。
あたしを認識した瞬間、小梅は全てを思い出した。
あたしが少しずつ肉塊と化していく様を。
男がひとりでに壊れていく過程を。
異様としか言い表せない、しかし現実に起きた光景を。
小梅の身体が大きく跳ね、布団で自分を覆い隠した。
その中から何かが聴こえた気がして、あたしはそっと歩み寄った。
ごめんなさい。
それだけを繰り返していた。
小梅は只管にあたしへの懺悔を呟いていた。
どうして謝っているのか、すぐには分からなかった。
謝罪したいのはあたしの方だった。
あんなものを、見せてしまったのだから。
小梅のか細い声を聴き続けて数分。
ようやくあたしは、小梅が謝る理由の1つに思い当たった。
あたしは殺されている間、頻繁に小梅の方を見ていた。
小梅は無事だということを確かめるために。
だから自分の行為は間違っていないと、言い聞かせるために。
そうやって、意識を手放さないようにするために。
助けを求めていると感じていたのだ。
何故ならあたしは、小梅を助けた。
男に思い切りぶつかることによって、その矛先を変えさせた。
小梅が受けるはずだった苦痛の肩代わりをした。
そんなあたしが、小梅を見ていた。
少しずつ身体を削り取られ。
少しずつ息絶えていき。
少しずつ手遅れになっていくあたしが。
見ていたんだ。ずっと。
どうして助けてくれないの。
そう、見えていたんだ。
糾弾していると感じていたんだ。
あたしは小梅を助けたのに。
小梅のために、こんなに苦しんでいるのに。
なのに小梅は、あたしを助けてくれないの。
あたしが死ぬまで。
小梅はずっと、あたしを見て震えていた。
それは、単に目の前の脅威が怖かったから。
それだけじゃなかったんだ。
小梅はあたしを助けなかった。
そのことに、どうしようもない罪悪感を抱いていた。
そんな時に、目の前にあたしが立っていた。
あたしの怨念だと思ったのだろう。
小梅のことを許せないあたしが。
死して尚、糾弾しに来たのだと。
そう、思ったのだろう。
小梅はいつまでも布団に閉じこもっていた。
看護師が様子を見に来ても。
少し遅れて飛んできた医師が、どんな言葉を投げかけても。
外からの刺激、その全てを遮断するように。
何もかもを掻き消すように。
ごめんなさい、と。
それだけを、薄く覆った彼女の世界に響かせていた。
その日から、物陰に隠れることにした。
あたしを見れば、小梅はあの日を思い出す。
それは彼女にとって、いいことではないだろう。
あたしは幽霊という特性を活かし、小梅を見守り続けた。
ある日は天井に。
ある日はベッドの下に。
またある日は窓の外から。
見ていることしか、できなかった。
小梅は人と接することを徹底的に拒んだ。
特に人当たりの良さそうな、優しい笑顔をする人間を。
それは男が、そうやって彼女を騙したから。
善人の皮を被り、悪意を潜めて接してきたから。
その結果、あたしが死に、小梅が傷付いたから。
小梅は人を信じられなくなっていた。
小梅の外傷は、酷いものだった。
男に切られた左耳と。
……あたしが傷付けた、顔の右半分。
傷跡は殆ど残らないと、医者が言っていた。
じっくりと眺めて、やっと辛うじて分かるくらいになる。
だから安心してくれと。
辛うじてでも分かってしまうなら、何の慰めにもならない。
あたしは小梅に一生消えない傷を遺した。
小梅の頭は、とてつもない量の包帯で覆われていた。
露出しているのは口と左目くらいのもの。
それほどに深い傷なのだと、あたしは思っていた。
それは間違いだった。
それだけではなかったのだ。
ある日小梅が鏡の前で、包帯を解いた時。
それを本人に見せないようにする意図が、確かにあったのだと。
その場に崩れ落ちる彼女を見て、どうしようもなく悟った。
あの日彼女が呟いた、「化け物」という言葉。
それが今でも、頭から離れない。
その頃から、小梅はホラー映画を見るようになった。
それも、とりわけゾンビが出てくるスプラッタを好んだ。
周りの人間は不審に思ったが、それを止めようとはしなかった。
それを見ている間、小梅は安定しているように見えたから。
ずっと遠くで見ていたからだろうか。
そんなことをする彼女の意図が、何となく分かってしまった。
画面の中の人間が会話をする度に、小梅は眉をひそめた。
ゾンビが出てくる度に、ほっとしたように頬を緩めた。
まるで化け物に、感情移入するかのように。
小梅は人間に騙された。
悪意を隠す人間に。
そうして小梅は、化け物になった。
傷を負った顔を見て、彼女は自分をそう認識した。
ならば。
自分を騙す人間よりも。
自分を化け物にした人間よりも。
自分を騙さない化け物の方が。
悪意を隠さず剥き出しにする化け物の方が。
自分と同じ化け物の方が。
小梅にとって、余程安心できる存在だった。
小梅はスプラッタを好んでなどいない。
自分はスプラッタが好きなんだと、そう思い込みたいだけだ。
何故なら小梅は、見てしまった。
スプラッタという言葉がこれ以上無く似合う、2つの肉塊を。
自分のせいで、見てしまった。
自分が声をかけてしまったせいで。
小梅にとっては、それが全ての事実だった。
その事実から、目を逸らさなければならなかった。
そうしなければ、彼女は内側から破裂する。
自責や後悔、その類いの。あらゆる負の感情によって。
小梅は男を教室まで誘導した。その事実は変わらない。
それを見ないようにすることは、彼女にはできなかった。
だから小梅は。それの持つ意味を、無理矢理に変えさせた。
自分はスプラッタが好きだ。
好きだから、ああしたんだ。
その目であれを見たかったから。
自ら進んで行動したんだ。
そう思い込ませることによって、小梅は自分を歪に保った。
それが歪であることに、きっと彼女は気付いていた。
寝床が病院のベッドから、自宅の敷布団に移っても。
包帯が無くなり、傷が殆ど治っても。
小梅はずっと独りだった。
独りでグロテスクな映画を見て、自分を正当化しようとした。
やがてそれにも、限界が訪れた。
それはどうやら、寝る前が顕著のようで。
布団に入り、目を瞑ると。
すぐに彼女は飛び起きて、荒々しく息を吐く。
そんな時、彼女は決まって机の引き出しを開ける。
手首に走る朱を見て、やっと小梅は安心する。
そこから走る痛みを感じて、やっと小梅は考えるのを止める。
自分は化け物ではないのだと。
画面の中の彼等のように、緑色をしていないのだと。
その確証を得ると同時に、思考が痛覚に塗り潰される。
その一瞬の感覚に、脳の全てが支配される。
そうして眠るのだって、早朝になってからのことだ。
小梅は夜に眠ることができなくなっていた。
布団の中で涙と血を流し、カーテンから漏れる太陽に包まれて。
それで初めて、疲れ果てた彼女は眠る。
目元の隈は、少しずつ濃くなっていった。
彼女はどこまでも矛盾していた。
加速度的に歪んでいった。
自分は化け物で居たいのか、人間で居たいのか。
また分からなくなって、また耐えられなくなって。
また痛みで全てを忘れて、また見て見ぬふりをする。
それが小梅の日常だった。
そんな生活をしばらく続けて。
やがて小梅は、学校に戻らなければならなくなった。
それは全ての子供に課された義務教育であるというのと同時に。
小梅は何の問題もない、学校に通えるだけの安定した精神を持っている人間だからだ。
そうでなければならないからだ。
彼女は自分の身に起きている異常を、認めるわけにはいかないからだ。
小梅は必死で傷跡を隠した。
自分が化け物であることが、露見しないように。
幾度も刻まれた両の手首は、サイズの大きいパーカーの袖で。
顔の右半分は、引き篭もっている間に伸びた前髪で。
では、左耳はどうやって隠すか。小梅は映画からヒントを得た。
耳を覆い隠すように付ける、イヤーカフス。
銀色に輝くそれを、耳たぶに嵌め込んで。
小梅は久しぶりの陽を、その身に浴びた。
小学生で耳に飾りを付けるのは、それだけで彼女を奇異な存在にさせた。
彼女を見る周囲の目は、ゾンビを見る生存者のそれだった。
小梅はひとつのことを学んだ。
ああいう格好をしていれば、ゾンビといっしょになれる。
小梅は少しずつ、映画の登場人物の真似をしていった。
金色に髪を染め、派手な服を着飾って。
そして、ピアスの穴を開けていった。
それは手首に痕を付けるより、余程効率的な自傷手段だった。
人目を憚る必要も無く、痕も隠さなくていい。
飾られる銀色は、順調にその数を増していった。
このような外見の変化と同時に、内面にも変化が起こっていた。
小梅は以前のような明るく活発な子ではなくなった。
自信を無くし。目立つことを避け。
何より、人と話すことを極端に恐れた。
自分の発言によって起こり得る、最悪の事態は何か。
それを常に確認するように。ゆっくりと、噛み締めるように。
喋ることを恐れた小梅は、そうやって話すことを覚えた。
人を恐れた小梅が、代わりに好意を寄せたのは。
同じ化け物である、幽霊だった。
幽霊と話す時だけは、流暢にスラスラと。
楽しそうに弾んだ声を出した。
幽霊は生者ではないから。
生者ではないということは、化け物側の存在だから。
だから、悪意を隠さない。
そう小梅は思い込んだ。
ある日。
小梅が、誰かと話しているのを見た。
しかし、そこには誰も居なかった。
小梅が楽しそうに笑って話すその先に、生者も霊も居なかった。
小梅はあたしの幻覚を見ていた。
思わず飛び出して、初めて自分から彼女の視界に入った。
にも関わらず、彼女はまるで何もなかったかのように話を続けた。
小梅はあたしが見えなくなっていた。
小梅はあたしが聞こえなくなっていた。
小梅は自分を守るために、あたしの存在を除外した。
小梅の見る幻覚は、小梅のことを笑って許したようだった。
小梅はあたしから許されることを望んでいた。
それでもあたしが許すはずがないから、小梅は都合の良い幻覚を作り出した。
あたしは最初から、怒ってなんていないのに。
小梅はあたしの幻覚と話す時、あたしの名前を呼ばなかった。
それだけではない。
他の人物にあたしのことを話す時も、徹底して名前を避けた。
あの子はね、あの子がね、と。
あたしがどういう存在なのかすら、小梅の中では曖昧なのだろう。
あたしがどうして幽霊になったのか、思い出してはいけないのだろう。
昔から何かの繋がりがあって、でもいつ出会ったか分からない。
そんな幽霊の友達として、小梅はあたしの幻覚を位置付けた。
目が合わないのが悲しくて。
声が届かないのが虚しくて。
それでも、小梅がそれを望むのなら。
それを守り続ければ、小梅が壊れてしまわないのなら。
あたしは。小梅の抱く幻想を、守ると決めた。
小梅の発言や細かい行動を観察し。
小梅の幻覚が何をしようとしているのかを推測し。
代わりにあたしがそれを行う。
そうすれば、小梅から見て矛盾は無い。
幸い、小梅の交友範囲に霊感のある人間は居なかった。
細かい部分はバレないし、小梅もわざわざ見ようとしない。
長い間、それはうまくいっていた。
それこそ、今日という日が来るまでは。
うまくいっていると、そう思い込んでいた。
小梅がしたように、目を逸らし続けていた。
あたしの知る白坂小梅が、死んでいく気がしたから 。
『……小梅。』
小梅がぴくりと目蓋を動かす。
ぽつぽつと雨粒が降り始めていた。
あたしは小梅の名を呼んだ。
まだ全てを思い出してはいないことを、願いながら。
すると、明確な変化が起きた。
これまでとは、決定的な違いが。
「……え?」
小梅が、あたしの方を見た。
確かにしっかりと目が合った。
あたしの声に、反応するように。
あたしは小梅の左右には立っていないのに。
『マズ……っ!?』
見られた。
視界から外れなければ
早く。一刻も早く。
でも、どうやって。
あたし達幽霊は、小梅の目から逃れる手段が無いのに。
あたしの姿は、小梅が幻覚を創ってまで見たくなかったもの。
目を逸らし続けていたもの。
それを見てしまったら。
目の当たりにしてしまったら。
また、あの日のように。
幻覚を創った日のように。
あの日と全く同じように。
「──ぁ、」
絶叫は、無かった。
ただ、彼女の口から。
小さく空気が漏れる音がした。
彼女の壊れる音がした。
あの日と同じ音がした。
『……小梅、待っ──』
その目は、化け物から逃げる人間のそれだった。
画面の向こうで見たものと、全く同じものだった。
あたしは化け物になっていた。
あたしは小梅を傷つけた。
あたしは小梅を、2度も傷つけた。
小梅は化け物から、走って逃げ出した。
『…………。』
失敗した。
小梅を救うことは叶わなかった。
失敗した。
小梅を深く傷つけるだけだった。
失敗した。
あたしのせいで失敗した。
失敗した。
あたしのせいで失敗した。
失敗した。
あたしのせいで失敗した。
あたしのせいで失敗した。
あたしのせいで失敗した。
あたしのせいで失敗した。
あたしのせいで失敗した。
あたしのせいで失敗した。
『……違う。』
認めたくない。
認めたくない。
これはあたしのせいじゃない。
誰のせいだ。誰のせいだ。誰のせいだ。
誰のせいで小梅は救われなかった。
『違う!』
……あいつのせいだ。
依田芳乃は言っていた。
あいつのせいだ。
自分に小梅を救う算段があると。
あいつのせいだ。
なのにあいつは失敗した。
あいつのせいだ。
なら、約束通り殺してやる。
依田芳乃を殺してやる。
【caution】白坂小梅が気付きました