褒められるのが好きだった。
ボクが笑うと、パパは可愛いと言って写真を撮った。
ボクが歩くと、ママは可愛いと言って頭を撫でた。
ボクが何かする度に、パパとママは褒めてくれた。
ボクのことを、可愛いと評しながら。
可愛いと言われるのが好きだった。
ボクが褒められる度に、パパとママは可愛いと言った。
意味を理解しないボクは、観察して把握した。
可愛いという言葉は、ボクを褒める言葉だった。
ボクを愛してくれる音だった。
心地の良い音だった。
いつまでも聴いていたい音だった。
可愛いと言われたかった。
小学生になった頃、先生は道徳の授業をした。
ボク達は、いろんな可能性に満ちていて。
自分にしかないものが、みんなにそれぞれ存在して。
何もない人間なんて、誰一人居ないんだと。
それがアイデンティティというものだと。
ボクは迷うことなく頷いて、ノートにそれを書き留めた。
ボクのアイデンティティは、「可愛い」だと思った。
可愛いと思っていた。
先生に意味を尋ねた。
言葉の意味を理解すれば、もっと可愛いになれると思った。
可愛いに近づけると思った。
可愛いの意味を、ボクは知った。
ボクは自分の外見が、ちっとも好きではなかった。
鏡を見る度に。水面に映る度に。
自分の姿を目にする度に。
ボクはすぐに瞳を逸らし、別の事を考えるようにしていた。
そうしなければ、心臓が加速度的に痛いほど脈打ち始めた。
湧き上がる感情は、大きな虫を見た時のそれと良く似ていた。
考えてみても、きっかけなんて何ひとつ思い当たるものは無く。
少し背伸びした言葉を使うなら、きっとそれは先天的なものだった。
可愛くなんてなかった。
ボクの見た目が良いなんて、少しも思えなかった。
可愛くないボクが帰ると、ママはまた可愛いと抱き締めてくれた。
可愛くないボクがノートの清書をしていると、パパはまた可愛いと頭を撫でてくれた。
可愛くないボクを、パパとママは可愛いと評し続けた。
可愛くないボクを、パパとママは愛し続けた。
可愛いと思われなければ。
可愛いと思われ続けなければ。
パパとママは、きっと勘違いをしている。
本当は可愛くないボクを、可愛いと間違えている。
その間違いのおかげで、ボクは愛されている。
なら、その間違いを、気付かれたら。
ボクは可愛いと言ってもらえない。
ボクは愛してもらえない。
ボクはカワイイ。
パパとママを騙すことにした。
周りの全てを騙すことにした。
可愛いと言ってもらうために。
愛してもらうために。
心地良い音を聴き続けるために。
口に出したボクの言葉に、意味なんて無かった。
それが真実だと、思えるはずがなかった。
その言葉が嘘であると、自分が一番分かっていた。
ボクが欲しがっている音と、同じ音というだけの。
ただの、無機質なハリボテだった。
ボクは、カワイイでしょう?
ボクはハリボテを掲げ続けた。
ベニヤ板にペンキで彩った、虚構の言葉を発し続けた。
それに返ってくる肯定で、周囲を満たし続けた。
カワイイボクは、可愛いと言われ続けた。
その肯定すらハリボテだとしても、裏を見なければいい話だった。
本当か嘘か分からない肯定を受け取って、心が少し楽になるのを感じていた。
自分の姿を目にしても、以前ほど心臓は痛くならなかった。
そう。ボクはカワイイんです。だから。
気付かないで。辿り着かないで。
醜い事実に触れないで。
ボクの嘘に、騙されたままでいて。
そうやって、ボクを。
かわいがってください。
愛して、ください。
『■■、■■■■■■■■■■■■■■。』
……え?
パパとママが交通事故に遭ったと聞かされた。
ボクが病室に飛び込むと、パパが小さく口を開いた。
ひどく、寒くて暗い夜だった。
パパの口から出た音が、パパの言葉だと思えなかった。
どうして、そんなこと。
いつだって、褒めてくれたのに。
可愛いって言ってくれたのに。
どうして。
パパがそんなこと言うはずがない。
パパがそんなこと言うはずがない。
パパがそんなこと言うはずがない。
パパがそんなこと言うはずがない。
この不合理は何だ。
この整合性の無さは。
この矛盾を解決する正答は、何だ。
……ああ。そうか。そうだ。
パパがボクを可愛いと言ってくれないはずがない。
だってボクは、騙し続けた。
パパとママを騙し続けた。
だから、ボクを可愛いと言わなきゃ、おかしいんだ。
だから、目の前のこの人は、ボクのパパじゃないんだ。
誰か別の、他の人なんだ。
だって、そうじゃなきゃおかしい。
パパがこんなこと、言うはずがないもの。
可愛いって言ってくれるはずだもの。
だからパパが言うはずのないことを言うんだ。
だってパパじゃないんだから。
交通事故で夫婦が死亡、なんて。
それはボクのパパとママじゃなかったんだ。
じゃあ、帰ろう。
家に帰れば、パパとママが居るはずだから。
また可愛いって、褒めてくれるはずだから。
かわいがってくれるはずだから。
そうでしょう? ママ。
「■■、■■■■■■■■■■■■■■。」
……ママ?
「……でも、失敗したんです。」
芳乃に包まれたまま、幸子は語り続けた。
自分が吐いてきた嘘を。
虚構で塗り固めた自らの同一性を。
そうでなければ愛されないと、思い続けた人生を。
幼少の頃から、それしか与えられなかった。
「可愛い」が幸子の価値の全てだった。
それだけが、彼女を構成する同一性。
アイデンティティそのものだった。
だが、幸子はそれを信じられなかった。
親が見出したアイデンティティを、本当に持っているとは思えなかった。
だから。持っているフリをしたのだ。
自分は可愛いと喧伝し。
それに異論が返ってこないことを、同意の根拠として。
自分に嘘を吐いていたのだ。
「カワイイ」は嘘だったのだ。
輿水幸子の同一性を、守るために必要な。
自分に自信が持てない彼女の、精一杯の自己防衛だったのだ。
「バレちゃったんです。」
自分の容姿に自信など、微塵も持ってはいなかった。
幸子は自分を可愛いと思えていなかった。
誤解をされていると感じていたんだ。
両親は自分のことを可愛いと思い違いをしていて。
その思い違いのお陰で、自分は愛されていて。
なら、自分が可愛くないことが、露見してしまったら。
「褒めて、くれなかったんです。」
そして彼女は失敗した。
死ぬ間際の父親と、母親の幽霊に。
その両方から、望む言葉を贈られなかった。
「本当は、ボクには。」
無論、それは彼女の主観でしかない。
彼女の両親は深く彼女を愛していたし、愛している。
そうでなければ、父親は幽霊になんてなるものか。
悪霊になってまで、母親は言葉を贈ろうとするものか。
「なんにも、無いんです。」
だが。それを伝えて何になる。
彼女は、自分には何もないと思っている。
ならば、それが全てだ。それが彼女の現実だ。
外野が何を言った所で。慰めや、同情や、勘違いにしかならない。
その真意は、決して彼女に伝わらない。
「……そう、だったのですねー。」
だから芳乃は、緩やかに同意する。
それを咎めることも、許すこともせず。
ただ、彼女の言葉を受容する。
そう。受容することしかできないのだ。
芳乃はそれを、否定しなければならなかったのに。
芳乃は幸子を救わなければならなかったのに。
救わなければならなかったのに。
救わなければならなかったのに。
救わなければならなかったのに。
救わなければ。
輿水幸子を救わなければ。
例え自分がどう成り果てても。
輿水幸子を救わなければ。
例えそれが不可能であっても。
輿水幸子を救わなければ。
使命を果たさなければ。
「話してくださり、ありがとうございますー。」
どうすればいい。
彼女は全てを思い出した。
忌避し続けた状況に到達してしまった。
させてはならないことを、させてしまった。
ちらりと小梅の方を見る。
そこには誰も居なかった。
「あの子」の気配だけが、ぽつりと取り残されていた。
白坂小梅は「あの子」から逃げ出した。
……失敗だ。
「あの子」は小梅を救えなかった。
芳乃が幸子を救えないのと、同じように。
ならば、どうすればいい。
全ての策は潰えた。
小梅も幸子も、全てを思い出した。
創り出した幻想は霧散した。
目を逸らしていた現実を、思い知らされた。
考えられる中で、最悪の方法によって。
それは、過去の再現でしかない。
彼女達は、かつて現実を目の当たりにした。
それによって受けた衝撃が、あまりにも大きくて。
だから幻想に逃げ込んだ。
適切な方法で伝えなければならなかった。
少しずつ受け入れさせなければならないものだった。
しかし、失敗した。
彼女達は、その身に余る現実を、一度に投げつけられた。
幻想を創った過去と、同じように。
それでも、違いを見つけなければ。
過去と全てがまるっきり同じでは、本当に成す術が無い。
それを認めては、いけない。
考えろ。何が違う。
何が2人に残されている。
……唯一、違うことがあるとすれば。
全く同じ境遇に立たされた人間が居るということだ。
小梅には幸子が。幸子には小梅が。
確かに存在するということだ。
幸子は両親の理想を。小梅は大切な親友を。
たったひとつを、守ることができなかった。
現実に押し潰され、それから必死に逃げ出した。
幻想で身体を包み、何もかもを遮断した。
己の無力を遠ざけて、そして2人は出会った。
いつも自信に満ち溢れているように見える輿水幸子と。
いつも自信が無いように喋る白坂小梅。
たったひとつを守れなかった、無力な少女。
正反対で、対照的で、同一の存在が出会ったのだ。
正反対で、対照的で、同一。
……そうだ。ならば、もう。
「……しかし、幸子殿ー。」
全てを託すしか手段が無い。
「そなたは、そなた自身を、何も持たぬと仰いましたがー。」
腕の中で、小さく震える無力な少女に。
無責任に押し付けるしか、選択肢が残っていない。
「何も持たぬ、そなたにしか。
頼めぬことが、あるのでしてー。」
芳乃は知っている。彼女達と同じような存在を。
正反対で、対照的で、同一の存在を。
「……ボク、に?」
そんな2人が、どれだけ互いの救いになったかを。
「小梅殿をー、救っていただけないでしょうかー。」
その確かな実証を、かつて芳乃は目の当たりにしている。
「小梅さん、を? でも……、」
賭けるしかない。
「彼女もまたー。悩み、苦しみ、足掻いているのですー。
そなたと、同じようにー。」
互いを救った彼女達のように。
「…………。」
幸子と小梅もまた、互いを救い合うのだと。
「無理にとは言いませぬー。
これは、わたくしの我が儘でしてー。」
その可能性に、賭けるしかない。
「……すいません。少し。
考えさせて、ください。」
幸子は芳乃に縋りつく手の力を緩める。
それを感じ、芳乃は幸子を抱き締める手を解く。
幸子は、緩慢な動作で立ち上がった。
「……承知致しましてー。」
彼女はゆっくりとその場を離れた。
雨で貼り付いた前髪に隠れ、表情は見えなかった。
その姿が見えなくなることを確認して。
芳乃は、ほんの少しため息を吐く。
「……先日、申し上げました通りー。
わたくしは、そなたら幽霊に抗う術を持ちませぬー。」
失敗した。
輿水幸子、白坂小梅、そのどちらも救うことは叶わなかった。
ならば、罰を受けなければ。
約束を破った罰を。
使命を果たせなかった、罰を。
「そしてわたくしはー、そなたとの約束を破りましてー。」
目の前の、黒。
この長いようで短い梅雨の中で、芳乃が幾度となく見た色。
その中でも、最も深い色だった。
「……さあ。」
芳乃は脱力し、おもむろに両手を広げる。
彼女が抱いた感情の矛先となる。
幽霊を受け入れる。
そう、心に決めた瞬間。
「……ようやく、話ができるわね。
小梅ちゃんの、お友達さん。」
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【caution】使命を果たしてください
【caution】使命を果たしてください
【caution】使命を果たしてください
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