さて、どうしたものか。
私は肉体の感触を確かめるように、手を開閉する。
身体に当たる雨粒が、久しぶりの輪郭を教えてくれた。
この子……芳乃ちゃんには、謝っても謝りきれない。
でもこうしなければ、「あの子」ちゃんが乗っ取った。
あの瞬間、芳乃ちゃんは幽霊を受け入れた。
乗っ取ることが可能な状態だったのだから。
さっきの芳乃ちゃんの言葉を聞く限り。
「あの子」ちゃんを味方に付けるために、自らを差し出したのだろうか。
協力して、それでも小梅ちゃんを救えなければ。
その時は、自分を殺しても構わない、と。
……ちょっと、ありすぎじゃないか、自己犠牲精神。
さっきだって、私に傷付けられても一切怯まずに私を成仏させようとしていたし。
なんだろう。この子は少し、危険な気がする。
……今は、今のことを考えよう。
「あの子」ちゃんは約束通り、芳乃ちゃんを殺そうとしている。
方法は、乗っ取って殺すのが、一番楽で確実だ。
乗っ取られてしまっては芳乃ちゃんも抵抗できないし、私も邪魔できない。
私の「あの子」ちゃんへの攻撃は、全て芳乃ちゃんの身体に当たることになってしまう。
「ねえ、「あの子」ちゃん。」
感情は、もう大分落ち着いた。
もう長いこと、此処から動けていないから。
自分が死んだことすら忘れかけていたけれど。
そうだよね、私は死んだのだから。私は幽霊なのだから。
幸子ちゃんが私を見れなくても、何もおかしいことはないんだ。
「小梅ちゃんって、どんな子なの?」
でも、それを加味したとしても。
流石に驚いた。幻覚を見てたなんて。
幸子ちゃんの価値観は、私達が思っていたよりも、ずっと。
どうしようもなく、歪んでしまっていた。
私達が、歪めてしまった。
『……出てきたら、話してあげる。』
幸子ちゃんの背後に居た幽霊。私の夫。
あなたが最期に、幸子ちゃんと話せたって聞いたから。
だから幸子ちゃんはもう、大丈夫なんだと思ってた。
1人で暮らしてるとも聞いたから、きっと忙しいんだと。
だから此処に来なかったことに、別段違和感は無かった。
「それは駄目。……まだ、可能性があるもの。」
きっと、失敗したんだね。
伝えきれなかったんだね。
だから、幽霊になってしまったんだ。
幸子ちゃんに取り憑いて。
そうしてでも伝えたいって思ったまま。
それでも逝ってしまったんだね。
『可能性? もう潰えた。』
ごめんね。私も駄目だった。
私達の言葉じゃ、もう届かなかった。
もう、「可愛い」しか響かない。
私達の周波数じゃ、その言葉しか伝わらない。
「まだ居るわ。幸子ちゃんが。」
唯一、可能性があるとすれば。
さっき芳乃ちゃんが言っていたこと。
幸子ちゃんが、小梅ちゃんを助ける。
それが実現するとしたら。
自分に何の価値もないと思い込んでいる人間が。
それでも誰かを救うことができたとしたら。
それは彼女の、存在意義たり得てくれるんじゃないか。
『……何ができるのさ。アイツは、』
しかし幸子ちゃんだけでは、きっとそれは難しい。
「あの子」ちゃんから逃げたってことは。
その存在を拒絶したということは。
小梅ちゃんはきっと、もう近付けまいとするはず。
幽霊との対話ができる彼女が、それを実行するとしたら。
幽霊の力を借りようとするはずだ。
きっと幸子ちゃんは、幽霊に邪魔をされる。
しかし彼女は、幽霊を視認することすらできない。
「そう。だから。」
協力者が必要だ。
「……だから、助けてあげて欲しいの。」
幸子ちゃんと小梅ちゃんに、対話の席を用意するために。
幸子ちゃんが小梅ちゃんの元へ辿り着くために。
幸子ちゃんが小梅ちゃんを助ける、その前提を作り上げるために。
「私は、此処から動けないから。」
幸子ちゃんを守る存在が必要だ。
『……アイツは。助けられるの?』
生前。私は救えなかった。
幽霊という、本来無かったはずの、やり直しの機会を得ても。
それでも、それは変わらなかった。
「ええ。」
それは目の前の少女も同じ。
手が触れるほど近くに居たのに。
その手は。その声は。
ただ、守りたかったものを傷付けた。
『根拠は。』
ならば。自分では救えないのなら。
肉体を失って、それでも届かないのなら。
「だって、私の娘だもの。」
彼女達に全てを託そう。
今を生きる、生きた人間に。
『……嘘だったら?』
そのために、全てを捧げよう。
「そうね。殺しても……って、もう死んでるしねぇ。」
ふと考える。私が持っているものは何だろう。
……困った。何かを差し出そうにも。
生きていない私は、もう。
「もう何も、残ってないの。ごめんなさい。」
そう言って、頭を下げる。
それを見て、「あの子」ちゃんは大きくため息を吐いた。
『……一発。』
「うん?」
『その時は、一発殴らせなさいよね。』
「……いいよ。いくらでも。」
私が微笑むと、「あの子」ちゃんも笑ってくれた。
見た目からして、小学校を卒業するかしないかくらい。
幼い彼女には不釣り合いなほど、疲れ切った笑顔だった。
『……小梅と、初めて会ったのはね。』
そして少女は語り出す。
目の前の幽霊に求められるままに。
親友との思い出を。
これまで歩んできた、後悔の人生を。
救えなかった幽霊は、無力な少女に全てを託す。