「と、いうわけでしてー。わたくしの身体をお使いいただければとー。」
「あの子」が幸子の家へと向かう前。
降りしきる雨に身体を濡らしながら、芳乃はそんなことを言い出していた。
幸子の母親と「あの子」との話し合いが終わると。
幸子の母親は芳乃の身体から離れ、芳乃を目覚めさせた。
「あの子」との携帯を使ったやり取りによって、現状を把握したのち。
小梅の移動先を確認した芳乃が提案したのが、「あの子」に自分を乗っ取らせることだった。
『……ねえ。この子、ちょっと……。』
幸子の母親が「あの子」に同意を求める。
「あの子」は眉をひそめながら頷いた。
『自分のことを、これっぽっちも考えちゃいないんだ。
さっきだって、まさか黙って殺されようとするなんて。』
芳乃の趣味は、悩み事解決、石ころ集め、失せ物探し。
3つの内2つが、他者のために行うものだ。
「あの子」は最初は、奇特な奴だとしか考えていなかった。
他人のために行動するなんて、今時殊勝なのも居たもんだ、と。
だが、彼女のそれは。依田芳乃の奉仕精神は。
そんな平凡な言葉で片付けられる程度のものではなかった。
はっきりと断言できる。彼女は異常だ。
彼女の中の価値基準に、そもそも自分が含まれていない。
まるで他者のためなら、自分は文字通り「どうでもいい」かのような。
冗談でも、誇張でもない。
本当に、自分はどうなっても構わない。
そう考えているとしか、「あの子」には思えなかった。
いくら他者のためとはいえ。
少しは自分が可愛いのが、人間ってもんじゃないのか。
例えば目の前に、車に轢かれかけている人が居るとして。
突き飛ばせばこの人は助かるが、自分が代わりに轢かれるとして。
どんなにお人好しだとしても、一瞬は躊躇するのが普通じゃないのか。
ああ、轢かれたくはないな、と。
それを一瞬考えた上で、それでも助けることを選ぶなら、まだ分かる。
それは個人の考え方の自由だ。
だが。自分が轢かれる可能性を認識した上で。
それが嫌だとも、一瞬も躊躇せずに飛び込む。
これは、紛うことなき異常ではないのか。
『でも、今はそれが有難い。』
目の前に居る人物が、依田芳乃でなかったなら。
幸子と小梅を助ける理由を与えなければならなかっただろう。
助けたい、或いは、助けなければならない。
そう彼女に思わせる何かを、作り出さなければならなかっただろう。
あれだけ奔走して、それでも救えなかった。
どんなお人好しでも、普通ならここで諦める。
救えなかったところで、自分への損害が大して無いのなら尚更だ。
だが彼女は、それでも諦めない。決して諦めない。
別に長い付き合いがあるわけではない。
助けなければ被る損害があるわけでもない。
ただ、自身の愛他性故に。
人を助けたいという思いだけで。彼女はまだ、諦めていない。
『……そうね。……ごめんね、話逸らしちゃって。
どうする? 確かに芳乃ちゃんの言う通りだと思うけれど。』
芳乃が「あの子」に、自分を乗っ取ることを提案した理由。
それは幸子が失意に呑まれ、小梅を助けることを放棄する可能性。
これを排除するためだった。
幸子もまた、小梅と同じ境遇に立たされている。
かつて耐えきれず、幻想に逃げ込んでまで目を逸らした現実。
それを再び浴びせられたのだ。
幸子にとって唯一の救いは、芳乃が側に居たということだった。
縋り付く相手が居た。相槌を打ってくれる存在が居た。
その衝撃を受け止める際に、間に割って入った緩衝材があった。
その結果、幸子はまだ、比較的マシな状態だ。
芳乃の唐突な要望に、考えさせてくれと返すことができた程度には。
一方、小梅には緩衝材は無かった。
それどころか、最も見てはいけないものを。
「あの子」を、見てしまった。
全てを思い出した状態で。見てしまったのだ。
それは、過去の出来事と、全く同じ。
病室でのやり取りを、ただ繰り返していることになる。
過去を繰り返したのなら、これから先、彼女に起こることも。
同様に、過去をなぞることになる。
それをさせないために、幸子に行動してもらわなければならない。
白坂小梅が憧れた存在であり、白坂小梅の親友である、輿水幸子に。
その声が最も彼女に響くだろう存在に、動いてもらわなければ。
幸子がこの場を去る直前、芳乃は彼女の気を読んだ。
不可能。疲弊。失意。呆然。
何かを新たに行えるような精神状態ではなかった。
考えさせてくれと言ったのは、社交辞令的なものに過ぎない。
彼女は自分のことで精一杯だった。
そんな状態の彼女に、しかし動いてもらう。
そのためには、彼女が動かねばならない理由を与えなければならない。
動機は既に持っているだろう。幸子は小梅の親友だ。
苦しんでいると知ったら、なんとかしたいと思うに決まっている。
問題は、彼女にそれが可能だと、彼女自身が思わないことだった。
彼女にとっての、自分の利点、アイデンティティ、存在意義。
そういった類のものは、全て「可愛い」に集約されていた。
幼い頃から可愛いと言われ続けた彼女は、それが自分のアイデンティティだと認識した。
しかし一方で、自分の外見を可愛いとは全く思えなかった。
だから彼女は自身をカワイイと偽った。
芳乃が感じていた、幸子以外が口にする「可愛い」と、幸子が発する「カワイイ」の差。
それは、発言者が「輿水幸子は可愛い」と思えているかどうかの違いだったのだ。
そして今、彼女は自分の過去を思い出した。
決して自分を可愛いと思えなかった彼女が。
それでも両親の期待に応えるために、自らを偽り続けてきた彼女が。
そんな彼女の、その全てが。
ただのハリボテだったのだと、両親に見破られてしまった過去を。
そんな自分が、他人を助けられるはずがない。
そんな能力が、自分にあるはずがない。
何を疑うこともなく、彼女はそう確信する。
何故なら彼女は、本当は。
他人に誇れるものなんて、何一つ無かったのだから。
彼女自身が、そう認識してしまったのだから。
だから芳乃は、自分の乗っ取りを提案する。
輿水幸子が白坂小梅を救う、そのために。
今の幸子に必要なものは、その行動を自分が成し遂げられるという根拠。
しかし彼女にそれは無い。
その自信が何一つとして無いことが、彼女の抱える問題だ。
これを解決することは、現段階では不可能と考えていいだろう。
できるのならば、彼女の両親がとっくにやっている。
そうでなくても、芳乃が成し遂げている。
しかし実際、それは叶わなかった。
つまり幸子には、自分がそれを達成できると思わないまま。
その根拠を持たぬまま、しかし行動してもらわなければならない。
そのために芳乃は、自分を人質にして幸子を脅そうとする。
幸子の都合など、知ったことではない。
お前に選択肢など存在しない。
何故なら、従わなければ芳乃が死ぬからだ。
そうやって、彼女を脅すことで。
できるはずがないと思いながら、それでも行動しなければならない。
そんな状況に彼女を持っていくことができる。
そして、それが可能な人物は。
土地に縛られているわけでも、幸子と深い仲なわけでもない人物。
白坂小梅を助けたいと思っており、しかし輿水幸子はそう大切でもない人物。
輿水幸子が、そのように認識している人物。
「あの子」だけということだ。
『……てか、アンタはいいの?
自慢の娘の善意につけ込んで無理矢理動かそうって話でしょ、これ。』
真っ先に否定する立場にあるはずの人物が、割と乗り気に見える。
『誰かに手を引っ張られるくらいが丁度いいのよ、ウチの娘は。』
さも当然のようにさらりと返された。
……どうしよう。納得してしまったあたしが居る。
『……じゃ、まぁ。』
芳乃の携帯を、一度だけ開閉する。
肯定の合図。
ぱたん、という音を聞くと、芳乃は微かに笑った。
「……ではー、ひとつ、気をつけて頂きたい点をー。」
握った手を掲げ、人差し指だけを真っ直ぐに伸ばす。
右手で1を表しながら、芳乃は言葉を続けた。
「幸子殿に、考え事をさせないよう。ご注意くださいませー。」
携帯の開閉を、ひとつ。
芳乃の忠告、その理由はもっともだった。
幸子は過去を思い出した。
思い出したが、過去ほどのショックは未だ受けないままでいる。
それは、芳乃が緩衝材となったから。
全てを思い出したあの瞬間、芳乃が彼女を抱き締めていたからだ。
その結果幸子は、考えることを一時的に止めた。
記憶の整理を中断したのだ。
彼女の脳内は、衝撃で掘り起こされた記憶がバラバラに存在している。
しかし、あくまで一時的だ。
幸子をあのままにしていたら、再び思考を巡らせるだろう。
そうして再び考え、その思考が完了したなら。
バラバラの記憶が整理されてしまったら、その時こそ本当に終わりだ。
だから、考えさせてはいけない。
多少強引にでも、違和感を生じさせてでも。
無理矢理に幸子の焦点を、小梅を助けることに合わせ続ける。
そうやって、核心から目を逸らさせる。
逸らさせたまま、小梅を助けさせ。
小梅を助けたという事実を以ってして、幸子を救う。
あたし達が目指すのは、そんな相互作用だ。
「……ではー、どうぞー。」
あたしが了承したことを確認して、芳乃は両腕を広げる。
幽霊を受け入れる状態になる。
あたしは芳乃のに入り込み、その身体を乗っ取った。
「んー、……よし。」
いくつか瞬きをし、手足を軽く動かす。
どうやら問題は無いようだ。
……というか、この身体、異様に軽い。
健康体、という言葉では、説明しきれないほどに。
『あ、ちょっと待って。
……これ、持ってってもらえる?』
早速幸子の家へと向かおうとすると、幸子の母親に呼び止められる。
振り返ると、幸子が落としたレジ袋を抱えていた。
「……しょうがないなぁ。」
ひったくるようにそれを受け取り、中身を確認する。
彼女が言っていた通り、概ねオムライスの材料だった。
卵、玉ねぎ、鶏肉、ケチャップ、ソース……ソース?
一番上に置かれていたからか、卵は全て無事のようだ。
『……ああ。後、携帯も貸してもらっていいいかしら。』
「? いいけど……てか、あたしのじゃないけど。」
渡すと、幸子の母親は何かを打ち込み始める。
『幸子ちゃん、きっとびっくりしちゃうと思うから。
……適当に誤魔化しておいてくれる?』
これまでに得た情報を纏めて、メールで送ろうとしているのだろう。
さっきあたしが話した、小梅の話も含めて。
確かに必要だろうな、と思い、特に反対はしないことにした。
「ん。……予約送信とでも言っとく。」
今度こそ、あたしは幸子の家へと向かう。
片手に持ったレジ袋が、走っていると割と重くて。
挨拶代わりに叩きつけてやろうと、心に決めた。
「……本当に、びっくりしちゃうと思うから。」
立ち尽くした子の親は、雨空に微笑んだ。
information : データが更新されました
[Tips] 芳乃の身体
「あの子」が芳乃を乗っ取った時、異様な身体の軽さを実感した。
運動が得意、健康体、そんな言葉では説明がつかないほどに。
一体彼女は、何者なのだろうか。
〔Mission List〕
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