「……あった。」
黒板の傷痕を指でなぞり、小梅は小さく呟いた。
小梅は全てを思い出した。あの場所で起きた全てを。
たったひとつが欠けた全てを。
あの場に居た少女を除く、全てを。
その想起が完了したと同時に、小梅を呼ぶ誰かの声がした。
初めて聴いたような。ずっと前に聴いたことがあるような。
これまでずっと、聴き続けてきたような。
そんな不思議な声だった。
小梅の目はひとりでに、声の発生源へと走った。
そこには少女が立っていた。
心配そうな表情で、自分を見つめていた。
それが誰なのか、小梅はすぐには分からなかった。
少女と目が合うと、彼女は何かに焦っていた。
しなければならない何かを試みるように。打開策を探すように。
険しい表情で、周囲を見渡していた。
その顔を、見たことがあった。
その顔から、逃げていた気がした。
今までずっと、逃げていた気がした。
その顔が恐ろしく見えて、咄嗟に小梅は逃げ出した。
水溜りを踏みつけて、泥が足を汚しても。
空気で喉が焼き切れて、ヒリヒリと痛んでも。
小梅は走るのを止めなかった。
小梅は考えるのを止められなかった。
あの少女は誰だ。あの少女を見た場所は。
それは先程思い出した記憶と、残酷なまでに一致した。
小梅は、自らの足で来たことなど無かったはずの学校へ行き。
見覚えなど無いはずの校舎を歩き。
確かに記憶に残っている、ひとつの教室へと辿り着いた。
黒板には確かに傷痕が残されていた。
かつて小梅が左耳を切り裂かれた名残だった。
ここが、あの表情を見た場所だった。
ここが、あの少女を見た場所だった。
あの子が死んだ場所だった。
そうだ。
確かにここであの子は死んだ。
そうだ。
それでも私は生き残った。
そうだ。
だからあの子は私を呪った。
「だから、あの子は取り憑いた。」
小さく呟く。
静まり返った教室に、その声は不気味なほど反響した。
鼓膜から脳に流れる情報が、不思議なほど心に馴染んだ。
でも、思い出せるのはその事実だけ。
歴史の教科書を読んでいるような、淡々とした事実だけ。
あの子は死んだ。私は生き残った。
それは本来、おかしいことだ。
あの子が死んだのなら、私も死んでいなければおかしかった。
その不合理が許せなくて、だからあの子は私に取り憑いた。
それは疑いようのない事実のはずだった。
そのはずなのに、何かが欠けている気がした。
原因と結果、それを結ぶ矢印が。
過程の一部分が、抜け落ちている気がした。
『小梅、無理に思い出さなくていいよ。』
音の波紋が夜に溶けると、静かな水面に声が浮かんだ。
この地に、教室に縛られた幽霊達。その1人だった。
『そうだよ、忘れてるならそれがいい』
『ひどかったもん』
『ねー』
それに呼応するように、幼い声が静かに届く。
彼等は、あの日より前にここに居た。
つまりは、あの日の目撃者だった。
「……本当に、いいのかな。」
思い出していないのは、あの日の光景。
鮮明な映像。明瞭な音声。鮮烈な感情。
確かに心にあるはずの、経験としての記憶。
「思い出さなきゃいけないような、気がするの。」
胸から湧き上がる使命感。
それの正体すら不確かだった。
目の前の幽霊のように、輪郭が不鮮明だった。
『無い無い、ぜーったい無いって』
『今のままの方が楽しいよ』
『暑くない? もうちょっと冷やそっか?』
「あ、それは大丈夫。丁度いいよ。ありがとう。」
既に日が落ちたにも関わらず、結構な蒸し暑さが続いている。
何体かの幽霊が、小梅に抱きつくようにしてその身体を冷やしていた。
『……こんな季節に、そんな服を着なきゃいけないのも。
小梅が思い出したがってる、過去のせいなんだよ?』
こんな服。手がすっかり収まるような、長い袖のパーカーを。
手首の傷を隠すために。人間を演じるために。
化け物であることを悟られないために。
着続けなければならない理由も。
あの日に抱いた、感情のせい。
「……分からないの。
分からない、けど。でも……。」
違和感があった。
さっき見た、少女の表情。
あれが怖くて。あれが嫌で。
あの日も私は、きっと逃げ出した。
でも。それは……、
……ああ、やっぱり分からない。
『小梅……。』
幽霊がそっと私の名を呟く。
この子達は、心から私のことを思っていてくれている。
私のためになると、心の底から思うから。
だから私に、思い出すなと言ってくれている。
それがたまらなく嬉しくて。
微睡むくらいに優しくて。
なのに、どうして。
こんなに心地良い言葉に、逆らおうとするのだろう。
周囲を見渡す。
全ての時間が止まっていた。
何もかもが、7歳の頃のままだった。
いつも隣に居たあの子は、何処にも姿が見えなかった。
あの日から居た幽霊は、私と目が合うと悲しそうに笑った。
あの子のはずの幽霊は、しかしあの子とは違う気がした。
確かに居る幽霊の、しかし全てが曖昧だった。
髪型も、表情も、輪郭も、何もかも。
私が幽霊に手を伸ばすと、同じように幽霊も差し出した。
手のひらが重なっても、何の感触もなかった。
幽霊であれば感じるはずの、独特の冷気が存在しなかった。
目の前の幽霊は、幽霊じゃなかった。
「……本当に、思い出したい?」
確かに存在するはずの何かは、そっと私に問いかけた。
「傷つくだけだと分かっていて。」
全てが曖昧な何かは、ゆっくりと私に手を伸ばした。
「止めてくれるみんなの善意を、踏みにじると理解していて。」
その手が近付くにつれて、何かの姿が変わっていった。
「それでも?」
その手は私の手首を掴むと、はっきりとした形を持った。
「……馬鹿だね。」
その何かは私だった。
私の手首を掴んでいるのは私だった。
あの日から居た何かは、私だった。
「なら、教えてあげる。」
私の手を掴むのとは反対の手で、私は私の前髪に触れた。
不快。
黒板に爪を立てたような。刃物の先を額に近付け続けるような。
どうしようもない不快感。
「……今更気付いたって、もう遅い。」
掴まれていない手で、前髪に触れた私の手を押しのけようとする。
手首を掴み、思い切り力を込める。
……びくともしない。
私は表情さえ変えず、冷ややかに私を見つめていた。
『小梅! 何してんの!』
『危ないよ、危ないよ!?』
『手ぇ離して! 血が……!』
幽霊達の声が、霞がかって聞こえた。
私の手首を握る私の手を見ると、確かに血が流れていた。
それは私の目の前に居る私も同じだった。
「ほら、見せてあげる。」
私の手によって、私の前髪が少しずつ上がっていった。
目の前の私の髪も、同様に浮き上がっていった。
目の前の私は、私の前髪を上げることで。
私に前髪が上がった私の姿を見せようとしていた。
「これが、私。」
化け物。
「私は化け物だ。」
顔の右半分に大きく刻まれた傷は、醜く膿んでいた。
「人を殺す化け物だ。」
正常な人間の色をしていない右目が、ギョロギョロと不気味に動いた。
「あの子を殺した化け物だ。」
両の手首や、耳に空いたピアスの穴から、粘着質な緑の血がドロドロと流れた。
「生きてちゃいけないんだ。」
私が掴んでいる方の私の手に、ナイフが握られていた。
あの日に目にしたナイフだった。
あの子を殺したナイフだった。
「死ななきゃいけないんだ。」
私は私の首元へと、ナイフを近付け始めた。
私は私の手首を掴んでいる手に、精一杯の力を込めた。
それでも私の手は止まってはくれなかった。
少しずつ、じわじわと、ナイフは私の喉元へと歩み寄った。
「あの子は死んだ。あの子は私が殺した。」
私の左目から涙が流れた。
きっと恐怖で口元が歪んでいた。
死ななければと分かっていても、それが怖くて仕方なかった。
それでも目の前の私は、淡々と私を殺そうとした。
「あの子を殺した私が、生きてていいはずがないんだ。」
『小梅!? ちょっと、ほんとにどうしちゃったんだよ!』
『死んじゃうよ、死んじゃうよ!? 死んじゃうってば!』
『誰か、触れるひと居ないの!? このままじゃ……!』
誰かが何かを騒ぎ立てていた。
その喧騒すら、あの日の終わりと似ている気がした。
涙でぼやけた視界の先に、化け物の私が居た。
化け物は不快に顔を歪め、憎悪と共に吐き出した。
「ねえ、そうでしょう。化け物。」