輿水幸子の同一性   作:maron5650

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31.贖罪

「……あった。」

 

黒板の傷痕を指でなぞり、小梅は小さく呟いた。

 

 

 

 

 

小梅は全てを思い出した。あの場所で起きた全てを。

たったひとつが欠けた全てを。

あの場に居た少女を除く、全てを。

その想起が完了したと同時に、小梅を呼ぶ誰かの声がした。

初めて聴いたような。ずっと前に聴いたことがあるような。

これまでずっと、聴き続けてきたような。

そんな不思議な声だった。

 

小梅の目はひとりでに、声の発生源へと走った。

そこには少女が立っていた。

心配そうな表情で、自分を見つめていた。

それが誰なのか、小梅はすぐには分からなかった。

 

少女と目が合うと、彼女は何かに焦っていた。

しなければならない何かを試みるように。打開策を探すように。

険しい表情で、周囲を見渡していた。

 

その顔を、見たことがあった。

その顔から、逃げていた気がした。

今までずっと、逃げていた気がした。

その顔が恐ろしく見えて、咄嗟に小梅は逃げ出した。

 

水溜りを踏みつけて、泥が足を汚しても。

空気で喉が焼き切れて、ヒリヒリと痛んでも。

小梅は走るのを止めなかった。

小梅は考えるのを止められなかった。

あの少女は誰だ。あの少女を見た場所は。

それは先程思い出した記憶と、残酷なまでに一致した。

 

小梅は、自らの足で来たことなど無かったはずの学校へ行き。

見覚えなど無いはずの校舎を歩き。

確かに記憶に残っている、ひとつの教室へと辿り着いた。

 

黒板には確かに傷痕が残されていた。

かつて小梅が左耳を切り裂かれた名残だった。

ここが、あの表情を見た場所だった。

ここが、あの少女を見た場所だった。

 

 

 

 

 

あの子が死んだ場所だった。

 

 

 

 

 

そうだ。

確かにここであの子は死んだ。

そうだ。

それでも私は生き残った。

そうだ。

だからあの子は私を呪った。

 

「だから、あの子は取り憑いた。」

 

小さく呟く。

静まり返った教室に、その声は不気味なほど反響した。

鼓膜から脳に流れる情報が、不思議なほど心に馴染んだ。

でも、思い出せるのはその事実だけ。

歴史の教科書を読んでいるような、淡々とした事実だけ。

 

あの子は死んだ。私は生き残った。

それは本来、おかしいことだ。

あの子が死んだのなら、私も死んでいなければおかしかった。

その不合理が許せなくて、だからあの子は私に取り憑いた。

 

それは疑いようのない事実のはずだった。

そのはずなのに、何かが欠けている気がした。

原因と結果、それを結ぶ矢印が。

過程の一部分が、抜け落ちている気がした。

 

『小梅、無理に思い出さなくていいよ。』

 

音の波紋が夜に溶けると、静かな水面に声が浮かんだ。

この地に、教室に縛られた幽霊達。その1人だった。

 

『そうだよ、忘れてるならそれがいい』

『ひどかったもん』

『ねー』

 

それに呼応するように、幼い声が静かに届く。

彼等は、あの日より前にここに居た。

つまりは、あの日の目撃者だった。

 

「……本当に、いいのかな。」

 

思い出していないのは、あの日の光景。

鮮明な映像。明瞭な音声。鮮烈な感情。

確かに心にあるはずの、経験としての記憶。

 

「思い出さなきゃいけないような、気がするの。」

 

胸から湧き上がる使命感。

それの正体すら不確かだった。

目の前の幽霊のように、輪郭が不鮮明だった。

 

『無い無い、ぜーったい無いって』

『今のままの方が楽しいよ』

『暑くない? もうちょっと冷やそっか?』

 

「あ、それは大丈夫。丁度いいよ。ありがとう。」

 

既に日が落ちたにも関わらず、結構な蒸し暑さが続いている。

何体かの幽霊が、小梅に抱きつくようにしてその身体を冷やしていた。

 

『……こんな季節に、そんな服を着なきゃいけないのも。

小梅が思い出したがってる、過去のせいなんだよ?』

 

こんな服。手がすっかり収まるような、長い袖のパーカーを。

手首の傷を隠すために。人間を演じるために。

化け物であることを悟られないために。

着続けなければならない理由も。

あの日に抱いた、感情のせい。

 

「……分からないの。

分からない、けど。でも……。」

 

違和感があった。

さっき見た、少女の表情。

あれが怖くて。あれが嫌で。

あの日も私は、きっと逃げ出した。

でも。それは……、

……ああ、やっぱり分からない。

 

『小梅……。』

 

幽霊がそっと私の名を呟く。

この子達は、心から私のことを思っていてくれている。

私のためになると、心の底から思うから。

だから私に、思い出すなと言ってくれている。

それがたまらなく嬉しくて。

微睡むくらいに優しくて。

なのに、どうして。

こんなに心地良い言葉に、逆らおうとするのだろう。

 

周囲を見渡す。

全ての時間が止まっていた。

何もかもが、7歳の頃のままだった。

いつも隣に居たあの子は、何処にも姿が見えなかった。

 

あの日から居た幽霊は、私と目が合うと悲しそうに笑った。

 

あの子のはずの幽霊は、しかしあの子とは違う気がした。

確かに居る幽霊の、しかし全てが曖昧だった。

髪型も、表情も、輪郭も、何もかも。

私が幽霊に手を伸ばすと、同じように幽霊も差し出した。

手のひらが重なっても、何の感触もなかった。

幽霊であれば感じるはずの、独特の冷気が存在しなかった。

 

 

 

 

 

目の前の幽霊は、幽霊じゃなかった。

 

 

 

 

 

「……本当に、思い出したい?」

 

確かに存在するはずの何かは、そっと私に問いかけた。

 

「傷つくだけだと分かっていて。」

 

全てが曖昧な何かは、ゆっくりと私に手を伸ばした。

 

「止めてくれるみんなの善意を、踏みにじると理解していて。」

 

その手が近付くにつれて、何かの姿が変わっていった。

 

「それでも?」

 

その手は私の手首を掴むと、はっきりとした形を持った。

 

「……馬鹿だね。」

 

その何かは私だった。

私の手首を掴んでいるのは私だった。

あの日から居た何かは、私だった。

 

「なら、教えてあげる。」

 

私の手を掴むのとは反対の手で、私は私の前髪に触れた。

不快。

黒板に爪を立てたような。刃物の先を額に近付け続けるような。

どうしようもない不快感。

 

「……今更気付いたって、もう遅い。」

 

掴まれていない手で、前髪に触れた私の手を押しのけようとする。

手首を掴み、思い切り力を込める。

……びくともしない。

私は表情さえ変えず、冷ややかに私を見つめていた。

 

『小梅! 何してんの!』

『危ないよ、危ないよ!?』

『手ぇ離して! 血が……!』

 

幽霊達の声が、霞がかって聞こえた。

私の手首を握る私の手を見ると、確かに血が流れていた。

それは私の目の前に居る私も同じだった。

 

「ほら、見せてあげる。」

 

私の手によって、私の前髪が少しずつ上がっていった。

目の前の私の髪も、同様に浮き上がっていった。

目の前の私は、私の前髪を上げることで。

私に前髪が上がった私の姿を見せようとしていた。

 

「これが、私。」

 

 

 

 

 

化け物。

 

 

 

 

 

「私は化け物だ。」

 

顔の右半分に大きく刻まれた傷は、醜く膿んでいた。

 

「人を殺す化け物だ。」

 

正常な人間の色をしていない右目が、ギョロギョロと不気味に動いた。

 

「あの子を殺した化け物だ。」

 

両の手首や、耳に空いたピアスの穴から、粘着質な緑の血がドロドロと流れた。

 

「生きてちゃいけないんだ。」

 

私が掴んでいる方の私の手に、ナイフが握られていた。

あの日に目にしたナイフだった。

あの子を殺したナイフだった。

 

「死ななきゃいけないんだ。」

 

私は私の首元へと、ナイフを近付け始めた。

私は私の手首を掴んでいる手に、精一杯の力を込めた。

それでも私の手は止まってはくれなかった。

少しずつ、じわじわと、ナイフは私の喉元へと歩み寄った。

 

「あの子は死んだ。あの子は私が殺した。」

 

私の左目から涙が流れた。

きっと恐怖で口元が歪んでいた。

死ななければと分かっていても、それが怖くて仕方なかった。

それでも目の前の私は、淡々と私を殺そうとした。

 

「あの子を殺した私が、生きてていいはずがないんだ。」

 

『小梅!? ちょっと、ほんとにどうしちゃったんだよ!』

『死んじゃうよ、死んじゃうよ!? 死んじゃうってば!』

『誰か、触れるひと居ないの!? このままじゃ……!』

 

誰かが何かを騒ぎ立てていた。

その喧騒すら、あの日の終わりと似ている気がした。

涙でぼやけた視界の先に、化け物の私が居た。

化け物は不快に顔を歪め、憎悪と共に吐き出した。

 

 

 

 

 

「ねえ、そうでしょう。化け物。」

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