目的地である小学校。
その隣に位置する、マンションの屋上に着地し。
あたしは目を凝らして、学校の様子を観察した。
「……あー、うん。幸子?」
校舎全体が、白い靄のようなもので覆い隠されている。
距離のせいではっきりとは見えないが、恐らくは大量の幽霊。
これでは校舎の様子が分からない。
それどころか、あたしが進入することができない。
「はい?」
いくら芳乃の身体を借りているとはいえ、あたしはれっきとした幽霊だ。
幽霊がすり抜けるのは物体だけ。同じ幽霊にはきちんとぶつかってしまう。
このまま無理矢理に通ろうとしても、芳乃の身体ごとぶつかるか、芳乃の身体だけがすり抜けるか。
どちらにせよ。あたしが校舎に入るには、あの大量の幽霊を何とかしなければならない。
「ここから小梅の居場所、見える?」
だが、果たしてそんな悠長なことが許されるか。
小梅の状態は非常に不安定。だから空を跳んでまで急いだ。
幽霊達を説得する、もしくは力技で排除する。その猶予が残されているか分からない。
だから、幽霊が見えない幸子に情報を求めた。
……なるべく、幽霊の存在を悟られないように。
「……? なんでそんなこと……、」
幸子は幽霊にてんで弱い。
幽霊を始めとした、ありとあらゆるホラーに。
それはもう、映画の鑑賞会をしたくらいで簡単に気絶するほどに。
「今から幽霊でいっぱいの場所に行くけどいい?」なんて言ったら、どうなることか。
ましてや「あたしは通れないから後は1人で頑張って」なんて日には、もう。
考えてしまえば一瞬で答えが出る気がして、極力考えたくはなかった。
「いいから。ほら。教える。」
早速余計なことに考えを巡らせ始めた幸子の思考を矯正する。
あたしに急かされて、幸子は目を凝らし、前方を観察し始めた。
「……っ!」
次の瞬間。
弾かれるように目を見開き、あたしに向かって叫ぶ。
「跳んでください! 早く!」
……不味い。
「ちょっ、待った、跳ぶって何処に……、」
この反応からして、きっと小梅に猶予は無い。
そして猶予が無い故に、幸子に余裕が無くなった。
「窓ガラスが割れてる教室です! アナタにも見えるでしょう⁉︎」
となれば、取れる行動は限られる。
校舎を覆う幽霊をどうにかした後あたしが進入する、これがまず無くなる。時間が足りない。
幸子に事情を話して単身乗り込ませる、これも時間がかかる。が、あたしが行くよりはマシか。
……うん、これしか思い付かない。し、これ以外を考える時間的余裕も無い。
あたしが幸子を校舎内に運べない以上、幸子の足が速いことを期待するしかない。
「……幸子。聞いて。
校舎の周りに幽霊がわんさか居る。校舎を完全に覆うくらいに。
あたしは幽霊だから、幸子みたいに幽霊をすり抜けられない。
だから徒歩で……」
そして最も問題なのは、幸子が幽霊をすり抜ける、つまりは幽霊と接触する際の感覚に耐えられるかだ。
どうやら生者は幽霊と接触すると、独特の寒気を感じる。
あたしがファミレスで手に触れた時も、芳乃の身体について説明した時も。
幸子は情けない声を上げて跳ね上がっていた。
相当に苦手な感覚のようだが、一々あんな反応をされては日が昇──
「なら投げてください!」
「──はぁ⁉︎」
あまりに予想外過ぎて素っ頓狂な声が出た。
「……は⁉︎ 投げるって、誰を⁉︎ 何処に⁉︎」
「ボクを‼︎ 小梅さんの所に‼︎」
「あたしは校舎が見えないの! トマティーナでもやりたいの⁉︎」
「方向は指示します‼︎ 足か背中から入れば窓も大丈夫です‼︎ 多分‼︎」
「多分な時点で駄目でしょ‼︎ 何か他の──、」
ばちん。
耳のすぐ近くから、そんな大きな音が出た。
その音が、あたしの言葉を途切れさせた。
あたしの頭全体が、その音に一瞬、真っ白になった。
その一瞬が過ぎると、頬にじわりとした感触。
ここまできて、ようやく目を動かす。
幸子の両手が、あたしの両頬を叩いた音だと知った。
「──小梅さんが、泣いてるんです。」
頬に手を添えたまま。
呆然とするあたしを、幸子は真っ直ぐに見つめていた。
その瞳は、何かに苛立つようで、何かを悔やむようで。
「……泣いて、いるんです。」
何かを、祈るようで。
「……あたし。もう人殺しなんて、勘弁だからね。」
なんだよ。
ずっと情けなかったくせに。
守られるだけだったくせに。
役になんて立たなかったくせに。
「大丈夫です! ボクはカワイイので!」
泣いているから。
それだけで動くのか。
それだけで動けるのか。
それだけで、怖くなくなるのか。
「……そうだね。」
ああ、なんだよ。
「カワイイよ。ほんと。」
格好良いじゃんか。ちくしょう。
「いい⁉︎ 行くよ‼︎」
「あの子」は幽霊としての自分を全て右腕に纏わせ、巨大な腕を作る。
星空に掲げられたその上で、幸子は叫ぶ。
「どうぞ‼︎」
その声に応えるように、「あの子」は大きく片足を踏み出す。
それと連動するように、「あの子」は右腕で弧を描く。
空気中に蔓延る水分を切り裂くように、幸子は跳んだ。
「…………っ!」
圧縮された大気が幸子を拒絶する。
息を止め、歯を食いしばり、目だけは大きく見開いて。
幸子はそれを押し返す。
本能的な不快感を引き起こす冷たさに包まれる。
両手を強く握り締め、白坂小梅を真っ直ぐ見つめ。
幸子は幽霊の壁を突き進む。
割れた窓ガラスが視界を埋め尽くしていく。
その時だった。
自分の移動速度が加速度的に減速していった。
時の流れが緩やかになり、やがて意識のみが取り残された。
静止した世界の中で、ガラスに映る自分だけが、時間に囚われていなかった。
白坂小梅を見つめる瞳が、幸子自身を見つめていた。
それに映った醜いボクが、ボクを嘲笑っていた。
「どうするつもり、なんですか?」
決まってるでしょう。助けるんですよ。
「どうやって? 何を使って?
アナタは何も持っていないのに。」
そうですね。ボクには何もありません。
人に誇れる長所なんて。存在する価値なんて。
「じゃあ、できっこないじゃないですか。」
できますよ。何もなくても。
最初から、要らなかったんです。そんなもの。
「あれだけ欲しかったのに? あれだけ欲しがったのに?」
何もかもに嘘を吐いて。自分すらも欺いて。
そうまでして欲しかったのは、そんなものじゃなかったんです。
「アナタには、可愛いしか無いのに?」
ボクが欲しかったのは。
そんな意味の無いアイデンティティなんかじゃない。
「可愛くなければ、かわいがってもらえないのに?」
ボクが、本当に欲しかったのは。
……欲しかった、言葉は‼︎
『もう、大丈夫よね。』
「例え何も無くたって‼︎ 生きてたって良いって‼︎」
『ああ。立派に育ってくれたよ。』
空間に固定された左腕を、無理矢理に剥がし取る。
『じゃあ、最期の。』
「ただ、それを‼︎ それだけを‼︎」
『うん、最期の。』
そのまま硬く握り締め、大きく振り上げる。
『『……せぇ……のっ!』』
「……許してほしかった‼︎‼︎」
『『──頑張れ‼︎‼︎』』
ボクに、思い切り振り下ろした。
月が白く透き通った夜。
「どうして、あの子の姿が思い出せない?」
目の前の私は、私の首元にナイフを近づけようとする。
「どうして、あの子の声が分からない?」
私は必死に、それを押し返そうとする。
「どうして、私と同じような口調でしか喋らない?」
でも。人間が化け物に、勝てるはずがなくて。
「どうして、あの子の名前を口にしない?」
じりじりと。じわじわと。
「……どうして、それら全てに疑問を抱かない?」
少しずつ、ナイフは私へとにじり寄っていく。
「思い出せ。」
目の前の私は、私に覆いかぶさるように顔を近づける。
醜い色の右目から、不気味な色をしたドロドロの液体が流れ落ちていた。
「あの子はあの日、私に何をした。」
それは私の頬をつたって、ゆっくりと私に降り注ぐ。
ひどく粘っこくて緑色のそれは、私を嘲笑うように空中でぷらぷらと揺れながら。
ナイフと同じように、少しずつ距離を詰めていった。
「あの子はあの日、私をどう思っていた。」
私の右目から流れる液体が、私の右目に触れた。
べちゃりと不快な音がした。
見た目通りドロドロとした感触のそれは、重力に引き摺られて頬を汚し始めた。
「あの子はあの日、どんな未練を抱いた。」
心臓が痙攣するように脈打っていた。
送り出される血液が緑色に染まっていった。
息を吸っているのか吐いているのか分からなくなった。
首は正面に固定され、逃げることを許さなかった。
「……さあ。」
目の前の私は目を閉じようと瞼を下げる。
それに引き摺られるように、私の瞼が下がっていく。
目を覆う肉の裏に、何かが書き足されていった。
目を閉じたら見えるように、目の前の私が書き加えていた。
抵抗しようと力を入れても、左目から涙が流れるだけだった。
目を、閉じる。
「……っ、あ、」
私の右目の中にまで、緑色の液体が入り込んだ。
それは私の身体を浸食し、醜く腐らせていった。
私は目の前の私と同じモノになっていった。
私は間違いなく、化け物だった。
「あの子は私を傷つけた。」
あの日、あの子は私の頬に触れた。
「あの子は私を憎んでいた。」
あの日、私は大怪我をした。
「あの子の未練は。」
あの子の未練は。
「「私が、まだ生きていることだ。」」
「全てを思い出したのなら逝きなさい。」
目の前の私は、綺麗な両目を私に向けた。
「生きていてはいけないのだから。」
私の視界が緑色に滲み始めていた。
「死ななければならないのだから。」
右目から浸透した液体が、左目から溢れ出した。
「その手に力を入れることすら、許されてはいけないのだから。」
ナイフを塞き止める手から、力が失われていった。
「……手を、離しなさい。」
……しにたく、ない。
「貴方の感情なんて聞いてない。」
分かってる。分かってるよ。
生きてちゃいけない。死ななきゃいけない。
生きている価値がない。
「そう。だから死ななきゃいけないの。」
でも。だけど。
生きていたい。死にたくない。
価値が無くても持っていたい。
「それが許されないと言ってるの。」
嫌だ。
ナイフは侵攻を止めなかった。
嫌だ。
両目から不気味な液体が流れ続けていた。
嫌だ。
目の前の私は表情を失い、傷はいつの間にか消えていた。
嫌だ。
醜いのは全て私だった。
嫌だ。
ナイフは私の喉元に辿り着き、その肉から液体を漏らした。
嫌だ。
そのまま、私の、中に、
ガラスが、割れる。
目の前の私は身体中に亀裂が走り、音を立てて四散した。
私が握っているのは私の手ではなく、ナイフでもなかった。
鋭利に尖ったガラス片が、私の喉に食い込んでいた。
それを掴む私の手は、ズキズキと痛んでいた。
何かが教室の窓を破り、外からここへ飛んできた。
「……間に合った、みたいですね。」
それはゆっくりと立ち上がると、私に向かってこう言った。
「カワイイボクが来ましたよ!」
〔Mission List〕
・憧れを救ってください