輿水幸子の同一性   作:maron5650

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35.それでも許してくれますか

藍色の空に漂う、白い満月。

その真円が、彼女のシルエットを浮かべる。

淡い光を背に受けて、輿水幸子は立っていた。

 

「なん、で、……?」

 

呆然と目を見開き、小梅の心が口から漏れる。

幸子は、ここには来ないはずだった。

ここには、来られないはずだった。

何故なら、幸子は彼女の母親と会った。

その時、幸子は手遅れになりかけていた。

その光景を確かに見て、直後に小梅は過去を思い出した。

 

「なんでって、アナタがそんなことしてるからですよ。」

 

当然であるかのように幸子は言い放つ。

右手に持った何かを側の机に置き、そのまま小梅の元へ歩み寄る。

 

「……ダメっ!」

 

鋭い声に、幸子の足が止まる。

小梅は、手を震わせたまま。頬に涙を伝わせたまま。

細い喉に凶器を充てがったまま。

幸子を、拒絶した。

 

「……ダメ、なの。……私、わたし、は、」

 

言葉の続きが、乱れた呼吸と嗚咽に阻害される。

その様子を見て、幸子はほんの少し、微笑んだような気がした。

 

「何がダメなのか。……当ててみせましょうか。」

 

幸子は左手を小梅へと伸ばし、ピッと人差し指を立て、数字の1を作った。

 

「自分が今生きていること。……それは自分が、望んでいることだから。」

 

中指の力を緩め、2を作る。

 

「誰かに自殺を止められること。……それはとても、嬉しいことだから。」

 

薬指を伸ばし、3を作る。

 

「今まで笑って生きていたこと。……それは決して、許されないことだから。」

 

残った指を全て広げ、直後に思い切り握りしめる。

1から3まで。そしてそれ以降。それら全てを、統合する。

 

「幸せを感じること。……その価値が、自分に無いから。」

 

自分は幸せではいけない。

自分は望むものを与えられてはいけない。

それに見合った価値が無い。

だから、手放さなければいけない。

それを持っていてはいけない。

生きていては、いけない。

 

「……分かってる、なら……! なんで……!」

 

幸子は全て理解していた。

小梅は「あの子」を見殺しにした。

「あの子」は小梅を助けたのに。

危険を顧みず助けてくれた恩人を見捨てて、自分だけ逃げたのだ。

そんな自分が、のうのうと生きていて良い筈が無い。

生きている価値が無い。

それを分かっているなら、どうして邪魔をする。

 

「なんでって、さっきも言ったでしょう。

アナタがそんなことをしてるからです。」

 

幸子の発言の意図が分からず、小梅は苛立つように幸子を睨みつける。

 

「……逆に聞きますけど。」

 

すると、幸子は。

謝るでもなく。竦むでもなく。

 

「小梅さん、どうして泣いているんですか?

どうしてまだ、生きているんですか?」

 

小梅の視線を受け止め、睨み返した。

小梅を糾弾するかのように。

 

「…………ぇ、」

 

予想外の幸子の言動に、小梅は怯む。

怯えると形容してもいい。

幸子のこんな表情を、小梅は今まで見たことが無かった。

幸子のこんな声色を、小梅は今まで聞いたことが無かった。

それはひどく冷たくて。鋭く尖っていて。

小梅に対する敵意に満ちていた。

 

「ほら。今だって。

そんなに意外ですか?

思いもよらない言葉でしたか?

ボクがどうすると思っていたんですか?

ボクに何を期待していたんですか?」

 

小梅を目線で突き刺したまま。

幸子は言葉を発しながら、一歩ずつ小梅へと近づいていく。

 

「ボクが、アナタを止めに来たと。助けに来たと。

自分でも何が起こっているのか分からないこの現状を。

何もかも全部、何とかしてくれると。

そう、思っていたんですか?」

 

幸子は小梅の元へ辿り着く。

小梅は、何もできなかった。

離れろと叫ぶことも。違うと吠えることも。

身体を動かすことさえ。何も。

 

「もし、そう思っていたんだとしたら。」

 

幸子の手が小梅へと伸びる。

喉に狙いを定めたままのガラス片。

それを握りしめた手を、這うようにゆっくりと。

きっと、最後の一押しをするために。

遂にその手は、冷たく鋭利な透明に触れ──

 

 

 

 

 

「その通りですよ。」

 

 

 

 

 

──私の手から、奪い取った。

 

 

 

 

 

「それでもまだ生きているのは。

それでも死にたくないからでしょう?」

 

彼女は左手で透明を掴み、右手で私の緑色に触れた。

 

「それでもボクに期待したのは。

自分じゃどうにもできないからでしょう?」

 

鏡の向こうの私が流し、私を侵食したそれは。

彼女の肌の色になって、静かに溶けた。

 

「それでも怯えてしまったのは。

それすら許されないと、思っているからでしょう?」

 

彼女の声は、もう私を糾弾などしていなかった。

音は教室に反響し、優しく2人を包み込んでいた。

 

「……何度でも、言います。」

 

彼女の右手は私の後方まで伸びると、私の背を後ろから押した。

 

「ボクが今、ここに居るのは。

アナタがそんなことをしていたから。」

 

引き寄せられるように、私は彼女へと傾いていく。

同じ背丈の彼女の胸に、ぽすりと収まった。

 

「アナタが、泣いていたからです。」

 

そのまま、彼女は私の頭を、そっと撫でる。

泣いた赤子をあやすように。

膿んだ傷跡に触れるように。

 

「……たすけ、て……くれる……っ、の……?」

 

もう、わからなかった。

自分が何を望んでいるのか。

自分が何をしなければならないのか。

目から流れる液体の色すらも。

目を逸らし続けたそれは、心の中でぐちゃぐちゃに混濁していた。

 

「……小梅さんは、ホラー映画をよく見ますよね。」

 

彼女は徐に口を開く。

発せられた言葉は、一見脈絡が無いように思えて。

私は真意を理解できず、次の言葉を待った。

 

「怪物に襲われて、逃げ道も無くて。もうだめだー、って時に。

突然アラームが辺りに響いて、気が付けば自宅のベッドに居て。

なんだ、夢か、って。息をついて終わるような。」

 

彼女はゆっくりと言葉を紡ぐ。

童話を読み聞かせるように。

その声は何の抵抗も無く、頭の中に入っていった。

 

「そんな、御都合主義は好きですか?」

 

彼女から顔を離す。

幸子ちゃんの表情は、月明かりの影に隠れて見えなかった。

 

「……好きじゃ、ない……かな……。」

 

でも。きっと、微笑んでくれているんだろう、と。

その確信が、どこか。お腹の奥の方にあった。

 

「それは、どうしてです?」

 

彼女は優しく問いかける。

 

「…………ああ、やっぱり、物語なんだなぁ、って……。

フィクションだって、思うから……。」

 

ギリギリになって、実は問題そのものが最初から存在しなかった。

そんなの、現実にあるわけがない。

最後の最後で、架空だと思い知らされてしまうから。

そういうエンディングは、嫌いだった。

 

「……現実にも、御都合主義があるとしたら。」

 

私の答えを聞いて、やはり彼女は優しく呟いた。

 

「実は「あの子」さんは、最初から怒ってなんていなくて。

実は小梅さんは、少しも醜くなんてなくて。

実は最初から、問題なんてひとつも無くて。

あったのは、些細なすれ違いだけだったとしたら。」

 

……そんな、何もかもが解決するような。

そんな現実だったなら。

それが本当だったなら。

 

「……そんなの、あるわけない。」

 

どんなに、良かっただろう。

 

「本当に、そうでしょうか。」

 

でも彼女は、落ち着いた声で言葉を続けた。

 

「彼女はいつも、アナタと一緒にいました。」

 

──それに……あの子が、いる……から……。

 

「彼女はアナタの幻を、忠実に再現しました。」

 

──芳乃さんや幸子ちゃんは、平気……だけど……。

私は、入らない方がいい、って……。

 

「彼女はいつも、アナタを守ろうとしていました。」

 

──あの子が私を突き飛ばし、代わりに傷を負うのには。

 

「……でも……あの子は、私を……。」

 

でも。それでも。

たったひとつの事実が、逡巡させる。

あの日、あの子は私を傷付けた。

あの子は私に取り憑いた。

なら、あの子の、未練は。

 

「……確かめてみませんか。」

 

優しいままの彼女の音が、少しだけ強くなる。

私が顔を見上げると、もう彼女は微笑んではいなかった。

 

「「あの子」さんが小梅さんを、どう思っているのか。

小梅さんに、どうして欲しいのか。」

 

ただ、真剣に。

私の目を、見つめていた。

 

「……でも……でも……っ、」

 

それでもし、あの子が私を憎んでいたら。

それでもし、あの子が私の死を望んでいたら。

今度こそ私は、死ななきゃいけない。

拒否しようとする権利すら、今度こそは与えられない。

次こそ。この手で。私を、殺さなきゃ。

生きようとする生体反応の全てを押さえ込んで。

死を逃れようとする全ての感情を堰き止めて。

今度こそ、ナイフを喉に突き刺さなきゃ。

 

「……小梅さん。」

 

彼女は、そっと私の肩を押す。

彼女にもたれ掛かるように立っていた私は、その支えを失う。

彼女はその反作用に身を任せ、一歩後ろに下がる。

 

「きっと大丈夫、なんて言葉。

意味がないことくらい、分かってます。……だから。」

 

彼女は、そっと左手を私へと伸ばす。

その手に握られているのは、冷たく鋭利な透明。

化け物の私を映した凶器。

 

「もし、何もかもがダメだったら。」

 

5本の指で包み込むように持っていたそれを、持ち上げるように手から離す。

透明はほんの少し浮かびながら回転し、平らな面を私に見せる。

身長の同じ2人の間、目線の高さで、瞬間的に静止する。

 

「アナタが死ななきゃいけないとしたら。」

 

ガラスの向こう。輿水幸子と、目が合った。

彼女は私の反対側に居た。

化け物の私が居た場所に、今は彼女が立っていた。

静止した世界が動き始め、彼女は再び手を伸ばし──

 

 

 

 

 

「ボクがアナタを殺します。」

 

 

 

 

 

──ナイフを、掴み取った。

 

 

 

 

 

「アナタがどんなに嫌がっても。

どれだけ泣き叫んだとしても。

絶対に。この手で。ボクが、殺します。」

 

彼女の手から、綺麗な紅が流れ落ちた。

美しいその色はガラスを伝い、凶器を鮮やかに彩った。

ナイフを染めた彼女の色が、所有権を叫んでいた。

 

「……だから、確かめてください。」

 

彼女は。輿水幸子は。

人が自分を殺す際の、最も障害となり得るものを。

自分が恐怖を感じる事象を、自分で作り上げなければならないという障害を。

その刃の切っ先を、突き立てる役割を。

肩代わりすると申し出たのだ。

 

「会ってあげてください。」

 

親しい友人を手にかけた罪悪感。

その時感じた不快な感触。

それらに一生、蝕まれ続けることが分かっていて。

 

「話を聞いてあげてください。」

 

それでも。白坂小梅に、一歩を踏み出させるために。

後ろ向きのままだとしても、前を向けるようになるために。

憧れを、救う為に。

 

「助けてあげて、ください。」

 

化け物を請け負ったのだ。

 

「……屋上で、あの人が待ってます。」

 

幸子は凶器を握りしめたまま、その手をそっと下ろす。

先程机の上に置いた何かを、右手で掬うように持ち上げる。

 

「久しぶりに会うんですから、おめかしをしなきゃダメですよ?」

 

小梅に押し付けるように、柔らかい感触のそれを渡した。

 

「ボクはここで、待ってますから。」

 

そう呟くと、幸子は小梅に背を向ける。

左手は、ナイフを決して離さなかった。

その切っ先から紅が漏れて、ぽつりと床に滴った。

 

「……行って、きます。」

 

渡されたのは、綺麗にラッピングされた紙袋。

その中には、きっと、あの洋服。

小梅はそれを、両手で抱きしめる。

 

「はい、行ってらっしゃい。」

 

背後から遠ざかっていく足音を、幸子はいつまでも耳で追っていた。

 

 

 

 

 

「きっと、大丈夫です。

……小梅さんは、可愛いんですから。」

 

 

 

 

 

〔Mission List〕

 

・憧れを救ってください

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