藍色の空に漂う、白い満月。
その真円が、彼女のシルエットを浮かべる。
淡い光を背に受けて、輿水幸子は立っていた。
「なん、で、……?」
呆然と目を見開き、小梅の心が口から漏れる。
幸子は、ここには来ないはずだった。
ここには、来られないはずだった。
何故なら、幸子は彼女の母親と会った。
その時、幸子は手遅れになりかけていた。
その光景を確かに見て、直後に小梅は過去を思い出した。
「なんでって、アナタがそんなことしてるからですよ。」
当然であるかのように幸子は言い放つ。
右手に持った何かを側の机に置き、そのまま小梅の元へ歩み寄る。
「……ダメっ!」
鋭い声に、幸子の足が止まる。
小梅は、手を震わせたまま。頬に涙を伝わせたまま。
細い喉に凶器を充てがったまま。
幸子を、拒絶した。
「……ダメ、なの。……私、わたし、は、」
言葉の続きが、乱れた呼吸と嗚咽に阻害される。
その様子を見て、幸子はほんの少し、微笑んだような気がした。
「何がダメなのか。……当ててみせましょうか。」
幸子は左手を小梅へと伸ばし、ピッと人差し指を立て、数字の1を作った。
「自分が今生きていること。……それは自分が、望んでいることだから。」
中指の力を緩め、2を作る。
「誰かに自殺を止められること。……それはとても、嬉しいことだから。」
薬指を伸ばし、3を作る。
「今まで笑って生きていたこと。……それは決して、許されないことだから。」
残った指を全て広げ、直後に思い切り握りしめる。
1から3まで。そしてそれ以降。それら全てを、統合する。
「幸せを感じること。……その価値が、自分に無いから。」
自分は幸せではいけない。
自分は望むものを与えられてはいけない。
それに見合った価値が無い。
だから、手放さなければいけない。
それを持っていてはいけない。
生きていては、いけない。
「……分かってる、なら……! なんで……!」
幸子は全て理解していた。
小梅は「あの子」を見殺しにした。
「あの子」は小梅を助けたのに。
危険を顧みず助けてくれた恩人を見捨てて、自分だけ逃げたのだ。
そんな自分が、のうのうと生きていて良い筈が無い。
生きている価値が無い。
それを分かっているなら、どうして邪魔をする。
「なんでって、さっきも言ったでしょう。
アナタがそんなことをしてるからです。」
幸子の発言の意図が分からず、小梅は苛立つように幸子を睨みつける。
「……逆に聞きますけど。」
すると、幸子は。
謝るでもなく。竦むでもなく。
「小梅さん、どうして泣いているんですか?
どうしてまだ、生きているんですか?」
小梅の視線を受け止め、睨み返した。
小梅を糾弾するかのように。
「…………ぇ、」
予想外の幸子の言動に、小梅は怯む。
怯えると形容してもいい。
幸子のこんな表情を、小梅は今まで見たことが無かった。
幸子のこんな声色を、小梅は今まで聞いたことが無かった。
それはひどく冷たくて。鋭く尖っていて。
小梅に対する敵意に満ちていた。
「ほら。今だって。
そんなに意外ですか?
思いもよらない言葉でしたか?
ボクがどうすると思っていたんですか?
ボクに何を期待していたんですか?」
小梅を目線で突き刺したまま。
幸子は言葉を発しながら、一歩ずつ小梅へと近づいていく。
「ボクが、アナタを止めに来たと。助けに来たと。
自分でも何が起こっているのか分からないこの現状を。
何もかも全部、何とかしてくれると。
そう、思っていたんですか?」
幸子は小梅の元へ辿り着く。
小梅は、何もできなかった。
離れろと叫ぶことも。違うと吠えることも。
身体を動かすことさえ。何も。
「もし、そう思っていたんだとしたら。」
幸子の手が小梅へと伸びる。
喉に狙いを定めたままのガラス片。
それを握りしめた手を、這うようにゆっくりと。
きっと、最後の一押しをするために。
遂にその手は、冷たく鋭利な透明に触れ──
「その通りですよ。」
──私の手から、奪い取った。
「それでもまだ生きているのは。
それでも死にたくないからでしょう?」
彼女は左手で透明を掴み、右手で私の緑色に触れた。
「それでもボクに期待したのは。
自分じゃどうにもできないからでしょう?」
鏡の向こうの私が流し、私を侵食したそれは。
彼女の肌の色になって、静かに溶けた。
「それでも怯えてしまったのは。
それすら許されないと、思っているからでしょう?」
彼女の声は、もう私を糾弾などしていなかった。
音は教室に反響し、優しく2人を包み込んでいた。
「……何度でも、言います。」
彼女の右手は私の後方まで伸びると、私の背を後ろから押した。
「ボクが今、ここに居るのは。
アナタがそんなことをしていたから。」
引き寄せられるように、私は彼女へと傾いていく。
同じ背丈の彼女の胸に、ぽすりと収まった。
「アナタが、泣いていたからです。」
そのまま、彼女は私の頭を、そっと撫でる。
泣いた赤子をあやすように。
膿んだ傷跡に触れるように。
「……たすけ、て……くれる……っ、の……?」
もう、わからなかった。
自分が何を望んでいるのか。
自分が何をしなければならないのか。
目から流れる液体の色すらも。
目を逸らし続けたそれは、心の中でぐちゃぐちゃに混濁していた。
「……小梅さんは、ホラー映画をよく見ますよね。」
彼女は徐に口を開く。
発せられた言葉は、一見脈絡が無いように思えて。
私は真意を理解できず、次の言葉を待った。
「怪物に襲われて、逃げ道も無くて。もうだめだー、って時に。
突然アラームが辺りに響いて、気が付けば自宅のベッドに居て。
なんだ、夢か、って。息をついて終わるような。」
彼女はゆっくりと言葉を紡ぐ。
童話を読み聞かせるように。
その声は何の抵抗も無く、頭の中に入っていった。
「そんな、御都合主義は好きですか?」
彼女から顔を離す。
幸子ちゃんの表情は、月明かりの影に隠れて見えなかった。
「……好きじゃ、ない……かな……。」
でも。きっと、微笑んでくれているんだろう、と。
その確信が、どこか。お腹の奥の方にあった。
「それは、どうしてです?」
彼女は優しく問いかける。
「…………ああ、やっぱり、物語なんだなぁ、って……。
フィクションだって、思うから……。」
ギリギリになって、実は問題そのものが最初から存在しなかった。
そんなの、現実にあるわけがない。
最後の最後で、架空だと思い知らされてしまうから。
そういうエンディングは、嫌いだった。
「……現実にも、御都合主義があるとしたら。」
私の答えを聞いて、やはり彼女は優しく呟いた。
「実は「あの子」さんは、最初から怒ってなんていなくて。
実は小梅さんは、少しも醜くなんてなくて。
実は最初から、問題なんてひとつも無くて。
あったのは、些細なすれ違いだけだったとしたら。」
……そんな、何もかもが解決するような。
そんな現実だったなら。
それが本当だったなら。
「……そんなの、あるわけない。」
どんなに、良かっただろう。
「本当に、そうでしょうか。」
でも彼女は、落ち着いた声で言葉を続けた。
「彼女はいつも、アナタと一緒にいました。」
──それに……あの子が、いる……から……。
「彼女はアナタの幻を、忠実に再現しました。」
──芳乃さんや幸子ちゃんは、平気……だけど……。
私は、入らない方がいい、って……。
「彼女はいつも、アナタを守ろうとしていました。」
──あの子が私を突き飛ばし、代わりに傷を負うのには。
「……でも……あの子は、私を……。」
でも。それでも。
たったひとつの事実が、逡巡させる。
あの日、あの子は私を傷付けた。
あの子は私に取り憑いた。
なら、あの子の、未練は。
「……確かめてみませんか。」
優しいままの彼女の音が、少しだけ強くなる。
私が顔を見上げると、もう彼女は微笑んではいなかった。
「「あの子」さんが小梅さんを、どう思っているのか。
小梅さんに、どうして欲しいのか。」
ただ、真剣に。
私の目を、見つめていた。
「……でも……でも……っ、」
それでもし、あの子が私を憎んでいたら。
それでもし、あの子が私の死を望んでいたら。
今度こそ私は、死ななきゃいけない。
拒否しようとする権利すら、今度こそは与えられない。
次こそ。この手で。私を、殺さなきゃ。
生きようとする生体反応の全てを押さえ込んで。
死を逃れようとする全ての感情を堰き止めて。
今度こそ、ナイフを喉に突き刺さなきゃ。
「……小梅さん。」
彼女は、そっと私の肩を押す。
彼女にもたれ掛かるように立っていた私は、その支えを失う。
彼女はその反作用に身を任せ、一歩後ろに下がる。
「きっと大丈夫、なんて言葉。
意味がないことくらい、分かってます。……だから。」
彼女は、そっと左手を私へと伸ばす。
その手に握られているのは、冷たく鋭利な透明。
化け物の私を映した凶器。
「もし、何もかもがダメだったら。」
5本の指で包み込むように持っていたそれを、持ち上げるように手から離す。
透明はほんの少し浮かびながら回転し、平らな面を私に見せる。
身長の同じ2人の間、目線の高さで、瞬間的に静止する。
「アナタが死ななきゃいけないとしたら。」
ガラスの向こう。輿水幸子と、目が合った。
彼女は私の反対側に居た。
化け物の私が居た場所に、今は彼女が立っていた。
静止した世界が動き始め、彼女は再び手を伸ばし──
「ボクがアナタを殺します。」
──ナイフを、掴み取った。
「アナタがどんなに嫌がっても。
どれだけ泣き叫んだとしても。
絶対に。この手で。ボクが、殺します。」
彼女の手から、綺麗な紅が流れ落ちた。
美しいその色はガラスを伝い、凶器を鮮やかに彩った。
ナイフを染めた彼女の色が、所有権を叫んでいた。
「……だから、確かめてください。」
彼女は。輿水幸子は。
人が自分を殺す際の、最も障害となり得るものを。
自分が恐怖を感じる事象を、自分で作り上げなければならないという障害を。
その刃の切っ先を、突き立てる役割を。
肩代わりすると申し出たのだ。
「会ってあげてください。」
親しい友人を手にかけた罪悪感。
その時感じた不快な感触。
それらに一生、蝕まれ続けることが分かっていて。
「話を聞いてあげてください。」
それでも。白坂小梅に、一歩を踏み出させるために。
後ろ向きのままだとしても、前を向けるようになるために。
憧れを、救う為に。
「助けてあげて、ください。」
化け物を請け負ったのだ。
「……屋上で、あの人が待ってます。」
幸子は凶器を握りしめたまま、その手をそっと下ろす。
先程机の上に置いた何かを、右手で掬うように持ち上げる。
「久しぶりに会うんですから、おめかしをしなきゃダメですよ?」
小梅に押し付けるように、柔らかい感触のそれを渡した。
「ボクはここで、待ってますから。」
そう呟くと、幸子は小梅に背を向ける。
左手は、ナイフを決して離さなかった。
その切っ先から紅が漏れて、ぽつりと床に滴った。
「……行って、きます。」
渡されたのは、綺麗にラッピングされた紙袋。
その中には、きっと、あの洋服。
小梅はそれを、両手で抱きしめる。
「はい、行ってらっしゃい。」
背後から遠ざかっていく足音を、幸子はいつまでも耳で追っていた。
「きっと、大丈夫です。
……小梅さんは、可愛いんですから。」
〔Mission List〕
・憧れを救ってください