惻隠の情   作:坂口

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 横殴りの雨が外壁にぶつかり、絶え間なくバラバラと強い音が部屋の中に響いている。
 六畳程度の室内は薄暗く狭い。四方を囲む打放しコンクリートには所々に(ひび)が見え、冷たい印象が残る。壁際には申し訳程度に水仕事用のシンクが取り付けられており、部屋の中心には足の高さが不揃いなテーブルが置かれている。封の空いた食べかけのコッペパンが置いてあるのだが、半分以上残っているそれは既に固く乾いており、人が食べられる状態ではないだろう。
 積まれた段ボールなども目に入るが、一見この部屋には生活感が無く、まるで囚人の入る牢獄の様にも感じられる。

 そんな場所だが、ここには人間が住んでいた。
 雑然に敷かれた布団の上に、一人の男が寝ていた。

 髪は無造作に伸びており、顎下には無精髭が伸びている。その表情は安らかには程遠く、苦虫を潰したような苦し気な表情をしていた。時折、呻き声のような音が聞こえるが、言葉が紡がれているわけでは無い。彼の意図している感情は読み取れない。既に彼の意識は沈んでおり、この雨に対して思う所は何もないはずだ。だが、彼は苦しんでいた。

 淡々と打ち付ける強い雨に。
 バラバラとした強い音に。唸りを上げる強風に。
 荒れる海鳴りに。爆ぜる海面に。貫く高音に。
 そして、予期せぬ轟音に。


1章・逢着
1話


 自分の体内時計の優れている所は、どんな場所でも同じ時刻に目が覚める所だと自覚している。身体を起こし、洗面台の前に立つ。蛇口をひねり顔を洗えば、手首にチクチクとした感触が生まれる。鏡が無いので分からないが、昨日より髭が伸びたのだろうか。

 

 朝食の時間になろうか。しかし、確認する必要も無く食材など残っていない事実を自分は知っている。昨晩は部屋の隅に転がっていたコッペパンを口にしてみたが、ガリガリとした口当たりの悪さを再び楽しむ気分でも無い。

 

「…………」

 

 無い物は仕方がない。

 食事を諦め意識を外に向ける。昨日は夕刻から天気が崩れていたが、外から雨音は聞こえない。

 むしろ、海鳥の鳴き声が聞こえてくる。なるほど、晴天のようである。適当に積んである段ボールから上着を取り出し、羽織る。朝の海風は身体を冷やしてしまう。

 蝶番(ちょうつがい)が緩み、ギィギィと耳障りな音がする扉を開けると眼前の静かな海が一望できた。

 目の前の岩場を歩き、元々は舗装されていただろう道路に立つ。

 朝日を浴びながら、どうしようもなく胸に湧き起こる言葉を口に出してみたくなる。しかし、そんな事をするつもりもない。感傷など馬鹿げている。

 海沿いに討ち捨てられた廃屋には誰も近付かない。当たり前の様に人の音が無いこの場所は、世間からは隔絶されているように感じられてしまう。

 とは言え、市場に出ればようように人の喧騒と触れ合えるのだが。

 

 昨日の豪雨によって悪影響が生まれていないか気になり、背後のマイホームの様子を見てみる。パッと見た限りでは、問題はなさそうである。屋根をガルバニウム波板で補強しており、余剰分を壁に立て掛けて置いていたのだが、運が良い事に飛ばされていないようであった。

 

 本日も変わり映えのしない一日が始まりそうで、平穏な安らぎを感じる。道路を挟んだ先には、更に岩場が待っている。その先には大量のテトラポットが陸地の続く限り設置されていた。

 

 海に囲まれている我らが誇る祖国である日本国は、非常に追い詰められた状況に陥っている。

 数年前に突然現れた深海棲艦によって海上への進出は実質不可能になり、我が祖国は見えざる鎖に縛られた弱国にまで転落していったのだ。島国である日本国は資源が限られている。

 それまでは他国との貿易や東アジアへの侵攻で、富国強兵の道を歩んでいた。だが、突然海上から断絶されたことで国家は混乱し、民衆は不安定な生活を強いられる形となった。限りある資源を工面しながらどうにか生きながらえてきたが、それも何年持つことやら。

 国力の全てを海軍に投資し、深海棲艦に唯一対抗できる艦娘を順次開発、育成しているようだが、旗色が悪い事は知っている。艦娘を開発するのに必要なのは、単純な技術力だけでは無い。素質を持った提督がいて、ようやく彼女達は生まれるのだ。

 数年前に起きてしまった横須賀鎮守府と深海棲艦の類を見ない大戦で、才ある提督をだいぶ失ってしまったらしい。後進の育成にも時間が掛かるようで、そもそも候補生が見つかっていない状態だと言う話を、時折耳にする。

 

 そのように色を変えてしまった大海原ではあるのだが、自分にとっては生活する為に必要な場所である。理屈は分からないが、海流の影響か、この付近にはよくよく漂流物が流れてくるのだ。

 遠方を見れば、横須賀鎮守府の形がうっすらと見える。タイミングと天気が良い時に双眼鏡を覗けば、辛うじて海上を(はし)る艦娘を見る事も可能だったりする。

 そして、鎮守府が近辺に存在しているという事はこの近海では艦娘と深海棲艦が戦闘を行っているという事だ。その時に破損したであろう艤装や金属片などが、ここまで流れ着いてくるのだ。

 金属は貨幣と交換できる。非常に有難い話だ。

 

 テトラポットを乗り越え、身体を支えながら海面に近付く。

 海面には油のような模様が見え、水質汚染の進行に気分が沈んでいく。今となっては魚介類は高級品となっており、ここ数年、口にした記憶が無い。汚染の少ない海域も当然あるようだが、そのような場所には鎮守府が無く、つまり仕事も無く、生活基盤が無いのである。漁業は既に国家主導の事業となっており、わざわざ民間人が危険を冒してまでやる事ではない。

 

 昨晩の雨によって海が荒れているおかげか、探さずとも多くの漂流物が目に入ってくる。

 さて、日課をこなそう。上半身の衣類を脱ぎ、テトラポットに引っ掛ける。そして、入水。

 早朝の海水は冷たい。だが、身体を動かしている内にそんな事は気にならなくなる。手当たり次第にぷかぷかと浮いている凹んだ一斗缶や、用途も素材も分からない布のような物を集めていく。海面に浮かぶ物を拾い、次々とテトラポットを超える様に放り投げる。岩にぶつかり金属音が鳴る。鈍く響く音や、転がるような音も聞こえる。

 鉱物が奏でる音は心地良いはずだ。だが、いつからか自分の胸に仄暗い感情が浮かぶようになってしまった。毎日繰り返している作業だが、こういった音は苦痛に感じる。克服できない。まったく難儀なものである。

 

 海面が終われば次は海中だ。海中には水に浮かばない大物が沈んでいる場合が時としてある。

 大物は高額の貨幣と交換が可能である。非常に有難い話だ。

 息を吸い、呼吸を整え、水に沈む。

 全身を覆う感覚は好きではないが、嫌いでもない。動きを止めればどんどん沈んでいく。海中は濁っていて見通しが悪い。そんな中でも自分の目にはっきりと映る色があった。

 

 

 『純なる白』

 

 

 彼女は藻屑のように水流に弄ばれているが、辛うじて何処かが引っ掛かっているのか、流されず、その場に留まっていた。

 瞬間、全身の血が逆流したかのように目の前が真っ赤に染まった。いや、事実として自身の身体は正常なはずである。しかし自分の感情を抑えられない。強い感情が、発作的に生まれた。

 その感情は自身が読み取る前に霧散してしまう。次いで、驚愕で頭が埋め尽くされた。

 

 『どうして彼女がここにいるんだ?』

 

 いや、それよりも生きていればの話である。

 そう。生きていれば。俺は、やり直せるかもしれない。

 水流に弄ばれる彼女の身体を支え、一気に海面に向かう。自分の身体よりも大きい彼女を支えながら泳ぐのには苦労するのだが、彼女が生きているのであればその苦労も買うべきであろう。今まで無為に生きてきたが、それも今日で終わりになるのかも知れない。

終わりになるのであれば、実に、喜ばしいのだが。




ver1.00 2018/05/07
ver1.01 2018/08/05
ver1.02 2019/01/21
ver1.03 2019/08/08
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