惻隠の情 作:坂口
横須賀鎮守府の側にある埠頭にて警戒任務を行っていた青葉と夕立は、鎮守府に引き連れられていく港湾棲姫の後ろ姿を思い出しながら、ひそひそと印象を言い合っている。
「海域で出会った事は無かったけど、あんなに大きいなんて知らなかったっぽい!」
「あー! 港湾棲姫の恐ろしさを
「でもでも、港湾棲姫の恐ろしさを広めるのは青葉ちゃんの役目っぽい! 鳴本提督さんにお願いして、牢屋に入らせてもらうっぽい!」
「ちょ! 無理無理! 牢屋に入ったら最期、青葉もれなく轟沈ですよ!」
「でもでも、
賑やかな声が響いていた。ひそひそ話だと思っているのは、彼女達二人だけのようである。
「青葉さん、夕立さん、任務中です。横須賀鎮守府には現在、御国に必要な方々が集まられています。私語は控えて、深海棲艦の襲撃に備えましょう」
「あうぅ。加賀さん、ごめんなさいっぽい……」
「青葉、集中します!」
加賀の叱責に、気合を入れ直す二人。しかし、やはり見慣れない港湾棲姫の事が気になるのか、ついつい、視線が横須賀鎮守府の方に向いてしまうのだった。
◇
コツ、コツ、と堅い石を叩くような足音が周囲に反響し、響く。二人の憲兵が港湾棲姫を挟むように、地下の牢屋に向かっていた。彼らは鎮守府の入り口にて港湾棲姫を引き取り、地下牢へと連れて行く役目を負っていた。
足音以外の物音は聞こえない。
否、耳を澄ませば二人の憲兵の唾を飲み込む音や、荒い呼吸音が嫌でも聞こえてしまう。
港湾棲姫の前を歩く憲兵は、一歩一歩、己の歩みが進む事に感謝をしていた。港湾棲姫が今すぐにでもその様相を変え、頭の角で男の背中を切り裂けば、一瞬で絶命してしまう。彼は、死への恐怖に、
港湾棲姫の後ろを歩く憲兵は、港湾棲姫のその背中の大きさに圧倒されていた。すぐにでも港湾棲姫に背を向け、階段を駆け上がりたい衝動を必死に抑えている。
彼には、響く足音が徐々に小さく聞こえる事に恐怖を感じていた。曲がりなりにも日本国を守る日本軍である。幾度の死線を潜り抜けてきた自負が彼にはあった。しかし、そんな彼でさえ、伏し目がちに歩く港湾棲姫に、完全に飲まれていた。
呼吸も
階段を下り終え、二人の憲兵はすぐさま手前の牢屋に投獄されている男の方へと視線を動かし、そして、男の変わらぬ姿に安堵の息を洩らした。
男は牢屋の中で、口を開かない。顔をこちらに向けていない。静かに座し、目を瞑っているだけであった。
先ほどまで男は取り調べを受けていた。否、尋問であり、拷問を受けていた。
憲兵は求める答えを吐かない男の髪を掴み上げ、何度も机に叩きつけた。男が言葉を
男への拷問が一段落した時、調査部隊から連絡が来た。内容次第では、更に男を痛めつけられる。彼らの
『不審者の住処と思われる廃屋にて、港湾棲姫と遭遇。事態はこちらの想定を大きく超えているのかもしれぬ』
連絡を聞いた瞬間、『男と港湾棲姫を対面させるべきでは無い』『港湾棲姫は殺すべきだ』そう言いたかった。しかし、言えなかった。
男が港湾棲姫に「殺せ」と呟けば、港湾棲姫は瞬時に自分達を殺すのだろう。否、それだけで済めば良い。「壊せ」と言えば、港湾棲姫は横須賀鎮守府を破壊するために行動するだろう。
そして、その光景は、まるで三年前の、横須賀の海域から大量の深海棲艦が現れた、あの日を思い出すに、十分な光景であろう。
二人の憲兵は、己の過ちを悔いた。まるで、死刑を待つ囚人のような心地の中、彼らは港湾棲姫の到着を待つ事しか出来なかった。
そんな覚悟を彼らはしていたのだ。二人は急速に全身の力が抜けるのを感じた。ここまでくれば、もう俺たちのやれることは無い。港湾棲姫を牢屋に入れ、元帥たちを待つだけだ。そんな考えが、頭に広がる。
彼らの気が抜けた一瞬、その一瞬だけ、港湾棲姫の伏していた目が投獄されている男の方を向いた。彼女の口が何かを呟くように動いたが、音として生まれる事はなかった。彼女は彼を視界に収め、そして、再び、大人しく歩みを進める。開かれた牢屋に入り、大人しく座り込む。
牢屋の外では、安心しきった二人の憲兵の疲れの籠った雑談が始まっていた。この場から立ち去りたいという感情を、隠す気力さえ失われていたのだろう。
◇
数分もしない内に、数人の足音が地下に響いてくる。
その音を合図に、二人の憲兵はその場に起立し、凛とした敬礼姿を取る。
「お待たせいたしました。伊丹元帥の到着です。見張り役、ご苦労様です」
一番に姿を現したのは伊丹元帥の秘書艦である大和であった。彼女は艤装を展開しており、その鋭い視線は、周囲への警戒を
「大和よ、先導ご苦労。君たち二人もすまなかったな。後は私に任せてもらいたいのだが」
「はっ! 先ほどから敵意も感じず、非常に落ち着いた様子であります。では、御気を付け下さい」
二人の憲兵の一礼が揃い、早足で階段を上がっていく。そんな彼らの足音が完全に消えた頃合い、ようやく伊丹が港湾棲姫に声を掛ける。
「……さて、私たちの言葉は理解できているかな?」
「………………」
伊丹の言葉に、港湾棲姫は何も返さない。言葉だけでは無い。視線も返さず、
「…………出撃中に港湾棲姫と交戦した事あんねんけど、片言で何かを喋ってた覚えはあんねん」
「………………」
勝手に着いて来た龍驤の言葉にも、特に何の反応も示さない。
岩井は忌々し気げに港湾棲姫を見据え、鳴本は興味深げに観察している。吉田は鳴本の陰に隠れ、チラチラと覗くに留めていた。
「…………仕方あるまい。港湾棲姫は後にして、先に彼の話を聞いてみようじゃないか」
伊丹が隣に投獄されている男に目を向けた。その瞬間、岩井の口から大きな怒号が響いた。
「貴様は! 何の意図があって港湾棲姫を
岩井の声に空気が震える。その声に反応したのか否か、男は静かに目を開け、岩井の方に目を向け……向け…………、
「こ、このような
「い、いや! 待て! 黙れ! き、貴様は!」
男の豹変ぶりに、動揺を隠せない岩井厳双。だが、彼の佇まいを見れば、日本軍所属の人間だという事が嫌でも理解出来てしまった。そして、それは伊丹も同じである。彼は、薬物中毒者などでは無い。瞳に力が籠っている。そして、伊丹の事を『大将』と呼んだ。伊丹が大将として海軍を率いていた頃は、それほど表舞台に立つ事も少なかった為、知名度は低いはずである。彼が本物の不審者……スパイや工作員であった場合、わざわざ『大将』と呼ばず『元帥』と呼べば済む話でもある。つまり、彼は大将時代の伊丹を知っており、つまり、本当に軍の関係者として……。
伊丹と岩井が思考の沼に囚われそうになった瞬間である、急に、その場にそぐわない、陽気な笑い声が聞こえてきた。喜色を隠さず、本当に嬉しそうな笑い声。鳴本雷太の顔には笑顔が浮かんでおり、目元には薄く涙が浮かんでいる。
「…………生きて、生きていたのか。あの戦乱の中、死体も見付からず、もう、諦めていた。だが……君は……っ!」
鳴本雷太が、牢屋に近付き…………。
だが、そんな鳴本の肩に岩井が手を掛け、身体を引き寄せる。
「お、おい、横須賀の! お前はこの不審者と知り合いなのか……?! いや、それはどうでも良い。こいつの正体は何なんだ?!」
岩井の叫びに、落ち着きを取り戻し始めた鳴本が静かに答えた。
「……彼は、私と士官学校で同期だった人間です。三年前のあの日に、私と共に横須賀鎮守府に赴き……本来、私と共に横須賀で研修を受ける予定でした。しかし、例の大乱で、彼はその姿を消し、もはや軍関係者の中では死亡扱いされ、戸籍や住民票の類も……恐らくは……」
鳴本の言葉に伊丹も岩井も吉田も、秘書艦である大和と龍驤でさえ絶句した。
しかし、吉田も辛うじて声を出す。
「鳴本さんと同期って事は……私とも同期ですよね。…………それで、あの、私の記憶違いでなければ…………この人、いつも鳴本さんと一緒にいて…………その、私も、見覚えがあります。はい、あります」
「ま、マジかよ……」
吉田の言葉に岩井が呻く。
そして、伊丹が何かに気付いたように、慌てた口調で言葉を作り出す。
「き、君は提督候補生だったとすれば、……妖精が見えていたのか?! そ、それで今は」
「はっ! 伊丹大将の秘書艦の肩に一名。そして、そこの女学生の足元に一名。計二名、把握しております」
男に女学生呼ばわりされた吉田の頬が膨らみ、伊丹の顔に希望と驚愕の色が浮かんだ。
必死に探していた人間が、ようやく見つかったのである。そして、提督になる為の勉学も済ませているのだ。伊丹にとって彼の出現は、滅びゆく日本国に対する数少ない光明に見えたのだった。
「…………港湾棲姫はどうしたのかね?」
「はっ! 海で拾いました!」
「…………それだけか?」
「はっ! それだけです!」
これ以上も無いほどの美しい敬礼をしながら、ハキハキと伊丹に対して言葉を紡ぐ。
伊丹は問題の一つが解決した事に心から安堵していた。しかし、易々と男を牢屋から出す事に関しては冷静に考えていた。まず、伊丹と提督の三人は舞鶴に行く必要がある。そのつもりで予定を立て、本来であれば既に向かっているはずだったのだ。
その為、彼の処遇を決める時間が足りなかった。そして、関係者に説明をする時間も無かった。故に、伊丹は即座に判断を下す。
「すまないが、君にはもう少し牢屋にいてもらう必要がある。そこで今後について、考えておいてほしい」
「……はっ! 畏まりました!」
「そして、君の……………………まあ、なんだ。港湾棲姫については、丁重に扱う事を約束する。だから安心してほしい」
「はっ! 大将のお心遣い、有難く頂戴いたします」
「そして私は既に大将ではない。元帥だ。覚えておいてくれ」
「はっ! 失礼致しました! 伊丹元帥!」
伊丹は男に関しては追々、提督として働いてもらう事を決定事項としていた。しかし、港湾棲姫。彼女の扱いは難しい。良くて、現状維持。最悪の場合は、実験動物になりかねない。
御国の事を考えれば、実験動物として扱う事は非常に有意義である。しかし、その場合、男がどう反応するか読めない。恐らく、心証は良くないだろう。
「……では、すまない。私たちには急ぎの用事があるのでな」
伊丹がそう言うと、鳴本は手を振り、吉田は頭を下げる。岩井は複雑そうな顔をしながらも、特に何も言わず、伊丹と共に階段へ向かう。
大和と龍驤を含めた六人がその場から立ち去ると、地下牢には男と港湾棲姫だけが残される。壁に設置された灯りはユラユラと小さい炎を揺らしていたが、おそらく数時間後には消えてしまう。夜間には真っ暗になっているだろう。
二人の間は壁で隔たれている。
男は気力が尽きるまで姿勢を崩さず階段に向かって敬礼をし続け、港湾棲姫は彼らの話を聞いていたのかいないのか、ゴロリと横になっており、静かに寝息を立てていた。
Q:なぜ警察隊では無く憲兵が男の取り調べをしたのでしょうか?
A:ボーキサイト不正所持の犯人が軍関係者と繋がっている前提で動いた為、即時対応できる憲兵が率先して原因究明に動いたからです
ver1.01 2019/01/22
ver1.02 2019/08/15