惻隠の情 作:坂口
程度の高い人間に相応しい一室にて、三人の男が円卓に座り談話を楽しんでいた。己の提督としての国への貢献。将来の肩書について互いに笑い合い、金と女と地位に欲を
壁際には数人の艦娘が物音一つも立てずに並んでいる。彼らの
視線は宙に向いており、身動ぎ一つ無い。美しい彫刻品の様に立ち並ぶ彼女達からは、強者のオーラが放たれている。
緩みきった空間に声色では無い音が響き、会話が途絶えた。男たちが物音の方へ目線を向ければ、開いた扉から白の軍服を纏った男の姿が現れた。
「久方ぶりに嫌な男の声を聞いちまった。舞鶴に飛ばされた鬼島からの通信でした」
男の声に反応する様に、三人の笑い声が空気を震わせる。
あからさまな嘲笑。笑い声の中には侮蔑の言葉も交わる。
「いましたね、そんな名前の提督も。上官に媚びも売れない、出来損ないでしたねぇ」
「だが、そんな鬼島に感謝してやらん事もないがな。アイツが指揮した艦娘は、実によく働く」
男が立ち上がり、近くに立っている大鷹の頬をピシピシと掌で叩く。
大鷹の顔色は変わらない。
「それで、鬼島は何用だと」
「はっ! …………くくっ、『有事に備え、防衛ラインの見直しを』とかなんとか。深海棲艦を排除したと言うのに、アイツは何と戦ってるんですかねぇ?」
「ふっ、横須賀に戻れなくて、アヘン……………ふふっ。アヘンにでも溺れているんだろ」
「戦場でしか生きられない変態ってのも、難儀なもんだねぇ」
「いるんだよなぁ、どの組織にも。『空気』っつーもんを読めない、無能な働き者がさぁ」
口々に言葉を出せば、どうしても耐えられなかったようである。男たちが
鬼島稔は現実問題、大本営から期待され、丁重に扱われていた。しかし、それを許せない人間がいた事も事実である。
彼らは鬼島の栄転を妬んだ。妬み、
『鬼島稔が舞鶴鎮守府にいるのは、左遷されたからだ』
『無能のあいつは、横須賀鎮守府から追放されたのだ』
彼らが鬼島の言葉に耳を貸す事など絶対にありえない。彼らが横須賀鎮守府で結果を残せたのは、鬼島に指導された艦娘の実力が優れていたからであった事にも、目を向けない。
己の実力を信じ込み、
故に、彼らは気付いていなかった。気付く事が出来なかった。己の過ちと無力さを。水平線に無数に広がる、数々の黒点を。数時間後の地獄絵図を。
彼らが事態の重さに気付いた頃には、既に手遅れになっていた。
着弾によって生まれた無数の
鬼島稔が横須賀鎮守府に到着したのは、事態が落ち着いてから数時間後であった。九四式六輪自動貨車を近場の事業所から借りた鬼島は、秘書艦も付けずに単独でこの地へ降り立ったのだ。
横須賀鎮守府は全体の約八割が崩壊していた。瓦礫となったそこからは未だに煙が立っており、炎が火種を求めて
入渠施設は辛うじてその
「……鬼島提督」
凛とした声が響き、鬼島が声の方へ顔を向ける。
そこには全身がボロボロになりながらも美しい敬礼姿を保っている加賀の姿があった。
「翔鶴型はどうした」
鬼島の声に加賀が顔を動かす。加賀の視線の先には同じように全身がボロボロになっている瑞鶴が道端に座り込んでおり、何も乗っていないボロ布を握りしめながら、
鬼島が静かに近付き彼女の肩に手を置くと、ようやく瑞鶴は鬼島の存在に気が付いたのか、震える身体を無理やり立たせ、鬼島に敬礼を向ける。
「しょ、翔鶴、翔鶴ねえ……翔鶴型、一番艦は…………あの、う、うっうっ…………あっ、あ、あ、あああああああ、さ、さっき、さっき、まで、寝て、寝てて、で、でも、か、からだが……ひかって……」
「…………健闘虚しく、轟沈しました」
「……そうか」
赤くなった瞳から涙を溢れさせる瑞鶴の、言葉にならない言葉。
瑞鶴の言葉を引き受けた加賀であったが、加賀の一言に瑞鶴は身体を震わせ、その場にへたり込んでしまう。そして、紅く、黒く汚れたボロ布になってしまったそれを大事そうに胸に抱きながら、再び声を上げ、涙を流し続けるのであった。
「……二番艦は任せた」
鬼島は静かに言葉を作ると、入渠施設の方へ足を向かわせる。
加賀は鬼島に一礼し、すぐさま瑞鶴に身体を寄せる。胸を貸し、背中を抱く。瑞鶴は赤子の様に声を張り上げる。しかし、その声に反応する者はこの場に誰もいない。誰もが同じ状況であり、誰もが他人に余裕を向ける暇が無かったからである。
数時間前まで共にしていた存在が動かなくなり、残された者は、無念と後悔を口にする。数分おきに、空間に煌びやかな光が踊る。温かい光に反し、それは残酷なカウントダウン。悲痛な叫びが生まれ、喉が潰れそうなほどに名前が呼ばれる。叫ばれる。
しかし、その
四方から起きる悲愴の声。鬼島は無表情に足を進める。
入渠施設への出入り口は人や艦娘の出入りが激しく、辛うじて集められた医療器具や高速修復剤などが雑に置かれていた。
人も、備品も、何もかも足りていないのだろう。飛び交う罵声は、焦りの象徴か。
人の波を避ける事も無く、鬼島は歩く。ベッドに丁重に寝かせられているのは、地位の高い者と、失う訳にはいかない艦娘なのだろう。
「あああああああああああああああああああ!!!!! お、お姉さま………な、何で!!?! も、もっと高速修復剤をもって、持って来ますから!!!」
「……Sorry。…………ワタシの可愛い……Sister……。比叡をお願いネー……」
「…………!!?! き、霧島、は、早く! お姉さまが…………いやっ…………き、きえないで……」
鬼島の足が止まる。しかし、背後に聞こえる悲痛な声に反応したわけでは無い。鬼島の視線はある一点に向けられていた。早足になりそうな己を必死に制していたのか、気を静める為に息を鎮めた鬼島の目の前には、一人の艦娘がベッドに横たわっていた。
「嘘やろ……。何でこないになってんねん……。アンタは横須賀のエースやろ! ウチ、まだ…………色々、た、戦い方とか、ほら! はなし……話、いろいろ聞きたかったのに……!」
横たわる彼女の手を握り、必死に声を掛けている龍驤。彼女は横に立つ鬼島に気付く事も無く、
ベッドの上の艦娘は左半身が赤黒く焼け焦げており、深海棲艦の砲撃が直撃してしまった事実を物語っている。一切の反応を見せない。辛うじて呼吸はしているのか、口元から僅かな息遣いだけが聞こえている。
しかし、それも徐々に間隔が広がり、弱弱しくなっている。既に、時間の問題なのだろうと、誰もがそう思える状態であった。
「…………お、おい! おっさん! アンタも提督なら、大鷹の損失がどないな意味を持つか知っとるやろ! ぼ、ぼやぼやしてんと高速修復剤なりなんなり持って来んかい!」
その存在に気付いた龍驤が、怒りと焦りの目線を鬼島に向ける。隣に立っている男が大鷹の現状に対して何も出来ない事を頭の底ではしっかりと理解はしていた。しかし、焦りが苛立ちを生み、その苛立ちは抑える事が難しい感情のようで、鬼島は運悪く彼女に絡まれてしまったのだ。
「……春日丸」
鬼島の言葉に、龍驤は怪訝な顔をする。
龍驤の頭に浮かぶのは、戦場の惨状に混乱し、艦娘を見捨て我先に逃げて行った提督や海兵隊員の姿であった。龍驤は目の前の男を彼らと同質だと見限った。そして、艦娘の名前も覚えられない素人提督、見当違いの言葉を発する邪魔な男を退散させるべく、大声で怒鳴りつけようと空気を吸いこんだ。
しかし、龍驤が慌てた様に大鷹の方に顔を向けた。龍驤が握っている彼女の右手が弱弱しく動いており、瞼が微かに開いたのだ。
「た、大、大鷹! わ、わかるか、分かるかウチの……」
「………ま…………………て……………く……」
大鷹の両目が鬼島の瞳を見据え、口を微かに動かす。弱弱しいそれは空気を震わせる事も出来ず、音を作る前に空中で霧散していってしまった。
彼女はそれでも構わないのだろう。
辛うじて大鷹の目尻が下がったような動きを見せる。それは非常に小さな動きで、彼女の顔を見つめていないと見逃す程度の動きであった。
「………………」
鬼島が静かに大鷹に近付き、彼女の目元に右手を重ねる。
数秒の後、鬼島が手を離すと、そこには安らかに目を瞑った大鷹の顔があり、そして、彼女の呼吸は完全に止まっていた。キラキラと身体から粒子が生まれる。それを見た龍驤は慌てた様に身体を揺らすが、大鷹は動かない。もう、動かない。
鬼島はそんな彼女に背を向け、出入り口へと向かう。
徐々に距離が開いていくのだが、鬼島の耳には龍驤の悲しみの
鬼島は
鬼島稔は動じない。それ故に、鬼島稔は静かに歩き続けるのであった。
◇
鬼島が九四式六輪自動貨車の運転席に乗り込むと、加賀と瑞鶴も黙って座席に座る。車を動かそうとアクセルに足を掛けた瞬間、慌てたような声が鬼島の耳に届き、助手席の扉が叩かれる。
「き、鬼島君! 来ていたのか! そ、それで、なんだ! 君は横須賀を手助けしに来たわけだろう!!?!」
鬼島が露骨に嫌そうな顔をする。
しかし相手は上官であり、無視して車を走らせる事など不可能になっていた。淡々と車から降りた鬼島に続き、加賀と瑞鶴も男の前に並ぶように立つ。瑞鶴の目は相変わらず赤かったが、その瞳には力が宿っており、何らかの決意が感じられる。
「い、今! 鎮守府を指揮できる提督がいないんだ! 今までの提督は死んだ! 補佐役も死んだ! 残りは予備生と見習いのガキしかいないんだ! しかし、鬼島君がいれば……!」
鬼島の存在に勇気づけられたのか、男の語気が強まる。そして、現状の横須賀鎮守府にとって鬼島稔は深海棲艦に対抗できる唯一の存在であった。
口には出さないが、男は鬼島を逃がすつもりを
「……私は舞鶴の提督です」
鬼島の一言に、男の顔が強張る。しかし、言っている事は実に正しく、鬼島は本来すぐにでも舞鶴に戻らなくてはいけない人間だった。
そして、鬼島稔は即座に舞鶴鎮守府に戻る必要があると考えていた。
鬼島は既に秘書艦である加賀から今回の騒動の概要をある程度聞いていたのだ。
その中でも、加賀が説明した『原因は不明ですが、深海棲艦は途端に海中に帰ってしまった』と言う言葉に特に危機感を抱いたのであった。
深海棲艦と敵対している鎮守府があと一歩で完全に潰せる事を考えれば、わざわざ深海棲艦が手を引く理由が無い。油断や慢心をしているとも思えない。遊んでいるのならば、水平線を埋め尽くしかねない集団で攻め込む必要も無い。
そして、鬼島は深海棲艦の思考を読み切った。深海棲艦の次の一手が、西側の海域を攻め込む事であろうと、考えたのである。
それは正しかった。深海棲艦はわざと大量の怪我人を残し、退却した。それは、物資を消費させる為の行動であった。深海棲艦は本気で日本国を潰しに来ていた。東の海域での襲撃の次は、西の海域の襲撃を予定していたのだ。
横須賀の崩壊で疲弊しきった大本営に、そのような冷静な判断を下せる人間はいなかった。単に『運が良かった』の一言で終え、海軍の体裁を保つ為に、横須賀鎮守府の復興を最優先と考えていたのだった。
家柄やコネクションで上層部に入り込んだ人間は、無能だらけであった。己の地位や財産や
「…………そうだな。君は、舞鶴の人間だ…………。帰還を許す。…………しかし、秘書艦はこちらに渡してもらうよ」
拒否権の無い、命令であった。
鬼島の顔が歪むがどうにか一瞬で無表情に戻り、いつも通りの淡々とした態度を崩さない。
「横須賀の中心だった金剛型の内、二人が轟沈。龍驤は小破だが、北上と大井は共に大破。大鷹も…………轟沈した。つまり、提督だけでは無い。力のある艦娘も残っていないんだ。そこら辺の雑兵で数合わせをするわけにもいかん。加賀……瑞鶴……。長年、君の下で働いていたんだ。君のやり方を熟知しているはずだろう。彼女達なら、横須賀鎮守府を立て直す立派な戦力になり得る。そう思わんかね?」
「…………仰る通りです」
鬼島の返事に気を良くしたのか、男は加賀と瑞鶴の身体を引き寄せ、己の背後に置く。
加賀も瑞鶴も申し訳なさそうな顔をするのだが、立場的に発言を許されていない二人が声を出す事は出来ない。
鬼島は即座に理解する。これは交換条件なのだな、と。
そして、それを飲む事しか選択肢が無いのだという事も。
「加賀型一番艦、翔鶴型二番艦…………。私の名に相応しい成果を期待している」
鬼島が男に一礼すると、男は満足そうな顔をした後、崩壊した横須賀鎮守府の方へ歩いて行った。鬼島は知っていた。男が艦隊として艦娘を編成するのではなく、己の護衛として利用するつもりである事を。
鬼島は静かに九四式六輪自動貨車に乗り込むと、背後を確認する事も無く車を走らせた。その内心に働きかけるは、どのような情念だったのだろうか。
鬼島の顔に浮かぶ表情からは、やはり感情を読み取る事が出来なかった。
◇
舞鶴鎮守府に急ぎ戻った鬼島は食堂に全艦娘を招集し、近々、西日本海域でも同じような惨状が起きる可能性を告げた。
「翔鶴……。アイツを弔うにも、舞鶴の防衛に成功してからって事だな」
「…………加賀と瑞鶴がこの場に居ないのが、な。いや、提督を責めているわけでは無い。しかし、この戦力でどうにか…………。横須賀鎮守府を葬り去った深海棲艦の集団に、勝てるのか……?」
重苦しい空気を代えようと、天龍と長門が気丈に振る舞う。しかし、口にするのはどうしてもこれから起きる戦場の事になってしまう。駆逐艦の皆は脳裏に浮かぶ凄惨な状況に身体を震えさせ、鳳翔も不安そうな面持ちで鬼島を見つめていた。
「加賀型と翔鶴型については私の力不足だ。すまない。しかし、私は負け戦をする趣味も無い。指示通りに動け、必ず栄光を
鬼島の確固たる発言に、僅かながらに希望の色が浮かぶ。
彼女達は知っている。提督が言葉を
艦娘を残して食堂を後にした鬼島はすぐさま執務室へ篭る。時間は有限であり、手を尽くすべきは今である。執務机に広げた白紙にはすぐさま鬼島の手によって細かい図や文章で埋まり始める。
書類棚から取り出したファイルには数年間の天候や海流のデータが残されていた。失敗は許されない。鬼島稔が活路を見出せなかった瞬間、舞鶴鎮守府は瓦礫と化し、日本国土はその名を世界地図から消される事になってしまう。そんな事は想像に難くない。
「……舞鶴の鬼島だ。急ぎ、燃料と弾薬。高速修復剤の余剰を………………何? いや、横須賀では無い。舞鶴に…………そうか」
無線電信を手に取った鬼島が、忌々し気に口元を歪める。そして再び、鎮守府に無線を飛ばす。しかし、その口ぶりは重く、冴えない。
諦めず、事業所に連絡する。近隣の事業所は一つや二つでは無い。僅かでも資材や物資が届けば、戦況の不利を打開する足掛かりとなるのだ。
「…………そうか。無理を言ってすまない」
鬼島が無線の電源を切ると同時に、鬼島は目の前の無線電信を壁に叩きつけた。ガシャリと音を立て、無残にも形を崩したそれは、もう使い物にならないだろう。
その時、扉がガチャリと開く。おずおずと顔を覗かせたのは、睦月型駆逐艦であった。
「……一番艦と二番艦か。手短に話せ」
「いえ、あの、前を通ったら激しい物音がしたので……心配で……」
鬼島は自嘲した。他人に心配されるなど、自分も地に落ちたものだな、と。
「……役目を伝える。即座に一番艦と二番艦は近隣の事業所を回り、資材を求めよ」
鬼島の口調は平然としている。
しかし、だからと言って安心できるほど睦月も如月も純粋では無かった。鬼島がひた隠しにしている内情を感じ取ったのか、敬礼を返し、その場から走り去っていく。
静かになった執務室にて、鬼島は目を瞑り、国内の惨状を
未だに一日しか経っていないのだが、まるで世紀末のようである。先ほどの通信に出た提督や連絡兵も、口調が乱れており、ハイになっていた。その背後からは微かに悲鳴のようなものや何かが壊れる音が聞こえており、規律も規範も失われつつある事を感じた。
勿論、そんな輩は一部なのだろう。しかし、それは伝染する。人格と言う名の理性が崩壊すれば、その見苦しい本性を
鬼島は目を開けると、再び机上の作戦命令書に手を加える。
カリカリと文字を書き記すその音は永遠にも感じられ、そして、開戦の時が上がるまで、鬼島のその手が止まる事は無かったのであった。
◇
突如、西海域に現れた深海棲艦の大群に対し、舞鶴鎮守府の対応は冷静で迅速であった。
艦娘では無く鎮守府や日本国土そのものを狙う事が深海棲艦の作戦であるのならば、艦娘が果敢に攻め込んだ所で彼女達の被害は最小限にまで抑えられると鬼島は考えたのだ。
そして、その考えは功を奏した。
どっちつかずな距離を保つ事よりも、開き直って深海棲艦に近接した方が爆発や崩壊に巻き込まれる事が少なく、落ち着いて隊列を維持出来たのだ。
そして、深海棲艦は同士討ちを躊躇わなかった。知性があるのは一部の深海棲艦なのだろう。対象に目を向ければ、その背後に仲間がいようがいまいがお構いなしに攻撃を仕掛けてくる。つまり、水平線まで埋め尽くされた深海棲艦の圧にさえ気圧されなければ、数的不利に陥っている艦娘にも、反撃の機会はたびたび訪れてくるのであった。
しかし、やはり多勢に無勢。彼女達は少しずつ追い詰められていく。それでも鬼島の作戦を信じ、身体が傷つこうとも、目の前が赤く染まろうとも、艤装が壊れ煙が噴き出ても、瞳に宿った力強さは決して失われる事も無く、無限に感じる地獄の様相に、最後まで対抗し続けたのであった。
日本国の最終防衛ラインを守り続けたこの戦いを知る者は、誰もいなかった。
誰もが日本国に迫る危機から目を背けようとしていた。崩壊した横浜鎮守府に多大なる期待を寄せていた大本営陸海軍部は、壊れたラジオのように「横須賀鎮守府を復興せよ」と繰り返し、他の事から目を逸らし続けていた。
その壊れたラジオを目の当たりにし、国民は失望感を隠す事を止め、軍関係者は今までの不満を爆発させるように、
誰の応援も無い冷たい海上を、称えられる事も無く、命を賭して、走る。
長門、天龍、鳳翔の三人が死に物狂いで躍動し、咆哮する。
その咆哮に背中を押された駆逐艦が、必死に敵に食らいつき、離さない。
そんな駆逐艦の奮闘を目にした三人は、更に士気を高める。
提督に恵まれ、仲間に恵まれた彼女達の生涯は、決して悔いの残らない人生だっただろう。しかし、仲間達と満たされた未来を歩んでも許されるのではないか。艦娘は、戦うだけが脳ではないのだ。彼女達には一人一人の人格があり、幸福を願うのも当然なのである。
平和な未来を夢見、その為に傷つき、血を流し、それでも鼓舞し合い、僅かな奇跡に手を届かせるように、その両手を必死に伸ばしていくのだろう。
戦闘が始まって既にどれくらいが経ったのだろうか。
海上は黒煙に満たされており、硝煙と油の入り混じった匂いが充満していた。しかし、先ほどまでの轟音は既に鳴りを潜めており、ただ自然に生まれる身近な音だけが、辺りを支配していた。
埠頭にて倒れている艦娘は満身創痍ではあるが、深い息を吐いている。仲間達と肩を組み、互いを支える様に重なり合い、過酷な一仕事を終えた後の充足感とアドレナリンの残る高揚感に身を沈めている。
健闘の結果、鬼島稔が率いた舞鶴鎮守府は、無数の深海棲艦を退ける事に成功したのであった。勿論、無傷なわけでは無い。舞鶴鎮守府の門柱はボロボロに崩れ、敷地内の地面は抉れている。壊れた艤装が転がり、損耗の激しさを隠さない。
一人、また一人と海上から艦娘たちが戻ってくる。
彼女達は命を懸けた。その名の通り、自らの命と引き換えに、敵大将首を落とした艦娘もいた。それでも彼女達に悔いは無かった。命を対価に日本国を守る。艦娘人生に悔い無しであろう。
そして、誰一人知る事も無い孤独の戦いは、舞鶴鎮守府の勝利と言う形で幕を落とした。
稀代の天才、鬼島稔はその戦果に満足し、艦娘たちを称賛する。
そして、この日を境に舞鶴鎮守府の幸せな日常は幕を閉じるのであった。
ここから先の惨状は、誰も口にする事が出来ない。否、惨状だと気付く事が出来ない。作られた幻想に導かれるように、彼女達は幸せな未来を信じ、成果を求め続けたのであった。
異変に気付かれるまでの三年間。精神を溶かす様な甘美な世界が、そこには広がっていた。
鬼島稔は天才だった。
それ故に。
ver1.01 2019/08/21