惻隠の情 作:坂口
水平線に陽の色が輝き始め、青白い空から吹く風が、開かれた窓から食堂の中を通り過ぎる。
透き通るような空気を身体に循環させ、思考を研ぎ澄ませた伊丹の目の前には、舞鶴所属の艦娘が食堂のテーブルに着座していた。
鎮守府の食堂は、広い。
二十人は揃って食事が出来るテーブルが悠々と三脚並んでいるが、必要となれば、もう数脚ほど設置が出来そうである。
出入り口に一番近い席に岩井と鬼島が座っており、吉田と鳴本は厨房の方にて何やら作業をしていた。
早朝、艦娘達は壇上に立つ伊丹に視線を向かわせているが、内情、混乱は必至であった。
例えば長門。彼女は未だに何が起きるのか把握しておらず、不安そうな素振りで周囲を横目でチラチラと伺っている。
元帥である伊丹と、大本営陸海軍部に任命されている四人の提督、全員の姿が舞鶴鎮守府に集められているのだ。それも当然であろう。
憮然とした表情を隠そうともしないのは、雷と電である。
誰よりも早く、陽が昇る前から出撃を行う予定であった二人。しかし、艤装の手入れをする為に工廠へ向かった所、そこで待ち構えていた龍驤に捕まり、半強制的に食堂へ行く事を命じられたのであった。
ちなみに、埠頭では金剛が見張っており、演習場にはあきつ丸が待機していた。
長門、雷、電、響、睦月、如月、皐月、文月。
龍驤と金剛も食堂に姿を現し、最期に天龍と共にあきつ丸が食堂に入った所で、伊丹が静かに声を上げる。
「全員揃ったな。…………大本営からの正式な形での視察では無い事を予め伝えておこう。その為、楽にしてくれ。朝食を摂りながらで結構。吉田君」
発言しながら、食堂に渦巻く不穏な空気を伊丹は無視する事が出来なかった。
食堂を一望できる場所にいるからこそ分かる、舞鶴鎮守府の
食堂のテーブルに座っている艦娘。暁型の三人は別であるが、彼女達は皆、ばらばらに座っており、互いに目も合わせようとしていなかったのだ。
特に、睦月型は
離れた場所に着席している長門は何かに怯える様に小さくなっており、天龍も堂々としているように見えるのだが、それも虚勢なのだろうと簡単に見抜けてしまう。
伊丹の声に反応し、厨房から食堂に出てきた吉田が、艦娘の前にパンとスープを配膳し始める。
パンは食堂の屋外にある石窯を使って焼かれた物であったが、せっかくの石窯、どれくらい放置されていたのか荒れ放題になっており、吉田が涙目になりながら整備を鳴本に頼み、なんとか朝食に間に合わせた事を、当事者以外は
出来たての
岩井が大口を開け、数口で食べ終えたのだが、静かに頷き、その風味に満足しているようであった。
しかし、艦娘達の反応は薄い。ボソボソと千切りながら食べるそれに笑顔は浮かばず、単なる栄養摂取とも言わんばかりの、何とも味気ない食事の風景であった。皆が俯き、皆が食事に集中する。カチャカチャと食器のぶつかる音が辛うじて響く食堂。その様子を伊丹と大和は、酷く悲しそうな目で見つめているのであった。
◇
「…………では、今日の予定を伝えさせてもらおうかの。…………ああ、手は止めなくて結構。食事は続けて」
雷がスープのおかわりを所望する。
吉田は笑顔でお椀にスープを注ぐのだが、雷の反応は薄い。
「皆、申し訳ないが本日の出撃は全てキャンセルしてもらいたい」
伊丹の言葉に艦娘の動きがピタリと止まった。
舞鶴所属の艦娘にとって、何より重視すべきは資材の確保である。その職務を取り上げられた彼女達は、一体何が出来るのであろうか。
艦娘は上官に逆らわない。不満を漏らさない。
しかし、上目遣いで伊丹を見る彼女達の視線は力強く、まるで彼女達の無言の抵抗のようであった。
「…………大本営へ、舞鶴鎮守府の現状が
伊丹の嘘であった。
これは、舞鶴鎮守府の様子を一見し、過酷な状況に陥っている事を瞬時に理解した伊丹が、彼女達の仲間の行動によって状況が打開されるという形を取る事で、艦娘達を良い方向へ団結させようとしたのであった。
俗に言うブラック鎮守府、ブラック事業所。疲弊した艦娘達はネガティブな心理状況に陥りやすく、他人に対し、疑心暗鬼になってしまうものである。それを解消する為に、同所属の艦娘の勇気が必要なのである。仲間の告発文書によって状況が打開されれば、互いが仲間だという事に気付く事が出来、円満に解決する場合が多かった為だ。
しかし、伊丹は読み違っていた。
故に、この一手が新たな火種を生む事に、気付く事が出来なかった。
「天龍さん! 私達には休んでる暇がないのに、何でこんな事するんですか!」
睦月が立ち上がり、天龍に対して怒りの形相を向ける。
「オ、オレは知らねぇよ…………!」
「…………ボクも天龍さんだと思うなぁ。遠征の度にボク達に変な事を吹き込んでたからさぁ。それか、こっそり陸奥さんと文通してた長門さんが怪しいね」
「わ、私は一番艦だ! 陸奥に弱音なぞ吐かん!」
皐月が静かに同調する。濡れ衣を着せられた天龍と長門は心細そうに視線を彷徨わせ、必死に否定の言葉を並べている。
「じゃあ誰なのよ……。資材が集まらないからって、私達の足を引っ張らないでほしいわ!」
「何で私を見ながら言うの? ……案外、素知らぬ顔の姉妹艦なんじゃないの? ほら、暁ちゃんも長門さんに殺されたし、もう嫌になったんじゃない?」
「暁は海中で一休みしてるだけって言ってるじゃない!!!!」
勝気な態度で睦月に絡んだ雷ではあったが、睦月の返答に自制が効かなくなったようである。
彼女は椅子を蹴散らす様に睦月の元へと走り寄ると、そのまま睦月を押し倒し、馬乗りの形のなるのであった。
睦月の手の中にあった椀が宙を舞い、二人の身体を汚す。しかし、二人とも気にしない。雷は獰猛な顔付きで、睦月の首元を締め付けるのであった。
「そこまでだ」
誰よりも早く動いたのは、鬼島であった。すぐさま雷の首元を掴み、睦月から引き離す。
この状況に、荒事には慣れている岩井も、伊丹の護衛である大和も、鳴本も吉田も、誰も身体を動かす事が出来なかった。
伊丹は己の失言に気付き、静かに口元を歪ませた。
舞鶴鎮守府の艦娘達は、誰も救済を求めていないのである。必要なのは、仲間だけであり、仲間を建造するための、資材だけであった。
鬼島の顔を見て冷静さを取り戻したのか、雷はポロポロと涙を流しながら、鬼島に懇願する。
「ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったの。電も響も…………」
「気にするな。…………元帥を前にして、感情が高ぶっていたのだろう。この件について
鬼島の言葉で、少しずつ食堂の雰囲気が和らいでいく。
響と文月が乱れたテーブルを整え、睦月が喉元を抑えながら、静かに椅子に座った。
「…………鬼島提督、宜しいでしょうか?」
壇上にて伊丹の背後に控えていた大和が、静かに挙手をする。
そして、鬼島の視線が大和の姿を射抜いた時、静かに大和が口を開いた。
「資材や物資の在庫状況なんですが、そもそも。そもそもの前提として、今まで備蓄されていた資材はどこに消えたのでしょうか? 数年前まではある程度の貯蔵が確認されていましたが、突然、余剰分も含め残量がゼロになり、それが現状に繋がっているのであれば…………」
大和の疑問に、伊丹と岩井の顔に顔色が戻ってくる。
そして、唯一の勝機であろうこの質問を、大和は徹底的に追及する気であった。
大和は昨晩の間に、執務室にて揃えられていた日報や月報の写しを全て頭に叩き込んでいた。
鬼島の性格から、資材や備品の類が計算違いで差異が出る事など有り得ないと知っている。
故に、横領や横流しをしていない限り、舞鶴鎮守府の備品は本来もっと潤沢になっていて然るべきだと、大和は確信していたのであった。
鬼島にとって、その質問は厳しくもなんともない。単なる遊戯であった。
そして、鬼島は大本営陸海軍部に対し、『その時』の報告を一切していなかった。
鬼島は大乱後、完全に大本営を見限っていた。
故に、報告するはずがない。
しかし、この状況にて、大和が何の疑問も持たずに鬼島に問い掛けるのであれば、鬼島は正直に全てをぶちまける、器の大きい人間であった。
「それなら、なんで三年前、電達に何の支援もしてくれなかったんですか……?」
鬼島が答えるよりも先に、小さい声が食堂に響いた。
伊丹、岩井、吉田、大和、あきつ丸、龍驤、金剛の頭に共通して浮かんだ
「…………こいつらは、大本営の人間は、舞鶴の事情に一切の興味も持つ気が無いようだぞ」
鬼島がククク、と、静かな笑いをこぼしながら、軍服の胸元に手を入れる。
そして、内ポケットに用意していたのか、数枚の書類を、伊丹に向かって投げつける。鬼島の横柄な態度を見、岩井の顔に怒りが浮かぶのだが、ハラハラと目の前に落ちるそれを静かに拾い上げ、伊丹に手渡そうとする。その時、書類の内容が、書類に書かれた舞鶴鎮守府の歴史が、岩井の目に入ってしまった。
「…………!?!! 嘘だろ!!?! いや、こ、こんなの
「何で嘘って決めつけるのよ?! それなら…………私達の頑張りは…………鳳翔さん達の頑張りが、無駄になるって事じゃない! そんなの、酷過ぎるわよ!」
雷の声に、場が静まる。慌てた様に岩井から受け取ったそれを伊丹が早目で読み急ぐと、そこには大本営にも伝わってない、大きな史実が書き留められていた。
「三年前、私は大本営にそれを提出し、支援を要請した。しかし、鎮守府にも優先順序はあったのだな。崩壊した横須賀の再建が最優先され、舞鶴には……。舞鶴所属の彼女達には、何の
鬼島は提出をしていない。嘘である。
しかし、伊丹も大和も、その嘘を見破る事は完全に不可能であった。
事実、三年前の大本営は連絡中枢が完全に混乱しており、鎮守府から届けられる日報など、尻を拭く紙にもならぬと、目も通されず追いやられ、暖を取る為の薪替わりに燃やされていたのだから。
「………………」
既に、伊丹の顔は青白く、病人の様になっていた。
当時の伊丹は大将であり、さほど権力を持ち得ていなかった。しかし、それが言い訳になる状況では無かった。過去はどうであれ、現在まで舞鶴鎮守府を見逃していたのは、紛れも無い事実である。不手際により、艦娘達を苦しめていたのは、他でもない、大本営陸海軍部だったのである。
「全て事実だ。それを踏まえた上で、彼女達の面談を頼む。…………伊丹元帥。執務室にて待っています。二人だけで話すべき内容も、少なからずあるはずでしょう」
食堂の中を吹き通る風は、艦娘達の熱を冷ますと同時に、何も知らない彼らの背筋に冷たい空気を感じさせる。
今まで目の届いていなかった鎮守府に渦巻いている感情は、希望だろうか。
それとも、果てしない絶望か。