惻隠の情 作:坂口
月色が
門を抜けた後、静かに減速し停車したそれは
その時、物音に気が付いたのか、鎮守府内から一人の艦娘が現れる。腕を組んだ彼女は上半身に黒のインナーを
彼女は客人を迎え入れる様子を見せない。
◇
「日向。出迎えありがとう。私がいない間、問題は無かったか?」
提督である鳴本が素早く車内から降り、早足に彼女の方へ向かった。
しかし、彼女へ近付くにつれ、徐々に複雑な感情が入り混じった表情へと変わっていく。
「遅かったな。フタサンマルマルだ。皆、もう寝たぞ」
「…………日向、君も聞き飽きたと思うが、その格好は……。元帥や
「なに、気にするな。夜風が心地良いぞ。久しいな伊丹元帥。君も
「なっ、日向! 貴様! 伊丹元帥にどのような口を!」
鳴本に続くように、伊丹と大和。岩井、鬼島などが姿を見せる。
日向の
「加賀から伝言を頼まれている。大本営からの資料は執務室にある。夜食は食堂だ。私は入渠施設の準備に向かう」
片手を振りながら、日向が入れ替わるように外へと出て行った。
日向とすれ違った吉田、金剛、あきつ丸の三人はその姿に目を丸くし、龍驤は諦めたかの様に溜息をつくのだった。
その時、日向が立ち止まる。そして、皆の方に振り返り、一言。
「ああ、忘れていた。食堂に無口なお友達が待っているぞ。彼は面白いな」
それだけを告げると日向は、一人静かに、入渠施設へと向かうのであった。
◇
「心より御待ちしておりました伊丹元帥。そして、岩井厳双殿。元帥の
テーブルを挟み、長旅にて心身ともに疲労の色を隠しきれない伊丹の目の前に立つは、海兵隊服を身にした一人の男であった。
伊丹が食堂へ到着した瞬間から凛とした姿勢にて敬礼を始めた男からは、溢れんばかりの感謝の
伊丹は既に疲れ果てていた。
単なる運び屋かと思われた目の前の男は、妖精が見え、港湾棲姫と共に過ごしていた。
そして、舞鶴の問題もあった。今まで気付かなかった舞鶴の闇は既に安易に解決できる案件では無くなっている。しかし、鬼島の説得と確保で、ようやく収拾の目途が立ったのだ。
食堂のテーブルには間宮が作ったであろう軽食が置かれている。それを今すぐに温め、空になった胃袋に詰め込みたいと伊丹は考えていた。しかし、目の前の男がそれを許さない。目の前の男にとって、伊丹や岩井が
長々と発せられる言葉は、既に伊丹の大脳に届いていなかった。伊丹の精神は、食や睡眠を心から欲していたのだった。
「――――昼夜、牢獄にて私は己の罪を
「何十分と話せば気が済むんや!」
龍驤の怒りがついにその行動に現れた。食堂のテーブルを思い切り男の方へ押しやると、男は「グフッ」っと口から空気を漏らし、そのまま崩れ落ちた。男の演説に
伊丹が、岩井が、鳴本が、吉田が、金剛が、あきつ丸が、龍驤のツッコミを心の中で称えた。
大和は既に執務室へ向かっており、この場にはいない。
鬼島は一人面白いモノを見るかのように口元に手を寄せ、苦笑を堪えていた。
「こっちは腹が減っとるんや! 何でよう知らんアンタの意味不明な話を延々と聞かへんといけへんのや! 拷問か!」
まさしく拷問であった。
腹部を抑えながら立ち上がり、龍驤を恨めしそうな目で見据える海兵隊服の男。
再び口を開こうとした瞬間、
「おい。
「岩井少将殿の歴戦の逸話は、陸軍のみならず海軍にも広まっておりました。故に、私は岩井少将をお慕いしておりました。貴殿の勇猛さは若輩な私にも見習う点が多々あり、日本国に和平を導くは、岩井少将のような……」
「貴様!
「い、岩井君。飲酒は控えようじゃないか。
伊丹の言葉に、食堂に緊張が走る。
しかし、当の本人である鬼島に動揺の色は全く見られなかった。
「私に腹ごなしは必要ないのだが……。まあ、良いだろう」
伊丹と岩井の様子から既に自由行動が始まっているのだと悟った鬼島は、軽食を手に取り、集団から少し離れた席に着席した。
鬼島に続くように、吉田と金剛が厨房へ移動し、紅茶の用意を始める。あきつ丸は岩井の横に座り、
岩井が愉快そうに笑いながらそれを飲み、男と談笑を始める。
「……いつもの事だが、切り替えが早くてな」
「それが皆の良い所なのでは」
伊丹の苦笑に、鳴本が笑いながら答える。
彼らの小規模な食事会は執務室に居た大和が伊丹を呼びに来るまで続いた。岩井とあきつ丸、いつの間にか混ざっていた日向はアルコールによって正気を失い、男の演説を喜んで聞いていた。そして、金剛と吉田は横須賀鎮守府の品揃えの良さからか、勝手に小規模なお茶会を開催していた。
「…………貴方達! 何時だと思っているんですか!!?! 伊丹元帥の話を聞いていなかったのですか!!?!」
惨状に対し、真面目な
興奮しているのか、顔が赤くなり、大和の口角から唾が飛ぶ。
大和の怒りは伊丹が
金剛の後ろ姿を恨めしそうに見る大和の表情は般若も同然であった。そんな大和の
◇
「立派な廊下だな。この調子なら、客間も豪勢なのだろう」
鬼島の言葉に苦笑を浮かべる鳴本。
しかし、鬼島の一言を単なる皮肉と捕らえて良いモノなのだろうか。入浴を終えたにも関わらず、伊丹の額には冷汗が流れ、背筋が冷える思いを感じてしまっていた。
長い廊下を歩き、客間へ向かう伊丹、岩井、鳴本、吉田、大和、あきつ丸、金剛。
そして海兵隊服の男。
龍驤は艦娘寮に向かい、日向は夜の巡回を続けるのであった。
八人となる大所帯。時間も時間であり、静かにしようとも、物音は重なる。
その時、通りがかった客間の一つが静かに開き、隙間からギョロリと赤い眼が光る。
暗闇から覗くそれはギラギラと
その姿を見た吉田は驚き、鳴本の腕に抱き着く。金剛が冷酷な表情で艤装を展開させ、大和が即座に伊丹の前に出る。
「ああ、騒がしかったか。すまない」
「…………ネムイ」
敵意こそ感じられたそれだったが、男の声に反応すると、徐々に穏やかな雰囲気に変貌していく。
大和は驚愕の瞳で男を見やり、伊丹と鳴本は納得したかのように頷く。
岩井とあきつ丸は酔っぱらっており、金剛は不満そうに艤装を解除する。
男は静かに港湾棲姫に近付くと、手を伸ばし、頬を撫でる。
港湾棲姫はくすぐったそうに身を
「イイニオイ、スル」
「…………ああ、少し、飲んだからかな」
男が己の口臭を確かめる様に、掌に息を吐く。
しかし、そんな事もお構いなしに、港湾棲姫がペロペロと男の口元を舐め始めた。
「…………!!?! ちょ、ちょっ!!?!」
吉田が顔を赤くしながら、咄嗟に鳴本の顔を両手で覆う。本来は逆なのであろうが、混乱した吉田には、もう、良く分かっていなかった。
「刺激的デース………………。英国でもそんな事しないデース……。とんでもないBurning Loveデース……」
「んんっ! ま、まあ、海軍に恋愛禁止などと言う規則もない。だが、人前でそのような……」
「……伊丹元帥。岩井少将。誠に申し訳ございません。私の様な若輩が上官よりも先に休息を取るなどと、言語道断ではありますが…………」
「いや、許す。許す。本日は御苦労であった。明朝にて、君には連絡事項を告げる。マルゴーマルマルに食堂へ来たまえ。港湾棲姫も連れてな」
「はっ! 畏まりました! それでは明朝。
「いや、良いから。それよりも目の毒だから」
伊丹に対して敬礼をする男の後頭部を、港湾棲姫がクンクンと匂いを嗅いでいた。
完全に寝ぼけているのだろうか。港湾棲姫は次の瞬間、男の頭をガブガブと噛み始めた。しかし、男が気にする様子も無い。単なる甘噛み、愛情表現なのだろうか。
伊丹の承諾を得た男は、静かに客間へ入ろうとする。しかし、港湾棲姫に引きずり込まれた。その後、部屋から物音は何もせず、廊下は沈黙に包まれた。
皆の態度は様々であった。溜息をつき、赤らめた顔を背け、今の行動を茫然と見ていた二人。
「若いのが嫌味か! クソが!」とブツブツと愚痴を溢し、ニヤニヤしながらそれを聞いている艦娘もいた。
鳴本の顔は、未だに吉田の両手によって覆われたままであった。
そんな中、一人、何も言わず、
鬼島稔であった。
鬼島は他者の騒動など全く気にする様子も無く、今の光景を何度も繰り返し思い出していた。
そして、忌々し気に口元を歪めると、一人早足になり、静かに客間へと向かうのであった。