惻隠の情   作:坂口

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35話 ショートランド諸島(1)

意識が繋がるのを感じたのか、途端に五感が鮮明になっていくかのように胎動(たいどう)を始める。

一帯に漂う空気の(よど)み具合であろうか。薄闇に横たわっていた鬼島稔はその身を静かに起き上がらせると、その心地の悪さに露悪的(ろあくてき)な表情を浮かべざるを得なかった。

 

生臭く、泥臭い。

あまりにも身近から発せられる強烈な臭いに、鬼島は己の身体が腐り落ち始めているのではないかと全身を確認する。

しかし、幸か不幸か、彼の肢体からは感触が感じられる。だが、鬼島の顔に喜びの色は生まれない。不満げな表情は一片も変わる事が無い。

 

静かに立ち上がり、周囲を伺う。

それにより、己の身が岩床(いわとこ)に横たえられていた事にようやく気付くが、横たえられていたのではなく、単に遺棄(いき)されていた可能性も非常に高いと鬼島は考えた。

そして、雑然と周囲に積み上げられた濁った白い塊は、まるで動物の肉のように見える。もちろん、動物の中には人間も含まれている。鬼島稔が近付き、躊躇(ちゅうちょ)なく肉塊を漁れば、実に見覚えのある動物の指先が岩床(いわとこ)に転がり落ちた。

 

一層、臭いが強まる。

 

鬼島は立ち上がると、己のシャツで乱雑に指先の汚れを(ぬぐ)い取る。

その時、上着がない事に気付いた。軍帽も無ければ眼鏡も無い。鬼島はようやく、己の記憶の辻妻が合わない事に気付き、そして、静かに(わら)う。

 

「…………ニゲヨウトシテモ、ムダ」

 

薄暗い空間が動く。気配が増える。

鬼島がゆっくり背後に視線を巡らすと、微かな薄明かりが洞窟の通路を照らしているのが分かった。自然光の反射によってこの空間を照らしているのだろうか。徐々に視界が明るくなり、焦点が合い始める。鼻に突く異臭によって麻痺したのか、それ以上の悪臭を感じる事も無い。耳鳴りはとうに治まっており、己の目の前に立つその存在が、両の眼を通して脳髄を震わせるのを鬼島は感じていた。

 

「…………オキテ、イルノ?」

 

再び、声が聞こえた。その声は落ち着いており、相手の出方を伺っているようにも見える。

 

「……ここはどこだ」

 

毅然(きぜん)とした声が空間内に響いた。誰の声かと鬼島は周囲を伺うが、誰でもない、己の口から発せられた言葉だとすぐさま理解をした。

己の変わりない音に、情感(じょうかん)が静まっていく事を感じていた。場所がどこであろうが、相手が誰であろうが。己の身が無事であるならば、それ以上に恵まれている事も無いであろう。信ずるのみは己の一心のみであり、外的要素、運の良し悪しなど鬼島にとっては些細な事であった。

 

「アナタ…………」

 

声と同時に、鬼島の身体が声の主によって抱きしめられた。次の瞬間、鬼島稔は勢い良く背後の岩壁に叩き付けられた事を感じた。痛みを伴い、呼吸が一瞬止まる。しかし、致命傷には程遠い。

声の主は鬼島を正面から抑え込み、威嚇するかのように首元を激しく舐めつける。

 

「…………ここは、どこだ」

 

淡々とした感情が、空間を支配していく。

鬼島の口元を目の前の異形の毛髪がくすぐる。互いの身体に流れ落ちる長髪は黒。

刹那、己の喉元から死臭が湧くのを鬼島は嗅ぎ取った。しかし、痛みも流血の気配も無い。相手の口元から発せられる臭いだと判断した鬼島は、取り乱す事も無く、静かに異形の両肩に手を乗せる。そして、恋人同士の抱擁を解くかのように、鬼島稔は淡々と、その身を引き剥がそうとする。

 

「………………」

 

ふわり、と圧が無くなる。

薄闇に眼が慣れたのか、鬼島の視界に目の前の異形の姿が(あらわ)になっていく。

全身を見通せる距離。しかし、それはどう見ても異形では無かった。鬼島稔が対面したのは、全身を黒く染め、長い黒髪を有した発育の良い成人女性。そうとしか見えなかった。

 

「コッチ、キテ」

 

鬼島稔の態度に何か思う事があるのか、又は何も思わないのか、言葉の通りに彼女は来た道を引き返して行った。

何が起きているのか、鬼島稔には理解が及ばない。しかし、この場に留まっていても何も進まないのは確実である。

鬼が出るか蛇が出るか。鬼島は己の両足が滞りなく動く事を確認しながら、静かに目の前の女性の後を追いかけるのであった。

 

 

 

 

狭い洞窟内を少し歩くと、広い空間が鬼島の目の前に広がっていた。

ツンと、嗅ぎ慣れた臭いに気付く。鬼島が横を見るとそこには小さな湖の様な水場が存在しているが、おそらくは流れ込んだ海水なのだろう。その中を見慣れた深海棲艦が悠々と泳いでいた。

 

「オ、オドロカナイカ。サスガダナ」

 

先ほどとは違う、喜の感情が入り混じっている声が鬼島の耳に届けられた。

静かに目線をそちらに向けると、その声の主には覚えがあった。海上にて対面した黒いフードの深海棲艦であった。

ニヤニヤと、吟味する様に視線を向けるその深海棲艦に、鬼島は何も言わない。

 

「フツウハ、ハッキョウ、スルンダケドナ」

「…………モウ、コワレテルンジャナイ?」

 

黒フードの横に、先ほどの女性が立つ。

二人は仲間なのであろうか。深海棲艦であるのならば、脳内に名称が刻まれている可能性は否定できない。鬼島稔は静かに己の記憶を想起(そうき)し、そして、遂にその名を見つけ出した。

 

「…………ル級、か」

 

鬼島の不意の一言に、女性が身体を震わせ、慌てた様に鬼島の顔を見やる。しかし、鬼島はそれ以上口を開かない。

ル級はツカツカと鬼島の方に近付き、その胸倉を掴む。しかし、全く動じない。鬼島の視線は黒フードに向いており、眼前の女性に対して完全なる無視を貫いていた。

 

「話を…………」

「オマエハ、ゴウカク、ナンダゾ」

 

鬼島稔の言葉を(さえぎ)り、黒フードが嬉しそうに笑い声をあげ、隠す気も無いのか、喜色を見せ付ける。そして、次から次へと繰り出されるは、鬼島に対する称賛の言葉であった。

 

『普通の人間は、自分達を見ると一目で発狂する』

『そういう奴らは話にならない。餌として、有効活用させてもらう』

『お前は合格だ。次のテストに進んでもらう』

『出会った時にも言ったが、自分達は人間を探していた。奴らに勝つために『テイトク』と呼ばれる人間が、必要だ』

『お前は『テイトク』か? まあ、どっちでも良い。自分達を指揮しろ。そして、奴らに勝て』

『一回でも負けてみろ。テストは終わりだ。餌にしてやる。殺してやる』

 

要約すると、このような事を黒フードは嬉しそうに繰り返し話していた。

言葉が重なる部分も多く、説明不十分な部分も多々あった。しかし、鬼島は概要(がいよう)を理解し、己に求められている事を即座に把握した。

 

 

 

――――馬鹿げている

 

 

 

それが、鬼島に浮かんだ感情であった。

そして、無性に笑いが止められなくなるのを感じてしまった。口元を抑え、息を飲む。

しかし、耐えられない。

鬼島は二人の深海棲艦を前に、笑った。笑い、嗤い、全てを呪った。

目の前に立つ能天気な顔をした存在が、諸悪の根源であろう事を知った。そして、その中身は随分と足りてない様子であった。少しの言葉を交わしただけで、鬼島は理解した。こんな、どうしようもない稚拙(ちせつ)な存在に対して、日本国はどれだけ苦しめられたのだろうか。

全く、酷すぎる冗談であった。そして、一番の冗談は、このような存在に日本国が押し負けようとしていた現実であった。

 

鬼島は笑う。今までの人生は一体何だったのだろうと再考し、答えの出ない自問自答を繰り返す。

そして、己の言葉が届いたのかと勘違いした黒フードも嗤う。広い空間の中で、異なる存在、異なる狂気が音を出し、混ざり合う。

 

「…………私の指示通りに動け」

 

狂気が頂点に達した瞬間、場の空気が変化した。黒フードはヘラヘラと笑っており、ル級は怪訝そうに鬼島を冷めた目で見ていた。

誰にも届かない声量。身体を折り、(うつむ)いた鬼島の口から零れ堕ちた言葉は、それだった。

そして、ふらふらと、足取り覚束(おぼつか)なく海面に近付いて行く鬼島稔。

深海棲艦が回遊する水溜り。己の存在を確かめるかのように海面を覗けば、只管(ひたすら)に深淵とも感じられる仄暗さが両目に映り込んだ。

水面は暗く濁っており、明るく透けており、鬼島稔の表情を映す事は無かった。

しかし、己の両目と言える部分であろうか。

充血しているのか、(いや)らしく濁った光の中に、一際、爛々(らんらん)と赤く輝く球が発光していた。

 

それを見るや否や、鬼島稔は満足そうに身体を震わせると天を仰ぎ、静かに二人の深海棲艦を見据えるのであった。

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