惻隠の情 作:坂口
息苦しさを感じる。
記憶の中の自分は水中に沈んでいるはずであるが、ここは陸地であり寝室のベッドの上である。そして、意識が
水中の自分はもがいている。崩壊した足場と共に
そう、あの瞬間、死を覚悟した自分の瞳に映った彼女を俺は忘れてはいけない。身を沈める為に艤装を振り払い、人命を助ける為に手を伸ばした彼女と、背後に迫る数多の爆雷を。
現状、彼女は自分を救うべきでは無かったと確信をもって言える。己の快進撃を信じていた、青臭い自分を助けるような正義感の持ち主だ。彼女が傷付かず万全の状態であったならば、横須賀鎮守府は壊滅する事も無く、日本国の戦線も異なったものとなっていたかもしれない。
既に意識は完全に浮上しており、目を開けば未だ薄暗い室内の様子が目に入る。
起床には早すぎる時間帯だろうか。
軽く身を起こし横に視線を向ければ、床には身体を丸め、耳心地の良い寝息を立てている港湾棲姫の姿があった。ベッドの上から彼女の顔を見る事は出来ないが、安らかな寝顔をしているのだろう。
彼女が今まで過ごしてきた環境は、一体どのようなものだったのであろうか。彼女の対敵である艦娘達と生活を共にする事で、互いに何らかの拒否反応が発生しないか
横須賀鎮守府の客室でもそうだったが、彼女はベッドを好まないようである。話を聞いてみれば「グニャグニャシテ、キモチワルイ」らしい。
しかし、
壁際の時計に目を向ければ
眠るにしろ、起きるにしろ、食堂にて喉を潤してから考えても問題は無いだろう。
ベッドから身を降ろし、港湾棲姫を踏まない様に気を付けながら扉を開けば、隣の部屋は執務室である。音を立てないように静かに扉を閉め、一息。
ふと、無意識ながらに視線が執務机の上に向かってしまった。そこには未だに手の付けていない書類が数枚ほど広がっており、早々に片付けねばならない。
一枚手に取る。
必要な記載内容は主に資材の在庫状況であるのだが、少々これには手こずってしまう。
俺は、
もちろん、彼女達の艤装に必要な燃料や弾数の量は知識として知っている
しかし、出撃ごとに満タンに補充しているわけでは無いようで、なるほど、言われてみれば当然の事であった。
長門も燃料は半分しか用いないと言っていた。何の意図があるのかは知らないが、資材は無尽蔵にあるわけでは無い。節約は褒められた事だろう。
睦月型の皆や暁型の三人がどれほどの量を必要としているのかが分からないと、大本営に提出する報告書を完成させる事は難しい。
日々、増減が激しい為、
そのような心意気ではあるのだが、実行するとなると難しい。艦娘寮に向かっていた雷と電に出撃の成果を尋ねたが、素知らぬ顔で素通りされてしまった。上官に対する態度では無い為、
だが、前進していくしかないのだろう。もしかしたら彼女達の態度は、大本営から俺の身分を聞かされているからかもしれないのだ。
今まで前線で日本国の防衛を担っていた彼女達。三年もの間、逃げ惑っていた自分に従うはずもないだろう。
経験も実績も何も積み上げていないのだ。軽んじられるのも、己の身から出た錆としか言いようがない。
ともあれ、陰鬱とした気分に
両足を動かし、廊下へ続く扉を開く。静まった廊下には冷えた空気が流れていた。
◇
食堂にて喉を潤し、薄暗く
どの箇所の電灯も点いていない為、
横須賀鎮守府では作戦会議や夜間海域の防衛の為に、真夜中でも光源が灯っていた。やはり、あれが本来の鎮守府の姿なのだろう。
鎮守府は眠らない。眠ってはいけない。深海棲艦が迫る大海から国民を守れるのは日本海軍だけだろう。前線に座する
現在、海域の防衛は佐世保が担っている。しかし、それを理由に近隣住民に不安を与えるのは軍人として恥でしかない。
物事を考えながら廊下を歩けば、時が経つのは早い。
考える事が多すぎる。眠気は飛び、完全に頭が覚めてしまった。
仕方がない。進まない報告書を相手取るかと執務室の前にてドアノブを握れば、違和感。右手にぬるりとした感触。
手を離し、ドアノブに目を向ければ
しかし、先ほどまで寝ていた港湾棲姫が犯人だとは思えない。ベッドにいない自分を探しに海中に向かうとも思えない。そして、それを済ませるには短時間すぎる。
第三者。所属艦娘の誰かが寝首を
静かに扉を開き、中を覗く。
消していたはずの電灯は光り、部屋の内部は明るい。
ふと、動きを感じる。足元に目を向ければ、三人の妖精が白い布…………雑巾で床を拭いていた。
どうやら室内に続いている水滴を拭き取っているようで、その動きは焦りを帯びて
『いそげー』
『ていとくさんにおこられるー』
『かくせかくせー』
自分の存在に気付いていないのか、脇目もふらずに水気を
だが、彼らが水を垂らした犯人でない事は一目瞭然だった。室内の水滴は寝室に繋がる扉に続いており、そこには見慣れない一人の少女が
否、
見慣れない少女。桃色の頭は正気とは思えない。気狂いなのかと、
目が合う。
こちらが声を掛ける前に振り向いた彼女は、俺の存在に驚いた顔をする。
しかし、またもや寝室を覗き込んだかと思うと、今度は真剣な顔をしながら再び俺の方に顔を向けてきた。
「てーとくさん! ここは危ないよ! ゴーヤがやっつけてくるでち!」
見た目とは異なるハキハキした発声。そんな感想を抱いた俺が止める間も無く、魚雷を両手で抱えた彼女は寝室内部へと入って行ってしまった。
さてさて、どうしたものやら。
ふと足元を見ると、俺の存在に気付いたのか、三人の妖精がこちらに向かって手を振っていた。
その手には雑巾が握られており、まるで白旗を上げているようにも見えて、実に微笑ましい。
◇
暗い寝室を覗き込むと、床に丸まっている港湾棲姫に向かって魚雷を何度も押し付けている彼女の奮闘が目に入った。
「えいえい! ここはお前の寝床じゃ無いでち! 早く海に還るんだよ!」
「……………………ヤメ……ヤメロ……」
港湾棲姫が
しかし、そんな深海棲艦の動きを必死に凝視しながら奮闘する彼女に、何て声を掛ければ良いのか分からない。彼女は国防の為に良く働いてくれている。港湾棲姫が身内になったのは偶然である。初対面の彼女にそれを知る由も無いだろう。
『ああー! だめー!』
『ていとくさんにかいたいされるぞー!』
『やめろーやめろー』
どのように止めようと桃頭を見ながら考えていたら、慌てた様子で妖精達が寝室へ駆け込んでしまった。そして、港湾棲姫の身体の上に登ったと思うと、桃頭の彼女に対して身振り手振りで何かを訴えかけている。
途中、何度か妖精がチラリとこちらを見、つられるように桃頭の彼女もこちらの方に目を向ける。それが何度か繰り返された事で、ようやく妖精の真意に桃頭の彼女は気付いたのか、青白い顔をしながら俺の方へと近寄ってきた。桃頭の彼女だけでは無く、三人の妖精も青白い顔をしているのだが、そんなに俺は怖い顔をしていたのだろうか。鏡が手元に無い為に確認は出来ないのだが、港湾棲姫に攻撃を続ける桃頭の彼女を、そんなに俺は怖い顔をしながら見つめていたのだろうか。
「て、てーとくさん。あのね、深海棲艦が迷い込んでてね。それで、てーとくさんの為にやっつけようとね」
「…………彼女は無害だ」
俺の言葉に桃頭がびくりと身体を震わせ、顔を
怒られたと勘違いし、反省してしまったのだろうか。しかし、彼女の行動は特別に間違った事はしておらず、平時ならばむしろ、勇猛だと褒められている事だろう。
落ち着いてもらう為、静かに彼女の手を引き、執務室のソファへと座らせる。
「………………彼女が怖くなかったのか?」
彼女。港湾棲姫の事を指し示している言葉だと理解したのか、桃頭が口を開く。
「怖くないよ……です。てーとくさんが危ない目に合う方が、ゴーヤはやだから……です」
こちらを伺う様な、怯えた視線で言葉を絞り出す彼女に何と声を掛けるべきなのだろうか。
語尾に申し訳程度にくっつけられる敬語は、使い慣れていない事を表している。そこまで敬われる存在では無いのだが、怯えている艦娘との言葉の交わし方を鳴本雷太にもう少し尋ねておけば良かった。
「ゴーヤ……?」
「…………伊五十八で……す」
「そうか。…………彼女が起きていても、伊五十八は
「あ、当たり前でち! …………です。深海棲艦なんか怖くないです。てーとくさんの為なら、ごー…………わたし、戦います」
言葉の勇ましさとは裏腹に、彼女の顔が曇っている理由が全く分からない。間違った事を言っていないのだからもっと堂々としていてほしいのだが、彼女の気質に関した問題だろうか。
と、机の上に妖精がよじ登っていた事に気付いた。そして、三人が協力する様に手鏡を支えており、その鏡にはどういう意図があるのか、険しい顔をした自分の顔が映されていた。
「…………別に、怒ってないが」
「…………本当ですか?」
「ああ」
「………………」
こちらの反応に困っているのか、伊五十八が黙ってしまった。
それにしても、彼女は勇猛果敢である。
港湾棲姫と対峙した際、
初日、執務室にて会った長門は完全に
明朝、港湾棲姫と対面した所属艦娘達は警戒の視線を向けてはいたが、実際に港湾棲姫が動き出すと誰もが石像の様にその場に固まっていた。そう考えると、眠ってるとはいえ、いきなり魚雷を押し付ける桃頭の彼女は大した艦娘なのではないだろうか。所属が気になるが、その大胆不敵さは、岩井提督の大湊鎮守府と言われても驚きは無い。
「じゃ、じゃあ、ゴーヤって呼んでほしいでち」
「…………分かったでち」
「…………?! 真似しないで欲しいの! もう、てーとくさんったら!」
俺の言葉で、ようやく彼女の表情に安心感と微笑みが戻って来たようである。彼女の微笑みと共に、執務室の空気が和らいでいく気がする。なぜか机の上の妖精達は万歳をしているが、全く意味が分からない。
「てーとくさん、あの深海棲艦はどうしたの? 捕まえたでち?」
「……そんなもんだな」
「?! 凄いでち! そんな凄いてーとくさんとお仕事が出来るなんて、ゴーヤ、感激でち!」
「…………。そうだな、君の所属を聞いておこうと思うのだが。夜中の海は暗い。深海棲艦が原因で海路を見失ったのであれば、近隣の事業所、鎮守府まで君を送る事も……」
「……? ゴーヤはてーとくさんのだよ? てーとくさんのおかげで生まれたんだから、てーとくさんの為に頑張るよ!」
不思議そうな顔をする伊五十八なのだが、そんな顔をしたいのはこっちも同じである。
しかし……ふと、目の前の妖精に目を向ける。そして、己が行った昨日の工程を思い出せば、工廠にて建造を行ってしまった事実を思い出す。
「……そう言う事か?」
『だいせいこうー』
『やったーやったー!』
『せんりょくがふえますねー』
そう言う事らしい。
そして、建造が完了したも関わらず姿を見せない俺の為に妖精が気を利かせたのか、それとも伊五十八が痺れを切らしたのか、どちらかは判断できないが、こうして執務室を訪れたのだろう。
事実、すっかり建造の事など忘れていた。
そもそも、起動させたことは確かだが、それだけである。
用いる資材量を計算する事も無く終わらせた建造に俺の意志は介在していない。資材が元から準備されていたのであれば、本当に建造を求めていた誰かが所属艦娘の中にいたという事だろう。
しかし、その誰かが伊五十八を求めていた理由が分からない。それとも、伊五十八が完成したのは偶然であり、本当は別の誰かを生み出したかったのか?
「あ、そうだ! てーとくさんに渡しておくでち!」
ゴソゴソと伊五十八が懐に手を入れ、こちらに一枚の紙を差し出してくる。
汚れのついた四つ折りの紙であった。
「部屋の前に落ちてたの。大事そうなメモだったから、しっかりゴーヤが拾っておいたよ! 褒めてー」
全く気付かなかった。誰かが扉に挟んでいたのだろうか。食堂に向かう為に扉を開いた際に落ち、そのまま気付かず踏んでしまったのか。汚れをまじまじと見れば、靴底の模様に見えなくも無い。うっかりにもほどがある。
「何の数字なの?」
メモには艦娘の名前が書かれており、その横に様々な数字が並べられていた。
自分に対する悪口などが書かれていれば実に痛快なのだが、そこに書かれていたのは
誰かの落とし物の可能性は無い。律儀に『司令官へ』と一言が添えられている。しかし、これほどに気を利かせてくれる艦娘に心当たりなど全く無く、このメモの意図が不明である。
否、厚意なのだろう。
本来、艦娘が出撃成果を提督に報告するのは当然なのだが、その当然がこの鎮守府では行われていない。そうなると提督としての書類仕事が
「ねぇねぇ、何が書いてあるの? 教えてってばぁ!!!」
「…………完全に目が覚めた。書類を進めるのでゴーヤは軽く眠れば良い。隣のベッドを使え。顔合わせは早朝に行う」
「……分かったでち! 鎮守府の皆になんて挨拶しようかな。考えるのに夢中になって、眠れなくなりそう!」
「………………」
ニコニコとしながら寝室の扉を開く伊五十八。そして、こちらに一礼すると、そのままベッドに足を進める。
扉が閉まる瞬間、俺は見てしまった。
伊五十八はベッドの方へ直進した。寝室の床に丸まっている港湾棲姫を気にした素振りも見せず、ぐにゃりと踏み付けながらベッドに向かった彼女に俺はどのような言葉を掛ければ良かったのだろうか。港湾棲姫が無害だという事は伝えたつもりだったのだが、本能的に敵対心があったのかもしれない。
「…………伝わってたか?」
俺の素朴な疑問に、机の上の妖精が顔を寄せ合い、ごにょごにょと相談をし始める。
そして、結論は早々に出たのか、一人の妖精がこちらを向きながら、声高らかに宣言する。
『つたわってないかとー』
「なるほど」
自分の言葉足らずはどうしたものであろうか。
だからと言って、港湾棲姫に肩入れしすぎるのも立場上良くないとは思っている。海域を守る艦娘を
「まあ、明日だな」
『???』
俺の言葉に首を傾げる妖精達をそのままに、執務机に書類を広げる。
伊五十八から受け取ったメモに目を向けながら手を動かせば、スラスラと一枚の報告書が完成に向かう。
このメモの様に、所属艦娘の心中を察する事が出来れば、
もしかしたら、二枚目にそのような事が書いてあるかもしれない。指先で
当然である。
自分の寝ぼけた様な行動に、笑いが込み上げてくる。
誤魔化す様に、机の
心中を見透かされているようで心地が悪い。
三人の妖精を両手で掴み、寝室の扉を開く。
何か言いたげな妖精を港湾棲姫の上に横たわらせ、港湾棲姫
息苦しかったら、勝手に
港湾棲姫と伊五十八の二人は寝息を立てている。扉を閉めれば物音は完全に無くなる。静かな世界。残った書類を終わらせるべきだろう。
広島旅行のついでに呉に訪問しました。
呉で感じた事を作品に表現できれば良いんですけどね。