惻隠の情   作:坂口

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9話

 港湾棲姫と出会ってからの日々を思い返すと、少しずつではあるが日常に(いろどり)が加えられている気がしてしまう。皮肉なものである。我が祖国の為に(おのれ)を捨て去ったはずなのに、人ならざる者にここまで感覚が揺り戻されてしまうとは。

 否、だからこその落伍者(らくごしゃ)なのだろう。

 彼女に対し、当初はその思想に酷く失望したものだったが、そもそも俺が自決する胆力を持ち合わせていなかったのが悪かったのだ。

 

「ワラッテ……ル……?」

 

 港湾棲姫に指摘されて気が付いた。顔を伏せていたはずなのだが、声が漏れていたのだろう。

 一つ(そら)んじよう。

 

 汝等皆其職を守り…………我國の蒼生…………我國の威烈は……光華ともなりぬへし…………

 

 今の俺には、百年河清(ひゃくねんかせい)の絵空事であろう。

 だからこそ、もうこの際である。自分勝手に生きても、良さそうに思えてしまう。(みそぎ)が済んでいないのが(はなは)(しゃく)ではあるのだが、今の今まで(みそぎ)を済ませてない(おのれ)の言葉を、誰が聞き入れるのであろうか。

 そして、港湾棲姫をこのまま放っておく事も出来ないだろう。海に還せば良いのだが、拾っておいて、育てられなくなったから遺棄(いき)するのは、人としてどうなのだろうか。本人の意志で還るのであれば、俺に落ち度は生まれないと思うのだが。

 

「海に帰りたい?」

「………………?」

 

 港湾棲姫はこちらを不思議そうな表情で見つめると、ふるふると首を横に振った。

 なるほど。

 

「…………ドウシタノ?」

「散歩」

 

 急に身を起こした俺に、港湾棲姫が問い掛ける。

 起立し、右手を彼女に差し出せば、彼女は(わず)かな躊躇(ためら)いを見せた後、静かに俺の手を取る。彼女の大きな手は、人間の手とは異なる。距離感が掴めなかったのか、俺の手首に細長い数本の赤い線が引かれた。

 

「………………!」

「些細な事だよ」

 

 赤い線を辿るように舌を沿わせ、怯えた表情を見せる彼女に再び手を差し出す。

 俺は人間である。傷口はすぐには塞がらない。(しば)しの()、再び手首が彩られる。

 

「それとも、汚れるのは嫌か?」

「ソンナコトナイ!!!」

 

 力強い返事と共に、彼女の両手は力強く俺の掌を包み込む。

 

「それは良かった」

 

 彼女を引き連れ扉を開けると、蝶番(ちょうつがい)がギィギィと鳴った。

 日光を浴びると、途端に自分の奥底のクサクサとした感情が色褪(いろあ)せるのを感じる。彼女の冷たいその両手が、俺の心髄(しんずい)を鎮めているのだろう。

 なるほど、俺は案外ちょろい人間だったようだ。もっと早くに気が付く事が出来ていれば、もう少し異なった人生を歩めていたのかもしれない。だが、今更後悔した所で………………と、ここで気が付いた。逆なのだ。俺がこのような人生を送っていたからこそ、彼女と出会え、このような人間だと気付く事が出来たのだ。

 なるほど、落伍者(らくごしゃ)にもなってみるものである。

 

 

 

 

 彼女の左手を引き、ひび割れや破損、凹凸の目立つ老朽した道路を道沿いに歩く。落ち着いた雰囲気である。五月晴れの温かい陽射しに、真っ青な空気。この一角だけを切り取って見れば、到底、世の中の争乱など軽微なモノであろう。

 ふと、後ろの彼女がバタバタと暴れているのを感じる。

 ちらりと見ると、空いている右手を頭の所で振り回し、一人でもがいていた。

 

「楽しそうだね。求愛のダンスかな?」

「チガウ! …………ムシ! トッテ!!!」

 

 居心地悪そうな彼女に近付き、彼女の膝まで届きそうな髪を撫でる。

 サラリとした手触り。海水で髪を洗うとゴワゴワになるものだが、深海棲艦には関係ない話のようだ。しかし、彼女の言うような虫は到底見つからない。死角にいるのだろうか。体格差がある為、彼女に屈んでもらう。髪をかき上げ、彼女の顔を真正面から見つめる。眉尻が下がっている為か、困っているような顔に見える。

 耳に触れると、口元から「ヒャン!」と驚いたような声が漏れる。こちらを恨めしそうに見るのだが、他意は無い。

 

「…………特に、見当たらないが」

「…………ウソダ」

 

 何が気に入らないのか、彼女は不満げに辺りをきょろきょろ見渡す。

 ……ちなみに、特に見当たらないと言うのは正しい答えでは無い。彼女と過ごした束の間、彼女を視界に入れると自分の視界に影が入るようになっていた。影なのか(もや)なのか。もし、飛蚊症(ひぶんしょう)だったら困ってしまう。不健康な生活をしていた自覚はあるのだが、今になって発症するというのも遅すぎではないか?

 

「アッ!」

 

 何かを見つけたのか、道路脇の岩場に足を踏み出していく。数歩の所でしゃがみ込み、何かを見つめている。背後から覗きこむように見ると、そこには小さな黄色の花が一輪、咲いていた。おそらく、どこからか風で種が飛んできたのだろう。しかし、海風が吹き(さら)す岩場である。すぐに、枯れてしまう可能性が高い。

 

「………………カワイソウ」

 

 その一言に、息が詰まる。当然、目の前の花の事を言っているのは理解ができる。

 いや、本当か? その花に自分の身を重ねているのではないか? ふとした呟きに、本音は隠せない。いや、本当か? その花に自分の身を重ねているのは、彼女が重ねていると思い込んでる俺自身なのではないか?

 迷妄(めいもう)戯言(ざれごと)に反吐が出そうになってくる。急いで口元を拭うと、ぬるりとした液体を感じる。慌てて掌を見ると、そこには溢れんばかりの鮮血が絡まっていた。目を見開き、彼女の肩に手を掛ける。

 

「ワタシ、ハ、ヘ……イキ、ダカ……ラ」

 

 振り向いた彼女の口元からはコポコポと赤色が零れ、しかし、蒼白になり、震えている俺を落ち着かせる為か、笑顔でこちらを見据えると、

 

「――――――」

「――――、―――――――」

「――――――――」

 

 金属の音は止まず、瓦礫(がれき)に足を取られる。目前は煙と粉塵に囲まれている。鳴り止まない轟音にイカレてしまったのか、入り込む音の大小が定まらない。すぐ側にいるはずの君の言葉は遠く聞こえ、遠くで鳴り響く大災の足音からは否が応でも離れる事が出来ない。

 唐突な光源。目の潰れそうな閃光を前に、すかさず君は俺の身体を――――

 

 

 

「ドウシタノ?」

 

 彼女が不思議そうにこちらを見上げる。

 

「…………家のティーカップを使えよ。土を入れれば、その花も植え替えられるだろう」

「……ワカッタ!」

 

 何がどうなのか分からないが、彼女は小走りで来た道を戻って行く。

 さほど距離は歩いていない。すぐ戻ってくるだろう。

 さてさて。ふらりと、行く当ても無く荒れた道路を進む。進み、歩き、岩場を超え、人気のない通りに身体を預けてみる。すると、どうした事だろうか。見覚えのない人間に声を掛けられてしまった。

 

「動くな」

 

 カチャリと撃鉄が起きる音がする。

 

人気(ひとけ)の無い場所に暮らし、溝鼠(どぶねずみ)のような身なり、不審であろう」

(いち)にて数日張っていたが、()()()()このような場所に、と、噂をするモノがおってな」

「貴様が軍施設から盗みを働いたのか、はたまた内部に協力者がいるのか、後に聞けばよかろう」

 

 彼らの言う事が把握できず、ふと背後へ顔を振り返すと、額に鈍痛が走った。よろけ、額に手をやり、あまりの痛みに身を折ると、軍刀の刃が視界に入る。柄で殴られたのだろうか。

 と、腹部に衝撃が走り、息が詰まる。目の前が暗くなり、意識が――――

 

「以外に頑丈ですな」

「まあ、それ故に、痛みが続くのだがね」

 

 問答無用かよ、という言葉にもならなかった。

 以外にも、強い怒りは湧いてこない。つまり、俺の覚悟に日常が追いついたのだろう。だが、このタイミングだとは思わなかった。神か仏か、嫌味が過ぎる。

 全身を襲う鈍い痛みが少しずつ弱まってくる。意識が遠のく。牢屋暮らしなら良い方なのだろう。拷問部屋だと、少々不満が残る。最期なんだから、よそ様に遺恨は残したくないんだが。




 言葉の少ない彼との生活だけど、部屋に花を置いたら、少しは明るくなるかもしれない。そう考えるだけで、楽しくなるし、嬉しくなる。
 扉を開けて部屋に入ると、海底のような薄暗さに心が安らぐのを感じた。カップは、食事に使った記憶がある。でも、彼は私物を雑に扱う。物の置き場が安定しないのだ。
 テーブルの上と、シンクの中を見るけど、見当たらない。
 ふと、開け放ちのダンボールの中を覗いてみる。特に、カップの代わりになる様なものは見当たらない。

 もしかしたら、テーブルの下に転がってしまったのかもしれない。
 身を屈めようと、腰を折り、頭を下に…………。

 ドスン

 振り返り、音のなる方を見ると、自分のお尻がぶつかってしまったのか、積まれてあったダンボールが床に散らばってしまった。
 大変大変。近くにあったダンボールを持ち上げる、と、底が抜け中身が散らばってしまった。底が腐っていたのかもしれない。片付けようと思ったのに散らかしてしまった。反省。
 ふと、無造作に丸められた、白地の布のような物が目に入る。不意に手に取ると、それは広がり、パサリと何かが落ちた。手に持ったそれは、自分の記憶の奥底に眠っていた、記憶を蘇らせるのに、十分な、それは、白い、手袋と、白い、衣装には、違う、違う。これは何かの間違いで、だって、彼は、あいつらとは違って、傷つけないで、虐げないで、違う、違う、違う、違う。

 気付くと、その場に座り込んでいた。何か小さな音が絶え間なく聞こえてくる。カチカチ、カチカチ、カチカチ。口元のそれは止まず、でも、徐々に、身体の奥底から冷えてくる感覚のような、震えが、震えが、震えが。



 …………外から物音が聞こえてくる。
 彼ではない、誰か知らない人間の物音。そして私は、自分の運命を――――。
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