奴隷蛮行――そのメイド、特殊につき。   作:紙谷米英

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奴隷蛮行【2-6】

 ブリジットの、財布を握る手が強張った。彼女の他に会計待ちの客がいない目下、この場に性奴隷の肩を持つ者はいない。時間は何処までも、上物を前に舌舐めずりする店員の側に着いていた。

 ブリジットの司令部は、次に切る手札の選択にフル稼働していた。動物は同種の個体と争いになった時、本能的に「威嚇」「降伏」「逃走」の何れかから行動を選択する。この反応は魚類から霊長類にまで例外なく備わっており、偶発的な事故や共食い等の生得的なをメカニズム除いて、自然界での同族殺しは起こり得ない。この法則は、現代の人間社会にも浸透しており、サヴェジ日用品店の会計カウンターで進行中の悶着にも、この法則が適用可能である。

 今日の先進国では、善良な市民の多くは争いを厭い、敵対者に譲歩するきらいさえある。先の行動モデルに照らし合わせると「逃走」がこれにあたり、大抵の市民は物品を諦めて店を去る。敵前逃亡からの不戦敗を喫し、体裁の悪さが尾を引いて陰鬱な気分に塞ぎ込む。勿論、支払った金は手元に戻ってこない。惨憺たる恥辱には違いないが、観点を変えれば、これも立派な処世術であり、極めて社会的な生存戦術である。下衆の不法に泣き寝入る代わりに、蒸留酒ひとつで不貞と性病を抱き込む不条理は避けられるのだから。

 ところで奴隷、特に性奴隷においては、その身を損傷する行いは即ち、所有者の資産を害する罪業と見なされる。また、性奴隷を保有する人間はその嗜好から、極めて独占欲が強いという統計が記録されている。この歪んだ処女信仰は、レイプ被害に遭った性奴隷の不当解雇が続発する理由を裏打ちしている。合意の有無にかかわらず、奴隷は危険な人物・場所から己を遠ざける責務があった。ひとえに、住む家を失わぬ為に。

 にもかかわらず、ブリジットは件の会計カウンターに留まり、ウィスキー泥棒の店員へ正対し続けた。深い蒼に縁取られた瞳が、酷薄な店員を一直線に見据える。両者の間に沈黙が訪れてから、三十秒が経過していた。並み居る性奴隷であれば、無駄金を費やした失態への申し開きを案じている頃である。されど、ブリジットの使用人論理は平凡なそれを遙かに逸していた。

 ブリジットの胸中は自らの保身などではなく、まるで真逆の自責で張り裂けそうになっていた。その小さな胸には、身体に見合わない責任感が圧縮されている。それが電子レンジの卵の如く弾け、誇り高き己の分身から大目玉を喰らっていたのである。「主から預かった財を悪漢に奪われ、あまつさえ汚名を持ち帰る使用人など、一ペニーの価値もない」と、いささか度を過ぎたこの問責を、ブリジットは信じて疑わない。一方、彼女の雇用主は何をおいても彼女の安全を尊んでいるのだが、そんなのは完璧メイドさんの知ったところではない。崇高なる矜持とは、裏を返せば独りよがりの自己満足である。

 束の間の長考の末、ブリジットは呼吸を整えて店員へ向き直った。

「お気持ちは嬉しいのですが、急いでいるもので……」

 小首を傾げ、眉根を寄せる少女から発せられたのは、月並みなお断りの句であった。世の女性が理想、或いは妥協点へ至るまで繰り返す、退屈な謝辞。だが無味な音の羅列も、高位の性奴隷が調律すれば、傾国の睦言にまで昇華する。滑らかな声音には一切の作為が窺えず、あたかも一時の逢瀬に後ろ髪引かれるが如き声風(こわぶり)は、一流奏者が掻き鳴らすストラディバリウスに等しかった。

「そう時間は取らせねえって」

 さりとて、すけべ丸出しの野獣に芸文を解する脳はなく、特級使用人のリップサービスは虚無へと聞き流された。ブリジットは立て続けの裏目に舌打ちをこらえたものの、己の理性が(かげ)る先触れを察していた。

 次なる策に貧したブリジットへ、店員が追い討ちを仕掛ける。壜を握るのと逆の手でカウンター下を探り、ジッパー付きの透明な小袋を取り上げた。先客へ渡されたのと同じ不自然なまでに白い粉末が、卑語まみれの指先で揺れていた。

「あんただけの、初回サービスだ。まけてやるよ」

 店員はこれ見よがしに、メイドの鼻先で包みを揺らしてみせる。瞳孔がかっと見開かれ、濁った黒目が絶えず細動していた。――あんたも欲しいんだろ?

 サヴェジ日用品店の実態は、コロンビアやペルー産の粉末コカインをロンドンへ運ぶ中継拠点であり、店の従業員はすべからく英国内に拠点を構えるロシアマフィアの息が掛かっていた。正規の警備会社へ業務委託していないのも、経営基盤の黒さ故である。

 店員の人外じみた口角の上がりに、首に彫られたタトゥーのサメまでもが涎を垂らす。ヤニ臭い呼気に不快指数が測定不能に陥りながら、それでもブリジットは使用人魂を固持し続けた。

「そのご厚意だけ頂戴いたします」

「おいおいおい、つれねえな。自分に正直になれよ」

 欲望のボルテージが限界を迎え、店員の語気もいよいよ圧を増す。まして相手は無力な奴隷で、万人に雌伏して然るべき弱者である。司法の盾なき"持たぬ者"を、高貴な人間様が畏れるべくもない。だからこそ、店員の煽りに遠慮はなかった。

「なあに、最初はどいつもおっかなびっくりだ。でも始めちまえば、もう愚図なご主人様の枯れ木にゃ戻れなくなるぜ」

 ――ああ、そう。

 メイドは長い睫毛を伏せると、手を口許にくすくすと笑声を発した。忍び笑う奴隷に店員は少したじろいだが、低俗な冗談がツボにはまったと独善的に解釈すると、一緒になって喉を鳴らした。波模様を彫られた頬が、勝利の確信した余裕に緩む。あとは目の前のメスが、ちらつかせた餌に飛び付くのを待つのみであった。先の忌詞(いみことば)に、ブリジットを縛る奴隷道徳(ルサンチマン)が解除されたとも知らず。

 駄目押しとばかりに、店員は手中の薬包を奴隷へ放り寄越こした。耳まで裂けそうな笑みに、黄ばんだ歯が糸を引く。ブリジットは財布をスカートのポケット――元より、ハンドバッグは持ち合わせていない――へ収め、いつもと同じ眠たげな半眼で飛翔体の軌道を追った。堕落の顆粒が、緩やかな放物線を描いて接近する。

 あの人がこの場にいなくてよかった。

 事態は最早、感情のブレーカーがどうこうの話ではなかった。薬包が終末弾道に達するのを合図に、蒼い瞳に影が落ちる。安全装置(セイフティ)が外れ、雑役女中(メイドオブオールワーク)は五月蠅い害虫駆除に腰を上げた。

 店員の視界を、黒い影が横切った。ぱしん、と乾いた音に続き、遠く離れた床で軽い物音が立った。面食らった店員が音の所在を見ると、奴隷へ投げやったはずの薬包が、割れたタイルに中身の殆どを零していた。正面へ向き直ると、しゃぶり尽くそうと考えていた性奴隷が、感情の欠落した仏頂面を浮かべていた。ドラッグの包みを真一文字に払った左腕が、機械めいた所作で腰の前へ戻される。

「てめえ!」

 末端価格にしてグラムあたり三十ポンドを下らぬコカインを台無しにされ、悪漢は奴隷の胸ぐらへ勢い掴みかかった。その右腕は体躯の劣るメイドの襟飾り(ジャボット)にさえ達せず、数秒前の薬包を再現するように、迷いなき一閃に打ち落とされた。前腕へのたった一撃。それで悪漢のバランスが崩れ、肩からカウンターに激突する。自分の身に何が起きたのか理解しようと慌てて目を泳がせる悪漢を、その頭上から藍色の蔑みが()め付ける。

「恐縮ですが――」

 ルーマニア男は再燃した怒りで会計カウンターに肘を突き、体勢を立て直そうと試みた。それと同時に、不躾な奴隷に身の程を知らしめようと、逆の手をウィスキーの壜へと伸ばした。

 男の手が何かを掴むことはなかった。世界が三つの色で満たされた。ひとつは、綾織り(ツイル)生地のブラウン。ふたつ目は、光沢あるタイツとガーターベルトの黒。それから、ほんのり紅潮した穢れなき柔肌。神秘的な光景は瞬きをする間もなく、強烈な外力によって網膜から剥ぎ取られた。反射的に目蓋を閉じた男が恐る恐る薄目を開くと、会計カウンターが視界いっぱいに広がっていた。いつの間か両脚が肩幅より広く開かれ、身を起こそうにも、上方から異様な力で押さえ込まれて身動きさえ叶わない。おまけに、左腕が自分の背中に密着したまま、関節を極められているらしかった。

 遅れてやってきた痛みが、男の後頭部と膝裏に訪れた。呻く暴漢の耳元で、ストラディバリウスがそっと、おぞましい旋律を奏でた。

「――お戯れも、節度を識るべきかと」

 男は上流英語(グラスカット)など聞き分けられなかったが、鼓膜を始点に血の気が失せるのを感じた。いったいどうなってるってんだ? スキンヘッドに珠の汗が浮かぶ。男は背後からメイドに襟首を押さえつけられ、一切の動きを封じられていた。

 店内に味方がいないのは、ブリジットに限った条件ではなかった。客は相変わらず窓ガラスにへばりついて雲行きを眺めていたし、出入口の用心棒は、妻に電話して車に防水カバーを掛けるように喚いていた。暴力メイドを視界に収めているのは、レンズにクモの巣が張られて久しい、自分の真上に吊られた監視カメラだけである。

 ルーマニア人は癇癪にものを言わせて拘束から逃れようとしたが、奴隷に襟首を尋常ならざる力で押さえ込まれており、耳のピアスが会計皿を空しく叩くばかりであった。無理矢理に拡げられた股関節が、腱の限界を間近に見苦痙攣する。それでも、役立たずの用心棒へ叫ぶ力は残っていた。突っ伏しているせいで満足に膨らまない肺へ酸素を取り込み、声帯に全身全霊を込める。窓の向こうで乱雲がひときわ大きく唸り、風が逆巻いた。

 男の血管の浮き出る首筋を、固く冷たい感触が撫ぜた。神経毒を盛られたように、脊髄が芯まで凍り付く。行き場を失った叫びが、今際(いまわ)の息も同然にすきっ歯[#「すきっ歯」に傍点]を抜けていった。首筋のサメのタトゥーが、エラにナイフをあてがわれて喘いでいた。

「恐れながら、改めてお詫び申し上げます。『急いでいるもので』」

 ぎざぎざの白光が閃いた。鼓膜を(ろう)する雷鳴がそれに続き、「ぽつぽつ」と気構えさせる暇もなく、無数の太矢がヘリフォードの街へ放たれる。地表に着弾した雨の爆風が、濃密な霧をで住宅街を包み隠した。メイドは男の返事を待たずにブラック・ブッシュをかすめ取ると、トートバッグへ音もなく収めた。青白い雷光を受ける顔に、虚ろな微笑が繕われていた。

「それでは、()き一日を」

 本来の目的を果たしたメイドは、黒塗りの刃を握る右手を支点に、両脚を振り上げカウンターを跳び越えた。一瞬の圧で首のサメが軽い裂傷を負い、かすれた悲鳴が上がる。

クールヴァ(くそあま)……!」

 悠然と歩き去る奴隷様へ負け犬が恨み節を毒づくと、その鼻先に小さな紙片が舞い落ちる。目を細めて焦点を合わせると、応急絆創膏だと分かった。

ニェ マ ザ ツォ(どういたしまして)

 メイドさんは一顧だにせず、来た時と同じ気高い歩調で出入口へ歩み去った。右手のナイフは、もう何処にも見当たらない。大敗を喫した店員は、奴隷を追い掛けるどころかカウンターに突っ伏すなり、我を忘れて拳を天板に叩き付けた。そこに霊長類としての知性などなく、罵倒の文句も結べずに金切り声を張り上げながら、終わりなき自傷行為に埋没した。無理もない。最底辺を這いかしずく奴隷が、犯罪組織においてシノギのひとつでしかないメス奴隷風情が、高位にある人間様の自尊心を完膚なきまでに踏みにじったのだ。

 背後の慟哭をかき消すように、メイドは楽しげなメロディを口ずさんだ。

「あの人はね、〈ボウモア〉じゃないの、ごめんなさい。お隣の〈デュワーズ〉さんも、お呼びでない――」


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