奴隷蛮行――そのメイド、特殊につき。   作:紙谷米英

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奴隷蛮行【6-4】

 最悪な環境で生き抜くのに必須の自己肯定を、あの新顔は台なしにされた親玉は、怒り心頭に歯を剥き出して、汚物の中心に佇む調理着姿の奴隷へ、大股で突き進んだ。

 守衛たちは、両手を腰の前に組んだまま、施設責任者と電話が繋がるのを待っていた。目の前を猛スピードで焼けていく導火線の対処を、彼らは現場にいない者の判断に委ねていた。守衛たちが、自らの行動に伴う結果と責任を秤に掛けているのをよそに、この場で最も卑しい存在たちだけが、選択の自由を行使していた。

 逃げなければ。

 それまでギャラリーとして安全圏から動静を見守っていた奴隷たちが、後片付けも疎《おろそ》かに続々と席を立った。フードコートでもマナー違反であるし、奴隷身分にあるまじき叛逆である。だが、事の終わりに懲罰が待っていたとしても、身の安全にまさるものはない。当該施設において、件の五人組による嗜虐行為は茶飯事であり、平凡な日常のワンカットでしかなかった。施設の運営陣が看過する限り、この被害担当の犠牲の上に成り立つ平和は永遠を約束されていたも同然であった。

 レディ・スレイヴが、不可侵条約を破り去った。

 女の勘で雲行きを悟った奴隷が、次々と席を立った。間もなく、でかい火の手が上がる。施設生活の長いベテラン奴隷たちは、まだ空気の流れを読めない幼い奴隷や、怖い物見たさでその場に留まろうとする奴隷の手を引いて、その場から離れようとした。くずって言うことを聞かなければ、肩に担いで移動させた。まだ殆ど手を着けていない朝食から引き剥がされて、泣き出す個体もいた。年上の奴隷たちの多くは、飢えの苦しみを知っていた。それでも彼女らは心を鬼にして、ひもじさに喘ぐ幼子らを脇に抱えると、脱兎の如く出入口へなだれ込んだ。

 確かに、この施設に収容されている奴隷たちは、自分が件の五人組の標的となることを恐れていた。だが彼女らが最も恐れるのは、商品として出荷後に売れ残ることだった。買い手のつかなかった奴隷が如何なる結末を迎えるのか、施設職員が時たま口にする"処分"が何を意味しているのか、奴隷たちは知る由もないし、知りたいとも思わなかった。底暗い深淵に引き込まれずに済むなら、朝食を一度抜くくらい屁でもない。

 逃げ出す奴隷たちへ目もくれず、親玉はレディ・スレイヴなる奴隷の頭上に仁王立ちした。一メートルと離れていない場所に自分が来たにもかかわらず、ちょっと名の通ったくらいの奴隷の視線が自分へ向けられないことで、頬の筋肉が引きつった。

「あんた、どういうつもり?」声音に、溢れんばかりの侮蔑が込められていた。荒い鼻息が背後に迫る最中、新入りの奴隷は、アリの行列を見下ろす幼児の姿勢のまま微動だにしない。

「聞こえなかったの? いったいどういうつもりなのか、そこで丸くなってるあんたに、理由を訊いてやってるのよ」

「リタよ」眼下の奴隷から、今度は反応があった。呟かれた声に臆した様子はなく、声量と不釣り合いな力強さがあった。

 それがはったりの強がりか、はたまた致命的な鈍感がなせる奇跡かは、親玉の関知するところではなかった。この場で重要なのは、足下の奴隷が自分へ然るべき畏敬を払わなかった事実であり、その不敬を断じて己の権威を維持することのみに、親玉は意識を集中していた。

「……どうも、おつむの出来がよろしくないみたい」

 親玉の目配せを受けて、取り巻きが忍び笑いを発する。

「もう一回だけ訊いてあげる。次はちゃんと答えること。いい? あんたがいつここに来たのかは知らないけど、いったいどういう了見で――」

 まくし立てる物言いが、尻すぼみに萎んでゆく。それまで彫像の如く佇んでいた奴隷が、不意に肩越しに振り向いた。半開きの目蓋に縁取られた明るい碧眼が、まばたきもせずに親玉を見据えていた。その光彩に、喜怒哀楽のどれにも属さない、猛禽と見紛う鋭利な光が宿り、頭上の匪賊を射貫いた。

 獰猛な敵意をまともに浴びた親玉は、その場で立ちすくんだ。不遜な新入りへの罵倒を改めて吐き出そうと知恵を絞っていた。

 親玉に妙案が舞い降りることはなかった。リタは親玉を注視したまますっくと立ち上がり、身動きの取れない相手をじっくり値踏みした。親玉はリタより十センチほど身長が高く、奴隷の身では何の意味も持たないが、年齢も四つ離れていた。身の丈で勝る相手を、リタは物怖じする素振りもなく観察した。対する親玉は、未知の脅威に晒された本能が脈拍を乱し、リタに見つめられた箇所ひとつ一つが焼けつく錯覚に陥っていた。

 親玉の左胸に留められたプレートに、リタは注目した。小さな唇が、白い樹脂板に刻まれた識別符号を読み上げた。

「それで、あんたがA-72……」

 リタの双眸が、再び親玉へ向けられる。親玉は先の戦慄を予期して身構えたが、自分を見上げる碧眼は、期待を裏切られた落胆に曇っていた。リタは親玉から一歩距離を取ると、興味を失ったとばかりに鼻を鳴らし、本人の容姿とは真逆の、百年の恋も冷める不細工なため息をぶちまけた。

「なーんだ。どんな大物かと思ったら、サル山のボスを気取った年増じゃない」


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