怒りに駆られたA-72の右腕が、リタの頭頂部へ伸びる。分をわきまえないメスガキを掴もうとした手が、虚空を握りしめた。A-72が捕らえようとした頭髪が、空っぽの拳のすぐ左でふんわり揺れていた。
A-72は、今度は左腕をリタの折檻に振り上げた。A-72の指先がリタの髪に触れる寸前で、リタはすっと腰を落として攻撃をかわした。その顔は余裕綽々で、眼前の相手を嘲り微笑んでいた。A-72が、リタの両肩を押さえ込もうとして、伸びきった両腕を振りかぶる。その間に、リタが右足を半歩引いていたことに、その場の誰も気付いていなかった。
重心を低く身構えたままのリタが、両脚をばねにしてA-72の懐へ跳び込んだ。A-72は、肉弾戦のプロではなかった。少なくとも、この奴隷調教施設は「矮躯の敵に距離を詰められた際の対処」を必修事項に定めていなかった。慌てて両腕を引き戻そうとするA-72の胸元から、何かがとてつもない勢いで迫る。その正体を、A-72が認識することはなかった。そもそも、固有名詞として辞書に載ってすらいなかった。ぐちゃり、と水気たっぷりな音が食堂に木霊する。A-72の顔面に、リタが生野菜と肉団子だった何かのボウルを叩き付けていた。
腰の回転が加わったリタの一撃は、汚物をぶつけるだけに留まらず、A-72を宙に浮かせ、背中から床へ沈めた。顔面に張り付いたボウルの隙間から、上半身の痛みに悶え喘ぐ声が漏れた。ギャラリーから上がるどよめきに、どこか称賛めいたものが混じった。
「こいつ!」
A-72の手下のひとり、ブルネットの奴隷が、リタ目掛けてスプリントで突っ込んでくる。体重の乗ったタックルを、リタはひらりと最低限のサイドステップでかわした。攻撃をし損じてつんのめるブルネットがリタを再び視界に捉えた途端、見事なタイミングの平手打ちに迎えられた。乾いた打撃音にギャラリーが湧き、鼻血を噴くブルネットの崩れ落ちる音をかき消した。
リノリウムの床に五体投地したブルネットを捨て置き、リタは残る三人のいじめ集団に向き直った。
「次、そこのブロンド!」
自分もブロンドなのを差し置いて、リタはA-72から食事のトレイを押しつけられたポニーテイルを怒鳴りつけた。トレイの手下は目がしきりに泳ぎ、唇を噛んで首を震わせた。
「意気地なし。 じゃあ、あんたはどうなの?」
次に指名された赤毛の手下も、全身で辞退を示した。
「情けないったらない。あんた、ケルトの血が入ってるんでしょ? アイルランド人らしく、蜂起のひとつでも起こしたらどうなの」
英国において細心の注意を要する話題でさえ、レディ・スレイヴに掛かれば啖呵のレパートリーでしかなかった。
「じゃあ残ってるのは……駄目そうね」
五人目の栗毛が腰を抜かして小失禁していたので、リタは目頭を揉んだ。
「ほんと、肩すかしね。まあ、いいや。えーと……うん?」
落胆に肩を落としながら、リタは調理着の前ポケットを手探りした。
「あっれえ? ここに入れてたはずなんだけど……」
数秒前の威勢は消え失せ、リタはその場でぐるぐる回りながら、全身のポケットを叩き、手を突っ込んで失せ物を見つけようとしていた。
声をうわずらせて悪戦苦闘するその背後、汚物の散った床で動きがあった。強烈な反撃と痛みから立ち直ったA-72が、顔にはまり込んだボウルを引き剥がし、ゆっくりと半身を起こす。肩が震えているのは、冷たい生ゴミのせいだけではなかった。
時を同じくして、守衛の電話が遂に責任者と繋がった。
「マネージャー、食堂で奴隷同士の暴力沙汰が起きています。既にかなり大きな騒ぎと……申し上げづらいのですが、負傷した個体もおります。即時の介入許可を求めたく……ええっ?」
守衛が電話相手の言葉に驚いた。
「あった!」
ようやく探り当てたそれを目の高さに掲げるリタの背後で、重い水音が響いた。