音の出所へリタが振り向くより先に、木槌で殴られたような衝撃がその背中を襲った。手にしていた布きれが、床に落ちた。前方にたたらを踏みながら、リタは外力の原因を突き止めようとしたが、今度は下腹部に鋭い痛みが走る。身を折り、淑女らしからぬ呻きを発する腰の前で、自分のものではない足首が交差していた。
上半身が重い。すぐ後ろから、酸味の効いた臭いが漂ってくる。――しまった。自分の背中で起きている事態を察し、リタは恐る恐る背後を覗き見た。鼻息の掛かる距離に、しおれたワカメを額から垂らすA-72の顔があった。生ゴミで戦化粧した悪鬼の形相に、さしものレディ・スレイヴも小さな悲鳴を上げた。
敵の闘志が揺らぐ様に、A-72の口角が意地悪く歪む。リタの背中に飛びついたA-72は、その六十キロ近い体重で、高慢な新参者の自信を潰そうとしていた。
A-72の左腕が喉に伸びてくると、リタは反射的に顎を引っ込めた。正しい判断だった。順当にいけばヘッドロックを極めていたA-72から、悪態らしきものが発せられた。
「離しなさい、卑怯者!」
レディ・スレイヴの怒号は、A-72には愉楽のメロディに聞こえていた。背中の重荷を振り落とそうともがくリタの一挙手一投足が、A-72の脳にドーパミンを分泌させた。
A-72は体術の心得こそなかったが、長い四肢がその分を補った。左上腕をリタの顎の下にねじ込もうとしながら、右腕でリタの後頭部をぐいぐい押しやる。本人は喉を圧迫するつもりだったが、腕が長いせいで、実は首の横の頸動脈まで締めていた。
涼しくほくそ笑むA-72と対照的に、脳への酸素供給が滞ったリタは、耳まで真っ赤になって奮闘していた。後ろへ向けてがむしゃらに肘打ちを放ったが、フジツボのようにぴったり張りついたA-72が暴れるせいで狙いが定まらず、汚物まみれの床で千鳥足を踏んだ。
とうとうリタの鼻から一筋の鮮血が垂れたのを見て、守衛のひとりが制止に入ろうと駆け出す。もうふたりが、それに続こうとした。
〈駄目だ、手を出すな〉
イヤープラグから飛んできた指示に、三人の動きが止まる。声の主に、三人が非難の目を向けた。今しがた使っていた携帯電話を懐にしまい、指示を出した守衛が肩をすくめた。〈仕方ないだろ。上からの命令だ〉ますます訳が分からないと、守衛たちは互いに顔を見合わせた。
流血沙汰にギャラリーから悲鳴が溢れていたが、当のリタはそれどころではなかった。脳に残された酸素に猶予はなく、首の下ではチョークを掛けようとする腕が、気道へ着実に迫っていた。傍目からも、A-72の優勢は明らかだった。
背中の異物を引き剥がそうとする腕から、次第に力が抜けていった。敵の憔悴を気取り、A-72は身を乗り出すと、リタの耳元で囁いた。
「これからは、あんたも可愛がってやるよ。"あいつ"と一緒にね」
甲高い高笑いが、食堂に響き渡る。リタにはもう、何も聞こえなかった。聞く必要もなかった。
ぐらぐらと煮えたぎった憤怒が、鍋蓋を吹き飛ばした。