リタは腰を深く落とし、ゴム長靴の底に床を噛ませて、その場に踏みとどまった。姿勢の安定を取り戻すと、目を細め、鼻腔と脳の間の僅かな空間に酸素を補給してから、チョークを極めているA-72の左腕を、両手で掴んだ。
リタの動作を降参の嘆願と解釈して、A-72の笑いが
「そんなのじゃ足りない。もっと惨めに――」
リタは体内に残された酸素すべてをアデノシン三リン酸の生成に使い、曲げた膝を一気に伸ばしながら、地面へ身を投げる勢いで、上半身を前方に振り抜いた。二本目の鼻血がほとばしった。全身全霊のお辞儀に、A-72の身体が引っ張られる。
真下で起きた急な動きに、A-72は脳内麻薬の酩酊から醒めた。とっさにリタから離れようとして両脚のロックを外したが、左腕をリタの両手と顎にがっちり押さえ込まれていた。攻勢の瓦解を知ると、A-72から引き裂くような奇声が上がった。空いている右手でリタの肩や後頭部を打撃し、顔を引っ掻こうとしたが、まるで意味をなさなかった。
有機的なサイレンに、食堂の傍観者たちがたまらず耳を塞ぐ。最も被害を受けるはずだったリタは、生存本能から脳が五感を鈍らせていたので、ほぼ無音の次元に意識を置いていた。武芸を究めた者のみが至れると伝わる、不可視の世界。絶体絶命の危機的状況と、極限まで研ぎ澄ました自尊心が、脆弱な少女にその聖域の謁見を許した。
火事場の
レディ・スレイヴが放った流麗な投げに、ギャラリーは言葉を失っていた。
投げが決まった直後、リタはA-72から距離を取り、敵の反撃に備えて拳を目線の高さに構えた。
背中からどうと地に投げ落とされたA-72は、未体験の外力に脳処理が追いつかず、大の字に仰臥して目を白黒させていた。宙を一回転した遠心力と、己の武器であった六十キロ余りの体重を乗せた投げを一身に受けたA-72が放心していられたのは、ほんの四秒間であった。
突如としてA-72の間抜け面が歪み、苦しげに身をよじって掠れた声を発した。それから白目を剥いて弓なりにのけ反り、口からごぽりと胃液を吐き散らすと、身をよじった姿で意識を失った。
生ゴミの海に大破着底したA-72に何が起きたのか、奴隷たちは理解できず、そのおぞましい光景に身を寄せ合った。
今度こそ敵の無力化を目視確認すると、リタは戦闘態勢を解き、調理着の袖で鼻血を拭った。先ほど取り落とした布きれを拾い上げ、A-72の首筋に触れると、手近な守衛を呼び寄せた。
「脈はある。痛みで気を飛ばしてるだけよ。さっさと医務室へ運んで」
上司に指示を仰いでいた守衛が、事前に手持ち式の担架を用意していた。気絶したA-72を担架に乗せる守衛ふたりは、レディ・スレイヴの命令に沿う自身に疑問を持たなくなっていた。彼らの意識は、新鮮なゲロに触れないよう作業を進めるということに注がれていた。